八幡社本殿

創祀は和銅二年(七〇九)。

御祭神は大己貴命・誉田別命。

延喜式内社。明治六年に郷社、昭和三年に府社。

亀岡盆地が湖だつた頃、大己貴命が八柱の神と樫田村の黒柄岳に神集ひ、樫舟に乗り鍬を持つて請田の峡を切り拓き、この地を豊かな農地にお変へになつた。その神徳を称へて祀つたのが起源とし、元は医王谷に祀つてゐた。八種の社領田があつたことから八田と言つたが、この地を領した源頼政が矢田と改めた。矢田・三宅・古世・荒塚・追分地域の氏神。


鍬山社本殿

永万元年(一一六五)五月八日、誉田八幡が天岡山(面降山)に天下られたので、鍬山社に八幡宮を合祀した。以来、兎と鳩が争ふ異変が起こり、村人は両神の不和によるものかと八幡宮を杉谷に移すと収まつたといふ。光秀の丹波攻めで衰微したが、慶長十五年(一六一〇)に岡部長盛が復興し、現在地に遷座した時、その故事により両神が争はれることのないやうに間に小池を設けた。文化十一年(一八一四)に松平信志が建立した現本殿は、左が鍬山社、右が八幡社で、同規模・同形式で建てられてゐる。


両社の間の池銀鈴の滝
安産石厳島社

鍬山神社の例大祭(亀岡祭)は古くより行なはれてゐたが、戦国時代に中断し、延宝年間(一六七三~八一)に古世の住人の発起により再興され、現在まで続く。城主と氏子が町内へのお出ましを願つたものと伝へる御出祭(神幸祭)では、鍬山宮・八幡宮それぞれの神輿が御旅所の形原神社へ出御し、本祭(還幸祭)まで鎮座する。本祭では鍬山宮・八幡宮二基の神輿と、各山鉾町が保存継承する曳山七基・舁山四基の計十一基の山鉾が巡行し、鍬山神社に御霊遷しがなされ還御される。


鍬山神社全景

■探訪記

面降山の東麓に鎮座します。境内庭園は矢田八景として知られ、紅葉の名所です。境内を流れる渓流を遡ると山中に銀鈴の滝があります。中世に丹波猿楽(矢田猿楽)座の本拠がありました。面降山の名は誉田八幡が能面を持つて天下つたといふ伝承に由来しますが、丹波猿楽との関連を伺はせます。医王谷に薬草園を持ち、『医心方』を著した丹波康頼の崇敬が篤く、医療の神様としても尊崇されてゐます。

H16.11.5記

秋葉神社本殿

創祀は享保十七年(一七三二)。

御祭神は、火産霊神・倉稲魂命・大国主命・少彦名命。

享保十七年(一七三二)、郷長杉原守建が亀山藩主青山忠朝公に願ひ出て紺屋町の秋葉神社(元秋葉)から下矢田村小坊主ヶ岳山上に遷移した。その後、丹波篠山から移封された亀山藩主松平信岑公はじめ形原松平家代々の藩主も崇敬した。

明治以降は下矢田ほか四町の氏子が区制を敷き、例祭・山林の手入れなどに奉仕してゐる。


秋葉神社参道

■探訪記

京都縦貫道の側道に西山連山の通称三尺坊に昇る石段があります。石段の上にある一の鳥居をくぐつて山中に続く参道を歩くこと十五分、秋葉神社は三尺坊山頂に鎮座します。南側(参道左側)の谷は丹波康頼が薬草園を持つてゐたことから名付けられた医王谷で、山上の社地は元は康頼が薬師如来を安置してゐたさうです。以前は麓で奉納相撲が行なはれてゐましたが、今は廃止されてゐます。

H16.11.6記

粟島神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は少彦名命・大国主命。

少彦名命を祀る粟島(粟嶋)神社は婦人病の神様として広く信仰されてゐる。江戸時代に淡島願人と言はれる一団が、淡島大明神を安置した神棚を持ち、声高に咒詞を唱へて女人に勧進しながら各地を歴訪したことから、広まつたといふ。

以前は三月三日に盛大な雛祭の神事が斎行されてゐたが、現在途絶えてゐる。


三榊古墳・針塚神社

■探訪記

住宅街にある小高い丘、浄法寺山の頂上に鎮座します。女性と関はりの深い神社で、女神の神像が祀られてゐます。境内の中央には後期古墳時代の横穴式古墳の三榊古墳があり、その上に鎮座する摂社の針塚神社の御祭神は、粟島神社と同じく、人々に裁縫の道を初めて教へられたとされる少彦名命で、針塚神社の例祭では針供養と裁縫道の上達が祈願されます。150メートル先には中期古墳時代の旭塚古墳があります。


粟島神社全景

浄法寺山には鎌倉時代に建立された浄法寺がありました。浄法寺は廃寺となりましたが、本尊阿弥陀如来と脇侍の観音・勢至菩薩は現在粟島神社境内の公民館に安置されてをり、今も仏式で念仏供養が行なはれてゐます。この浄法寺菩薩は児童育成祈願菩薩として崇敬されてゐます。石段左側に近郷の地蔵を一堂に集めた安産・子安地蔵があり、地蔵盆での供養が続けられてゐます。

