天照皇大神社本殿

創祀は大同三年(八〇八)。

御祭神は天照大神。

境内神社は祇園社・八幡社・蛭子社・日吉社・春日社・稲荷大明神。

元は神明社と称した。氏子の中から年齢順に年番神主が就任して神事に奉仕する当家制が古来より今に到るまで続いてゐる。例祭・祈年祭・新嘗祭には雅楽・浦安の舞・旭太鼓を奉納する。


天照皇大神社全景

■探訪記

府道郷ノ口室河原線に沿つたこの集落は、昔は山階村と言ひました。親切な女の人に場所を教へてもらひ、人家の近くにある鳥居をくぐつて山の方へ向かふ参道をしばらく行くと、石段が現れます。本殿に参拝するには森の中に続くその石段をかなり登らなくてはなりません。本殿は江戸後期のもので、その他に境内神社としては立派な稲荷神社があります。神韻縹渺たる気配が漂ふ神社です。

H16.6.13記

松尾神社本殿

創祀は和銅年間(八世紀初頭)。延喜式内社。

御祭神は大山咋命、市杵嶋姫命。

境内神社は天照皇大神宮社・祇園社・八幡社・天満宮社・蛭子社・大国天社・弁財天社・今宮社・稲荷社。

秦河勝が聖徳太子の命を受けて祀つたのが始まりといふ。往古は近隣の総氏神として境内に多くの建物があつたが、明智光秀の丹波攻めによつて焼失し、本殿のみが難を逃れた。明応七年(一四九八)に建てられた本殿は府登録文化財である。


松尾神社参道

■探訪記

この辺りは昔は美濃田村と言ひました。左は満々と水を湛へた汗の池、右は崖といふ、いかにも神域への橋といふやうな魅力的な参道を渡ると、三郎ヶ岳の山麓に鎮座します。亀岡は秦氏が勢力を持つてゐた地域で、松尾神社がいくつか残されてゐます。この神社は水の神様で、湧き出る手水用の「お滝」はどのやうな旱魃でも枯れたことがないさうです。境内は府環境保全地区に指定されてゐます。

H16.6.13記

梅田神社本殿

創祀は和銅二年(七〇九)。

御祭神は天児屋根命。

貞観六年(八六三)、丹波地方は大雪に見舞はれ、五穀が実らなかつたが、当地だけは神徳により豊かに実り、それらの種子を四方に分け与へた。このことから一区域を御赦免地とし、それまで井路村と読んでゐたのを印地村と改めることになつたと伝へられてゐる。

建武五年(一三三八)執権北条高時が再建。本殿は重要文化財である。


梅田神社全景

■探訪記

江戸時代の雰囲気を残した雰囲気のある集落の中心に鎮座します。旭町に統合する前は印地村と言ひ、氏神の梅田神社の横にある印地公民館にその名が残つてゐます。印地は礫と関係がありさうです。印地には射場さんといふ苗字が多く見られました。重要文化財の本殿は左右の摂社とともに非常に味はひがあります。境内には古木が多く、ムロ・ケヤキ・ツバキの三本が「亀岡の名木」に指定されてゐます。

H16.6.13記

糠塚稲荷神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は倉稲魂命。


糠塚稲荷神社全景

■探訪記

三俣川のほとりに鎮座します。鳥居の神額に糠塚稲荷神社とあり、祠の背後は塚山になつてゐます。三俣川の右岸に五世紀頃に築造されたこの地方では珍しい帆立貝式の前方後円墳、糠塚古墳(全長約65メートル)があるといふことですが、この塚がそれでせうか。糠塚古墳には当地の富民が糠を捨ててそれが丘となり、そこに老孤が棲むやうになり、塚を俗に徳狐とも言つたといふ伝承があります。

H16.6.13記、12.9追記

八幡神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は応神天皇・神宮皇后・比売大神。

足利尊氏が宇佐神宮より分霊を勧請すと伝へる。元日吉町中村に鎮座した。

その頃は中村の厄神さんとして知られ、厄除大祭には近隣の町々からも多くの参拝者が集まつた。


八幡神社全景

■探訪記

ダム建設に伴ひ、平成二年五月に日吉町中村から住民が移転してきました。それが現在の千代川町小林の日吉台と呼ばれる住宅街です。住民とともに氏神様の八幡神社も千代川に移転しました。境内は新しくなつてゐますが、鳥居は享保年間の古いものでした。ただし、日吉台ではなく、少し離れた大井町小金岐に鎮座します。すぐそばに障害者施設と病院を兼備した花ノ木学園があります。

H16.6.13記

松尾神社本殿

創祀は延長二年(九二四)。

御祭神は大山咋命、大国主命。

明治二十四年(一八九一)、国司の森から大国主命の神霊を遷して本殿に配祀された。


国主神社本殿

国府には必ず丹波の国中の神様を祀つてをり、それを総社と言ふ。

丹波の国の総社と推定されるのが、湯井のクズスの森の丘陵にある国主(クズス)神社である。かつては国司神社と称して稲荷大明神を祀つてゐたが、松尾神社に合祀され、国主神社はその境内社になつてゐる。


