天満宮京丹波町新水戸 |
創祀は不詳。 御祭神は菅原道真公。 北に天満山と称するところに祠があり、これを元禄十六年(一七〇三)八月二十五日に村民共同して現在地に遷祀する。 ■探訪記 園部から観音峠を越えて国道9号線を丹波町に降りて行き、最初に右に折れる道を入つた谷間の山裾に鎮座します。 裏山が元の祠があつたといふ天満山でせうか。山の反対側は景勝地の琴滝です。 観音峠は分水嶺で、口丹波地方も観音峠を越えると気候的にもやや寒くなります。 H16.6.12記 |
丹波の神社 |
蒲生八幡宮京丹波町蒲生 |
創祀は不詳。 御祭神は応神天皇・竹内宿彌・倉稲魂命。 現在の社殿は文化年間(一八〇四~一七)に八幡講の講中によつて建立されたと言はれてゐる。 境内には稲荷神社が合祀されてゐる。 ■探訪記 京丹波町の役場にほど近い、国道9号線沿ひに鎮座します。昔はこの辺りは小高い丘陵地で、神域の前には池があつたさうです。その池は現在の役場辺りの土地の水を集めて作られたもので、池畔に農耕の神を祀つたのが祭祀の始まりではないかと言はれてゐます。 一月には盛大に蒲生厄神祭が行なはれて、これには参拝者も多いやうです。 H16.6.12記、H18.10.24追記 |
丹波の神社 |
能満神社京丹波町上野 |
創祀は延慶三年(一三一〇)。 御祭神は事代主命・武甕槌命。 古くより当地の崇敬篤く、享禄四年(一五三一)には須知城主須智左馬守が社殿を修理してゐる。明和四年(一七六七)の現社殿は、これを建てるために延享二年(一七四五)から氏子一人につき毎月一文の積み立てをして、銀八貫七二〇匁を費やして完成したもの。本殿は京都府登録文化財・丹波町指定文化財。甲子歳に鳥居の建て替へを行なひ、最近では昭和五十九年(一九八四)に建て替へた。旧村社。 ■探訪記 美女山山麓に鎮座します。上野・須知・市森・蒲生を氏子圏とし、須知大宮と称されました。現在も五区五百戸近い氏子を擁する神社です。御祭神は事代主命と虚空蔵菩薩でしたが、明治五年の神仏分離で境内社の春日大明神を相座の神としました。本殿周囲は回廊になつてをり、これは大正十三年の鳥居の建て替への時に建てられたものです。例祭では神輿が隔年に北回りと南回りに須知盆地を巡ります。 H16.12.6記 |
丹波の神社 |
須知弁天宮京丹波町須知 |
創祀は天保四年(一八三三)。 御祭神は市杵嶋姫命。 天保四年十月、須知村の前田定右衛門が大阪の梅田庄子徳院より拝領して同家に祀つてゐたが、事情により大正十三年(一九二四)八月六日に現在地に遷座し、その翌日を例祭日とした。以前は周知弁財天市杵嶋姫命とも言つた。 ■探訪記 須知川の瀧見橋の袂に鎮座します。八月七日の弁天祭は、縁日の露店の他、花火大会・演藝大会・よさこい踊りなどが行なはれる丹波町最大の祭に発展しました。今でも弁天祭と呼ぶ人が多いのですが、いつの間にか「たんば夏まつり」と名を変へ、弁天さんのことは祭の情報から一切消し去られてゐるのはどうしたわけでせうか。この付近は豪雨になると須知川が溢れてしばしば浸水します。 H16.12.11記 |
丹波の神社 |
導観稲荷神社京丹波町須知 |
創祀は不詳。 御祭神は倉稲魂命。 古くより茶ノ木山中腹の巌窟に社殿と鳥居を建立して奉祀してゐた。弘化年間(一八四四~四七)に本殿・拝殿兼用の社殿に改築した。大正九年、境内地を整備して現在地に本殿・拝殿を新築し、翌大正十年五月五日遷座祭を行なひ、以後同日を例祭日と定めた。養蚕に御神威が顕著と言ひ、養蚕家の崇敬が篤く、山腹に鎮座の頃は籠り舎を建てて遠隔の崇敬者が夜を徹して祈願したと伝へる。 ■探訪記 須知の旧街道沿ひの茶ノ木山山麓に鎮座します。須知区に三百戸の氏子を擁する、丹波では立派なお稲荷さんです。宮係の方に伺つたところ、今も山中に奥の宮が鎮座し、奉祀は続けられてゐるさうです。本殿右に参道口があり、奥の宮まで男の足で十五分ほどといふことでした。導観稲荷といふ名称は、篠山藩に伝はる「負けきらひ稲荷」の力士一行(正体は御狐様か)の一人、須知山導観に由来します。 H16.12.14記 |
