福寿稲荷本殿

創祀は不詳。

御祭神は倉稲魂命。


福寿稲荷全景

■探訪記

新広小路通りに面した金比羅公園内の、金比羅神社の左側に鎮座します。以前は500メートルほど東の、アオイ通り三丁目の北側、夜久花月堂の近くに鎮座してゐたさうですが、現在地に遷座しました。金比羅神社と同様、北面してゐます。

H25.5.8記

道官稲荷神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は宇気母智命(倉稲魂命)。

福知山城西方鎮護の守護神として、街道の入口の木村(木村口門の外側の位置)に祀られた。現社殿は享保年間(一七一六~一七三五)の建立になる。

慶安二年(一六四九)に福知山藩主となつた松平忠房(松平深溝家)が、城内外の稲荷神社を篤く崇敬し、初午・二ノ午の大祭を勧めたといふ。

朽木家の福知山‐江戸間の便りを運ぶ狐使者を祀つたといふ伝承が残る。


道官稲荷神社全景

■探訪記

福知山郵便局の南向かひに鎮座します。石鳥居の後ろに何連かの朱塗りの鳥居が並んでゐます。

三月の二ノ午に祭礼があり、城内の鎮護神である内記稲荷神社が初午さんと称されたのに対して、外方守護の道官稲荷は二ノ午さんと呼ばれてゐます。

境内に、かつて駅南に鎮座してゐた広峯神社が合祀されてゐます。

H25.5.9記

森吉稲荷神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は倉稲魂命。

大正十四年、御堀の方に鎮座してゐたのを、火の神さんとして鍛冶町が譲り受けた。鎮座地の住所は内記だが、北の鍛冶町がお祀りしてゐる。


森吉稲荷神社全景

■探訪記

内記郵便局の近くの少し入り組んだ住宅街の中、建物の狭間に鎮座します。この場所は城下の武家方の堀端町と町方の鍛冶町を区切つてゐた四ツ切口跡です。

稲荷神社ですが、火の神さんとして譲り受けたといふ由緒や、鎮座地は内記ですが、鍛冶町が護持してゐるなど、面白い神社です。境内には狐ではなく狛犬がゐます。

H25.5.10記

三木稲荷神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は倉稲魂命。

明智光秀が由良川の氾濫防止を祈願して堤防に建立したと伝へる。その地に三本の大木があつたので、三木稲荷と呼ばれるやうになつたといふ。明治二十九年の大水害で堤防が決壊した時に、現鎮座地に流されてきたといふ。


三木稲荷神社全景

■探訪記

内記郵便局の東側の京町筋の住宅街に鎮座します。家と家の狭い隙間に鎮座しますが、鳥居を潜つて左側に粟島神社の社殿が合祀されてゐるため、境内はさらに狭くなつてゐます。

粟島神社(少彦名命)は京町筋を数百メートル東に行つた堤防上に鎮座してゐましたが、明治四十年の大水害や道路整備などで移転を重ね、平成十三年に現在地に遷座してきました。

H25.5.11記

内記稲荷神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は倉稲魂命。

元は福知山城内に祀られてゐた稲荷神社を、明和八年(一七七一)、六代藩主朽木綱貞が現在地へ遷座した。文久二年(一八六二)には、伏見稲荷大社から「正一位」を受ける。現在は内記の七町と隣接する南栄町・北栄町の九町で祀る。

境内に隠れキリシタンの燈籠と伝へられるものが残る。


内記稲荷神社全景

■探訪記

市役所と惇明小学校の間の通り沿ひに鎮座します。江戸時代は福知山城の鎮護神でした。裏は小高い丘になつてゐます。福知山市の都市計画道路が神社の境内を通ることになつたため、平成二十三年に改修され、大鳥居などを移動し、朱塗りの鳥居や玉垣が新しくなり、まだ真新しい神社です。末広町の道官稲荷神社の二ノ午祭に対して、初午祭で知られてゐます。

