第1回 やって来た過去
「過去」は向こうから手を振ってやって来た。平成20年11月16日。京都駅のホテル・グランヴィア、園部高校の同窓会「八桜会」に招待された。この会は第8回卒業生の集まりで、私が3年半在職した期間のうち、まるまる3年間ご縁のあった学年である。
華やかなピンクの服で受け付けに行くと、「何組でした?」と聞いてくれた。お愛想だったかも知れないが、私は78歳。生徒らも70歳を超えているはず。担任の先生方も老齢で、他界した方もあり、副担任だった私まで呼んでくれた。ただひとり、塩貝先生がお元気で、中央のテーブルに着かれた。男性は白髪が目立つが、人生の重みに満ち、女性は年齢不明。それぞれに魅力的だった。
胸に名札はあるが、わっと現われた過去に戸惑い、名前と顔がしっかり合致しない。落ち着いて、落ち着いて、と言い聞かせながら、声のトーン、表情に全神経を集める。「先生、きつかったなぁ。作文はいつも『3』やった。赤ペンで、むちゃくちゃ直された。」「僕は一度だけ『4』をもろた。」「皮肉がすごかったなぁ。」などと次々。霧が次第に薄れて行くように、過去が近づいて来る。
暗誦させたという藤村の『初恋』を、今なお、よどみなく言ってくれる人もある。教える方も青春、教えられる方も思春期前期の、感じやすい年ごろ。若さゆえに許されることもある。生徒の作文を、どんな基準で添削し、評価していたのか。その自信のほどに、われながらあきれ、顔が赤らむ思いであった。
- うたた寝の夢にこぼれし半世紀 笑み来る顔と名が繋がらぬ
- 生徒語るわたしは若く自信家で全く覚えのないわたくしで
- 水たまり跳んで忘れた二十五歳(にじゅうご)の服の模様を誰か教へよ
更新日 平成21年2月26日
第2回 霧の溜り
芭蕉の『奥の細道』に、「そぞろ神の物に憑(つ)きて心を狂はせ、道祖神の招きに合ひて、取るもの手に付かず。」という件(くだり)がある。11月16日に園部高校の同窓会に招待されてからというもの、園部への思いしきりで、12月4日、小春日和を頼みにして、山陰線に飛び乗った。残りの紅葉の中を保津川が流れる。車窓の右になったり左になったりする。清流を縫いながら電車は走る。
私が勤務していた50年前は汽車なので、トンネルのたびに煙が入るから、上下開閉の窓を降ろす。開け放しのデッキに立つと、振り落とされそうな保津峡であった。窓に目を凝らし思いにふけるうちに、亀岡盆地に入った。深い霧の溜りで、電車は徐行しはじめた。「丹波の霧だ」。畑中の向日葵の残骸が、白い霧の中をゆっくり横切ってゆく。
心の底に深く溜めてあった無意識の世界に、一瞬沈みこんだ感じである。八木に着く前には、すっかり霧は消えていて、若き日の風景の真っただ中に浮かび上がった、不思議な感覚だった。亀岡までは30分だったが、園部はやはり遙かで遠かった。
- 保津峡は残(のこ)んの紅葉 急流を左右に変へて列車縫ひゆく
- 末枯(すが)れたる向日葵の群れ首たれて霧の車窓をゆるくよぎれり
- 霧の盆地突き切りて列車浮び出る若き日の景の真つただなかへ
更新日 平成21年3月12日
第3回 点描の町
霧の亀岡盆地に隔てられ、電車は15分延着した。ホームは高架になり、駅舎は白くスマートになった。しかも、以前は裏だったところが表になっていて、改札で切符を通し、広い階段を下りた。東の山の上は、「そのべ」と町名が浮き上がるように植え込みが刈られ、セレモニーホールの看板が上がっている。いずこも、老齢化、簡易化が著しいようだ。
以前、正面だった東側はさびれている。表と裏が逆転したため、過去の記憶の地図は、なかなか納まらない。汽車を降り、ホームに続く改札は木柵で、駅員が居て、定期券を見、切符を受け取る。先代の校長は人格者だったとか、新任のある教員はそそっかしいとかの批評さえなされたとか……である。
通り抜けると広場があり、須知行きのバスなどと並んで、小型の町内バスが待ち受けている。中・高年の教員はそれに乗り込む。大抵の場合、ぎゅうぎゅう詰め。生徒や若さを誇る教員は、線路を越えて20分の山道を目指すのが常であった。
- 空も人もあるやうでない過去の町 点描の点・点とさびしい
