No.001 | |||
日本書紀の謎を解く〜述作者は誰か〜 | 森博達 | ||
中公新書 | 平成十一年十月二十五日 | 780圓(税別) | 評價 ☆☆☆☆☆ |
書評の第一囘目は休日の學問に相應しい一册をご紹介したい。我が國最初の正史である日本書紀の成立過程を、當時の漢字の音韻や語法から解明した『日本書紀の謎を解く』である。書紀研究に畫期をなすものだらう。 奔放な歴史のロマンに想像の翼を羽搏かせることは樂しいが、從來の學説を否定してみせる面白さを狙つただけの、餘りにも荒唐無稽なトンデモ説には辟易する。やはり歴史學は實證的な科學的方法に立脚して探究して貰ひたいものと常々思つてゐる。科學的方法と言へば灰色のイメージがあるかもしれないが、そんなことはない。實證的な科學的方法による未知の事柄の解明によつて「本當によくわかる」經驗は強い知的興奮を喚起するものであり、それこそが學問の魅力なのだ。本書はまさに實證的な科學的方法によつてなされた研究である。 本書を一言で紹介すれば、中國語の音韻學と國學の成果を踏まへた日本書紀の文獻批判である。それは書紀に記されてゐることはどの程度歴史的事實と合致するのかといふやうな書紀の「内容」の分析ではなく、書紀の文章がいかに書かれてゐるかといふ文章そのものの「形式」の分析である。書紀は漢文體と萬葉假名による和文(歌謠と訓註の部分)で書かれてゐるのだが、本書はそれらを音韻・語彙・語法・文體のレベルから分析し、書紀の成立過程のみならず表記者の人物像までを實證的に論證してゐる。 本書の研究を具體的に紹介しよう。基本的な作業としては、書記の文章の音韻・語彙・語法・文體の分析によつて、漢文の部分からは正格漢文と倭習(誤用・奇用などの和文的要素)とを析出する。萬葉假名は音譯漢字と捉へて、萬葉假名の漢字の音韻から古韓音・呉音・漢音、及び倭音を析出する。このやうな表記者の用字意識の分析を基礎にした分析から、書紀の文章はα群とβ群に區分でき、さらにそれぞれの表記者の人物像が浮かび上がつてくる。α群からは、正格漢文を書くことができ、當時の中國語を正音で直讀する能力を有し、上代日本語を正音で萬葉假名に寫し、かつ日本の歴史や文化の知識は乏しく、倭音を正確に聞き取れないらしい人物像が浮かび上がる。森氏はそれを渡來一世の唐人とし、最初の音博士であつた續守言・薩弘恪の二人であらうと推定する。β群からは、逆に漢文を倭習や日本語的發想で書き、正格漢文を使ひこなせず、中國語の正音を聞き取れず、上代日本語を倭音で萬葉假名に寫してゐる人物像が浮かび上がる。森氏はそれを日本人とし、佛典・佛教漢文の教養が窺へることから、還俗して學者になつた元僧侶で、新羅留學經驗もあつた文章學者の山田史三方(御方)と推定する。 このやうに書記の文章の音韻・語彙・語法・文體の分析から表記の規則を析出するのだが、その中に例外的部分が出てくる。本書ではその例外が生じた理由も解明されて行く。そして、述作者はどのやうな人々であり、その中の誰がどの部分を擔當したか、引用文や後人による加筆部分、書かれた順番や時代、などを書紀以外の當時の歴史を參照しつつ推定し、書紀の成立過程に迫つて行く。漢文の正史を編纂するといふ國家の大事業に當たり、述作の適任者としてまづ正格漢文を書ける唐人學者を用ゐて卷十四「雄略紀」から着手されたこと。唐人學者が引退ないし死亡したあとは日本人學者が引き繼いだこと。また、書紀に掲載されてゐる憲法十七條は聖徳太子によるものではなく、β群が書かれたのと近い時期の僞作であらうこと、などが書紀の文章の音韻・語彙・語法・文體の分析といふ科學的方法から推定されて行く(ただし、書紀の述作者に實在の人物から當て嵌められてゐるが、これはあくまで推定であることは言ふまでもない。また、憲法十七條は存在しなかつたとまでは證明できてゐない)。 森氏の方法は、それに基づく解釋には異論はあらうが、方法自體は普遍性を持つてをり、書紀研究に止まらず、上代日本語の文獻學的研究に一般的に用ゐられるものにならう。