若宮神社本殿

創祀は景雲三年(七六九)。

御祭神は大鷦鷯尊。

当初は多気神社として鎮祭された。嘉慶元年(一三八七)、社殿の再建を機に社名を若宮神社と改称した。井出山の地名が示すやうに、井泉は桑田の名水とされ、往古旅人の喉を潤す安らぎの場であつた。一の谷の合戦に向かふ義経が京都を出て旧篠山街道を西進、戦勝を当社に祈願をしたと伝へる。近くには京都から行軍を開始した義経が最初に休憩した時に腰をかけたと言はれる腰掛岩もある。


若宮神社全景

■探訪記

左右の境内神社の一つは地主弥勒尊、他の一つは清和源氏の始祖六孫王経基公を祀つてゐます。

H16.6.29記

稲荷神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は倉稲魂命。


稲荷神社全景

■探訪記

河阿神社の御旅所で、稗田野四社による夏の燈籠祭はここから出発します。柿花の稲荷株が奉祀してゐます。

H16.6.29記

桜天満宮本殿

創祀は不詳。

御祭神は菅原道真公。

道真公の近臣に稗田野鹿谷の高田若狭之介正期といふ忠義者がゐた。公が左遷される時、公より多年寵愛の桜樹を形見として拝領し、故郷稗田野に移し植ゑた。その年は見事な花が咲いたが、翌年には葉ばかりで開花せず、正期はもしや公の身に何かと遙々大宰府まで駆けつけた。忠節に感じた道真は天拝山の土で自像を作つて持たせた。正期は独鈷抛山の麓に祠を建て、像を祀つたのが始まりと伝へる。


桜天満宮全景

■探訪記

由緒は園部の生身天満宮によく似てゐます。積禅寺の境内に鎮座します。正期が祠を建てた三百年後の建久元年(一一九〇)、住職の無極上人の夢枕にしばしば道真公が立たれたので、祠を寺の境内のかつて正期が桜を植ゑた場所に移したところ、桜の精霊が樹下の巌に形を現したと伝へます。祭は積禅寺によつて仏式で行なはれます。境内周辺から産出する「稗田野の菫青石仮晶」は国の天然記念物です。

H16.6.29記

河阿神社本殿

創祀は延喜十八年(九一八)。

御祭神は豊玉姫命・鵜ヤ[龠鳥]草葺不合尊。

約二千年ほど前に九州より移住してきた採鉱冶金の術を知つた部族によつて創祀されたと伝へる。明治初年神社改めの時の御神体は蛇骨で、この時御祭神を豊玉姫命と御子神の二柱に定めたものであらう。康平年間(十一世紀半ば)頃に社殿を造営。管領細川頼元の崇敬篤く、元中八年(一三九一)に地頭吉岡正春に管理を命じた。山部人が里人の娘を神社に奉納させてゐたらしく、人身御供伝説が残る。


河阿神社全景

■探訪記

今は府道から境内に入る新しい鳥居が建てられてゐますが、山裾に沿つて昔の参道が残つてゐます。旧参道口には元禄七年(一六九四)に建てられた石鳥居が今もあります。現在の社殿は宝永六年(一七〇九)のもので、その当時の社名は「河熊大明神」でした。氏子は「山内」と言はれ、今日の稗田野町鹿谷・柿花・奥条の三区からなり、三区まとめて山内谷と呼びます。「山内」は現在約百五十戸。

H16.6.29記

春日神社本殿

創祀は観応二年(一三五一)。

御祭神は天児屋根命。

室町時代中期に奈良の住人山田小三郎義正がこの地に移り住み、峠茶屋を営みつつ山を開き、田畑を耕作してゐたが、観応二年元の氏神春日大社の分霊を勧請して創建した。兵乱の絶え間がなく、傷ついた武士たちがこの地の鉱泉に浴して傷を癒した。その後山田一族がこの地を守護して現在に到つてゐる。


春日神社全景

■探訪記

湯の花温泉の真ん中に鎮座します。

境内には元文年(一七三九)の石鳥居や、元禄七年(一六九四)を初めとする古い石燈籠が数多く残つてゐます。

H16.6.29記

走田神社本殿

創祀は和銅四年(七一一)。式内社。旧郷社。

御祭神は彦波瀲武鵜ヤ[龠鳥]草葺不合尊・彦火火出見尊・豊玉姫命(御子・山幸・妃)。

境内神社は長吉稲荷社・百太夫社・大国主社・経津主社・弁財天社など。

口伝にれば、延喜式で確認されてゐる。江戸時代に入つて亀山藩松平家の支配地の安町村・余部村・河原町村・新家村・穴川村の氏神として篤く崇敬を受けた。明治に亀岡町制が敷かれると、西の氏神として東の鍬山神社と旧亀岡町を二分して今日に到る。


