村山神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は大山祇命・木花咲耶比命・応神天皇・仁徳天皇。

応永二十七年(一四二〇)、国恩寺(現在廃寺)の雑掌で篠町浄法寺に砦を構へてゐた豪族の渡辺頼方が再興し、同じ頃、本殿の左の八幡宮を勧請したと伝へる。

延喜式内社。


禁足地

■探訪記

国道9号線ユニクロ付近、西川沿ひの道を南に少し入り、西川と宮の谷川の合流点近くに鎮座します。鳥居の前には宮前橋が架かります。

社殿は鍬山神社と似た形式で二つ並び、右側の社殿が大山祇命と木花咲耶比命を祀る本殿で、左側が応永年間に勧請した八幡宮です。拝殿は二百年前(寛政十二年)の建築です。

境内の裏山には神が降臨されたと伝へられる禁足地があります。


村山神社全景

境内に神池が二箇所あります。本殿に上る石段の下の池には厳島神社が祀られ、境内の左手には蓮池と呼ばれる池があつて、ここでは八幡宮の例祭の時に放生会が行なはれます。

裏山の禁足地に隣接する一帯は「森の公園」と呼ばれる躑躅の名所です。

篠町森の付近は、古墳や窯跡が数多く発掘されてゐる場所で、村山神社の裏山でも須恵器の破片が出土してゐます。

H17.2.13記

拝天社本殿

創祀は不詳。

御祭神は不詳。

村山神社の御母神と伝へる。一説に村山神社を再興した渡辺頼方が筑紫から移つて来た時に、天拝山安楽寺(太宰府天満宮)から天満宮を勧請し、拝天社として祀つたとも言ふ。通称、袖神さん。村山神社に来られた勅使が輿に乗つたまま通り過ぎようとした時、御神体が現れて勅使の袖を引き「なぜ輿から降りないのか」とお怒りになつた。以来、袖取の社ないし袖摺の社とも呼ばれるやうになつたと言ふ。


拝天社全景

■探訪記

国道9号線沿ひの京都信用金庫のある交差点をつつじヶ丘の方に入つてすぐ、近藤鍼灸院の横に鎮座します。地元の方にここが袖摺の社だと教へて頂きましたが、行つてみると拝天社ではなく広田平塚神社とありました。この祠の前の坂で倒れると三年以内に死ぬといふ伝説があります。ただ、肩袖を奉納すると免れるとされ、衣服の袖に替へて紙で作つた袖を奉納する風習がありました。

H17.2.16記

王子神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は伊弉那岐命・伊弉那美命。

社伝などによると、鎌倉時代に熊野若一皇子を勧請し、地名も王子となつたといふ。また雄略天皇の時代に木梨軽皇子とビリン皇子が戦ひ、破れた軽皇子の首(実際には軽皇子の身代りとなつて討死した従者の首)を王子権現として斎祀つたといふ伝承もある。社紋は十六菊花紋であり、皇室と深い関はりのあることが窺へる。旧村社。


王子神社全景

■探訪記

老ノ坂を亀岡市へ越えてすぐの旧山陰道沿ひに鎮座します。明治に道路が通るまでは、広大な鎮守の森に鬱蒼と大樹が繁り、闇宮(くらがりのみや)とも呼ばれてゐました。また江戸期の書物には正一位王子大権現とあり、「位有宮」とも記されてゐます。境内に現存する天満宮は宝暦元年(一七五一)の造営になるもので、後水尾天皇勅願の天神像を祀り、王子天満宮と呼ばれて信仰を集めてゐました。

H17.2.19記

篠村八幡宮本殿

創祀は延久三年(一〇七一)。

御祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。

延久三年(一〇七一)、後三条天皇の勅宣により、源頼義が河内国の応神天皇陵の誉田八幡宮より勧請し、創建した。延久四年の古文書に八幡宮修宮のために頼義が篠村庄を寄進するとある。平安時代、御霊信仰により京に通じる街道六ヶ所に厄神社が創建された。そのうちの一社が京の西北(乾)に当る篠村八幡宮境内の乾疫神社で、これは八幡宮勧請以前から当地に祀られてゐた社と見られる。


