南丹生活

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第11回 童(わらべ)たのしも

  • 紅紫色(こうししょく)のコート白髪の教へ子が高く応へるわれの振る手に
  • 教へ子か恋の相手か分からぬまで肩抱(いだ)かれぬ再会の朝

 奈良近鉄百貨店の北出口に、背の高いU君は来てくれた。50年前の教え子の名と顔が一致しない、と嘆いたら、自分のアルバムを、わざわざ西大寺まで持って来てくれたのだ。

 彼が高校3年の時、国語を教えていて、特によく話し掛けてくれたので、日記のあちこちにU君のことが書いてある。面倒見がよくて、自分のことが後まわしになる。もっと自分の才能を伸ばすことを優先すればいいのに、だとかも書かれてあったが、今の彼も相変わらずだ。しかし、随筆家として大成していて、私の心配は杞憂であった。

 アルバムのU君は、何とも可愛い顔をしていた。私が覚えていたのは、背が高くて、どこか芸術的、個性的な生徒だったという処までである。50年ぶりの同窓会で出会って、私の出した作文の宿題、「匙なめて童たのもし夏氷」のことを話しはじめ、「童たのしも」ではないかと僕が言ったこと、覚えていますか、と問い掛けられた。「覚えていますとも。」と私は答えた。私は山口誓子の句が好きで、よく句集の拾い読みをしていたが、この句を読んでいて、ふと誰かが、「たのもし」でなく、「たのしも」ですよと言ってくれたことを思い出した。その誰かがU君だったのだ。

 彼はこの宿題で「5」の評価を私から貰ったと言う。また、ハムレットとドン・キホーテ型の人間のどちらに自分は当たるか、という作文も書かせ、彼はハム・ドンそれぞれ4分6分かと書き、これも最高点に近かったと語ってくれた。新米教師の誤りを、さりげなく注意してくれたのだ。あの頃(昭和30年頃)の高校生は紳士だった。

 第8回卒業生の同窓会に招かれてからというもの、私の園部熱に火が点いたが、アルバムを見て、ますます熱病のようになった。だが、それは想像の世界に広がる、楽しい熱病であり、涸渇した脳に夢を与えてくれた。ホームページ「南丹生活」に書かせていただく契機ともなったのだ。

更新日 平成21年7月26日

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第12回 取れたボタン

 園部高校創立120周年記念誌『公孫樹』には、卒業生の文章が多く載せられていた。夢中で読んだ中に、童話作家になったHさんの「みずうみ」という一文があった。

 私の在職中の同僚のひとりの思い出が書いてあった。「非常勤だったH先生はいつもカーキ色の国民服を着ておられた。戦後10年も経たない頃ではあったが、かなり個性的な装いといえた。研究のため全国の湖を回られるので、収入のすべてをそれに費やされるから、という噂だった。」とあり、先生から「全国の大小すべての湖沼の面積測定」をするという仕事のアルバイトをさせてもらっていたこと。その間に、人生の悩みを聞いてもらい、「人の生きる意味」を尋ねると、「私自身は、それが宿命だからと考えています。」と答えられたことなどが書かれていた。

 自分の研究に没頭している細い目、短い頭髪のH先生が、ありありと思い出された。「学校要覧」には、26才、東京文理大出身とある。当時の教員数は40名、そのうち20代が半分で、既婚者はそのうちの9名、どこか落ち着きがあり、23才の私には、若いという感じはなかった。11名の独身者は、ふとすればカップルになってもおかしくない雰囲気で、周りにも温かいお節介屋とでも言う人がいた。

 H先生の国民服であるが、ある日、そのお節介屋が、「ボタンが取れてるし、付けてあげなさい。」と言う。帰るのを追い掛けて、「よかったらボタン付けましょうか。」と言ったら、「いいです。自分で付けます。」と言われた。自分の発案でもなかったので、余計恥ずかしいやら何やらで、玄関でくちゃくちゃになった。

 又、何のはずみか、職員室の真ん中で、白樺派だの新感覚派だのを振りまわして、小一時間も声高に雑談した。傍にいた国語のM先生が、「あんたたち、ようも次々と話が続くなぁ。」とあきれて言われた。私の知識のかけらのような文学でなく、彼はもっと人生の深みの思索をめぐらしていたのだろう。

