南丹生活

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第21回 マルがほしくて

 私とTさんは鉄棒を前に立たされていた。蹴って体を鉄棒に巻きつけて上る逆上がり、そのあと、逆に頭を下げてでんぐり返りをして立つ。腕の力が足りないのか、要領が悪いのか、それが出来ない。3年の担任は師範学校(今の教育大)を出たばかり、痩身で神経質で、ともすれば鼻の上に縦皺を寄せる男性。妙に体育に力を入れる人だった。

 そのまま昼休みになって、級友は嬉々としてお弁当を食べに教室にもどった。食べ終わって、まだ鉄棒の前に立つ二人を取り囲み、「かわいそう、お腹すいた?」と言う。私たちは晒し者で、優越感がありありと見えた。

 忘れものもしょっちゅうで、教室の後ろに立たされる。冬などは零下10度を下がる床に座らされる。それでも分からないと廊下に放り出される。それも馴れっこで、質問の答えが分かると、廊下の窓から教室に向かって、手を出してハイハイと言ったりしていた。だから先生も、私が傷ついているとは思わなかったのだろう。

 裁縫室の掃除当番の折、担当のH先生は優しくて、「この子たち、とてもよくやってくれます。」と、見回りに来た担任に褒めてくれたが、担任はまじまじと私の目を見て、「先生が見てるからだなぁ」と言った。

 毎朝、学校に行きたくないと泣いた。4年生では担任が変わるかも、と思いきや、又同じ。その繰り返しで、遂に卒業までだった。「こんな先生になるものか」と心に繰り返し、卒業式の「仰げば尊し」は、「仰げば馬鹿らしわが師の恩」と、ちいさい声で唄った。

 女学校3年生で敗戦、友人らとはばらばらに大連から引き揚げた。担任は私達を卒業させると同時に、鹿児島に帰っていて、後には校長になり、教育委員長にもなった。

 一方私は、京都の専門学校を出て、念願の高校の先生になった。そのことを知らせると、忘れもしない、巻き紙に筆の長い長い手紙が来た。ミッチャンが先生になるとは、思いもしなかったと、繰り返し書かれていた。以後私は、惜しげもなく、二重丸、三重丸を描き、生徒を褒めることに専念していたつもりである。

  • 束(つか)ねつつ畔に刈られる彼岸花からくれなゐの終章もあれ
  • 彼岸花の花弁の反りのやうなマル、丸がほしくて並んで待つた
  • 宿題を忘れ立たされた彼岸花 寄つて来な 見に来な 野の日暮れ

更新日 平成21年12月25日

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第22回 あすなろ

 あすなろという樹を知ったのは、芭蕉の『笈の小文』(おいのこぶみ)の中の一句、「日は花に暮れてさびしやあすならふ」であった。ヒノキ科の常緑高木で、「翌桧」と漢字を当てる。桧によく似た木で、明日は桧になろうと思いながら、遂に桧になれなかったという物語がある。『枕草子』40段にも、「あすはひのき、この世近くも見えきこえず。」とある。木曽五木のひとつで、深山に自生するものなのだろう。

 1年の国語甲にも、井上靖の『あすなろ物語』の第1話が出ていた。主人公鮎太少年の遠縁になる、年上の少女冴子が、「あすは桧になろう、あすは桧になろうと一生懸命考えている木よ。でも永久に桧にはなれないんだって。それであすなろと言うのよ、と多少の軽蔑をこめて説明してくれたことが、その時の彼女のきらきらとした眼と一緒に思い出されて来た。」……とある。後に冴子は、そのあすなろの木の下の雪に埋もれて、恋人の加島と心中していたのだった。そして、「その木の命名の哀れさと暗さには、加島の持つ何かが通じているように鮎太には思われた。」と書いてある。

 しかし、その結末と裏腹に、私は、常に希望を失わず、何かに向かっているこの木のいじらしさが好きだった。園部高校第8回卒業生のIさんも、私と同じ思いだったのだろう。生涯学習のグループを亀岡で立ち上げたとき、「あすなろ」の会と命名した。平成10年、亀岡市に、ガレリオ亀岡が出来たのがきっかけである。この生涯学習センターは、図書館も併設され、喫茶食事も出来る立派なものだった。幾つもの学習室の中の、「愛宕」の間で、30名もの人を集め、私を講師に呼んでくれた。かつての教え子も多かったが、地域の人も混じっていて、みんな「あすなろ」の子だった。

