春日神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は天児屋根命。

今から千年あまり昔に、村境の黒柄岳に祀られてゐた三社のうちの一社を現在地に遷宮したものと伝へる。


春日神社全景

■探訪記

黒柄岳の西麓、神原から東掛川を下つたところにある小泉の集落の東側の山麓に鎮座します。小泉の氏神様です。小泉村には小式部内侍の伝説があり、村の清泉寺には母親の和泉式部と小式部内侍の墓石と言はれるものがあるさうです(その後、和泉式部の石塔は亀岡古世村の称名寺に移されたとも)。小泉の集落から山間の道路を東へ五百メートルほど行くと大阪府高槻市に入ります。

H16.11.20記

天満宮神社本殿

創祀は建武元年(一三三四)。

御祭神は菅原道真公。

建武元年十一月、菅公の末裔の菅原盛嗣が、播州釜山から天満宮と八幡大菩薩の旧祠を奉遷したと伝へる。栢原村と二料村(現高槻市)両村の産土神で、現在も高槻からの受験祈願が見られる。

境内神社は、八坂神社(祇園さん)・大神宮(日の大神さん)・八幡宮(江見八幡)の三社合祀殿と熊野神社(権現さん)。

鳥居には永正甲子(一五〇四)の銘がある。


天満宮神社全景

■探訪記

高槻市との境界近く、栢原川の畔に鎮座します。伊弉諾命を祀る摂社の熊野神社は歴代の亀山藩主が崇敬した社で、宝山に鎮座してゐたのを明治三年に合祀しました。昭和六十二年に子供神輿が新調されました。栢原は区域が広く、神輿の巡行路は片道二・五キロメートルで三ヶ所に御旅所があり、子供が少ないので消防団の加勢を受けながら、片道は担ぎ片道は車で一時間数十分の巡行をします。

H16.11.21記

鎌倉神社本殿

創祀は和銅三年(七一〇)。

御祭神は大己貴命・少彦名命・事代主命。

和銅三年十一月十四日、天皇の詔旨を奉戴し、郷の氏神として創建された。永正十二年(一五一五)井上和泉守他十数名の篤信家により再建。慶長十四年(一六〇九)亀岡城主岡部長盛から代々の祈願所として神饌料が奉納。文化九年(一八一二)に二二五段の石段が完成。亀岡市内や大阪湾まで見える山頂に一五畳敷きの磐座があり、雨乞ひの火祭が行なはれてゐた。三間社流造りの本殿は府登録文化財。


鎌倉神社石段

■探訪記

茨木市と接する標高四百メートルの地にある鎌倉地区の山腹に鎮座します。丹波有数の古社で、鬱蒼たる森には周囲四メートルの樹齢千年近い椎などもあり、狛犬や燈籠は相当古いものです。鎌倉に辿り着くまでの道が大変で、当日は道路が工事中で農道を通つたこともあり、難渋しました。さらなる高地の驚くべき場所に造成された新興住宅地があり、主に大阪方面に勤める人が居住してゐるやうです。

H16.11.23記、H18.1.23追記

請田神社本殿

創祀は和銅二年(七〇九)。

御祭神は大山咋命・市杵嶋姫命。

丹波開拓の伝承を持つ神社の一つで、保津町の氏神である。丹波の国守朝臣狛麿が創建した。古くは松尾神社と言ひ、浮田大明神とも称された。永禄年間に社殿が焼失し、同じ保津村の八幡宮内に遷座されてゐたが、寛永年間に現在地に社殿を造営して復座した。延喜式内社。


請田神社全景

■探訪記

保津町の人家が途絶えたところから大堰川沿ひの細い道を保津峡の方へ一キロほど行き、川が峡谷に変るところの崖の上に鎮座します。亀岡を代表する神社の一つです。

社殿は石垣の上に建てられてをり、境内から保津峡が見下ろせます。請田神社はJR嵯峨野線の車内や保津下りの舟からも見えます。


保津川下り

現在も保津八幡宮内の頓宮と合同で大祭が行なはれます。請田神社は火祭で知られますが、宵宮に請田神社から稚児とともに「万歳楽」と掛け声をかけながら八幡宮内の頓宮まで長い提灯行列をして、大焚火の周囲を三回廻り、翌日の例大祭に本宮に戻るといふのが請田の火祭です。

境内には別当寺の保国山神護院がありましたが、今は残つてゐません。請田山上には保津山古墳群があります。中世には請田砦がありました。

H16.12.1記

保津八幡宮本殿

創祀は不詳。

御祭神は応神天皇。

かつて請田神社が遷座してゐた地に建てられた。鳥居から正面に鎮座するのが八幡宮、その右側に鎮座するのが請田神社頓宮。現在の八幡宮の本殿は桃山末期から江戸最初期、請田神社頓宮もそれより下るものの寛永から慶安頃の建立と見られる。石鳥居は貞享元年(一六八四)、現拝殿は天保二年(一八三一)建立のもの。


請田神社頓宮

■探訪記

保津町の入口に鎮座します。一時請田神社が遷座してゐた縁から今も請田神社の頓宮が鎮座し、合同で祭を行なつてゐます。保津は馬路・河原尻と並び、中世の諸侍の子孫(郷士)が侍衆(五姓あり、五苗と称す)として支配した地域で、侍衆は請田神社の祭祀も執行してきました。古代から材木問屋の港湾として栄え、平安京や桃山時代の伏見城・大阪城の造営の材木などを供給しました。保津には材木業者を保護した豊臣秀吉の朱印状が残つてゐます。


