生身天満宮全景

御祭神は菅原道真公。

園部は代々菅家の知行所であつた。延喜元年(九〇一)、道真公が大宰府に流された時、武部源蔵は公の八男慶能君を匿ひ養育しつつ、ひそかに小麦山に小祠を建てて公の木像を刻んで生祠として奉斎したのを創祀とする。

大宰府の配所にて公が身罷られたために生祠を霊廟と改め、さらに天暦九年(九五六)に、慶能君や公恩顧の人々、園部の里人と図り、神社と改めて祭事を務めた。


生身天満宮拝殿・本殿

生身天満宮の名は、道真公生前より祀つたことに由来し、日本最古の天満宮である。

戦国時代には、永正十三年(一五一七)には丹波守護職の細川家が、天正十三年(一五八五)には織田家管領が、境内に乱暴狼藉や伐採を禁止する禁制高札を立てて、兵乱から当社を護持してゐる(禁制高札は現存)。

承応二年(一六五三)、園部藩祖小出吉親が小麦山に城郭を造営するために現地に遷座した。神宮寺は福量寺で、今は残つてゐない。


厳島神社秋葉愛宕神社
皇大神宮稲荷神社

境内神社は厳島神社・皇大神宮・秋葉愛宕神社・稲荷神社など多数ある。

十月十四日の宵宮祭典後に、諸役が猿田彦榊・木鉾・御幣・松明を持つて、「おむかいや」「だいじょうや」と唱和しつつ社殿を三巡する特殊神事「お宮めぐり」は、往古神霊奉迎の礼に倣つた一千有余年の伝統行事である。

二十五世天満宮の一社。旧府社。


武部源蔵社

■探訪記

生身天満宮は園部城址から真東へ300メートルほどのところに位置する天神山の山腹に鎮座し、神社の森は町の風致林です。境内の片隅には、創立者の武部源蔵を祀る武部源蔵社もあります。源蔵と道真公の八男慶能君は『菅原伝授手習鑑』の登場人物として有名です。今の宮司も武部さんです。

すぐ隣りにはミッション系の名門、聖カタリナ女子高校があります。

H16.5.18記

熊野神社全景

創祀年代不詳。一説に天文四年(一五三五)とあるが、それより古いと考へられる。旧村社。

御祭神は須佐男命。

中世の熊野修験道の信仰の影響が伺へる。天文年間には土地の豪族黒田城主森氏の崇敬が篤かつた。江戸期に再建された本殿や拝殿は文化財的な価値のあるもの。


熊野神社本殿

■探訪記

中世には土地の豪族森氏の居城黒田城がありましたが、明智光秀の丹波攻めによつて落城しました。

熊野神社は黒田城のあつた山中深く、長い石段を登つて行つたところに鎮座します。昼なほ暗く一人で参拝するには恐ろしいやうな神域です。

石段に沿つて細い谷川が流れてをり、その源流の湧き水の泉が手水舎になつてゐます。とても雰囲気のある神社です。

H16.5.25記

一原神社全景

創祀は応永二十五年(一四一八)。旧村社。

御祭神は伊邪那岐神・伊邪那美神。

明治維新までは一原大明神と称してゐたが、明治六年神仏分離の際に御祭神不明のため付近にあつた八幡森に因んで八幡宮と改称した。実は伊邪那岐・伊邪那美ニ柱神の合祀と言ひ伝へられてゐたが、神威を畏れて祀扉を開く者はなかつたのであつた。八幡宮と改称した明治六年四月に狂人が乱行に及んで扉を開放し、初めてご神体が確認されたといふ逸話がある。


一原神社本殿

■探訪記

内林厄神宮の交差点から府道園部平野線を日吉方面に少し行つて右折、陣田川にかかる曽我谷橋を渡つてJR山陰本線の踏切を越え、京都縦貫自動車道の高架をくぐると、曽我谷地区があります。名前の通り、谷間にある集落です。谷の入口に鎮座する一原神社は、明るく清々しい雰囲気のある神社です。

御祭神を明らかにした乱心者の行動は、神のお告げを受けたものでせうか。

H16.5.25記

朝倉神社本殿

永禄十二年(一五六九)勧請、産土神とする。旧村社。

御祭神は天之忍穂耳命(天照大神の御子神)。


朝倉神社御神木

朝倉神社の杉は京都指定の天然記念物である。

樹高30メートル、幹回り9メートルを超え、京都府下でも最大級の杉で、京都の自然200選にも選定されてゐる。


朝倉神社全景

■探訪記

京都縦貫自動車道の園部ICを降りてすぐに朝倉神社は鎮座します。有名な杉を目印にすればすぐわかります。以前ここを訪ねた時に、地元の方に「朝倉神社にはウナギの伝説があり、氏子はウナギを口にしない」と教えてもらつた記憶がありますが、詳細は定かではありません。