 平成10年9月22日には、「齋藤史(ふみ)の老いの短歌」、11年4月22日は、「河野裕子の短歌」、10月19日には、「上田三四二の癌告白後の短歌」、平成13年4月には、「源氏物語宇治十帖の女君」、10月には、「母の詩・母の短歌」を、話させていただいた。

 机には、庭や野に咲いた草花が活けられ、栗や舞茸などのお土産付き、全く、先生冥利に尽きるとはこのことだった。「翌檜」と題された報告誌も、5冊出て、グループの人達の俳句、短歌、詩などが発表されている。又、名所散策の会も、何度あっただろう。Iさんが頭の手術をされ、今はとぎれてしまったのが惜しまれてならない。

  • 暮れなずむ故郷の路に迷いおり擦れ違う人皆若くして       (H.S)
  • 年末の疲れを癒す柚子湯にて身を沈めつつ黄の実と遊ぶ      (H.N)
  • 病む生母を弟夫婦に頼み来て吾は痴呆の母を看る日々       (T.I)
  • これも駄目それも駄目だと制すれば悪さを止めて良い顔して見す  (T.I)
  • 節分の護摩木にあたりて厄ばらい今年も無心に福豆かぞえる    (T.K)

「翌檜」第4集より

更新日 平成22年1月10日

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第23回 城下町交流

 ガレリオ亀岡の生涯学習の「あすなろの会」で、平成14年の春、わが町、大和郡山市訪問の計画をしてくれた。

 出身者のほとんどが園部高校の卒業生。園部も城下町、元和5年(1619)、但馬国出石藩主小出吉親が、約3万石でこの地に移されて来て、園部藩は成立した。以後、明治に至るまでの約250年間、小出氏は藩主であり、その城跡に園部高校の校舎はあり、城門は、そのまま校門に転用され、往時を偲ばせている。

 大和郡山市も、1635年、秀吉の弟、秀長の築城後発展した城下町で、近世は柳沢氏15万石の町として繁栄し、城下町の形態がよく残っていることで知られている。城内には、二つの高校があった。一つは、進学でも有名な郡山高校、もう1つは、農業園芸を基礎に置く城内高校であったが、今は統合されて、郡山高校と言っている。

 武士が内職として始めた金魚の養殖も盛んであり、塩町、豆腐町、材木町、紺屋町などの町筋もある。特に紺屋町(こうやまち)は、細い人工の川が道の真ん中に残り、昔は西側に紺屋が並び、その流れで、藍染めした布が、ざんぶざんぶと洗われていたと言う。今は観光用の箱本館(はこもとかん)だけが改修されていて、ハンカチなどを染める体験ができる。

 しかし、同じ郡山に来てもらうのなら、もっとやり甲斐のある藍染めがいい。ストールならば、女性には喜んでもらえるので、近鉄郡山から程近い藍染工房「綿元西井」を選んだ。西井康元氏は、藍染め作家として著名、工房には藍の液を発酵させた藍甕が八つも埋められている。時は、藍汁もよく発酵する春、甕の真ん中には泡立った藍の花が、こんもり盛り上がっていた。

 私の教え子の10名余り――と言っておいたので、西井氏は、どんな若くて綺麗な人に出会えるかと、わくわくしていたらしかったが、ぞろぞろと現れたのは、私とさして違わぬ老女たち、がっかりしたとは後で聞いたが、手を取り、体を寄せ、親切に教えてくれた。

 文集「翌桧(あすなろ)」の第5集には、この時の短歌が多く寄せられて、感動を伝えてくれる。

  • 藍染めは光と風に当たるたび目を見張るほど素晴らしくなる    (T.K)
  • 初めての藍染め体験それぞれに個性あふるる藍の濃淡       (T.I)
  • 幾たびも染めては洗ふ藍染めの体験作品風にゆれをり       (T.I)
  • 手作りの藍染めショール彩(いろ)冴えて吾が宝ものひとつ増えたり (T.I)

 藍染めは布を甕に深く浸して揺り動かしてから取り出し、澄んだ水を当てて振り洗いする。それを根気よく繰り返し、時々、干して風に当て、日に当てる。色が澄んで美しくなる。大きなストールの片端から色を深め、片端を薄くする。藍のグラデーションを作っていくだけなのだが、ひとりひとり違ったものになる。