因みに、すでに江戸時代の國學者は萬葉集や古事記など和文の古典の文獻實證主義による研究を行なひ、大きな成果を上げてゐた。現代の學者より遙かに高い漢文の教養を持つてゐた國學者は、本書が問題にしてゐるやうな上代日本の漢文の倭習の問題についても認識してゐた。漢文で書かれた書紀を研究するには、漢文や中國語の知識が必須である。本書はまさに漢文及び中國語の音韻の知識を持つた著者が、國學の傳統も踏まへつつ、文獻實證主義によつて書紀を研究したものである。 本書を學問に關心を持つてゐる現在の青年に薦めたい。翻つて言へば、學生時代にこのやうな研究にもつと多く觸れてゐたなら、私の學問への印象も隨分違つてゐただらうと思はせる一册である。著者が自らのライフワークの研究成果を一般向けにまとめたものである本書は、新書ながら中身が濃く、文學部の學問とはどのやうなものかがその面白さも含めてわかり、理科系の人にも讀んでもらひたいと思ふ。また書紀の成立過程を解明して行く敍述の展開と共に大學時代からの自らの研究の歩みが囘顧されてをり、學者がいかに情熱的に學問に取り組んでゐるかが傳はるこの部分も本書の大きな魅力になつてゐる。 (平成17年1月10日記)[戻る] |
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No.002 | |||
日本書紀の真実〜紀年論を解く〜 | 倉西裕子 | ||
講談社選書メチエ | 平成十五年五月十日 | 1500圓(税別) | 評價 ☆☆☆ |
第一囘目に引き續いて、日本書紀を扱つた研究を紹介しよう。 書紀は天皇在位單位の年代記になつてをり、この年代を紀年と言ふ。よく知られてゐるやうに、書紀の紀年は實年代と不整合があり、これを研究する學問領域を紀年論と呼ぶ。紀年論においては、江戸時代の國學者や近代以降の歴史學者たちが樣々な假説や解釋を出してきたが、現在に到るまで未解決の問題である。本書は紀年論に新しい視點からの假説を提起した問題作である。 紀年には實年代との不整合があるが、安康紀・雄略紀以降は實年代とほぼ一致してゐるので、問題となるのはそれ以前の紀年である。安康紀・雄略紀から遡ると、神功紀・應神紀のところで紀年は百二十年ずれてゐる。神功紀より前の部分は海外の歴史と對照することができず、實證的な文獻史學の俎上に乘せることは難しい。從つて、特に問題となるのは安康紀・雄略紀から神功紀・應神紀の間の紀年である。 從來の紀年論では實年代との不整合を統一的に説明する論證方法を確立できてゐなかつたために、一貫性のない説明になつてゐたやうである。倉西氏は、これまでの研究成果を踏まへながらも、從來の研究方法・アプローチとは異なる論證方法を用ゐて新たな紀年論を構築したのである。 倉西氏の論證方法を簡單に説明すれば、これまで紀年と實年代との不整合を解くに當たつて、紀年と實年代との對照關係を單列的に見てゐたのに對して、多列構造として把握したことである。倉西氏の假説は紀年多列構造論と名づけることができよう。具體的に言ふと、實年代とずれてゐる紀年の一部には海外の史料・實年代と一致する部分があるのだが、その部分の中に基準年を設けて、それに基づいた年代列を取り出す(そのうちの一つはこれまでもそれに基づいて解釋されてゐた年代列と同じもの。これまでは單列的に見られてゐたので年代列といふ概念はなかつたが)。倉西氏は四列の年代列が取り出せることを發見し、それらをそれぞれの基準によつて解釋することによつて、百二十年の不整合を整合的なものに再構成することを試みたのである。これによつて、應神天皇の時代に當たる四世紀後半からは實年代と整合する紀年が再構成され得ることになつた。 今、「(四つの年代列を)それぞれの基準によつて解釋する」と述べたが、倉西氏は四つの年代列は複數の基準を持つてをり(基本的には傳承を書紀に反映させようとしたもの)、書紀の編纂者はそれぞれの理由に基づいて出來事を紀年上に割り當ててゐるといふ假説を提起したのである。