スーラやシニャックなどの新印象主義の画家たちは、種々の色彩の小さな点々で風景や人物を表現している。絵の具をパレットで混ぜると色が濁るので、じかにカンバスの上に置き、視覚による混合化をねらったという。
着いたのが10時すぎ。降りた人も少なく、いつか散ってしまった。明るい駅前は車もいず、がらんとしていた。目を凝らしても、ただ実体のない点々ばかり。過去とは、こんなにさびしいものであろうか。
更新日 平成21年3月28日
第4回 栗の甘さ
50年前の記憶が不安で、園部駅で妹に待ってもらっていた。この近くに嫁した妹である。高等学校へ行くには、山、川、町の3コースがあったが、この日は、バスも通る町コースを行くことにした。
新町や本町と言い賑わっていた町並みは、思っていたよりも広く、整理された感じだった。秋には松茸が溢れていた八百屋。珍しいとも思わず、買い求めることもなかったが、そんな店も見当たらない。初めての担任の1年6組(昭和30年)にK君がいた。母親を亡くし、父は食堂を経営していた。おとなしくて可愛い子だった。一番寄りたかったその家もない。三亀楼はお決まりの宴会の場。その前の合羽屋は、暖簾を外していたが、しっかり存在した。
- 新任の英語教師の下宿せし御宿合羽屋暖簾外して
京大でD・H・ローレンス(『チャタレイ夫人の恋人』で有名な)を専攻していたとか聞いたY先生とは、よくこの前で手を振って別れた。今日は家で勉強すると言って、薄暗い旅館の玄関に消えて行った。
色白でおとなしく、「お豆腐のような人よ。」と私は言ったりしていたが、なにかういういしい人だった。校歌「みどり濃き古城のほとり」の作詞は、京大の英文学中西信太郎博士によるもので、その縁もあって赴任したのだろうか。
黒田蒲団店、靴のミヤモトも無く、上本町で犬石書店を発見。ここにも担任したS子さんがいたが、もうどこかに嫁して、いいお母さんになっていることだろう。更に左に折れると銘菓のくり屋があった。
- あの人も亡くこの人も無い町の栗の甘さが口に広がる
更新日 平成21年4月11日
第5回 城門の坂
- 夢にいつもひらく古(ふる)地図 坂のぼり城門なりし校門見上げる
- 生徒らの逃げて寝に行きし小向山草木刈られて隠れ処(ど)もなき
中央の幅の広い石段は避けて、城門の左右にある坂の右側を上る。過去にしていた通りに足が向く。足裏が覚えていた傾斜よりも、やや急に感じられた。足の衰えであろうか。
アルバムにある卒業式は、この坂いっぱいに300名近い卒業生が並んでいる。前列の椅子に担任団と主だった教員が座る。その他は、その後ろか、思い思いの左右に立つ。ルーペで捜しても、自分がなかなか見付からない。にぎやかなあのざわめきの夢の跡である。
そおっと校門をくぐり侵入すると、思った通り事務所の窓が開き声が掛かった。むか〜し、むかし、ここに勤めていた者です、と説明し、しばらく校内を歩かせてもらう。追い掛けて走って来られたのは事務長さん。120周年の記念式典の冊子と、緑色のタオルを下さる。「みどり濃き古城のほとり」の校歌の緑色である。持って来た「八桜会」の写真を見てもらうと、ああと頷いて、Uさん、Nさんの名を挙げられた。二人とも同窓会の支部長である。仕事熱心な事務長さんだ。
白っぽくスマートな校舎になっている。本館から渡り廊下で繋がっていた南側の二階建ての普通教室、木造だったあの校舎のあたりが、特になつかしい。私の足跡が残っていてもよさそうな場所である。
期末テスト中とのことで、校内は放課後の静かさ。出会った生徒はみな、大声で、「今日は」と挨拶してくれた。今は中学が併設されていて、地域では人気の進学校であるとか。その中学生だったのだろうか、幼くて明るい声だった。
更新日 平成21年4月26日
第6回 公孫樹
- 公孫樹(こうそんじゅ)すでに散り敷き見上げたる人らすべてを忘れただらう
- 黄葉を詰め込みてある焼却炉過去はポテトチップスよりも軽くて
学校のシンボルの公孫樹は、校内の裏庭にある。「銀杏」とも、「鴨脚樹(ヤーチャオ)」(中国音)とも辞書にあるが、どっしりした古木には、「公孫樹」が合う。園部高校には、『公孫樹』という年刊誌があり、研究・論文・文芸など取り混ぜて発表された。表紙には、人見少華先生の水墨画が描かれ、題字は谷辺橘南先生の枯れた名筆である。三年半在職した私の手もとには、今も4冊がある。