 園部映画館で『二十四の瞳』を全校鑑賞した折、隣席でしきりに涙をぬぐっておられたことが日記に残っていた。知的な人なのに不思議だったのだろう。

 京都大学理学部古陸水学の教授として、ひと筋に生きられた――とHさんの文で知った。

  • あはあはとわが傍らを過ぎしひとの清(すが)しき目見(まみ)に逢ふ世あらむや

更新日 平成21年8月15日

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第13回 蕺草(どくだみ)の白い目

 5月、田に水が張られると、家の南塀のすぐ際が湖のようになり、テラスにも水かげろうのような柔かい光が射してくる。まるで浮巣の上に棲んでいる気分で、この頃が、私の一番好きな季節である。

『徒然草』の19段の「折節の移り変はるこそ物ごとにあはれなれ」は、日本文学の自然観を総まとめにしたような段で、よく生徒にも暗誦させた。そこに、「灌仏のころ、祭のころ、若葉の梢すずしげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ、と人の仰せられしこそ、げにさるものなれ。」とある、その季節にあたる。

 野の草の茂みに蕺草(どくだみ)の花が咲きはじめる。薄くらがりに白い十字の花がはびこり、じっとこちらを見詰めているように思う。庭にもはびこり、抜こうとするが根が深く、途中でちぎれる。だから翌年はまたはびこる。抜いても抜いても、まだその奥から見詰める白い目がある。抜いた右手はひどく臭う。執念ぶかい、どこか性を感じさせるにおいである。

 園部高校で教えていた生徒らも70歳を越えたが、早世した人達も幾人かいる。第8回卒業生の物故者も30名近い。K君は大柄で、色白で、いつも女の子のように優しい笑顔だった。F君は名だけはしっかり覚えていた秀才だったが、顔は思い出せない。U君がわざわざ卒業アルバムを貸してくれた。厳しい顔立ちで、少し横を向いた眼鏡の目が見開かれていた。どうして、そんなに早く逝ってしまったの、と呼び掛けずにはいられない。

 蕺草の目に見詰められるこの頃は、何度も呼び掛ける。手擦れしたU君のアルバムを、まだ返すことができずにいる。

  • 草刈れば蕺草(どくだみ)にほふ思ひ出の切なきままに人は死ぬるか
  • 遠い日がこんなに近い蕺草を抜きたる右手いつまでもにほひ
  • 身めぐりの水位上がれる夜を裂きて けり、ける、けれと過去へ鳴く鳧(けり)

更新日 平成21年8月25日

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第14回 ふたりっきり

 昭和28年6月、京都府立高校の研究集会で、修学院離宮の見学があった。梅雨期だったので、遠望する山々が、色紙の雲型のように縹色(はなだいろ)に浮かび、愛宕山まで見えた。壮大な離宮だった。帰りは園部の5人だけで八瀬の平八に寄り昼食。高野川の急流を背にN先生とふたりで写してもらった1枚がある。大きな岩に手を掛けたN先生。私は岩にもたれて笑っている。

 そのあと出町柳に出て、下鴨神社に参詣したまではよかったが、気が付くと皆の姿が一斉に消え、ふたりが取り残されていた。N先生は2歳年上の独身。ふたりだけにしてやろう、という例の温かいお節介だと気付いた。私は男女共学で育たず、若い男性とふたりっきりは苦手だった。でも、N先生は気楽で優しく、どちらも国語科の未熟者だったから、兄妹のように仲が良かった。

 彼は演技部の顧問で、放課後遅くまで講堂の舞台を使って演技指導をしていた。私にも意見を求めることがあって、「そこは、持っているタオルを叩きつけなくっちゃ。」などと好き勝手を言ったりしていた。どの年だったか、文化祭で演じた『夕鶴』は、なかなかのものだった。創立120年記念誌『公孫樹』にも、つうが織った布を与ひょうが売る場面が出ていて、なつかしい。