和光院鐘楼

神宮寺の和光院がありましたが、幕末の頃に廃寺となり、現在は境内北側の丘の上に延宝八年(一六八〇)に建立された鐘楼だけが残つてゐます。境内を鐘楼の方に抜けると商店街があり、これを右へ行くと明智光秀が本能寺に織田信長を急襲した時に通つたと言はれる明智越の登り口です。明智越は本能寺の変の直前に愛宕山西坊で連歌の会(光秀が「ときは今天が下知る五月哉」といふ句を詠んだのは有名です)を開いた時に登つた道とも言はれます。

H16.12.4記

山王神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は大山咋神。

安永四年(一七七五)の石燈籠があるので、創祀はそれ以前であらう。


山王神社全景

■探訪記

保津は坂の町で、山王神社は坂を登つて行つた保津の東外れ、牛松山の山裾に鎮座します。鳥居をくぐつて樹々に囲まれた境内に入ると広場があり、石のベンチが置いてあります。そこから階段を昇つたところに本殿が鎮座します。請田神社と同じ御祭神ですが、請田神社が亀岡の開発神として古くから祀られてゐたのに対し、こちらは山王といふ称号から見て後世に日吉大社から分霊したものと思はれます。

H16.12.7記

弁天社本殿

創祀は不詳。

御祭神は市杵島姫命。


弁天社全景

■探訪記

府道25号線(亀岡園部線)を保津町から千歳町の方に北上すると、北谷川と交差します。そこに架かる弁天橋の袂に鎮座します。弁天橋があるので弁天さんがあるかなと行つてみたところ、予想通りに小祠を見つけました。水の神様として川辺に祀られてゐるものでせう。艶々とした榊が立てられ、手篤く祀られてゐることがわかります。

H16.12.8記

八幡宮本殿

創祀は貞享年間(一六八四~八七)。

御祭神は応神天皇。

男山八幡宮の別当寺の別院である神應寺の鎮守として、男山八幡宮から勧請して祀られたといふ。現鎮座地には元は毘沙門天があり、八幡宮は神應寺に鎮座してゐたが、神仏分離の際に祀り替へられ、毘沙門天は神應寺に、八幡宮は毘沙門天の堂社に遷座した。男山八幡宮と同様に放生会を行なひ、この日に少年剣道の奉納などがある。境内神社は天満宮・稲荷社。稲荷社は磐榮稲荷神社の元とも言ふ。


八幡宮参道

■探訪記

百足山(足方山)山腹に鎮座します。毘沙門地区は中世は保津村に属し、江戸時代は旗本津田美濃守の知行所でした。竹細工の村として知られてゐましたが、現在は後継者はゐないやうです。重厚な鳥居は嘉永七年(一八五四)に正三位源朝臣有功が寄進したもので、かつては毘沙門天の鳥居であつたのでせう。社殿右手に渓流があり、境内数箇所から山水が豊富に湧き出し、手水舎も山水を利用してゐます。

H16.12.9記

愛宕神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は軻遇突智神(火産霊神)・伊邪那美神・大国主神。

遠く神代に山を神籬・磐境として祭祀してゐた。継体天皇元年に初めて神殿が建立され、信仰・修験の神社として崇敬されてきた。延喜式内社。鎌倉後期建立の本殿は重要文化財。愛宕の本宮・総社・元愛宕とも呼ぶ。山城国鷹峯に当社の分霊が祀られ、その後、和気清麻呂の請願で嵯峨山山上に移したと言ふ。これが愛宕山の愛宕神社である。


八幡神社

境内の八幡宮は天平年間に宇佐八幡宮から分霊して国分寺境内に鎮座し、守護神として祀つてゐたものである。武門政治が始まるとともに国分寺が衰退したので、天保六年(一八三五)に村の有志が八幡宮を愛宕神社に遷して奉祭することにした。

神仏習合時代は愛宕権現と呼ばれ、千歳町小口に神宮寺の岩平寺があつたが、永正年間に香西孫之の乱によつて焼失、その後一坊を興すも明智光秀の兵火にかかり再び焼失、文禄年間に神宮寺として建てられた東光寺は小口に現存する。


愛宕神社御神木

■探訪記

千歳町国分の山麓に鎮座します。明治初期までは愛宕権現から山伏が全国に火除けの愛宕の神札を頒布して回り、各地に愛宕講が広まりました。亀岡を中心に丹波にも愛宕神社の石燈籠が無数に残つてゐます。愛宕の三つ参りと言つて、生後三歳で参詣すると生涯火難から免れると言はれてゐます。境内には亀岡の名木に指定されてゐる巨木数本をはじめ、樹木が鬱蒼と茂り、一体にムササビが生息します。

H16.12.15記

稲荷神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は倉稲魂命。


稲荷神社全景

■探訪記

府道25号線(亀岡園部線)沿ひ、千歳町の江島里(旧江島里村)公民館と集出荷場を兼ねた施設の敷地内に鎮座します。

江島里村には旗本津田美濃守の代官所が置かれてゐて、丹波における津田氏の知行所を支配してゐました。明治四年に中村・出雲村・小口村・江島里村が合併して千歳村になりました。

H16.12.16記