主夜五穀天神全景

四代目園部藩主小出英貞に嫁した徳川頼純の娘(家康の孫に当たる)が、東鬼門に江戸幡隋院より迎へた主夜神を祀つたのが始まり。

御祭神は主夜神。

婆珊婆演底・跋憎多とも呼ばれ、春主神・春和神・守夜神と親しまれる。華厳経入法界品に登場し、恐怖の厄を免れさせて安隠を与へるなど、古くからすべての衆生を救護する神として、篤い信仰を受けてきた。


主夜五穀天神遺構

■探訪記

国道9号線脇の崖下に鎮座します。今は鬱蒼とした森と鳥居・燈籠・石段と石垣の遺構しか残つてゐません。鳥居のすぐ前は旧街道で、かつてはここが町の外れだつたやうです。新町にある教伝寺の境外仏堂として信仰を集めました。仏教に位置付けられる宗教施設で、狭義の神社とは言へませんが、鳥居を設けてゐることから見ても「神」として祀られてゐたことがわかります。元々はインドの神様です。

H16.5.31記、11.8追記

妙見大菩薩本殿

妙見宗長栄教会。須知妙見堂とも言ふ。大正十二年に能勢本瀧村より御神体を受けて祀つたのが始まりである。

御本尊は妙見大菩薩。

妙見宗は昭和二十一年に教義を整へて天台宗系の新興宗教として創立したもので、大阪府能勢町本瀧寺はその総本山である。


妙見大菩薩全景

■探訪記

山嶽信仰に淵源する天台宗修験道の流れを汲み、仏教に分類される妙見宗ですが、この須知妙見堂の形態はどこから見ても神社です。昭和三十七年に国道9号線開通の際に、新水戸にあつた妙見遥拝所石鳥居・石狛犬・石燈籠を移転して現在の形になつたものです。妙見信仰は北極星や北斗七星を妙見大菩薩として祀つたもので、神仏習合時代には妙見大菩薩は天之御中主神と同体と見做されてゐました。

H16.6.14記

児の宮本殿

創祀は昭和二十二年。

御本尊は天照大御神・大己貴命・少彦名命。

亀岡市千代川町出身で、船井郡日吉町田原に鎮座する多治神社宮司の野々村良正氏が、日本の将来を背負つて立つ子供たちの将来は神道精神の昂揚と実践にあるといふ願ひから設立された神社。同時に右京区釣殿町の広沢の池畔の児の宮も設立された。


児の宮全景

■探訪記

国道9号線から農道を通り、湯井の集落の東外れに鎮座します。

現在は塀に囲まれてゐて、中には入れません。写真は塀越しに撮影しました。一般参詣が可能な神社として機能してゐるかどうか、わかりませんでしたので、「特殊な神社・広義の神社」に分類しました。

H16.7.13記

二十一尊磨崖佛

創祀は不詳。

御本尊は二十一尊磨崖仏。

二十一尊磨崖仏の制作年代は、様式その他から推して吉野期かそれ以前と推定される。

かつて御本尊の巨岩は10メートル上方の茂みにあり、八王子権現と呼ばれて、門、玉垣を設け、石段や鳥居や館も造つて祀られてゐたが、昭和三十五年の山津波で巨岩が現在地に流され、磨崖仏であることがわかり、古い地名を取つて八ツ岩大権現と名づけられて現在の形に祀られるに到つた。


八ツ岩大権現全景

■探訪記

千代川町北ノ庄の山裾にある浄土宗嶺松寺(古くは天台宗徳光寺)の左側に、八ツ岩大権現の標識と参道登り口があります。石段を嶺松寺の裏山に登つて行くとすぐに鳥居があり、開けた場所に八ツ岩大権現の御本尊の鎮座する社殿があります。御本尊(御神体)は巨岩に彫られた二十一尊磨崖仏で、古くから祀られてゐたものですが、磨崖仏と知られるやうになつたのは昭和三十五年のことであるさうです。