 N先生はなかなかお洒落で、当時としては珍しい絹のスカーフを、春のコートに合わせて巻いたりしていた。間もなく、小柄の可愛い人と結婚、和知の駅前の自宅で披露してくれた。生まれた男の子の名も相談してくれた。

 文通も続き、こんな手紙が残っている。「智規(とものり)は27歳です。だから27年前には先生と一緒に園部にいたわけです。自分の子の、しかも初めての子に名前を付けるということは、嬉しいような恥ずかしいような、なんだか照れくさいような、何とも言えない気持ちのするものだということを、あの時つくづくと思いました。職員室で先生に相談した時の初々しい感覚を思い出すと、今でも恥ずかしくなります。」とある。

 昭和57年頃の手紙であるが、その後、心臓を悪くして、1年近く休職。胸に埋めたペースメーカーの音は、啄木の「凩よりもさびしきその音」でなく、むしろユーモラスです、ともあった。園部から、早くに姫路に移り、進学校の琴が丘高校に勤めていた。「今までは傷ついた心臓をかばって、ややもすれば『外野の芝生にころがるボール』みたいな僕でしたが、生と死の角を幾度も曲がってきて、これからは、もっと内野で勝敗をきめようと思うようになりました。」と、翌年の手紙には書いてある。

 一度姫路で会いたいと思っていたが、それから間なく逝かれた。定年にも達しない若さだったと思う。もう、あの角のない柔らかい文字の手紙は、来ることがない。

  • 書写山のケーブルより見る姫路の街すでに君無く空晴れわたる
  • 高野川 瀬の音高く流れ去りわが手に残る白き手紙は

更新日 平成21年9月10日

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第15回 かきつばた

 園部高校第8回卒業のT子さんは、私が顧問の文芸部の所属で、面長で古風な顔立ち、おっとりした人だった。結婚後、思いがけなく私の近くの船岡山の麓に住むようになった。夫は大学の先生。舅は、若くに連れ合いを亡くし、男手ひとつで子供2人を育てた人だった。だから、どこか姑的で、T子さんも柴漬けの漬け込みから教え込まれた。常に理想的な主婦であろうとし、洗濯物の乾くのを喜び、料理の手間を惜しまない人だった。

 夫の勧めで、短歌、書道にも励んでいた。私が結社「惠風」に誘い、短歌はめきめき上達した。1女2男に恵まれ、幼い3人を連れて遊びに来てくれた。夫の帰宅までの夜の1時間ほどであることも多く、手作りの柴漬けを刻んで、お土産にくれた。舅から伝えられた味は、市販のものとは違う素朴で深い味わいだった。

 子供たちも立派に成長し、長く仕えて、看病も十分にした舅も逝き、これから自由になるというときに、アルツハイマー病が発症した。治療によい方法が見出せぬまま、今は静かに病臥し、夫から懸命の看病を受けている。幸せな人である。

 私が奈良に転宅してからというもの、いつも気になりながらお見舞いもせず、今に至っている。長く身近であったので、一番忘れられない教え子である。

 元気で家事にいそしみ、その折々の心の照りかげりを、繊細に捉えた短歌が積み上げられていた。それを夫が整理して、『かきつばた』と題する歌集を編んだ。題名は「からごろも着つつなれにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」の、伊勢物語の在原業平の歌から取ったという。幼なじみから結婚に至った思いを、「はるばる来ぬる旅」に込めたものだと、夫は言うが、T子さんの好きな紫の花でもあるそうだ。幼なかったT子が、園部の家の前に乱舞する赤トンボを追っていた情景を懐かしく思い出すという。中味も、実に行き届いた選歌で、注釈も詳しい。夫の愛情の結晶に、誰もが心打たれるものとなっている。

  • となり家のつるべの音のからからと朝餉の支度はじまりしかも
  • 向こう家の苔むす屋根に雀来て飛びつ駆けつ遊びけるかも

 「この2首だけは何かしら私の脳裡に今も存在しているのです。」とT子は書き、短歌との不思議な縁に引かれて作り続けたようだ。

  • 白萩のこぼれて咲ける静けさに訪はぬ実家の誰れかれおもふ
  • 一夜酢の匂ふ指先ほのぼのと祭りを迎ふときめき醸す
  • 一隅を常うづめゐる母の座の嗚咽のあとを子は知らざりき
  • 小半日陽にあづけゐし干し物を嬰児のごとく腕(かいな)に抱(いだ)く