たとへば、神功皇后の紀年設定は神功皇后を應神天皇の母かつ卑彌呼ないし臺與と見做してゐることに由來し、この神功皇后の紀年設定に基づいてそれ以降の紀年が構成されてゐると考へられる。これによつて、實年代と不整合が生じてゐるのである。これまで、合理的方法として數理的に實年代との不整合を解かうとする試みはあつたが、編纂者が數理的に紀年を構築したのではないとすれば、當然的外れのものになる。それに對して倉西氏は、紀年を四列の年代列として取り出して、それぞれの理由(編纂者の意圖)を解明し、それに基づいて紀年を再構成してゐるので、自然な解が得られてゐるのである。 書紀の編纂者は、傳承を書紀に反映させようとする時に、それが實年代と不整合を來たすことも意識してゐたらしい。そして、整合性を附ける努力はしたが、どうしても不整合が生じる場合は傳承を優先したやうである。森博達氏の『日本書紀の謎を解く』は雄略紀(雄略前紀として安康天皇の時代のことから詳しく記されてゐる)から中國人學者が編纂し始めたと推定してゐたが、倉西氏の研究によれば安康紀・雄略紀以降は實年代と對照可能な同系列に屬してゐるので、森氏・倉西氏の兩著を結びつけて考へるならば、安康天皇ぐらゐからの時代については書紀を編纂する段階でかなり確かな史料が存在してゐたといふことがわかる。ひいては史料があつたから、ここから書き始められたと考へられるわけである。 本書の内容は理論篇と應用篇に分けることができるが、明快な理論篇に對して、應用篇の「第二章 『紀年論』と『倭の五王』〜なぜ『紀年』は多列構造であるのか」は解釋の部分が大きくなつてゐるので、まづ紀年多列構造論に基づいて神功皇后以降の紀年と實年代との對照關係を確定してから、再考した方がよいのではないかと思はれる。紀年多列構造論は使へる假説なので、若い研究者や歴史ファンはこの作業にチャレンジされてみてはいかがだらうか。本書は紀年論のフィールドに斬新な假説を投じた一册であり、もしかしたら劃期的と言へるものかもしれない。 (平成17年1月24日記)[戻る] |
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No.003 | |||
エゾの歴史〜北の人びとと「日本」〜 | 海保嶺夫 | ||
講談社選書メチエ | 平成八年八月二十五日 | 1500圓(税込) | 評價 ☆☆☆ |
日本列島の歴史において、東北・北海道にはヱミシ・ヱゾ・アイヌと呼ばれる人々が暮らしてきた。それでは、これらの人々は實際のところいかなる人々であつたのだらうか。近世のアイヌについては現代のアイヌとほぼ同じと考へられる。しかし、ヱミシ・ヱゾとなるとそれほど自明ではない。本書はヱミシ・ヱゾ・アイヌとはいかなる人々であつたかを、古代後期から近世にかけて現れてくる「ヱゾ」の近代化へと行き着くまでのプロセスを軸に、通念やイデオロギーに囚はれることなく、能ふ限り客觀的に描き出さうとしたものである。 海保氏の所論は結論が見え難い。そのため内容を簡潔に紹介することは難しいのだが、實はこれはヱゾを客觀的に描き出さうといふ著者の研究姿勢に由來するものである。海保氏はヱゾを民族的な固定的實體として捉へず、交易形態とそれに伴ふ諸事象の時代的變遷といふ視點から、あくまで歴史上の範疇として捉へる。民族が固定的な枠組として實體視されるのは近代のことであり、實はこれは近代國家による支配の視線と同じものに他ならない。人間集團にも固定的な定義化を求める近代學問そのものが、そのやうな國家主義的な近代化の一端を擔ふものなのである。恐らく海保氏の欲求は、北方學にも見受けられる現在の視點から遡行してヱゾを近代イデオロギーで以て範疇化しようとする學的營爲を相對化し、ヱゾのあるがままを捉へたいといふところにあるのだらう。 海保氏の問題提起を一言で言ふならば、「民族とはそもそも何か?」といふものになるだらう。そこからヱゾと和人とを兩者とも固定的な民族的實體とは捉へない立場が歸結するのである。