H16.9.14記

毘沙門堂

創祀は不詳。

御本尊は毘沙門天(四天王の多聞天に同じ)。

その昔、牛松ヶ谷の大岩に天降られたのを村民が百足山(足方山)に祀り、この村を毘沙門村と呼ぶやうになつたと伝へる。百足は毘沙門天の御使ひなので、足方山を百足山と呼ぶやうになつたものであらう。明治六年の神仏分離の時に千歳の神應寺鎮守社の八幡宮と祀り替へ、現在は神應寺の境内に祀られてゐる。千歳町にある丹波七福神の第一番。


神應寺山門

■探訪記

明智光秀が亀山城築城の際に百足山の毘沙門堂を壊し、城の鎮守として戦ひの神の毘沙門天を遷しました。その後この毘沙門天は亀山城主になつた小早川秀秋が東堅町の聖隣寺の毘沙門堂に遷して、城下町の守護神としました(現存)。百足山の毘沙門天もその後復興され、神仏分離の時に男山八幡宮別当寺神應寺別院の神應寺境内に遷座、八幡宮が分離した神應寺は山号の八幡山を改めて瑞雲山としました。

H16.12.10記

人見祖霊社本殿

創祀は不詳。

馬路町は人見・中川・河原・中澤・畑の五姓で大半を占め、畑姓を除く四姓は同姓ごとに独自の祭祀施設である祖霊社を祀り、同姓祭を行なつてゐる。人見・中川は両苗と呼ばれる郷士で、人見姓は大番と呼ばれる庄屋(村役人・代官を兼ねた)であつた。人見祖霊社は別名「綱の宮」と呼ばれ、これはかつて境内の樫から槻に太い蛇縄が渡されてゐたことに由来する。この蛇縄には、昔、古川の神代淵の大蛇を人見の先祖が退治したといふ伝説がある。


人見祖霊社全景

人見・中川姓の祭祀は山口頭と言ふ。同姓の長老六人を六老(老六)と呼び、筆頭の一老を中心に神主を務める。祭祀はこの六老と六老に次ぐ世話係と頭人(十五歳以上の元服した男子の中から六老が指定する)によつて行なはれる。人見・中川の同姓祭は同時刻に行なはれ、神饌を二組準備し、相互の祖霊社に参拝する。そのあとに八幡宮に参拝し、自動車で山の神さんに参り、頭屋に戻つて直会をする。これを春秋二回行なつてゐる。

H17.1.10記

中川祖霊社本殿

創祀は不詳。

中川姓は中番と呼ばれる庄屋(村役人・代官兼務。大番・中番の両番は同格)であつた。同姓祭は人見姓と共通する。郷士であつた両苗は江戸時代に帰農してのちも武装集団として独立性を維持して武藝に励み、弓箭組と呼ばれる丹波郷士の一つであつた。明治維新では人見・中川両氏は山陰道鎮撫総督西園寺公望のもとに桑田・船井両郡の弓箭組二百余名とともに馳せ参じ、戊辰戦争に従軍した。時代祭の先頭を歩く維新勤皇隊に丹波弓箭組の名残りがある。


中川祖霊社全景

■探訪記

馬路村の支配層を形成してきた両苗の祖霊社は、人見祖霊社は馬路町バス停前、中川祖霊社は少し離れた同じ大通りに面したところに鎮座します。両社とも塀に囲まれ、ふだんは門は閉ざされてゐます。中川祖霊社の横には明治維新人見中川両姓唱義碑、中川小十郎先生之碑などいくつかのモニュメントが建つてゐます。中川小十郎は西園寺公望の腹心で立命館大学の創立者(初代総長)です。

H17.1.10記

中澤姓往古仏

創祀は不詳。

中澤姓の祖霊社は往古仏と呼び習はす。同姓祭を経ノ頭と呼び、一月九日に行なはれ、六老・総代・頭花役が祭祀を務め、総代が祭文を読み、頭花の宿で大地主権現といふ軸をかけて直会をする。