平成20年12月4日、十数年ぶりにその樹の下に立った。転勤して50年だが、一度旧職員の会があって、その時の校長が校内を案内してくれた。季節は初夏だったので、黄葉を見るのは半世紀ぶりでもある。小春の暖かい日であったが、すっかり散り敷き、裸木だったので、余計に樹形がきわやかだった。広げた枝に欠けた部分があり、老樹の感がした。中国の老賢者のように思慮深く、哲学的だった。
この樹の育った城跡は、高等小学校・高等女学校・中学校となり、昭和23年4月に新制の高等学校になった。さまざまな思いで見上げた生徒達・教員・父兄は数限りない。私のいた昭和27年から31年までを共にした人達の中にも、この世で会えない人もある。
この樹自身もすっかり葉を払って、過去のすべてを忘却したことであろう。老樹の放心と喪失感をしみじみ味わいながら佇んでいた。
更新日 平成21年5月10日
第7回 峠越えの道
校門の右横の角櫓(すみやぐら)の下はテニスコートで、昼休みなど、Y校長の明るい笑い声とともに、冴えた球の音がしていた。「すべて世は事もなし」の時が流れていた。
帰りは峠を越えて駅に出る山コースを取ることにした。四、五人、制服姿の女子生徒がこちら向きに来る。その距離感から、昔の峠道の入り口が見えてくるのだが、竹薮が無い。住宅街の角の家の庭に、ひと囲みの竹の集まりがあるばかり。50年前、夏は木漏れ日の下を抜け、冬はみぞれ雪を踏んで、5分ばかりも歩いたような気がする。整備された住宅街の歩道を行くと、一筋の道路を隔てて学校らしいものが見える。附属幼稚園を角にし、堂々と塀をめぐらせた聖カタリナ学園がある。昔は、聖家族女子高と言って、小さな正門の中に、ひと並びの白い校舎があった。山蔭なのでさびしい高校だったのに、一瞬、どう道を取ればいいのかと迷うほどだった。
そこを過ぎると、町営住宅などが建ち始めていた所のはずだが、一軒も無く、小さな喫茶店があった。そこでコーヒータイムにした。何時の電車ですかと聞いてから、ゆっくり立ててくれた。私が退職したあとの昭和34年くらいから、この地に住んだと言う。前の道は、以前より広くなっていた。
思い出のこの道は、学校へ続くまぼろしの廊下のようで、多くの足が見えてくる。大股に追い越して行った男子生徒。近寄って挨拶してくれた女子生徒。さりげなく並んで、話がはずんだ人。日記にも、この道で親しんだ生徒達の名が記してある。
京都から通勤していた教員たちは、大抵同じ汽車で行き来していたが、ある日一人残されて、どうしようかと思ったが、思い切って暗闇を越えたこともあった。靴がすり減らないように、静かに上手に歩く物理のM先生はユニークな人だった。中京も衣棚通り、僧衣を作る旧家の息子ということだった。
峠を下って、駅が見えてくるころ、右側はやっと見覚えのある、円いなだらかな丘の形になった。初冬の枯れ枯れの雑草にも、声を掛けたい思いだった。
- 大股の脚、学帽のかげの笑み過去はさざめきよぎりゆくかな
- 五十年萌え継ぎて来し雑草(あらくさ)の丘の斜面(なだり)に園部駅見ゆ
- ただひとり歩かむと来しただひとりの耳を初冬の風吹き過ぐる
更新日 平成21年5月26日
第8回 さん付けと君付け
「八桜会」(園部高校第8回卒業生の同窓会)の受付けで、まず聞いたのは、N君の欠席だった。楽しみにしていたのに、急に体調が悪くなったと言う。
N君、顔は浮かばないのだが、名前は確かに覚えている。名簿の住所を見て、翌日、はがきを出した。石川道子(旧姓中村)と記して。
しばらくして、長い手紙が来た。このはがきが、過去に国語を教えた私のものだと、辿り着くのに相当の時間が掛かったと言う。1組から6組まで、旧姓中村、新姓石川の欄を、幾度も繰り返し調べ、最後に押入れの奥から卒業アルバムを出してきて、やっと気が付いたと、喜んでくれた。そして、「我々が園高を卒業したのが昭和31年(1956)ですから、もう半世紀以上が経つのですね。後で考えたら、お便りの文面をよく読めば、女性から男性に君付けで書かれていたので気づくべきでした。今と違って当時は同級の女学生から、君付けで呼ばれたことはなかったのですからね」と、結ばれている。
