小幡神社本殿

創祀は和銅元年(七〇八)。大神狛麿が丹波国主となつた際、社殿を造営した。延喜式内社。旧村社。

御祭神は開化天皇・彦坐王・小俣王(父・子・孫である)。

境内神社は稲荷社・遷之宮・大原社・地主社・蛭子社・百太夫社・愛宕社など。

近くに小幡神社の創祀にゆかりの霊域として高熊山があり、裏の犬飼川に沿つた丘陵地には竪穴式の堺塚古墳など後期の古墳が十六基ある。


円山応挙の絵馬

小幡神社を崇敬してゐた亀岡出身の画家円山応挙の絵馬が残る。


小幡神社全景

■探訪記

犬飼川の東側のほとり、穴太の地に小幡神社は鎮座します。穴太出身の大本教の出口王仁三郎ゆかりの神社で、王仁三郎は幼少より小幡神社を信仰し、若き日に小幡神社の神示を受け、高熊山で修行をしました。宮司はこちらも大本関係者で歴史学者の上田正昭博士。小幡神社ではよく大本の祭祀も行なはれるやうです。犬飼川を西に渡ると西国三十三箇所第二十一番札所の穴太寺があります。

H16.6.13記

出雲大神宮本殿

創祀は不詳。

御祭神は大国主命・三穂津姫命。

境内神社は上の社・黒太夫社・笑殿社・稲荷社・弁財天社・崇神天皇社・春日社。

三穂津姫命は天祖高皇産霊神の娘神で、大国主命国譲りの砌、天祖の命により后神となられた。天地結びの神、すなはち縁結びの由緒はここに発する。古来国と国人すべての結びの大神を祀るとして上下の尊崇が篤い。元出雲と称せられる。

丹波国一宮、名神大社、旧国幣中社 。


黒太夫社真名井の水
御影の瀧崇神天皇社

猿田毘古神・大山祇神を御祭神とする黒太夫社は氏子祖先神を祀ると伝へられ、本殿に参拝するに先立つてこの黒太夫社にお参りするのが正しい参拝の順番とされる。

崇神天皇により再興されたと伝はり、境内に崇神天皇社を奉祀する。

古来より絶えることなく流れ続ける真名井の水は御神水として参拝者が常に汲みに訪れてゐる。また、御神体山中には「御影の瀧」があり、静寂の中に清らかな水音が響く。


上の社

古くは御神体山の御陰山を奉斎して社殿等はなかつたが、崇神天皇が再興されてのち、元明天皇和銅二年(七〇九)に初めて社殿を造営。鎌倉末期建立の社殿は重要文化財。御陰山は元々国常立尊のお鎮まりになられる聖地と伝へられ、古来より今なお禁足の地である。参拝可能な御陰山中腹に「上の社」に素戔嗚尊を祀る。記紀によれば、素戔嗚尊の子、また五世あるいは六世が大国主命である。上の社本殿は向拝を設けるなど出雲大神宮本殿を模倣した流造であり、創建は文化十年(一八一三)。


出雲大神宮全景

■探訪記

丹波国の中心地である亀岡の地に丹波国一宮として鎮座します。日本建国は大国主命の国譲りの神事によりますが、丹波国は出雲大和両勢力の接点に位置し、一宮として出雲大神宮があることは、遥かに日本建国の頃を想はせるものです。

H16.6.19記

小川月神社本殿

創祀は不詳。延喜式内名神大社、旧村社。

御祭神は月讀命。

月読神社とも言ふ。旧桑田郡十九座の中の大社二座の一つで、桑田郡第二の大社である。伊勢の内宮・外宮が今の地に遷座される前の末社で、神代から当地に祀られてゐると伝へる古社。大堰川に近く、応仁の頃に兵乱と洪水で神域のほとんどが流出した。この神社を中心とした約1.3ヘクタールの田地が地名「月読」として現存し、昔の神域だつたと思はれる。


小川月神社全景

■探訪記

周囲には何もない田んぼの真ん中にある小さな神社です。鳥居も人の背より低いやうな神社ですが、丹波有数の古社です。

北条時頼が諸国巡礼参拝の折、家臣人見二郎貞村にこの神社の守護を命じ、以後三十代にわたつて守護を続けました。現在は氏子総代が神社の維持運営に当たつてゐるさうです。

H16.6.19記

多賀・金刀比羅・秋葉社本殿

創祀は不詳。

御祭神は伊弉那岐命・伊弉那美命・大物主神・火之迦具土神。


多賀・金刀比羅・秋葉社全景

■探訪記

八木町との境にある呉弥山の山腹に鎮座します。呉弥山の周囲には上池・中池・下池と三つの大きな池があり、多賀金刀比羅秋葉社は下池の畔、石段を少し登つたところにあります。すぐ隣りは慶應寺で、神社の境内には墓所が隣接してゐます。

多賀社・金刀比羅社・秋葉社を合祀したものです。

H16.6.19記

池尻天満宮本殿

創祀は延喜十八年(九一八)。

御祭神は菅原道真公。

境内神社は白太夫社・蛭子社・稲荷社・日吉社・春日社・八幡社。

道真公御帰神後、公の御神徳を仰ぎたいと池尻村の村人が御分霊を大宰府より当地にお遷しして小さな祠に祀つたのが始まりとされる。長禄二年(一四五八)社殿創建。長享二年(一四八八)に社殿を再築し、それまで出雲神社の氏子であつたのを改め、氏神とする。元禄二年(一六八九)社殿新築。