更新日 平成21年9月25日

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第16回 屋根の上のサワン

  府立高校の国語研究会大会の会場が園部に決まった。これはひとえに、国語の授業に様々な試みをしているM先生がいるからだ――と、一同は恨んだ。なぜなら、それぞれが研究授業を提供しなければならないからだ。

 A先生は漢文、K先生は枕草子、N先生は文法、やっぱりM先生はグループ学習を取り入れた源氏物語、そして私は、何と大それた、井伏鱒二の短編小説『屋根の上のサワン』の最終の1時間、主題に迫る部分を選んだ。グループごとにまとめさせて置いた主題(100字)をプリントし、ディスカッションさせるのが、この1時間である。

 昭和29年度(第9回卒業生)の1年生のある講座は、活発に発言する生徒が揃っていた。教壇に立って挨拶が済み、後ろを見ると、私の授業案を開いてぎっしり並んだ他校の先生がいる。その時である。最前列の真ん中にいたK君が立ち上がり、前かがみに体を寄せて、「先生、今日、僕、何も言いませんから。」と囁いた。それでなくても上っていた私は、更に上ってしまった。それからは何をどうしたのか、定かには覚えていない。K君はそう言いながらも、結構発言してくれたのだったが。

 授業後の反省会にも、指導主事から酷評をいただき、記念写真には、鬱々とした顔である。M先生は、「サワンはどこへ行ったのでしょう……と何度もあなたは教壇を行ったり来たりしていたなぁ。」と、両腕をかかえてさまよい歩く私の真似をした。それこそ、「私はどこへ行ったのでしょう。」とさまよっていたに違いない。

 それ以後、『屋根の上のサワン』は、私のコンプレックスの核にあって、読んだことはない。又、研究授業もしかり。逃げまわって、40年間教員をした。

 サワンと名付けて可愛がっていた雁が、秋の夜、屋根の上で仲間と鳴き交わし、飛び去ってしまう。トタンのひさしの上に1本の胸毛が、朝の微風にそよいでいた。その光景だけが、今も私の目にそよいでいる。

  • 歪みたる板書の文字(もんじ)一点もおろそかならず写されてゐる
  • 生徒らの後ろより見れば教壇といふ独壇場のしだいにさびし
  • 五指の夢のひとつ教師を生きしのみ二生、三生あるものならば

更新日 平成21年10月10日

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第17回 母の縫った服

 平成20年11月16日の「八桜会」(園部高校第8回卒業生同窓会)の世話役だったIさんは、シンプルなワンピース姿だった。臙脂の地に黒の抽象的な模様で、晴れの会に適当な服がなく、タンスの底から捜し出したものだと言う。背から肩のふくらみが、ぴったり身に合って、袖付けの線がほれぼれするほど美しかった。今は亡き、母が縫ってくれた1枚だとのことである。愛しい娘の姿を目で撫で、手で撫でながら仕立てた服だった。母上は若松町で洋服仕立ての店を開いていて、同級生にもお得意さんが多かったそうだ。

 Iさんは私が顧問の文芸部に所属していた。昭和31年3月の、卒業記念のクラブ写真がアルバムにある。前列中央の私の右に大真面目な顔のIさんが座り、すぐ隣に少し笑った『かきつばた』のT子さんがいる。左にはKさん、Aさんと並ぶ。2人は元気で、同窓会でも、その顔と名はすぐ繋がった。

 なぜか私には、Iさんの母上に会った記憶が鮮明にある。Iさんによく似た顔立ちで、凛と一筋通った気性の人に思えた。Iさんは、母が先生に会ったことってありましたか、と不審がるが、確かに出会った。園部女学校を出たあと、同志社に進学、英語を学ばれた。当時としては珍しい向学心の方だった。Iさんは、そう勉強家だった印象はないが、英語のY先生の夏休みの宿題、英語の本を1冊読み、英語の感想を書く――に、いい評価をもらったと聞いた。やはり相当な頑張り屋だったのだろうし、母の影響もあったのだろうか。

