稲荷神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は倉稲魂命。


稲荷神社全景

■探訪記

旧城下町の突抜町の住宅街で見付けたお稲荷さんの小祠です。民家の敷地内に、道に背を向けた形で鎮座してゐました。鳥居は雨樋に使ふやうなパイプを朱塗りにしたものでした。祠には施錠がしてあつたやうなので、一般の人がお参りをするお稲荷さんではなく、個人で祀られてゐるものでせうか。今は道路に面してゐますが、昔はここはお屋敷の塀の中であつたのかもしれません。

H16.10.20記

形原神社本殿

創祀は明治十三年(一九八〇)。

御祭神は松平信岑公。

松平信岑公は形原松平家の亀山藩初代藩主である。形原松平氏は寛延元年(一七四八)に丹波篠山から亀山藩五万石に移封され、明治維新まで八代に亙つて亀山藩を治めた。

境内の稲荷神社は、亀山藩転封に際して篠山から亀山城内に移し、さらに明治十四年(一九八一)に現在地に遷座されたものである。


形原神社舞殿

■探訪記

亀岡中学校の隣りに鎮座します。この場所は旧亀山城の大手門を入つて東側にあつた御館跡の南西隅に当たります。現在は上矢田町の鍬山神社の御旅所として、秋季大祭(亀岡祭)の神幸祭から還幸祭までの間に二輦の神輿を迎へます(左写真は舞殿に遷座してゐる神輿の様子)。代々の亀山藩主を偲ぶ四月の花祭には、形原松平家や元士族を来賓として招いて、鍬山神社によつて祭事が行なはれてゐます。

H16.10.21記、11.1追記

秋葉神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は火産霊神。

浜松藩から移封された亀山藩主青山下野守忠重公が元禄年間に浜松より秋葉三尺坊大権現を勧請した。その後、享保十七年(一七三二)に郷長杉原守建が青山忠朝公に願ひ出て下矢田村小坊主ヶ岳山上に遷移したが、旧地にも社殿は残され、今も地元の崇敬を受けてゐる。


秋葉神社全景

■探訪記

亀岡城下から西国三十三所観音霊場二十一番札所穴太寺へ通じる穴太口に鎮座します。下矢田の秋葉神社に対して、こちらは元秋葉と呼ばれてゐます。社殿左側にあるイスノキは、亀岡の名木に指定されてゐます。

この辺りの町並にも、随所に古い城下町の名残りが見られます。

H16.10.23記、11.6追記

玉森稲荷神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は倉稲魂命。


玉森稲荷神社全景

■探訪記

荒塚町は旧城下の西側に国道9号線を跨いで拡がる町で、亀岡市消防署や亀岡保健所などがあります。行政機関や飲食店などが立ち並ぶ交通量の多い国道から少し旧城下側に入ると、閑静な住宅地になります。玉森稲荷神社は民家に接した狭いスペースに鎮座します。境内は庭のやうに手入れされてをり、真新しい鳥居は朱も鮮やかでした。紺屋町の秋葉神社(元秋葉)のすぐそばです。

H16.10.24記

磐榮稲荷神社参道

創祀は和銅二年(七〇九)。

御祭神は宇迦之御魂大神・佐田彦大神・大宮能賣大神。

亀岡は古くから秦氏の勢力が強い地域で、秦氏は稲荷大神を篤く信仰してをり、この西山山頂に祀つたと伝へる。伏見稲荷大社はここから遷座したといふ伝承もあり、元稲荷とも言はれる。亀岡は古くから秦氏の本拠地の一つであり、伏見稲荷の創祀が和銅四年(七一一)であるから、元稲荷の伝承にも可能性はある。


磐榮稲荷神社本殿

■探訪記

旧城下の西にある西山山頂に鎮座します。夜になると亀岡市内や国道9号線・京都縦貫道から山頂に電飾の大鳥居が光つてゐるのが見えますが、それが磐榮稲荷神社です。

この一帯は西山平和台公園として整備され、頂上には西側山麓から車でも行くことができ、展望台もあつて亀岡を一望することができます。

頂上付近の社殿周辺の林の中には無数の小祠が鎮座してゐます。


亀岡市を望む

歩いて登る場合は、亀岡警察署の裏にある三角形の大池(平和池)の畔から登ります。参道の石段には数百の鳥居が奉納されてゐて、千本鳥居と称せられます。頂上まで十五分ほどかかります。