何と言う細やかな言語感覚であろう。実は私もN君を君付けで呼んだことはなかったのだった。朦朧としてもどかしい50年前を憶い出そうと、過去を詰め込んだボール箱から、園部時代の日記を捜し出した。昭和29年10月27日のところに、「教えていない人は、だんだん縁が遠くなる。」と書き、「Nさんなど、とてもいい人だった。」と、ちまちました文字だが、みんな「さん」付けで記してあった。
何時から私は、男生徒を君付けで呼ぶようになったのだろう。上から生徒を見おろすことが普通になった私の、君付けではなかったか。人間として同じ線上に立っていた園部のころは、私の人生の貴重な、短い一時代であったのだ。
- かき昏れて風に乱れる春の雪の離合集散のただなか歩く
更新日 平成21年6月11日
第9回 転任のいきさつ
園部高校から話があったのは、鳥取に就職を決めた直後であった。国語科主任のY先生が家まで来て、是非にと言ってくれたが、先に決めた高校に迷惑が掛かると、母校の先生は反対した。泣きの涙で鳥取に赴任したが、意外や、豊かな人間関係に恵まれた。砂丘の上にぽつんとある、分校のような高校で、2階の教室からは、荒れた日、打ち上がる波頭が見えたりした。しぃーんと音がしているような町だった。
1年半たった頃、再び園部高校から話があった。都会育ちの私は、いつか京都へ帰りたく思っていたので、この機会は逃したくなかったのだが、この時はまた、鳥取の生徒と引き裂かれる思いで、泣きの涙であった。
園部高校では、どうした訳か、いつかのあのY先生が、亀岡へ転任していた。なぜか、校長は、あなたはY先生の代わりではないと念を押した。
その理由はすぐに分かった。生徒たちが、ある日突然、集会を開き、昼休みから5限に及んだ。授業もボイコットのすさまじさであった。運動会の夜のファイア‐ストームの要求もあったらしいが、転任したY先生と同等の学力の国語の先生を要求していたのだ。
あなたに責任はないと慰められながら、私は、とんでもない時にここに来たものだ、と思った。Y先生と同等の学力――。彼は京大を出て50歳の手前、出版社から生徒用の学習指導書(いわゆるサボ)などの執筆も依頼される円熟期、物やわらかで深みのある人だった。
学校も危機なのだが、当面、私はこの危機を一身に引き受けてどう越えればいいのか、ただ、勉強するしかなかった。
- みづみづと背伸びしてゐる樹々の影 五限の教案成らぬ窓辺に
- 遠街(ゑんがい)に放たれ遊ぶひとを言ひ机離れぬわれをあはれむ
社会のY先生、僧侶なので通称坊さんは、近くの座席であったのだが、「かわいそうやなあ。」と、よく言葉を掛けてくれたものだ。
更新日 平成21年6月25日
第10回 汽車
園部高校への転勤が決まった時、Y校長は言った。京都市内からの通勤は、時間がかかり厳しいので、くれぐれも体に無理がないようにと。1日24時間のうち、睡眠に7時間取ると残り17時間。そのうち通勤に往復5時間は見ておかねばならない。すると残りは12時間になる。
ディーゼル車が走る前の山陰線は本数が少なく、8時30分の始業に間に合うためには、6時45分ごろの二条駅発に乗らねばならない。6時過ぎに智恵光院通りの家から、寺之内通りを西へ走る。途中、一本杉という鉄工所があって、いつも犬を放している。走る私に付きまとい吠え立てる。母が頼んで繋いでもらう始末。1秒でも大切だ。千本通りで市電に乗る。南下して二条駅で降り、ホームまで走る。
冬は暁の星を頂き、夕べの星を見上げながら帰るのだが、6時45分の汽車に間に合わねば、私の一日が無になる。伸ばした指先5センチで発車してしまうことも幾度か。その悔しさと言ったらない。忘れもしない、園部51番へ、公衆電話から連絡する。
菱山修三の「夜明け」という詩に、「私は遅刻する。世の中の鐘が鳴ってしまったあとで、私は到着する。私は既に負傷してゐる。……」を何時も思った。年刊誌『公孫樹』(1945年)に、こんな詩を発表していた。
「汽車」
霧を押しわけて汽笛が鳴る
ひきつった秒針
伸び切った指先一ぱいを巨体は逃げる
爆音が正確にひく距離
とれない重心によろめきながら
機械の力を超そうともがいた
意志
破れた信号旗が思いきり振られて
下りた遮断機に空しく足が浮く
更新日 平成21年7月10日