 昭和29年の文化祭は、文芸部で、「万葉・古今植物展」をしたが、その折、母上が栗御飯を私にと託(ことず)けられたそうだ。昼近く渡そうとしたが、私は友人と一緒で、すたすたと歩み去ったと言う。Iさんは持って帰って、どんな言い訳をしたのだろう。堅い栗を剥いて割る、面倒な栗御飯。ご馳走さま、ありがとうと言う「機」は一瞬にして消えた。「機」が人を会わせ、「機」が人を行き去らせる。

  • ネオンサイン 尾灯の点滅 信号灯 見落として来しサインの多き

更新日 平成21年10月26日

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第18回 八木町八木の八木さん

 園部高校の名簿は、男女混合のアイウエオ順で、他の地方には見られない現象があった。後半に「広瀬」「湯浅」が多くあり、特に「八木」姓が続出することだった。「白ヤギさんからお手紙ついた 黒ヤギさんたら読まずに食べた」という童謡があるが、それを地でいく土地で、八木町八木 八木○○様で大抵の手紙は届いた。

 教員の中にも、副校長、社会科、家庭科、私の前任の国語科にも八木さんがいて、区別するのが大変だった。眠れない夜、お呪いのように、羊が一匹……羊が二匹……と呼び出していくのだが、ここに限り、山羊に変えた方が手っとりばやく眠れそうである。

 それぞれの八木先生に思い出がいっぱいある。中でも副校長は、水戸黄門にも出るので格さんと親しまれ、ハンサムで高潔、教育者らしい人だった。職員室の北入口から二列目の窓際の座席で、その並びが生徒部だったから、格さんの隣りの隣りに、私は座っていた。

 ある日の5限目に、誰を誘ったのか忘れたが、不用意に(いつも私は不用意なのだが)、「今、園部映劇で○○を上映してるけど、行かない?」と言ったら、すかさず、「授業中ですよ。」と叱られた。咎めるべきことは即咎める……、やはり副校長の責務を、常に自覚している人だった。東京高等師範の出身で、日本史の専攻、教育者として最高の教育を受けた人だった。

 しかし、普段は人間味豊かで、妻を大切にする人だった。「今日はバラのように綺麗だね。」と言ったら、妻はとても嬉しそうだった。結婚したら、あとは褒めない人が多いが、それでは駄目、と話された。後日、奥さんに会ったら、ピアノなども弾く、ふくよかで美しい、ほんとうにバラのような華やぎのある人だった。長男は、現在宇治で小児科医院を開業している。孫たちがよく診ていただいた。どんな方?と娘に聞くと、至って無口でぶっきら棒な人だ――と言う。性格は格さんに似ていない気がするが、父上の面影がしのべるだろう。一度ぜひともお会いしたいものだ。

 遅くまで仕事をしていると、「もう帰りませんか。」と誘ってくださる、部下思いの人だった。随分老成した人に思えたが、学校要覧には、41歳とあった。そう言えば校長も43歳、何と若々しい職員集団だったのだろう。

  • 時は逝きみづみづしくもさびしくもピカソに青の時代がありし

更新日 平成21年11月10日

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第19回 足ながおじさん

 英語のT先生は、花園駅から乗って来る。大股にホームまで歩いて来て、発車はじめの徐行の、デッキの手すりをつかんで、ひょいと乗り込む。駅から見える角の円い洋館が彼の家だということだった。

 毎日新聞に「市民の詩」という投稿欄があり、天野忠が選者だった。5センチ角ほどの狭いスペースだったが、彼はよく投稿していて、時々掲載された。我が家も毎日新聞だったし、詩を作るのが好きだったので、真似して出してみたら、2回ほど載せてもらった。

 彼の詩は朔太郎風で、園部高校の年刊誌『公孫樹』にも何回か出ている。詩の言葉は平明だが、その心理は訳の分からぬものだった。その頃、サルトルらの実存主義が抬頭し、同じ流れのカミュの不条理の哲学が、フランスの文壇でにぎやかに論じられていた。人間とは無意味の存在であるという命題を、身をもって証明しようとしたムルソーという男を主人公にした『異邦人』という小説がある。そんなことが、T先生の話題によく出た。その種の人間が理解できない私だったから、T先生が余計不可解な人に思えていた。