乾疫神社矢塚
土俵祖霊社

頼義から十代末の足利高氏は、元弘三年(一三三三)に篠村八幡宮に戦勝祈願して六波羅探題を滅ぼし、南北朝の騒乱で京都から追はれた時にも篠村八幡宮で味方の兵を集めて再起を期し、その後室町幕府を興した。高氏は貞和五年(一三四九)に戦勝の御礼に参拝してゐる。その後、足利歴代将軍の崇敬を集め、繁栄した。また、源氏であつた明智光秀も高氏の故事に倣つて篠村八幡宮に祈願し、織田信長を打ち破つたと言ひ、境内は明智の森とも呼ばれてゐる。


旗立楊

■探訪記

丹波を地盤にしてゐた足利高氏ゆかりの神社です。神社には高氏の戦勝祈願の願文や御判御教書(寄進状)などが残り、境内には高氏の武将たちが玉串を添へて鏑矢を奉納した矢塚、本営の所在を示すために源氏の白旗を掲げた旗立楊が残ります。放生会では子供相撲や奉納相撲が行なはれます。鳥居前には高氏の挙兵にも参加してゐる中世武士の末裔である弓箭組(丹波郷士)奉納の石燈籠があります。

H17.2.22記

桑田神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は大山咋命・市杵島姫命・大山祗命。

亀岡開拓の神々の中で、大山咋命がこの地に庵を結んだと伝へる。大山咋命が開拓に使はれた鋤と帯びてをられた短剣を御神体とする。保津峡の対岸の請田神社も同神を祀り、桑田神社は江戸時代までは山本請田社と呼ばれてゐた。平安後期に市杵島姫命・大山祗命の二神を祀つた。境内には山本中洗田から明治四十年に合祀した野々神社が鎮座する。

延喜式内社。


野々神社

■探訪記

大堰川沿ひの丘陵地に鎮座します。すぐそばを嵯峨野線が走り、車内からも見える神社です。

九頭竜神を祀る野々神社は沓神さんと呼ばれ、足の病に効くとされます。まづ石を二つ持つて祈願し、病が治つた時には草履を奉納します。古く天正年間に宇野豊後守が馬に乗つて通過した時、馬が足を痛めたので轡を奉納したところ忽ち治つて馬が歩き出したといふ伝説があり、以来馬の轡を奉納する風習がありました。いづれにせよ、足に効く神様です。


桑田神社全景

昔は別当寺があり、梵鐘の銘に篠村七郷産土神とあつたさうです。氏子圏は古くは王子・篠・馬堀・山本でしたが、江戸末期には馬堀・山本を氏子域にしてゐました。

H17.3.11記

馬堀桑田神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は市杵島姫命。

山本の桑田神社の市杵島姫命は、当神社に祀られてゐたのが移されたとの言ひ伝へが残る。


馬堀桑田神社全景

■探訪記

JR嵯峨野線馬堀駅周辺は新興住宅地として急速に発展してゐますが、馬堀桑田神社は駅を出てすぐの古い住宅街の中の公民館の横を入つて行つたところに鎮座します。

馬堀の弁天さんとして近郷に知られてゐます。境内には児童公園が隣接してゐます。

H17.3.17記

本町天満宮本殿

創祀は不詳。

御祭神は鍬山宮(大己貴命)・菅原道真公・三輪明神。

昔、本町焼けといふ大火があり、御神体の掛軸が御神徳によつて境内の松の枝に掛かり、類焼を免れたと伝へる。また大正十一年に町内で不幸が続き、廃れてゐた祭祀を復興したといふ。