松尾神社全景

■探訪記

旧湯井村の辺りはかつて丹波国府のあつた場所だと言はれてゐます。松尾神社は湯井の集落に接するクズスの森の丘陵に鎮座します。

松尾神社は秦氏の神社であり、この付近も秦氏の居住した地域だつたのでせう。

H16.6.13記

蛭子神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は恵美須命。

伝承では往古は北金岐村の氏神様と一緒に祀られてゐた。ある年村人が恵美須社を穴河村の下流亀ヶ淵に投じたところ、急に波立つて御神体が三町も遡つた。蛭子神社はこの御神体を穴川村の村人が八町畷の南の田に祀つたことに始まる。それ以来そこを宮田と呼んだ。安永四年(一七七五)、現在の場所に祠を移した。


蛭子神社全景

■探訪記

昔は穴川村と言ひました。国道9号線の余部交差点を東に入り、しばらく行くと穴川の集落そばに鎮座します。穴川の氏神は走田神社ですが、穴川には蛭子講があり、この蛭子神社が祀られてきました。

すぐ裏には吉川小学校があります。

H16.6.13記

稲荷神社本殿

創祀は明和八年(一七七一)。

御祭神は宇賀之御魂神。

石鳥居も勧請当時の建立である。昭和三年(一九二八)、石造の社標と石玉垣を増設して社域が整備され、さらに最近子供神輿を納める倉庫兼休息所が増設された。


稲荷神社全景

■探訪記

吉田の集落から北側の山内川を越えたところに鎮座します。社殿の周囲には時代を感じさせる土塀が残つてゐます。

田植ゑを済ませたばかりの田んぼに浮かぶ杜は、独特の形で、大変可愛らしいものでした。

H16.6.13記

稗田野神社本殿

創祀は和銅二年(七〇九)。丹波国主の大神狛麿が造営。延喜式内社。旧郷社。

御祭神は保食命(豊受大神)・大山祇命・野椎命。

境内神社は天満宮・鏡神社・八坂神社・大神社・大将軍社・抬多岐神社・琴比羅神社。

鎮守の杜の中央にある土盛は、弥生時代以来の祭祀跡である。約五百年前から男山八幡橋本坊の末寺稗八幡宮と称して厄除・開運・難病退散の宮寺と言はれてきたが、明治初年社名を元の稗田野神社に戻した。


稗田野神社全景

京式八角石燈籠は鎌倉時代の作で重要文化財。平成二年七月三十日に元禄七年(一六九四)建立の本殿より出火し、本殿を全焼した。

八月十四日に行われる四社(稗田野・御霊・河阿・若宮)合同の夏祭りは「丹波佐伯郷の燈籠祭」と呼ばれ、寛喜元年(一二二九)に後堀川天皇より御所燈籠を下賜されて豊作祈願されたことより始まる平安朝以来の丹波の大祭で、今も旧佐伯郷住民によつて継承されてゐる。日本最小の串人形で演じられる人形浄瑠璃は府の無形文化財。


癌封じの瘤のある樫の木石の環くぐり
京式八角石燈籠長寿の瀧

■探訪記

丹波を代表する神社の一つです。古くから悪病退散・癌封じの神社として知られるだけあり、各所に不思議な物があります。当代の宮司の趣味でせうか、「パワー」といふ言葉がよく使はれてゐました。南参道の大鳥居は平安神宮に次ぐ府下第二の大鳥居として知られてゐます(前が住宅であるため、近距離からは大き過ぎて撮れませんでしたので、写真はそれとは別の鳥居)。

H16.6.13記

御霊神社本殿

創祀は大同元年(八〇六)。稗田野神社と並んで上ノ社、下ノ社と称される。

御祭神は大日本根子彦國牽天皇・彦五十狭芹彦命。

清和天皇の貞観五年(八六三)、悪疫が流行した時に悪霊を鎮めるべく祈願したと伝へる。御所の清涼殿で祈願され、五基の御所燈籠を下賜される。佐伯燈籠祭りを行なふ四社の一つ。


御神木のムクノキ

■探訪記

素晴らしい鎮守の杜で、鬱蒼たる森に触れるためにだけにでも訪れる価値があります。御神木が何本かありますが、なかでも胸高幹周8メートル半、樹高22メートルのムクノキは亀岡の名木の中で単木では最大であり、京都府下でも最大級のものです。黒く熟した果実は甘みがあり、昔は子供のおやつだつたさうです。


御霊神社全景

地名は稗田野町佐伯斉ノ神。元は塞の神だつたことがわかります。塞の神は道祖神とも呼ばれ、邪神・悪霊や悪病神を村の入口で塞ぎ防ぐ神です。

御霊とは非業の死を遂げた怨霊に対する尊称で、怨霊の祟りを避け、慰撫し、祀り上げて守護霊へと転換したものが御霊神社です。邪神・悪霊や悪病神を塞ぎ防ぐ塞の神だつたのを、悪霊そのものを祀り上げて御霊にしたものでせうか。

H16.6.13記