岩城神社本殿

創祀は寿永二年(一一八三)。

御祭神は市杵島比売命。

古文書に宝徳二年(一四五〇)に細川勝元が神領を寄進したとある。旧神殿は天正五年(一五七七)に焼失、現本殿は文禄二年(一五九三)に再建されたものである。

九月六日に湯立神事が行なはれる。また、十月二十一日の秋祭では、神輿は舞殿に御遷座されたまま行なはれる。


岩城神社全景

■探訪記

旧北庄村の鎮守様です。昔は弁財天社であつたやうです。右隣にはお寺があります。

北ノ庄の西の山腹に後期古墳が八基あり、また、集落の東の田んぼの中に桑寺廃寺跡・大将軍遺跡があつて、周辺一帯からは須恵器片や瓦片が出土してをり、千代川町近辺にあつたと思はれる国府跡の一つと推定されます。

ここの狛犬はウェストが非常に細いのが特徴です。

H16.9.23記

稲荷神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は倉稲魂命。

北ノ庄に住む個人が祀られてゐる。


稲荷神社全景

■探訪記

京都縦貫道千代川ICを降りて千代川の町の方に少し行くと、田んぼの中に小さな杜があります。縦貫道からその杜があることは前々からチェックしてゐましたが、鳥居が見えないので神社かどうかは未確認でした。岩城神社を訪ねた時に行つてみると、お稲荷さんの小祠でした。鳥居はありませんが、覆屋が朱塗りです。稲刈りが始まる時期で、お稲荷さんの杜は豊かに実つた稲に囲まれてゐました。

H16.9.23記、H17.7.4追記

八幡神社本殿

創祀は宝亀四年(七七三)。

御祭神は応神天皇・春日明神・諏訪明神。

蝦夷征討の時、早良親王に従つた当地の拝田馬養といふ者、山城国藤森神社(京都市伏見区)に戦勝祈願し、無事帰国したのでその分霊を勧請して拝田甲岩に社殿を建立したのが始まり。藤森神社に因んで今もこの辺りを藤の森の里と言ふ。

天正五年(一五七七)、明智光秀の八木城攻めの時に焼失するも、二年後に再建した。


稲荷神社

■探訪記

国道9号線と並行に続く旧山陰街道から八木町に抜ける拝田峠に差し掛かる山腹に、樹木の生ひ茂つた森があります。それが拝田(旧拝田村)の鎮守様の八幡神社です。神社の創祀年代も古いのですが、村の北側の山麓丘陵に十六基から成る拝田古墳群があり、最下部のものは前方後円墳です。

境内前に溜池があり、その畔に社務所があります。山腹にある社殿へは石段を昇つて行くのですが、その途中に厄神社と稲荷神社が鎮座します。


八幡神社全景

氏子の宮係の方が清掃とお稲荷さんの鳥居を塗りに来てゐました。「ペンキ屋やないんやけど、職人やさかい頼まれたんや」と笑つてをられました。白で下塗りをしてから朱塗りにするさうです。

社務所の床の間に、天照大神など三柱の掛軸が祀られてゐました。ここの社務所では江戸中期から浄瑠璃・人形芝居等が奉納されてゐましたが、今は絶えてゐます。毎年二月十九日には少彦名命を祀る厄神社のお祭が行なはれ、賑はふさうです。

H16.9.24記

宮垣神社本殿

創祀は天平八年(七三六)。

御祭神は伊邪那岐尊・伊邪那美尊。

天正五年(一五七七)、丹波の戦国武将波多野秀治との戦ひにより、明智光秀の兵火に罹り焼失。寛永二年(一六二五)、社殿を再建。亀山城主井上大和守正岑、元禄十年(一六九七)に自ら参拝し、鎮座山を免地の神域とし、井上家家憲に「祭礼に懈怠有るべからず」とある。寛保元年(一七四一)、当地を領した旗本津田美濃守が免神域を寄せ、毎年祭礼日には代官を代参させたといふ記録が残る。


宮垣神社全景

■探訪記

旧山陰街道沿ひの川関集落(旧川関村)の裏山に鎮座する古社です。村の前の大堰川に昔は川関所が置かれてゐました。古地図には国衙の建物八棟が描かれてゐます。宮の党では氏子中の成人を迎へる男子が早朝潔斎のため籠もり所に入つて斎戒し、神事を行なひます。鳥居には後水尾天皇の染筆になる扁額が掲げられてゐましたが、今は外されてゐます。上川関からは後期古墳が三十数基出土してゐます。

H16.9.24記

天上宮御神田

創祀は不詳。

御祭神は天御祖神四十九大御神・天御中主大御神・多賀大御神・八大龍王大御神・豊受大御神・天照大御神。

宗教法人大光宮神法教の亀岡本部である。大阪府豊中市に大光宮、亀岡市に天上宮が鎮座する。伏見稲荷大社北大阪支部といふことであるが、教祖に伊邪那岐命が降り、神勅垂れ給ひ、大光宮を創祀したと言ふ。後に同命より天上の二文字を授かり、天上宮を祀つた。


