御旅所神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は事代主命・建御名刀命・天照皇大神・天児屋根命。


御旅所神社全景

■探訪記

與能神社から七百メートルほど離れたところに鎮座する與能神社の御旅所です。由来は不詳ですが、御旅所付近から與能神社まで一帯が與能神宮寺(與能神社と神宮寺が一体であつた宮寺)の寺域でした。御旅所付近からは奈良時代の瓦や焼け仏などが出土してゐます。六華祭は與能神社から御旅所に神輿を遷座し、神幸祭が行なはれます。社家二階堂氏は神仏習合時代には僧侶でしたが、神仏分離の際に還俗して神官になり、現在に到ります。


無量寺山門無量寺庚申堂
與能神宮寺礎石無量寺毘沙門天

御旅所神社のすぐそばにある無量寺は、六華祭の六地蔵のうちの寺区の地蔵尊を安置する、與能神宮寺とも関係の深いお寺です。境内には與能神宮寺の五重塔の礎石が残つてゐます。

境内には毘沙門堂、薬師堂、神式の社殿の庚申堂などがあり、毘沙門天像は鎌倉時代の作と伝へ、古くは現在の與能神社の境内地に堂宇があつたさうです。古い與能神社の境内絵図に毘沙門天が描かれてゐますが、これでせう。

H17.4.22記

厄済神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は厄済神。

その昔、曽我部地域を開拓した人の塚であると古老は言ひ伝へてゐるが、真偽は明らかではない。一説には吉野朝時代の赤松則村の首塚、あるいは戦国時代の篠山領主秦野秀治の忠臣赤井悪右衛門の首塚とも言はれる。

御祭神は大きな白蛇で、夜には中山池に水を飲みに行くと言はれてゐた。


厄済神社全景

■探訪記

京都学園大学のすくそばの山麓に鎮座します。通称焼杉様。

境内の湧水は水で目を洗ふと眼病に効き、飲むと諸病に効くといふ御神水で、水を頂く時には川魚を神池に放して厄済さんに捧げなければ罰が当たると言はれてゐます。今も神池はありますが、それほど綺麗ではないやうでした。土地の人は丑の刻参りをよく行なひ、樹に藁人形が打たれてゐたさうです。

H17.4.28記

若宮神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は応神天皇。

祭祀用の八方形磁器甕一対は鎌倉期の珍甕で、鎌倉時代には祭祀が行なはれてゐたと推測される。


若宮神社全景

■探訪記

国道423号沿ひにある南条の集落の中に鎮座します。曽我部小学校のグラウンドと接してゐます。

かつては若宮八幡講があり、江戸中期から宮の党が祭祀を行なつてゐたやうですが、現在は宮の党から二宮尊徳の教へを受け継ぐ社団法人報徳社に組織が移行し、祭祀を行なつてゐるさうです。

すぐ向かひに晴明寺といふお寺があります。神仏習合時代の関係があるのかもしれません。

H17.5.2記

重利八幡宮本殿

創祀は不詳。

御祭神は応神天皇。

現在の社殿は江戸中期の建築である。

地名の由来は重利といふ武将の名前から取つたものと伝へられる。鎮座地の小字は重利矢折と言ひ、近くには軍垂といふ地名もあつて、かつてこの地で戦があつたことを思はせる。


重利八幡宮全景

■探訪記

重利の集落の外れの田んぼの中に鎮座します。亀岡は源氏ゆかりの地です。源義経が領地としてゐた時もあり、八幡神社や応神系の神を祀る若宮神社が多い土地柄です。南条・西条・重利は元は川上村と言ひ、それぞれに八幡神が祀られてゐます。

祭礼には、重利区約六十軒からお供へ物を集めて総代がリアカーで神社に運び、奉納するさうです。また、今も奉納相撲が行なはれてゐるさうです。

H17.5.4記

西条八幡宮本殿

創祀は不詳。

御祭神は応神天皇。


西条八幡宮全景

■探訪記

曹洞宗真福寺の左隣りにある小高い丘の上に鎮座します。ふだんは真福寺の住職がお守りをしてをられます。例祭の時は受け持ちの神職が来て、真福寺で服装を整へるさうです。西条区約三十戸の氏子全員が例祭にはお参りするとのことです。真福寺・八幡宮と併せて、西条区の伝統的な宗教・習俗として守られてゐるのがわかります。