海保氏は考古學や形質人類學などの研究成果を參照しつつも、あくまで文獻學的な研究を中心に据ゑるべきことを提唱する。考古學や形質人類學の知見から何らかの民族的・人種的實體を固定化してしまふことには愼重で、文獻に現れるヱゾのイメージを重視する。北方に關する史料は聞き書きかそれらを使用した荒唐無稽な記述が多いのだが、しかし、海保氏はそれらの史料からはヱゾがいかなるものとして理解されてゐたかがわかると言ひ、そのイメージを重視するのである。これは、社會史を個人や集團の經濟關係の連鎖を基礎とした共同主觀性として捉へる海保氏の非本質主義的な民族觀によるものではないかと推測される。エスニックグループ(たとへばアイヌ)に關しては、海保氏は本質主義的な定義やアイデンティティを認めないわけではないが、それが近代的なナショナリズム(民族主義・國家主義)の言説に轉化することに對しては消極的である。海保氏は植民地主義化してしまはない自由な交易關係を基礎とする社會を理想としてゐるやうに見える。それが政治や學問の「近代」に對してもアンチの立場を取る獨特のスタンスにもなつてゐるやうだ。 ヱゾに關する史料はそれほど豐富とは言へない。そのため、イデオロギー優先の言説が横行しやすいといふことにもなるし、「法螺話的仮説が定説化し、無根拠の批判が正当化されてしまふ」と言ふ。海保氏の立場を要約すれば、わからないことを想像で語るな、あくまで文獻に基づいた研究をせよ、といふものにならう。北方學を學問たらしめるには細心の注意を拂はなくてはならないといふことである。 本書を讀んでわかることを列擧しよう。 ◎ヱゾと和人の境界は曖昧である。それだけではなく、ヱゾそのものが北方の多樣な人々であり、同樣にまた和人も本州以西の多樣な人々であるといふこと。 ◎奧州藤原氏・安藤氏・安東氏・秋田氏・安倍氏・清原氏など多くの蝦夷地(東北・北海道)の豪族・大名の出自はヱミシやヱゾの酋長であること。安藤氏などは明治初期まで出自に誇りを持つてゐたといふ。 ◎ヱミシ・ヱゾ・アイヌは、日本海やオホーツク海を越えて大陸に跨がる交易圈を持ち、その物産を和人と交易してゐたこと。 ◎アイヌ文化が形成されたのは十三世紀頃と見られる。アイヌは恐らく人種的に繩文人の系統を汲むだらうが、それは濃淡の差はあれ日本人(それ自體多樣な人々)も同じである。アイヌ文化を持つ人々をアイヌ民族と呼んでゐるのであり、民族・文化としては新しい存在である。從つて、新しく形成されたアイヌは先住民とは言へないといふ結論になる。 ◎ヱゾやアイヌは、原始的で純朴であるがゆゑに收奪されてゐたといふやうなロマン主義的イメージとは異なり、北方の經濟や軍事において活發に活動してゐたこと。アイヌは部族同士や倭人とのみならず、元を相手にもそれなりの規模の戰爭をしてゐる(海保氏は元との戰爭の指揮者は蝦夷管領の安藤氏であつたと推測してゐる)。 ◎ヱゾやアイヌを收奪したと言はれる松前藩は、それ自身がヱゾに出自を持つ有力商人(安藤氏の代官)が大名化したものであつたこと。松前(蠣崎)氏は江戸時代を通じて異人視されてゐた。 ◎ヱゾには和人の系統の人々が含まれること。彼らは土着化してヱゾとなつたのであるが、當然ながら古代中世にはヱゾから和人になつた人々も多かつたであらう。 ◎アイヌ民族の民族としての明確な實體化は、近代化の結果であると見做せること。北方の近代化は日本によるヱゾ・アイヌの同化の過程でもあつた。 などである。以上に列擧したことからも、文化人類學などの靜態的なモデルが海保氏が問題にしてゐるやうなヱミシ・ヱゾ・アイヌの實體に合はないことや、海保氏の史觀がヱミシ・ヱゾ・アイヌの存在性格を考古學や形質人類學のデータに單純に還元し得ないものであることも容易に見て取れるだらう。また、本書がヱゾと和人の關係についての從來の構圖の見直しを促すものとなつてゐることも明らかであらう。 (平成17年1月25日記)[戻る] |
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