境内から隣接する亀岡リベカ教会が見えます。

H16.11.7記

大神神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は大物主大神。

大和国一宮の大神神社より勧請した。


大神神社全景

■探訪記

篠町浄法寺のクニッテル通り沿ひにある亀屋寝装センターの敷地内に鎮座します。同じクニッテル通りにある、『くすのき瓦版』を発行してゐる楠新聞舗を訪ねた時にたまたま見付けた神社です。

布団屋さんが個人で祀られてゐるもののやうです。真新しい小さな祠を守るために建てられてゐる覆屋(と言ふより神拝所)の中は清潔に掃き清められ、つやつやとした榊が立てられてゐました。

H16.11.10記

大将軍社本殿

創祀は不詳。

御祭神は素戔嗚尊。

平成十六年七月に、江戸後期に作られた旧本殿が老朽化したのに伴ひ、建て替へが行なはれた。旧本殿は京都市伏見区の御香宮神社に引き取られた。本殿から見つかつた例祭などの記録や神具は、亀岡市文化資料館が保存するといふ。


大将軍社全景

■探訪記

安町の住宅街の中の駐車場の片隅に鎮座します。場所は少しわかり難いと思ひます。今年の夏に建てられたばかりの真新しい檜造りの本殿は、旧本殿よりかなり小さくなりました。陰陽道の方位神である大将軍神は、外界から村を守る結界としての役割を担ふ神で、素戔嗚尊(牛頭天王)と同一視されてゐます。安町の大将軍社も疫病の神様として地域の人々に祀られてきたものです。

H16.11.12記

國岩稲荷神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は倉稲魂命。


國岩稲荷神社全景

■探訪記

亀山城(亀岡城)址の北側に残るかつての内堀のお堀端に鎮座します。亀岡会館のすぐ裏側です。亀山城址は現在は大本教の亀岡本部天恩郷です。

お堀にはブラックバスがゐるらしく、ルアーフィッシングをしてゐる少年たちがゐました。

夏には蓮の花の咲く内堀周辺は南郷公園として整備され、遊歩道があり、市民の憩ひの場所になつてゐます。

H16.11.14記

稲荷神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は倉稲魂命。


稲荷神社全景

■探訪記

亀山城(亀岡城)址の内堀の中、亀岡小学校と市立図書館の間に鎮座します。個人の敷地内に祀られてゐるお稲荷さんです。

鳥居の左横に遥拝石が鎮座し、「松平大神」と彫られてゐました。旧藩主形原松平家の家臣の方のお宅でせうか。

この辺りは市立の小中高校や図書館が集まる文教地区です。

H16.11.15記

通夜稲荷神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は倉稲魂命。

元は亀山城内の北西の隅に祀られてゐたが、昭和初期、城門(現在の大本教の黒門)前の府道拡張の時に現在地に遷移された。江戸城での相撲の上覧試合で亀山藩の力士は弱いといふことで藩主が残念に思つてゐたところ、狐山といふ謎の力士が現れ、優勝し、消えてしまつた。藩主は帰国後、日頃から信仰してゐる通夜稲荷に参拝し、お狐様が化けて恩返しをしたと思ひ当つたと伝へる。


通夜稲荷神社全景

■探訪記

旧城下町の中心部、古世町北古世と北古世町に跨るやうに鎮座します。

相撲の伝説がありますが、すぐ近くに鎮座する王地山稲荷神社も相撲の神様で、こちらの伝承は由緒が明らかですから、王地山稲荷の伝承が通夜稲荷に波及したものかもしれません。

H16.11.16記

峯壽葉稲荷神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は倉稲魂命。

享和三年(一八〇三)の峯壽葉稲荷大明神の扁額が掛かる。


峯壽葉稲荷神社全景

■探訪記

通夜稲荷と同じ塚山に鎮座します。通夜稲荷がこのお稲荷さんの境内に遷移されたものです。鳥居の方角は逆向きで、合祀ではなく別々の神社と考へられます。朱塗りの覆屋は同時期に建てられたものでせう。境内には國丸大明神・守行神と記した石碑がありますが、詳細は不明です。何やら不思議な空間です。

左の写真が両社が鎮座してゐる塚山の全景です。

H16.11.16記、17.1.6追記

徳神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は大山祇命。

亀岡開拓の時に神々が集合した場所と言はれるのがここ神原である。その神々の御神徳を崇め祀つたのが徳神社である。元の社は山頂に鎮座してゐたが、いつの時代か麓の現在地に遷座したといふ。社殿に神仏習合の痕が残る。


徳神社全景

■探訪記

東別院町は亀岡市と大阪府との県境の山間部に広がる地域で、山中に集落が点在する亀岡の秘境です。竜ヶ尾岳南山麓にある神原は南北に伸びる谷間の集落で、北側には亀岡カントリークラブがあり、氏神様の徳神社はゴルフ場と集落の間の山麓に鎮座します。薄暗い境内は谷川が流れ、大変静かです。私が訪ねた時には鳥居の横木の貫の右側が折れて落ちてゐました。

H16.11.18記