亀の産卵

ここは明治九年に馬路村に合併するまでは池尻村であつた。池尻の集落は呉弥山の南側にあり、池尻天満宮はその呉弥山の麓に鎮座する。

付近には五世紀後半の坊主塚と天神塚の二基の上円下方墳がある。呉弥山には円墳二十七基からなる群集墳、池尻古墳群がある。坊主塚の前には最近大きな古代建築物の跡が出土し、古墳の存在と併せてこの地を支配してゐた豪族の存在が注目されてゐる。


池尻天満宮全景

■探訪記

池尻天満宮は池尻の集落の奥まつたところに鎮座する、大変穏やかな雰囲気の神社です。

参拝した日、奇瑞にも亀の産卵に出喰はしました。亀は本殿のすくそばの地面で、砂利を掻き分け、土に穴を掘り、卵を産み落としてゐました。

H16.6.22記

藤越神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は野椎命。

天正年間に兵火に遭ひ、江戸時代に再建され今日に到る。御祭神の野椎命は、伊邪那岐命の御子で野を司られる、またの名を鹿屋野比売といふ女神で、今の薩摩の阿多郡に住んでをられた。夫神に従ひ、日向から西海道を伊勢へと出られ、淡海国の日枝の山に来られる道すがら、山野の物・甘菜辛菜に到るまで霊感を示された。そのために邪神たちはそのお姿を見るや平伏し拝したと口碑にある。


藤越神社全景

■探訪記

昔は千原村と言ひました。その氏神です。八木町との境界にある千代川町川関から国道9号線ではなく旧道に入り、1キロほど南に行つたところの道沿ひに鎮座します。

野椎命の伝承から推測するに、亀岡に移住した阿多隼人との関連がありさうです。

H16.6.29記

八幡宮本殿

創祀は明和年代(一七六四~一七七二)以前。

御祭神は応神天皇。

境内神社は高良社・稲荷社。


八幡宮全景

■探訪記

行者山の東の麓にある小金岐(こかなげ)の住宅地の中に鎮座してゐます。境内は児童公園になつてゐます。この地区はその昔は平家の落武者が隠れ住んだ宿村として栄えたさうです。鎮座地の小金岐大門といふ地名が示すやうに、昔は大きな鳥居が立つてゐました。また隣接する地名が馬場先門で、乗馬の練習場がありました。ここでは毎年九月十五日の例祭には素人相撲が盛んに行なはれたさうです。

H16.6.29記

松井八幡神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は誉田別命。

源義賢ならびに多田頼政郷を先祖とする六条蔵入仲宗とその子蔵人太郎中光が宇治川の合戦において戦死し、中光の子光宗が丹波に孤居した。中光の子光實が松井智義と縁組し、松井家を継いだ。光宗姓を改め藤原と称し、松井家を継いで城山に八幡神祠を創建した。よつて里人は松井八幡宮と称す。治承四年(一一八〇)、城山からこの地に奉遷し、その後嘉吉元年(一四四一)に社殿を改めて建立した。


松井八幡神社全景

■探訪記

太田に居住する松井氏の神社です。『亀岡神社誌』によれば、氏子は五世帯で、毎年九月十四日の例祭には先祖の遺徳を偲んでゐるとありました。集落の裏に三つの溜池があり、神社はその一番東側の新池を回つて裏山に入つたところに鎮座します。裏山は太田城址で、丹波国守護の細川氏の家老であつた松井氏代々の居城でした。なほ、太田には周りを濠で囲んで外敵を防いだ弥生集落の遺跡があります。

H16.6.30記

秋葉金刀比羅社本殿

創祀は金刀比羅社は応永十年(一四〇三)、秋葉社と天満宮社は不詳。

御祭神は火之迦具土神・金山彦命・菅原道真公。

金刀比羅社は文政元年(一八一四)に再興された。


秋葉金刀比羅天満宮社全景

■探訪記

太田の三つの溜池の真ん中の上池の裏側に鎮座します。麓に一の鳥居があり、そこの石燈籠には天満宮とありますが、元は秋葉金刀比羅社が鎮座してゐたところに天満宮が遷移されたものです。山中の小高く盛り上がつたところに鎮座しますが、石段は急傾斜のスロープ状に傾いてゐて登ることができず、社殿を囲んだ土塀は破れ、建物は朽ちる寸前で辛うじてつつかい棒で支へられてゐる状態です。

H16.6.30記、H19.4.14追記

王田神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は倉稲魂命。


王田神社全景

■探訪記

秋葉金刀比羅天満宮社のすぐ上に鎮座します。太田の氏神さんは東半分は大井神社で西半分は稗田野神社ですが、秋葉金刀比羅天満宮社とこの王田神社、そして行者さんと呼ばれる祠を地区で奉祀してゐます(松井一族の八幡さんと奥村一族の春日さんは村の祭祀とは別)。王田(太田)の地名の由来は大嘗祭の主基御料供米上進の所であつたことによると伝へます。

H16.6.30記