将棋との出会い(一)
「強いな、ボク、いくつや?」
「よんさいや。おっちゃん、もういっかいするか?」
召し取った相手玉を、敵陣定位置に返し、胸を張る。
「かんにんして、また負けたらかっこ悪い。」
別に、私が強かったわけではない。場所、相手によって龍や馬、はたまた、銀まで動き方が変わる。幼年期、私が過ごした近辺の縁台将棋の水準が、この程度のものであっただけのことだ。
よっしゃんという、きちん宿(風来坊や日雇い労働者が短期長期にかかわらず投宿する宿)の、私よりひとまわり近くも年長であろうかと思われるお兄ちゃんがライバルであった。戦績は、八分二分で私が良かった。
宿の客は博打が好きで、宿の息子のよっしゃんもよく混じって打っていたようだ。息抜き種目に将棋もやっていて、よっしゃん、分が悪いと見るとよく私を呼びに来た。
「ちんごろちゃん、ちょっとやっつけてほしい相手がおるんや。」
誰から教わったわけでもない。先手、後手、相手の応手にいさい構わず、ひょい、ひょいと二枚の金を左斜め前に移動させる。この間、相手が飛先交換に来なければ(そんな相手はまずいない)、玉をひとつ左へ移動。とりあえず、この形(のちにカニ囲いというれっきとした囲いであるということを知った)を決めてからが私の将棋の始まりであった。
対戦相手の戦法は、ほとんどが居玉での棒銀か中飛車。対原始棒銀は序盤打たれっぱなしで苦労するが、たいてい終盤、玉型の違いがものをいって勝利するのは私。
以来、私は自身将棋が強いものと思い込んでいた。実際、小、中学校と進んでも、同級生や教師と指して負かされることはなかった。
第一の師との出会いは、運良く高校進学を果たしてから訪れた。大学生主体の社会科学研究団体に顔出ししていた私は、ある日、青年たちが一枚の紙片を囲んでなにやら論じている風景を目にした。
『なんだ?また、カントかなにかか?』
と、運動員の頭越しに覗き込むと、なんと、詰め将棋。
「ボクにも見して。」
駒の配置と持ち駒を確認する。
「ふうん、飛車切って、桂はねて、・・・で簡単なんちゃうん?」
「アホ!そんなんで小室さんが悩むかいな!」「すッこんどりっ!」
「ははあ、ほんまや、玉がよると打ち歩詰や。なるほど、ほな、その前に角で王手や、角は無いし、歩合いもニ歩でなし、桂以外のあい駒は簡単、桂を入手して、桂跳ねのところ桂打ち。反対側に成り捨てて、こうして、こうして、ホラ打ち歩詰解消や。23手詰めくらいか?」
離れた場所からフチョウでいう私の指摘を、青年運動家たちはすぐには理解できなかったようだ。
座の中心で黙って座っていた大男が、低い声で言った。
「おい、陳五郎。今日からお前は俺の弟子や。」
将棋との出会い(二)
小室オサム氏が、私の通う高校の先輩であるということは、人づてに聞いて知っていた。別に、それが理由というわけでもないのだが、私は氏が好きだった。体躯は大柄でも、全身から温和な雰囲気を醸しだしており、他の青年運動員たちが発する殺気立った怖さというものが感じられなかったからかも知れない。自称、元、新カント学派。哲学にはめっぽう詳しく、ヘーゲルの観念論について、よく教えてもらっていた。この分野においては、他の運動員たちも「小室に聞け」というくらいの信頼を得ていた人だ。
社会科学勉強会は、週三回持たれていた。「一時間早く来い」の指示通り夕方六時きっかりに入室すると、師はすでに盤駒を用意して待っていた。
「おう、来たか。」
私が着席するより早く折りたたみ盤をテーブル上に開けると、じゃらり、駒箱から駒を盤上に流し落とす。玉、左金、右金、左銀の順にササッと自陣の駒をならべ終えると、腕組みをして、ペチペチとやっている私の手つきを観察。最後の駒から私が手を離すやいなや、
「ほな、始めよか。」
おもむろに、駒箱のふたを開ける。飛角をつまみあげ、カランと駒箱に放り込むと、続いて左右の桂香をしゃっしゃっと払い取りまたもや駒箱に投入。蓋を閉め、ヒョイと左金を銀の上に移動させて、
「さ、番やで。」
私には、その意味が理解できなかった。ポケッとしている私を見て、師がいう。
「まずは、六枚落ちからや。飛車、角、桂、ヤリ抜き。駒落ちは上手が先手。金、あがったで。はよ行きや。」
『へ?なんぼなんでも、スカスカやん。こんなん将棋ちゃうで。』
不愉快な気持ちで、7八金。上手5二玉にノータイムで5八金。
今だからわかるのだが、この時点で勝負あり。5分と持たず私、負け。信じられなかった。
二局目、上手3ニ金に、私5八飛車。これでは勝てない。充分に時間をかけたが、敵陣を突破できない。ちゃくちゃくと駒損を重ね順当に負け。三局目に挑む気がしなくなった。
昭和40年代も終盤。私が本物の将棋に出会ったのは、やはり今日のように蒸し暑い夏の夜だった。
(つづく)