例祭は西条八幡宮が九時、重利八幡宮が十時、中八幡宮が十一時と、同じ神職が回ります。


三寶大荒神

全景写真の右側が真福寺、左側に見える杜が八幡宮ですが、石段を登つてみると結構高い丘で、真福寺の本堂が見下ろせます。

境内には稲荷社の他に、三寶大荒神といふ仏教と関はる三面の神の石像が祀られてゐます。

H17.5.8記

稲荷神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は倉稲魂命。


稲荷神社全景

■探訪記

曽我部小学校にほど近い国道423号沿ひ、南条区上河原の少し田んぼの方に入つたところに鎮座します。『新修 亀岡市史』でこの付近に稲荷神社があるといふ情報を見付けたので、行つてみたところ、果たしてありました。きちんと整備されてをり、社殿の裏には神社らしく杜もありました。

鳥居に南条第一斑有志一同とあり、付近の人たちが奉祀してゐることがわかります。

H17.5.10記

國狭槌神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は國狭槌命。

國狭槌命は野山を司る神で、八王子さんとも呼ばれてゐる。法貴は花崗岩の産出地で石工が多い土地なので、祀つたものと思はれる。土木建築業者の神としても崇敬されてゐる。

足利尊氏や明智光秀にゆかりがあり、また、妙見さんの修験者にも信仰されてゐた。

法貴の氏神として、例祭には全戸の参拝がある。


國狭槌神社参道

■探訪記

国道423号妙見街道に面して能勢妙見の方向を示す鳥居があり、國狭槌神社はそのすぐ近くの山麓に鎮座します。参道はハイキング道になつてをり、山道に沿つて渓流が流れてゐます。

法貴の背後の霊仙岳山麓には大小五十基ほどの横穴式円墳があり、石棺や鉄刀などの副葬品が出てゐます。また、中世には法貴山城がありました。

H17.5.11記

中八幡宮本殿

創祀は不詳。

御祭神は応神天皇。

中には源満仲(多田満仲)を祖とする多田姓を名乗る者が多い。当時の丹波国桑田郡六箇荘中村には、多田氏の他に、源満政を祖とする辻氏、和田義盛の後裔の和田氏ら源氏が住んでゐた。

「勧請不詳永正三年八月社殿ヲ再建ス」とあるのが最古の記録で(永正三年は一五〇六年)、その後、数十年ごとに社殿の修復や葺替へを行なつた記録が見られる。


中八幡宮全景

■探訪記

曽我部町中の集落の外れ、曽我谷川沿ひの山腹に鎮座します。源氏ゆかりの中村の氏神です。

放会(放生会)と言はれる例祭では、氏子の娘による浦安の舞が奉納され、夜には盆踊りや籤引きがあります。籤には八・幡・宮・中・秋・祭の六段階のアタリがあり、八が一等賞になつてゐて、氏子の寄付による豪華な景品が用意されてゐるさうです。神仏習合時代から続く、村人からのお供物とその返礼の神社からの「御供さん」の礼が残つてゐます。


中八幡宮社家

神仏分離まで同地には宮寺がありました。明暦二年(一六五六)から天台宗善峰寺の分院となり、古くから鎮座してゐた八幡神を八幡宮別栄明王院として建立し、代々僧侶が護持してゐました。隣接の墓地には僧侶の名を刻んだ十基の墓石が並んでゐます。十一人目に派遣されてきた僧侶が明治の神仏分離で還俗・改名して神官となり、爾後世襲により現在に到ります。社家のお住まひになつてゐる建物はお寺のやうな造りです。

H17.5.14記

春日神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は天児屋根命。


春日神社石段

■探訪記

山に囲まれた曽我部町の一番深いところにある春日部の氏神です。春日神社は集落からさらに奥深く山道に入つた、東別院町や大阪方面へ抜ける府道407号線(東掛小林線)の道路脇に鎮座します。車を止めるスペースがなく、交通量が多く徒歩で行くのも危険なので、参拝は難しい場所です。

祭礼には社前に火を焚き全戸参拝して、車座になり夜まで直会をするさうです。

H17.5.17記

稲荷神社本殿

創祀は不詳。

御祭神は倉稲魂命。


稲荷神社全景

■探訪記

荒塚町の工務店の敷地内に鎮座します。マツモト荒塚店のすぐ裏側です。通りを隔てて西町になり、向かひ側には大圓寺があります。

木造の社殿は、小さいながらも風格があります。境内は掃き清められ、庭のやうに美しく整備されてゐます。

H17.6.15記