H25.5.12記

松尾神社本殿

創祀は建徳元年(応安三年・一三七〇)。

御祭神は大山咋命・気長足姫命。

松尾大社の分社で、かつては隣接する石原村の坂の下に祀られ、雀部郷を中心にした七ヶ村(土師・前田・川北・土・石原・興・戸田)の産土神として崇敬された。寛治五年(一〇九一)、丹波兼定が雀部庄を松尾大社に寄進したのが由来。その後現在地の土村に遷座した。本殿に相殿神として気長足姫命を祀るが、文録三年(一五九四)創建の建田神社を明治三十九年に土村の水取から合祀したものである。


松尾神社全景

■探訪記

府道8号福知山綾部線沿ひの東ノ上といふ小高い山に鎮座します。旧松尾大社領で、直轄の分社です。

多くの神社が合祀されてをり、近隣地域から武大神社(天王軒・明治十二年)、齋宮神社(イツキ・明治十三年)、八幡神社(中路・明治二十二年)、水神神社(水取)、幸神神社(水取)、元々の鎮座神である森光稲荷神社・疫神神社、境内神の三柱神社などを合祀してゐます。

H25.5.13記

建田神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は気長足姫命。

近くの松尾神社に、文録三年(一五九四)創建の気長足姫命を御祭神とする建田神社が、明治三十九年に土村水取から相殿神として合祀されたとあるが、ここが建田神社の元の鎮座地か。気長足姫命(神功皇后)の子の応神天皇を誉田(ほむた・こんだ)と呼ぶので、建田(こんだ)は誉田(こんだ)と関係があるか。


建田神社全景

■探訪記

土の集落の辻に鎮座します。松尾神社に合祀された建田神社の元の鎮座地でせうか。松尾神社に合祀された建田神社と関連してゐるのはたしかでせう。

ちなみに、福知山市堀に鎮座する一宮神社境内の武大神社は、土に鎮座してゐた建田神社の本殿が明治四十一年に移築されたものといふことですが、この社殿は府登録文化財になつてゐます。こちらは厄神社で素戔嗚尊(武大神)を祀つてゐます。

H25.5.19記

當勝稲荷神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は倉稲魂命。


當勝稲荷神社全景

■探訪記

雀部小学校のグラウンドの向かひに鎮座します。道路に面してゐて普通に外からお参りできますが、住宅の敷地の一部を割いて鎮座してゐます。

元々は屋敷神もしくは個人的な崇敬社なのか、稲荷講で祀られてゐるのかはわかりません。

H25.5.21記

明天神社本殿

創祀は不詳。寛政(一八〇〇)の頃には宮講を組織し、神前奉仕を行なつてゐた。

御祭神は天照大神。

現在地より1キロほど北東の由良川に近い前田の東村に鎮座してゐたが、度々水害に見舞はれてゐたため、明治四十年に現在地に遷座。同時に旧前田村の各地で祀られてゐた八つの社を境内社として合祀した。


明天神社全景

■探訪記

山陰線の北側、福知山自動車学校の東隣りに鎮座します。周囲は福知山郊外の住宅地で、境内の一部が児童公園になつてをり、いかにも地域の憩ひの場といふ雰囲気がある神社です。

古来、川北の稲粒神社と交互渡御(西暦偶数年は前田から、奇数年は川北から)の慣はしがあり、両神社が一緒に神事を行なひます。

H25.5.25記

愛宕神社本殿

創祀は慶長十四年(一六〇九)。

前田一の宮の森(現明天神社の杜)の大檜が燐光を放つのを見た村人が京都の愛宕神社から勧請したと伝へる。慶長十七年(一六一二)に有馬豊氏の命により現在地に遷座。

御祭神は伊邪那美命・火産霊命・軻遇突智命。愛宕権現太郎坊天狗・将軍地蔵も祀る。

寛文七年(一六六七)に松平忠房が近郷五社の一つに指定するなど歴代藩主の崇敬が篤かつた。


愛宕神社全景

■探訪記

土師の手白山(愛宕山)に鎮座します。室町・戦国期には愛宕山城がありました。土師村と前田村の境に位置し、土地争ひが絶えなかつたので、松平忠房が「山は土師、社は前田」と裁定しました。明治以降は土師と前田が輪番で護持してきました。植林に力を注ぎ、明治三十九年には雀部小学校児童により千三百本の檜苗が栽植されました。境内の檜の皮が剥がれてゐましたが、檜皮を利用したのでせうか。

H25.5.26記