右写真は、途中の山腹にある平和の塔から望んだ亀岡市役所方面の眺望です。向かう側の正面に見えるのは牛松山で、その下に広がるのは千歳と保津の町です。


安倍晴明神社

境内には昭和になつてから建立された安倍晴明神社が鎮座します。西山は安行山とも言ひ、安倍安行といふ陰陽師が住んでゐました。安行は安倍晴明の子孫とも安倍泰成の息子とも伝へ、安行がこの山の萩から筮竹を作つたといふ伝承から算木山とも言はれます。安行山に安倍安行といふ陰陽師が住んで占ひや天文観測をしてゐたといふのは確かなやうで、それがいつしか安倍晴明と結びついたのかもしれません。拝殿には星型紋様の瓦が乗せられてゐます。

H16.10.27記

承文字八幡宮全景

創祀は不詳。

御祭神は誉田別命。

この地は安行山(西山)の麓に当たり、承文字八幡宮は陰陽師安倍安行が信仰したと伝へる。偏額には承文字八幡宮とあるが、「唱門師八幡宮」と古書に見える。唱門師(声聞師)とは陰陽師に連なる下級宗教者・藝能者で、中世後期以降は土御門家の支配を受けてゐた。


承文字八幡宮本殿

■探訪記

亀岡市役所の敷地内に鎮座します。地名は安町野々神と言ひます。安倍安行が信仰したと伝へますが、安行に関はる唱門師たちが住んで、神を祀つてゐたのかもしれません。鳥居は明和五年(一七六八)のものです。承文字八幡宮周囲の庭園スペースは緑に囲まれ、ベンチなどもあり、市民の憩ひの場になつてゐます。現代的な建築物の敷地内に陰陽師や唱門師の宗教的痕跡が並存してゐる面白い場所です。

H16.10.28記

伊達神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は五十猛命。

宇津根町の伊達神社と並んで延喜式内社の論社である。いづれが式内社の伊達神社なのかは不明で、また両社の関係もわからない。


伊達神社全景

■探訪記

余部町加塚の交差点近く、曽我谷川の畔に鎮座します。国道9号線から少し入つたところに正面石段がありますが、国道に面したラーメン店「2国」の駐車場からも境内に通じる小道があります。鳥居は元和五年(一六一九)のものです。国道に出ると、向かひ側には宮脇書店、曽我谷川を渡ると多目的ホール・レストラン・図書館・道の駅などを備へた施設「ガレリアかめおか」があります。

H16.10.30記

余部天満宮本殿

創祀は不詳。

御祭神は菅原道真公。

江戸末期には近くにある余部町長興寺とゆかりがあり、同町八幡宮とともに社僧の智道といふ人が別当になつてゐた。走田神社神職若林家とも古くから関係がある。明治以後は余部町中条の天神講で維持運営してゐたが、現在は余部町全体の崇敬を受けてゐる。


余部天満宮全景

■探訪記

国道9号線余部交差点を右折して三百メートルほど進み、さらに細い路地を右に入つたところに、白い塀に囲まれた余部天満宮が鎮座します。地名は天神又です。御使ひの牛はなかなかよい表情をしてゐます。

天神さんらしく子供会の行事が多く、子供神輿の渡御、子供太鼓の奉納、子供の書道展などが行なはれてゐるさうです。

H16.10.31記

余部八幡宮本殿

創祀は不詳。

御祭神は応神天皇・神宮皇后。

江戸末期には近くにある余部町長興寺とゆかりがあり、同町天満宮とともに社僧の智道といふ人が別当になつてゐた。走田神社神職若林家とも古くから関係がある。明治以後は余部町上条の八幡講で維持運営してゐたが、現在は余部町全体の崇敬を受けてゐる。昭和五十八年に鞘堂の改築及び周囲の土地の改修が行なはれた。


余部八幡宮全景

■探訪記

国道9号線沿ひ、ファミレス「ガスト」の裏側に鎮座します。国道の向かひ側にはJA亀岡・農業総合研究所があります。

公園が隣接してをり、例祭の後に子供相撲などが盛大に催されてゐるさうです。


余部八幡宮御神木

境内は巨樹に囲まれてをり、中でも亀岡の名木にも指定されてゐる大欅は素晴らしいものです。枯れはしてゐないやうですが、かなりの老木に見えます。

H16.11.1記

伊達神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は五十猛命。

余部町の伊達神社と並んで、延喜式内社伊達神社に比定される論社である。


伊達神社全景

■探訪記

宇津根町の氏神様です。公団保津川団地近くの宇津根交差点からJR嵯峨野線の踏切を越えたところに鎮座します(左写真中央の杜)。本殿前の鳥居は安政二年奉献のものです。隣りに法蔵寺といふお寺があり、伊達神社と古くから関係があるやうです。踏切から神社の前を通り、大堰川に架かる宇津根橋を越えてそのまま真つ直ぐ行くと、馬路を経由して丹波一宮の出雲大神宮に行くことができます。

H16.11.2記