金光寺山門

創祀は不詳。

御祭神は菅原道真公。

千歳町中村区の守護神として奉斎されてをり、寺に鎮座するも境内鎮守ではなく地域の崇敬社である。相殿に水徳の神様の水天宮と鈴ノ宮を祀る。八月二十五日の夏祭には、神社前に音頭台を組み、色とりどりの提灯を飾り、丹波音頭で大踊りが催され、屋台も出て多数の参拝者で賑はふ。


天満宮本殿

■探訪記

千歳町中村区の金光寺内に鎮座します。自立した神社として崇敬されてゐますので、「特殊な神社・広義の神社」ではなく、普通の神社として扱ひます。金光寺は浄土宗知恩院の末寺で、承応三年(一六五四)頃の創建。本堂・薬師堂・天満宮の他に行者堂があり、行者堂には役行者・不動明王・地蔵菩薩・住吉神社・弁財天などの神仏が祀られてゐます。弁財天は丹波七福神の第四番です。

H16.12.17記

天満宮本殿

創祀は不詳。

御祭神は菅原道真公。


天満宮鎮座地

■探訪記

丹波七福神第五番恵比寿さんを祀る耕雲寺のすぐ近く、千歳町千歳白髭に道に背を向けた形で鎮座します。そばにいらつしやつた老夫婦に伺つたところ、北野天満宮から勧請した天満宮だと教へて下さいました。天満宮の祠が一角に鎮座するその場所は、石垣が積まれ、木々もあり、元々何かが建つてゐたと思はれます。天満宮はかつてはそちらの方からお参りしたのではないかと思はれます。

H16.12.18記

日吉神社本殿

創祀は嘉吉三年(一四四三)。

御祭神は大山咋命。

嘉吉三年に近江国坂本から再勧請したとの記録があるが、それ以前のことはわからない。室町時代より宮座(宮の党・長桟)が存し、かつては中世郷士の家柄である五苗が登板制で祭礼を行なつてゐた。神仏習合時代には山王大権現と称した。境内社は鈴ノ宮社・軻過突神社・稲荷者二社・天満宮・八幡宮・春日社・天照大神社・熊野神社、境外社として大将軍社・野神社。


日吉神社全景

■探訪記

河原林町河原尻の北側の奥に鎮座します。歴史的に郷士村として独立性が高く、鬱蒼たる林に囲まれた村の雰囲気は独特です。大正六年に宮座に代はる敬神組を組織し、今も多くの年行事が行なはれてゐます。昭和五十七年四月まで真言宗の神宮寺地蔵院がありましたが、老朽化のため取り壊されました。境内に幹の瘤が神猿の形をした欅があり(左写真)、日吉神社の御使ひの顕現とされてゐます。

H16.12.23記

大井神社全景

創祀は不詳。

御祭神は市杵島姫命・月読命・木股命。

往古、宗像の市杵島姫命が嵯峨の松尾神社から大堰川を河原林町勝林島の在元淵(小字有本)まで遡られ、仕事に行く途中の神前村の大工に出会はれた。大工は仕事が終れば社を建てると約束し、帰つて来ると早速そこに簡単な社を建てて祀つた。その後、「陽の当たるところに祀りたまへ」とのことで、社を建てたのが大井町並河の大井神社である。爾後、昼は並河、夜は有本の守護神となられたと言ふ。


大井神社本殿

■探訪記

河原林町勝林島の大堰川の畔に鎮座します。並河の大井神社の元の鎮座地と伝へ、大井神社の創祀が和銅三年(七一〇)ですから、こちらはそれ以前に遡ります。いつしか勝林島の氏神の若宮神社の摂社として祀られてゐたのを、平成になつてから元の鎮座地と伝へられる銀杏の木のそばに再建し、祭祀を再興したやうです。社殿左側の石は元の大井神社の鎮座地を示す徴として祀られてゐたものでせうか。

H16.12.25記

大井神社全景

創祀は不詳。

御祭神は神武天皇・伊邪那岐命・伊邪那美命。

境内神社に大井神社・猿田彦社・大山咋命社・八幡神社。

御祭神については、愛宕神社若宮の火産霊神を勧請して祀つたとも言はれ、若宮大権現とも称した。神仏習合時代は真言宗清水延命院末の若宮山神宮寺であつた。神宮寺時代の本尊は、現在勝林島中島の極楽寺境内の地蔵堂に祀られてゐる。


大井神社本殿

■探訪記

勝林島村は元は上島・中島・下島の三つの集落からなり、大堰川が洪水になればしばしば水没した土地です。古くは若宮神社周辺に集落があり、徐々に大堰川の方向に移つて、現在は神社周辺には人家はありません。戦国期には早くから明智光秀に恭順し、光秀の命で大鳥居を亀山城の方向に向けて作つたと伝へます。社前に東西に走る馬場があり、江戸時代には祭競馬が行はれてゐたさうです。

H16.12.26記

末廣稲荷神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は宇迦之御魂大神。

境内神社に熊鷹社。

伏見稲荷大社の稲荷山最高峰にある一ノ峰(上之社神蹟)にお祀りされてゐる末廣大神を勧請したものと思はれる。境内には稲荷山中腹新池の熊鷹社(熊鷹大神)も勧請されてゐる。