本町天満宮全景

■探訪記

亀岡の中心部の本町の裏通りに寺が三つ並んでゐる場所があります。本町天満宮はその真ん中の浄土宗寿仙院の門前に鎮座します。寿仙院のご住持さんに伺つたところ、廃仏毀釈までは寿仙院が管理してゐたとのことでした。その後は本町自治会が毎月当番で奉祀し、神事は鍬山神社が行なつてゐるとのことでした。

本殿左に大師堂があり、寿仙院が管理してゐます。

H17.3.28記

神明社本殿

創祀は不詳。

御祭神は天照大神。


神明社全景

■探訪記

亀岡市の中心部、突抜町の公民館の敷地内に鎮座します。生垣の内側にあり、前を通つても気づかずに見過ごしてしまひさうな神社です。

周囲はお寺がいくつかある静かな住宅街で、手入れの行き届いた庭に小社造りの本殿があり、きちんとお祀りされてゐることが伺へます。

H17.4.8記

犬飼天満宮全景

創祀は不詳。

御祭神は菅原道真公。

貞享二年(一六八五)、比叡山の法任が山王寺(開山弘仁年間)の住職になつた時に、当地にあつた天満宮を犬飼村の別の場所に遷座し、跡地に山王権現を祀つた。神仏習合時代は山王寺は宮寺として天満宮を祀つてゐたが、神仏分離の時に山王権現を廃して再び当地に天満宮を戻し、現在に到る。


犬飼天満宮本殿

■探訪記

亀岡市の中心部から国道423号(摂丹街道)を大阪方面に行き、京都縦貫道の高架をくぐると曽我部町になります。曽我部町の丁塚山山麓付近が旧犬飼村で、村外れの一の鳥居から長い参道が続き、二の鳥居があつて、犬飼川に架かる天神橋を渡つたところに犬飼天満宮は鎮座します。

神域が大変美しい神社です。境内には樹齢五百年の杉の御神木があり、また犬飼川の堤には延々と続く見事な桜並木があり、隠れた桜の名所です。


山王寺

天満宮の隣りには山王寺があります。山王寺と天満宮は神仏分離までは一体であり、山王寺は天満宮と山王権現を奉祀する宮寺でした。神仏分離後は無住寺となり、一時荒廃しましたが、昭和五十年に有住寺となり、復興しました。

犬飼川のすぐ上流の場所には、亀岡で撮影された映画『クイール』のロケ地の一つ、盲導犬総合訓練センターがあります。

H17.4.11記

與能神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は事代主命・建御名刀命・天照皇大神・天児屋根命。

元々出雲系の事代主命・建御名刀命を祀つてゐたものであらう。いつの頃からか天照皇大神と春日神が祀られたものと思はれる。伝承としては、崇仁天皇の頃に丹波道主之命を将軍として桑田郡に三座の神社を祀つた。これが三宅神社と山国神社とこの與能神社であるといふ。

延喜式内社。


天満宮

■探訪記

茨木街道407号東掛小林線沿ひに鎮座します。平家物語にも登場する大変由緒のある神社です。氏子は春日部・中・寺・法貴・犬飼・川上の六ヶ村。

境内の天満宮は寺区の氏神で、乾垣内に建立されてゐましたが、曽我谷川の岸辺に鎮座してゐて度々水害に遭つたため、與能神社の境内に遷座したものです。鳥居・灯籠には享保二十年(一七三五)の銘があり、かつては天神講が奉斎してゐましたが、現在は寺区自治会がお祀りしてゐます。


與能神社全景

嵯峨天皇の御世(八一〇)に丹波に三つの神宮寺が建てられ、與能神宮寺はその一つで、今もその跡が残つてゐます。各村に地蔵尊が祀られ、與能神社の例祭は六華祭また六地蔵めぐりの祭と言ひ、神仏習合の祭です。六地蔵以外に厨子に納められた木像地蔵尊を祀り、例祭の前日にはこれを背負ひ、與能太鼓を鳴らしながら次の輪番の村の寺に遷座します。氏子は祭時に奉納する雅楽愛好会・與能太鼓保存会を継承してゐます。

H17.4.15記