中澤姓は馬路村を開拓した草分けの百姓とされる。近世には中間・小者と呼ばれ、両苗の家来筋と位置付けられてゐた。六老などの祭祀制度は人見・中川姓と共通する。


中澤祖霊社全景

■探訪記

導養寺観音堂の裏側、長林寺の門前に鎮座します。人見・中川祖霊社と同様、塀に囲まれてゐますが、社殿はなく、往古仏と呼ばれる五輪塔が祀られてゐます。

中澤姓の六老(老六人と仰つてゐました)の四番目の四老とお話をする機会がありました。大きなお屋敷の庭のテラスで、馬路町の祭祀などについて伺ひました。


中澤小堂派阿弥陀堂

中澤姓には小堂派と呼ばれる同姓内集団があり、馬路公民館横の路地の奥の阿弥陀堂(小堂)を、往古仏とは別に祀つてゐます。小堂の左右には稲荷社と天満宮が鎮座します。

小堂派の方に伺つたところ、ここの祭祀は戦国時代から続いてゐるとのことでした。小堂の中には信長公や清正公なども祀られてゐるとのことでしたが、由来や詳細は不明です。

H17.1.10記

法華寺山門

創祀は不詳。

開創寛正五年(一四六四)の日蓮宗本国寺派法華寺の境内に鎮座する。


本町妙見宮本殿

■探訪記

本町の裏通りに、西から本門寺・寿仙院・法華寺とお寺が三つ並ぶ場所があります。妙見宮は法華寺の山門左側に鎮座します。非常に霊験のある妙見さんであるといふことです。

住職は京都市内のミニFM局で悩み相談番組をやつたりしてゐる方です。


本町の寺町通り

この通りは神仏習合の跡を色濃く残した独特の雰囲気があるエリアです。

まづ本門寺の山門左側に大黒天が祀られてゐます。本門寺には数十年前までは酉の市で有名な浅草の長國寺から分祀した鷲大明神が鎮座し、鳥居もあつて信仰を集めてゐましたが、今は残つてゐません。

寿仙院の門前には大師堂と天満宮が鎮座します。

そして法華寺には山門左側の妙見宮の他に、山門右側に鬼子母神が鎮座します。

H17.4.1記

岩屋山妙見宮本殿

創祀は不詳。

不動明王を本尊として、文覚上人が承安年間(一一七一~一一七四)に岩屋山石水寺として開基したと伝へる。明智光秀により八木城が落城した時に石水寺も焼失したが、元和五年(一六一九)に園部藩主が不動堂を再興、この時妙見宮も建立し、春日神社の宮寺勝福寺が管理してゐた。不動堂・妙見宮は明治の廃仏棄釈で破壊されたが、明治四十年(一九〇七)に妙見堂を再興した。大正十二年(一九二三)に本殿を新築した。


本堂裏洞窟

■探訪記

八木城があつた城山の山中、細い山道を30分ほど登つたところに鎮座します。不動明王妙見宮稲荷社とも言ひます。本堂裏に不動明王を祀る洞窟と不動の滝があり、社務所は廃屋になつてゐて、昼間でも恐いやうな雰囲気が漂つてゐます。

廃仏棄釈の時には、本尊の不動明王は近くの龍興寺に保管されてゐて難を逃れ、妙見大菩薩は京都の村瀬寅之助が護持してゐたのを、明治四十年に妙見宮再興の時に戻したさうです。


左・八木城址跡、右・妙見宮

昭和三十五年の集中豪雨によつて堂宇が流され、本尊のみ土中に理れてゐたのを現在の堂にお祀りしました。昭和四十九年に社務所を建ててゐますが、現在、祭祀は絶えてゐるやうです。

参道の途中に、左・八木城址跡、右・妙見宮といふ道標があります。八木城はキリシタン大名内藤ジョアンの居城で、篠山の八上城と春日町の黒井城と並んで丹波の三大城郭と称せられます。牛蒡積みと呼ばれる工法の天守台祖形が残つてゐます。

H18.8.25記