鳥居前に一日一組のお客しか取らない隠れ家的なお店「さぶり」があります。

H16.5.25記

日吉神社本殿

天文三年(一五三四)、近江国日吉神社より若宮を勧請し、後西天皇の御宇には宮座六人が奉仕してゐたと記録に見えてゐる。旧指定村社。

御祭神は大山咋命(賀茂別雷神の御父神)。

祭祀の奉仕は代々神宮寺の正福寺の社僧が当たつてゐた。神仏習合の頃は山王山正福寺と称した。正福寺はすぐそばに現存してゐる。


日吉神社全景

■探訪記

京都縦貫自動車道の園部ICを降りてすぐ、府道園部平野線ならば日吉方面の左側の一帯に広がる田園地帯が新堂地区です。

地区の中心にある境内は、陽当たりが良く、明るい雰囲気です。

上の本殿の写真をご覧になれば、昨今の神社建築保存の様子がご理解頂けると思ひます。保存のための覆屋の中に見える流造の建物が本殿です。

H16.5.27記

大国玉神社本殿

創祀は延宝七年(一五七九)。旧村社。

御祭神は大国玉命(大国魂命と同一神)。

棟札に「社僧阿闍梨権大僧都宥養大将軍王宮造立し奉り云々」とあり、古くは大将軍社と称してゐた。


大国玉神社全景

■探訪記

新堂にはもう一つ神社があります。東側の岡田地区にある大国玉神社です。こちらは山腹の森の中に鎮座する神社です。

棟札にある大将軍王宮の「大将軍」とは、陰陽道の太白星に当たり、方位を司る神です。大将軍は素盞鳴尊と同一視されることが多いのですが、大国魂命は素盞鳴尊の曾孫に当たりますので、大将軍王宮としての関連は明らかです。

H16.5.27記

日向神社本殿

天授三年(一三七七)に勧請、産土神とする。旧村社。

御祭神は天照皇大御神。


日向神社全景

■探訪記

瓜生野の一番奥の山麓に日向神社は鎮座します。鳥居のすぐ前は水草の浮く中池で、神社の裏側には宮の谷池があります。鎮守の杜と深緑色の水を湛へた中池とが醸し出す雰囲気は独特のものがあります。

御祭神の天照皇大御神は太陽神にして日本神話の最高神であることは言ふまでもありません。

H16.5.27記

都々古和気神社本殿

景行天皇四十六年勧請と伝へる。旧指定村社。

御祭神は天手力男命。

奥州白川郷から来て当地を開いた田中兵衛公が出生地の氏神都々古別神社の御分霊を拝受し、すでに産土神としてあつた轟神社の末社として祀つたのが始まりであらう。この地は嘉元二年(一三〇四)勧請の熊野神社があつたが、明治に轟神社と熊野神社が合祀した際に轟神社の末社だつた都々古別神社を社名にした。熊野神社は淡路神社と改め、境内神社に奉祀する。東側に神宮寺跡がある。


都々古和気神社全景

■探訪記

創祀はもう少し後代でせう。都々古和気神社の御祭神は味スキ[金且]高彦根命ですが、この神は境内神社の柊神社に奉祀し、御祭神としては元々の産土神の轟神社の天手力男命を奉祀して、末社の御祭神を神社名とした珍しい神社です。轟神社があつた場所は御旅所になつてゐます。今も熊野修験道由来の火渡りの神事が行なはれてゐます。

H16.6.14記

福壽稲荷神社本殿

由緒は不詳。

御祭神は倉稲魂命。


福壽稲荷神社全景

■探訪記

住宅や店舗が並ぶ園部町の中心部、国道9号線沿ひにある本屋さんの駐車場の傍らに鎮座します。美園町の有志で組織された稲荷講が奉祭してゐるお稲荷さんです。本屋さんの二階はレンタルビデオ店、別棟は中古CD・コミックスのお店で、駐車場の一角には可愛いクレープ屋さんもあります。

この場所は園部小学校初代校長の儒者上野盤山の屋敷跡です。

H16.5.31記、10.29追記

春崎稲荷神社本殿

由緒は不詳。

御祭神は倉稲魂命。

園部城内に鎮座する。


春崎稲荷神社全景

■探訪記

園部城のあつた小麦山の中腹に鎮座します。小麦山には城跡の他、町役場・裁判所・検察庁・法務局・高校・小学校・幼稚園・図書館・文化博物館・国際交流会館・女性の館・警察署・中央公民館など、公共施設が集中してゐます。

小麦山全体が町の風致林で、京都の自然200選にも指定されてゐます。今は公園として整備され、散策に適したコースです。

H16.5.31記