 その頃、2年生の国語甲だったかに、朔太郎の幾つかの詩が出ていた。教えるのに悩むことを話したら、代わりにその1時間をしてあげるという。大変な冒険に思えたが、思い切って実行した。自習の折、代わりの者が課題を持って行くことはよくある。それと同じだが、担当の本人は元気に出勤しているのだから、待っている1時間は、妙に居心地が悪かった。現在ならば、さしずめ校長室の知るところとなり、お小言を賜ることになっただろう。しかし、当時は校長室も生徒も鷹揚だった。何事も起こらなかった。

 そんなこととは裏腹に、T先生は日常茶飯のことに、よく気の付く人だった。入学試験の監督に行く私に、「そんな赤いスリッパなど履いて。靴に変えなさい。教室は寒いから上着を持って行った方がいいよ。」などと注意してくれたりもした。何人もいた、私の保護者的な人のひとりだったのだろう。今思えば、ムルソーなどになりきれない、ごく普通のやさしい人だったのかもしれない。

  • うたた寝の切れ字のひまのかなかなや昔むかしの声に鳴きたり

更新日 平成21年11月25日

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第20回 赤い傘

 園部高校に在籍した頃の日記に、風景は描かれていない。ひたすら学校に向かい、同僚と関わり、生徒と格闘していたのだろう。ただ1か所、転任して半年、昭和28年4月12日に風景がある。体育の「K子先生」と題した文である。

「帰るの? 待って。」とT先生の声がひどく素直だった。玄関を出ると雨。私とK子さんは赤い傘を開いたのだが、K子さんのは、すぐそのまま、T先生の頭の上に揺れていた。「いらない」と言いながらぶっきら棒な顔付きで、T先生は柄を持った。私の傘にK子さんと入って前を行く。竹薮の道は細い。

「北海道のマイクの旅で、こんなこと言ってたわよ。蝦夷富士って何山ですかって。」私は後ろに聞こえるように大声で言った。返事がない。「何山ですか」と改まった口調に変えると、相手がはっきりした。「Tさん」とK子さんが命令するように振り返る。「函館の近くにある山だろう。」背が高くて細いT先生と、小っちゃくて丸いK子さんは、いつもこの山道のコンビだった。女の人はどうして女ばかりで固まるのだろうと、皆で話していた――という返事に、「気楽なのですよ。」と答えたことを私は思い出していた。そんな私の返事は、T先生を少し淋しくし、そして私自身をも少し淋しくしたかも知れなかった。

「うち、北海道へ行きたいなぁ。京都から来たと言うたら、もてるやろなぁ。」「なーんだ、自分でも京都の良さを認めてるじゃないか。」「違うのよ。京都なんか何も良くないんやけど、向うの人は憧れてるんやないの。」「それは客観的に京都が良いことじゃないか。」それでも二人は真面目な会話らしかった。そんなたわいもない会話を、いや、たわいもないからこそ楽しんでいるT先生ではないかと思った。

 雨は相変わらず降っている。櫟の林の道に出ると、道幅が広くなり、二つの傘は並んだ。K子さんは上などお構いなしにT先生と並ぶ。二つの傘が上下に重なる。雫がT先生の肩に落ちる。T先生と私の目は傘に注がれるのだが、K子さんは喋りつづける。「右かな、左かな、体がはっきりしないのだから。」と、私が冗談まじりに言うと、K子さんは、「そうなのよ。」と受けた。さっきからのお喋りに相槌を打つ形になったらしい。「カサ、カサ」と言うと、T先生がすかさず「どっちにも入らないで濡れて行きなさい。」と突き放す。

 最近、2度も流産したと正直に言うK子さん。底無しの明るさと憎めない無邪気さ、合わせるに我儘な坊ちゃんT先生。私に、ちょっと羨ましい男女の仲であった。

  • 赤き傘二つに三人(みたり) 余されしは吾れかも知れぬ春雨のなか
  • 竹薮を櫟林を傘揺れて過ぎたり日記(にき)に春の雨降る

更新日 平成21年12月10日

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