走田神社全景

■探訪記

亀岡有数の古社です。境内の東を流れる不鳴川は、昔社殿に掛けられてゐた絵馬が毎夜額から抜け出して草を食ひに行つた跡が川になつたといふ伝説があり、改修や溝浚への日には今も青豆を供へて祈願する風習が続いてゐます。境内の「亀の池」にはお使はせの亀を放つて虐めないといふ風習が残り、また鬱蒼たる社叢近辺は口丹波一の蝮の生息地ですが、ここの蝮は人を咬まないさうです。

H16.6.29記

神明社本殿

創祀は不詳。

御祭神は天照皇大神・豊受姫命。

雄略天皇の代に丹波の余佐(与謝)の比沼の真名井原から伊勢への豊受大神遷幸の折、小幡川の河原に暫留した地が神明社の辺りであつた。古来、その河原に桑の大木があつて、老朽した桑の大木の穴より稲が生じたといふ。穴穂(穴太)の地名起源説話として伝承される。その神徳を仰いで社殿を建立し豊受大神を鎮祭した。のちに天照皇大神を合祀し、穴穂宮とも称して、氏子・崇敬者が奉際してきた。


神明社全景

■探訪記

小幡神社の道を隔てて向かひ側と言つていいところに鎮座します。民家に挟まれた小さな神社ですが、穴穂(穴太)の地名起源説話にもなつてゐる由緒のある神社です。神明社は郷神社とも称し、地元の方に尋ねた時も「ごうしんさん」とおつしやつてゐました。

H16.6.29記

月読神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は月読命。

馬路にある延喜式内名神大社の小川月読神社(現小川月神社)は元は現在の千代川町小川にあつたと言はれる。一説に小川月神社が洪水で衰亡した時に勧請されたとも言はれる。


月読神社全景

■探訪記

昔は小川村と言ひました。月読神社は小川村の氏神です。JR嵯峨野線千代川駅から徒歩で五分ほどのところ、銀行や飲食店が並ぶ国道9号線沿ひに鎮座します。国道の向かひ側にはスーパーマツモト千代川店があります。馬路の小川月神社は千代川の東を流れる大堰川を渡り、直線距離にして1キロほどのところに鎮座します。大堰川に架かる馬路と千代川を結ぶ橋は月読橋と名づけられてゐます。

H16.7.4記

大原神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命。

丹波国高野林の里が大きな地震で揺れたことがあつた。大地が動き、家が崩れ落ち、地面が裂けて、うち続く災害が度重なり、里人は嘆いた。その有様に人々は恐れたが、ある時、長人の夢に神が現れ、多賀の神を祀るやうにとのお告げがあり、里人と謀つてお告げに従つたところ、心の絆が高まり、秋の実りの多い年が続いたと伝へる。


大原神社全景

■探訪記

昔は高野林村と言ひました。その氏神が大原神社です。口伝にある多賀の神とはすなはち伊邪那岐命・伊邪那美命二神です。千代川の町が途切れて田んぼになつた辺りに鎮座します。参拝した日には二人の女子高生が境内でお弁当を食べてゐました。夏は涼しくて常に清らかに掃き清められてゐる神社は、子供や学生や老人たちが集ふ場でもあります。二人の姿は鳥居の写真の向かうに小さく写つてゐます。

H16.7.4記

小林天満宮本殿

創祀は天暦九年(九五五)。

御祭神は菅原道真公。

園部の生身天満宮を建てた治定が、天暦九年に小林の庄にも天満宮を勧請し、祀つた。慶安三年(一六五〇)頃から里人たちは産土神と崇め祀るやうになつた。


菅公腰掛岩

菅公が竹部源蔵治定を従へて園部へ下向される時に必ずこの地で休憩したといふ伝承があり、「休み天神」とも言ふ。境内には菅公腰掛岩がある。

菅公が大宰府で亡くなり、御神霊が園部小麦山に出現して御帰京のこととなり、治定もお供として同行して小林にさしかかつた時に御神霊は生前のやうに休みを取られ、その場で治定に筆道の極意を授け、見る見るうちに姿が見えなくなつたといふ伝説もある。


大原神社参道

■探訪記

昔は小林村と言ひ、その氏神が小林天満宮です。小林の中心部は国道9号線の西側にありますが、小林天満宮は国道の東側に鎮座します。燈籠が据ゑられた長い参道は風情があります。

創祀の天暦九年は園部の生身天満宮が建立されたのと同年です。道真公を生前から祀つてゐた生身天満宮の創祀はそれより古くなりますが、小林天満宮も丹波を代表する天神さんです。

H16.7.4記