丹波の神社 |
何鹿神社京丹波町曾根 |
創祀は不詳。 御祭神は大山祇命・品陀別命・彦狹知命。 天武十二年(六八三)にすでに社があつたと伝へるので、創祀はそれより遡る。当初、出石鹿[山石]部(イヅシカイソベ)神社と称してゐた。何鹿(イヅシカ)は清い水の川の畔の意といふ。創祀時の御祭神と思はれる彦狹知命は紀伊忌部氏の祖で、京都府下では当社だけが祀る。創祀時に紀伊忌部氏が関はつてゐたと推測される。境内神社は春日神社・大原神社及び神宮宮城神殿遥拝所。延喜式内社。郷社。 ■探訪記 曾根川の畔に鎮座します。神宮寺の浄光寺は上流の安井にあり、元の鎮座地とも言はれ、今も何鹿神像を祀る小社殿が残ります(塩田谷の弁奈貴神社を奥宮とする説もあり)。山内荘の一宮と称し、古くは山内荘の七社の神輿が集まり祭礼を行なひました。平成十一年に本殿が不審火により全焼。奇跡的に御神体は焼失を免れ、氏子一戸に月二千円の積立てをして工費を拠出し、二年後に社殿を再建しました。 H16.12.22記 |
丹波の神社 |
稲荷神社京丹波町曾根 |
創祀は不詳。 御祭神は倉稲魂命。 ■探訪記 丹波町役場から丹波自然運動公園を西側に越えたところ、曾根川の畔に面した公園とつながる丘の中腹に鎮座します。すぐそばに何鹿神社が鎮座してゐます。丹波自然運動公園は野球場・陸上競技場・テニスコート・ゲートボール場・体育館・プール・アスレチック・天文館・宿泊施設などを備へ、ピクニック道もあり、家族連れがお弁当を持つて遊びに行くのに適した公園です。 H16.12.30記 |
丹波の神社 |
稲荷神社京丹波町曾根 |
創祀は不詳。 御祭神は倉稲魂命。 ■探訪記 何鹿神社そばの曾根川橋を渡り、豊田方向に数百メートル行つたところに鎮座します。田んぼの中にある杜叢の杉や雑木の年代はまだ若いものでしたが、密集してゐて面白い雰囲気がありました。 昨年秋の台風の影響でせうか、柵が倒れたままになつてゐました。 H17.1.20記 |
丹波の神社 |
岩山神社京丹波町塩田谷 |
創祀は延暦十二年(七八二)。 御祭神は大己貴命。延喜式内弁奈貴神社。旧村社。 古くは屋船久々遅命が祀られてゐたと伝へる。社殿の裏にヘナギ(弁奈貴)岩があり、ヘナギ岩の上に祀られてゐたが、天正年間に兵火によつて消失。元和四年(一六一八)再建、その後火災のため、享保七年(一七二二)現在地に遷座した。 岩山大権現として祀られてゐたが、神仏分離により仏像や僧社が廃され、この時、社名も弁奈貴神社から岩山神社に変へられた。 ■探訪記 何鹿神社から曾根川を遡つて行き、塩田谷の集落の一番奥の字岩山に鎮座します。安井と塩田谷の氏神です。右側に杉の巨木が聳える一の鳥居、社務所、二の鳥居があり、コンクリートの参道を上がると舞殿があり、さらに階段で社殿に昇ります。社殿の周囲には宝物庫があり、摂社が鎮座します。 社殿の裏にヘナギ岩が鎮座し、塩田谷には弁奈貴といふ字名が残つてゐます。 古くは岩山神社が上の宮(奥宮)、何鹿神社が下の宮と言はれたとも伝へます。二の鳥居には奥宮岩山神社の扁額があります。 この辺りは旧亀山藩領で、亀山城主が数代に亙つて三石四斗の社頭地を寄付したといふことです。 曾根川上流の安井集落を越えると、板坂トンネルを抜けて篠山市に入ります。 H18.10.18記 |
丹波の神社 |
八幡神社京丹波町塩田谷 |
創祀は不詳。 御祭神は誉田別命。 ■探訪記 塩田谷の観音寺の道路脇の傾斜地に鎮座します。 近くで農作業をしてゐた御老人に尋ねたところ、八幡さんといふことでした。また、右側の摂社は琴平さんといふことです。昔から地域でお祀りしてゐるさうです。 H18.10.23記 |
丹波の神社 |
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