天上宮全景

■探訪記

大内の馬酔木郷といふ分譲地の奥に大鳥居が見えます。行つてみますと御神田があり、天上宮といふ神社が鎮座してゐました。田仕事に来られてゐた信者さんたちがお弁当を広げてゐるところで、昇殿して参拝させて頂いてゐると、野良着姿の凛とした女性が現れ、少しお話をしました。教祖かと思ひましたが、男性の教祖がをられるやうです。新興宗教ですが、神道の正統に則つてゐるやうに見えました。

H16.9.25記、H17.4.26追記

天満宮本殿

創祀は不詳。

御祭神は菅原道真公。

元山城国久世村で祀られてゐたが、正慶・建武の頃(一三三二~一三三五)に兵火を逃れて現在地に遷座した。御神体は菅公自筆の画像と言はれ、箱中に納められてゐたのを、明和の頃(一七六四~一七七一)、別当宣興が発見したといふ。

天皇や公卿、亀山城主などの崇敬が篤かつた。


天満宮全景

■探訪記

国道9号線矢田口交差点を南に折れ、鍬山神社の一の鳥居を越えて、風景が住宅地から農村部に変つた辺りに鎮座します。元は蔵林院といふ宮寺で、山門には威徳山といふ扁額が今でも掛かつてゐます。

梅花の御守りは子供の災難や病気を救ふ御利益があるとされ、また雷除けの御神徳もあります。

境内一部は児童公園になつてゐて、本殿の裏側には年谷川上流の清流が流れてゐます。

H16.10.12記

天満宮本殿

創祀は不詳。

御祭神は菅原道真公。

縁起によれば、菅公大宰府左遷の時にお供をした春彦なる者、公の死後に形見の木像を御神体にして祀り奉つたのが始まりといふ。戦乱を避けて東本梅の大内村に仮の神殿を建てて安置、春彦の死後は大内村の楽音寺に祀られてゐたが、その後現在地の宝蔵寺境内に遷座した。維新後、宝蔵寺は廃され、天満宮のみが残つた。


天満宮全景

■探訪記

旧城下町の京町に鎮座します。この辺りの道路には景観に配慮して石畳やアスファルトではない材質の舗装がしてあり、古い家並みも散見され、なかなか風情があります。本殿は道路の反対側を向いてゐます。また、本殿の道路側に時計が掛けてあるのがモダンな感じでした。境内は児童公園として整備されてをり、境内裏は盛土の塚になつてゐます。境内裏にお墓が残つてゐるのは宝蔵寺の名残りでせうか。

H16.10.13記

八坂神社全景

創祀は不詳。

御祭神は素戔嗚尊。


八坂神社摂社

■探訪記

旧城下町の東竪町の道路に面した狭い境内は整然としてをり、鳥居と近接した本殿、稲荷神社が鎮座します。道路を隔てた本殿の向かひ側に小祠があり、八坂神社の摂社ではないかと思はれます。中には鏡が祀られてゐました。境内奥は東竪町自治会の会所になつてゐます。

神社前は区間に関係なく百円硬貨一枚で利用できる亀岡市コミュニティバスのバス停です。

H16.10.15記

三宅神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は倉稲魂命・稚彦霊命・豊保命。

戦国時代に社殿が焼失し、境内も減少して、古文書も殆ど残つてゐない。現在の社伝は延宝元年(一六七三)に建てられ、元禄十一年(一六九八)に上屋が再建された。亀岡藩主代々の祈願所であつた。延喜式内社。旧指定村社。


三宅神社全景

■探訪記

旧城下町の東の外れになる三宅町の真ん中に鎮座します。年谷川を東に越えると篠町です。三宅稲荷とも呼ばれてゐます。かつては叢稲荷、草分稲荷とも呼ばれてゐたさうです。古くはこの辺りは屯倉であつたと思はれ、屯倉に併設して建てられたのが三宅神社の始まりのやうです。境内には神明社が鎮座します。付近からは祭祀に使用する土器を作つた窯跡が多数発見されてゐます。

H16.10.17記

王地山稲荷神社本殿

創祀は寛延元年(一七四八)。

御祭神は倉稲魂命。

松平信岑が寛延元年(一七四八)に丹波国篠山城より亀山城に転封された時に、王地山稲荷も一緒に篠山から亀山城内に安置された。


王地山稲荷神社全景

■探訪記

旧城下町の北古世町、亀岡高校のグラウンド東南角に鎮座します。社殿や鳥居は大変鮮やかな朱色で、塗つて間もないといふ感じでした。

兵庫県篠山市の日蓮宗本経寺には王地山稲荷が現存し、王地山平左衛門といふ江戸時代の力士の名をつけた祠を「まけきらひ稲荷」と言ふさうです。亀岡の王地山稲荷も「まけきらひの神さん」と言ひ、相撲の神様、そして勝負に勝つ神様とされてゐます。

H16.10.18記