末廣稲荷神社全景

■探訪記

河原林町河原尻三ツ樋の集落の路地の奥に鎮座します。すぐ裏にお住まひのご婦人に伺つたところ、台風23号で破損し、十一月二十八日に修復したばかりといふことでした。

隣接地に空地があり、大きな木がありましたが、神社とは関係がないさうです。左の写真でも確認できますが、本殿右斜め後ろの空地へ通じるところに地蔵堂がありました。

H16.12.27記

八幡宮本殿

創祀は寿永元年(一一八二)。

御祭神は応神天皇。

丹波では、郷士が江戸時代に帰農してのちも武装集団として独立性を維持し、弓箭組と呼ばれてゐた。馬路も郷士の村である。子供が生まれると武運長久を祈願するために八幡宮に宮参りを行なつてゐた。


黒住社生成之社
石神御神木?

■探訪記

馬路は全国的に見ても極めてユニークな祭祀伝統を有する地域です。両苗と称される郷士の人見・中川を筆頭に、河原・中澤・畑の五家で村の大半を占め、そのうち畑を除く四家は祖霊社を祀り、同姓祭を行なひます。馬路全体としては出雲大神宮の氏子であり、全戸で小川月神社を護持し、多くの住民が八幡宮を崇敬し、その他に小字名の由来となつてゐるいくつかの神社を祀るなど、重層的な祭祀伝統を今に伝へてゐます。


八幡宮全景

馬路生涯学習センターの横に残る導養寺観音堂の前に鎮座します。大変不思議な形態の神社で、八幡宮の境内といふものはなく、八幡宮・黒住社・生成之社・石神と横一列に社が並んでゐます。社殿群の前は通りの向かひにある馬路郵便局の職員専用駐車場に利用されてゐます。導養寺は廃寺となり、観音堂は近くの長林寺が管理してゐます。立派な古木が聳えてゐますが、御神木なのかかつての導養寺の境内の木であるのかはわかりません。

H17.1.1記

住吉神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は住吉大神。

住吉大神とは、伊弉諾尊が黄泉国から帰られて、その穢れを洗ひ清める禊をされた時に生まれた、底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神をいふ。


住吉神社全景

■探訪記

馬路町住吉の路地の傍らに鎮座します。家と家との間に現れる空間に、小祠と燈籠を木々が囲む独特の雰囲気の場所です。

土地の古老に伺つたところ、摂津国一宮の住吉大社から勧請したのではないかとのことでした。鰐口に寛政十年住吉大明神とあります(寛政十年は西暦一七九八年)。

住吉といふ小字名はこの住吉神社に由来します。

H17.1.7記

長宮さん本殿

創祀は不詳。

御祭神は不詳。


長宮さん全景

■探訪記

馬路町長宮の四つ辻に鎮座します。神域を区切る低い石積みと石段があり、社殿に近接して大欅が生えてゐるのですが、上部は伐られてゐて、地元の方によれば、かつてはもつと大きく、馬路の町に聳えてゐたさうです。長宮の小字名はこの祠に由来し、由緒や御祭神は不詳ですが、地元では昔から長宮さんと呼んでゐます。境内に愛宕山の石燈籠、欅の根元に倒れた道標がありました。

H17.1.8記

首塚大明神本殿

創祀は不詳。

御祭神は酒呑童子。

平安時代初期、丹後国大江山の酒呑童子が夜毎都に出没しては荒らし廻つてゐた。時の帝が源頼光とその家来の四天王に征伐を命じられた。頼光らは見事に酒呑童子を退治し、首を都に持ち帰らんとして丹波と山城の国境の老の坂峠まで戻つたところ、街道端の子安地蔵が、鬼の首のやうな不浄なものは都に持ち込んではならぬと言はれたので、老の坂峠に酒呑童子の首を埋めて首塚を作つたと伝へる。


首塚

■探訪記

行政区画上は京都市西京区大枝沓掛町に当たる、国道9号線老の坂トンネルの京都側入口脇から旧街道に入つた老の坂山中の丘の上に鎮座します。祭事は亀岡市篠町王子の住民が執り行なつてゐて、昭和五十九年に宗教法人首塚大明神になつてゐます。首塚付近の集落(亀岡市)は廃村となり、周辺は昼間でも暗い淋しい場所です。首から上の病気の治癒や、頭に効くとして学業成就の信仰が篤いさうです。首塚大明神は元々円墳であるとも言はれてゐます。


首塚大明神全景

酒呑童子の棲み処は丹波と丹後の国境の大江町の大江山説が有力ですが、当時都で大江山と言へば老の坂を指し、都からの距離を考へると、山城と丹波の国境の大枝山(老の坂峠)説の可能性もあります。大江町の大江山には修験の山であつた御嶽(鬼嶽)に弘化年間(十九世紀中頃)に建立した鬼嶽稲荷神社が鎮座し、ここは四道将軍丹波道主命が父の日子坐王の旧蹟に神祠を建てた場所とされます。大江町の大江山は元々土蜘蛛伝説があつた土地です。

H17.1.24記