  • 大和にて深き藍色染めなして華やぐ日を待つ手作りストール    (F.N)

 藍染めは1年ほど、折目が付かぬように新聞紙にくるんで巻き、押入れで保存してから使うと、色に深みが増すのだ。

 それぞれの作品に満足した老女らは、昼食の柿の葉ずし――大和の名物、を持ち、桜の満開の郡山城跡に登った。4月1日から1週間、この町では、何の唄か、田舎風な曲を流して、お城祭りをする。鯛焼、焼きそば、りんご飴など、お決まりの屋台が出て、浮かれ歩く人でいっぱいになる。

 天守閣は無いが、城壁には、諸国の大名が集めて持ち寄った大石、小石が積まれている。墓石でも、地蔵様でも何でもいい。観光客がのぞき込んで行くのは、「逆さ地蔵」。お地蔵様が、しかも逆さまに、石垣の下積みになっているのだ。

  • 満開の桜吹雪につつまれて歓声上げる口にも花びら        (T.K)

 植木市も出ていて、何と、そこで1メートル余の花水木を2本も買って、近鉄電車に乗り込むつわものを見送ったのは、もう4時を回っていただろうか。

更新日 平成22年1月25日

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第24回 銀寄せ

 今年も大粒の栗がKさんから届いた。市場で見る栗が貧弱だったので、余計感動が大きくて、すぐ電話でお礼を言った。そして、どうしてこう立派なのか聞いてみた。

 樹の高さは、栗を落とす竿の長さが届くように配慮して、4メートルに剪定するのだそうだ。この栗は「銀寄せ」という品種で、早稲(わせ)、中手、晩生(おくて)とある中で、中手に当たる。特にすぐれた品種で、一度食べると忘れられず、「あの栗は……」と問われ、期待される。今年は雨の少ない時期が続き、水道代も大変だった。どこか漏れているのと違いますか、と検針の女性から言われるほど撒水した。そして、実が大きくなる頃の気候も不順だったので、やきもきしたが、何とか品質のいいものが出来たのでほっとした……ということ。一粒の重さを量ってみると、40グラム。近くで買ったのは、大きいもので30グラムだったから、大粒の印象も間違いなかった。

 Kさんの家は亀岡市の郊外で、栗の実の収穫のあとは、その毬(いが)を燃やして始末して、その後はすぐ稲刈りが始まり、11月中は遊ぶ間もないと言う。

 春は春で、山椒の佃煮から始まる。山椒は、春、藤袴のようなつぶつぶの花を10粒付けたくらいの房状の花が垂れる。その花だけを摘み採っても、煮ると嵩がぐっと減る。白い紙の上に摘んだものを広げて、葉と花をまず分けねばならない。ここから根気のいる仕事になるのだ。プラスチックの5センチ角の容器に入れるには、どれだけの花房を採らねばならぬのだろう。この花山椒(はなざんしょ)も毎年送っていただき、熱い御飯に載せて食べる。そのにおいが、ぴりりとした味とともに、たまらないおいしさだ。

 5月の始めのこの花山椒が終わると田植、そして夏野菜の季節になる。1年間、仕事が絶えない。Kさんは、園部高校第8回の卒業生で、ガレリオ亀岡の生涯学習にも欠かさず来てくれた。学校時代から大柄で、目立つ人だったから、今も堂々と頼もしい感じで老いを感じさせない。体格に似ず、心根のかわいい人で、観覧車に乗ったことがないと言う。あすなろの会の遠足で、岡崎の動物園に行った時、一緒に乗ったら、子供のようにはしゃいで喜んだ。大阪南港のが大きくて、大人向きなので一度乗せてあげる、と言っているが、まだ約束が果たせない。

 Kさんは姑にもとても可愛がられたそうだ。嫁姑の仲を保つのは難しいことだ。Kさんも裏表のない人だが、姑もきっと大らかな人だったのだろう。落ちた栗を拾うのは、腰を屈めるしんどい仕事だが、しぶしぶやっているKさんに、姑は、「5円玉を落としたのを拾うと思って…」と笑われたとか。

 70歳を過ぎると、どの人からも生きて来た境遇が、一種のかぐわしさのように迫ってくるものだ。さしずめ、Kさんは花山椒の匂いだろうか。

  • 掌(て)にこぼす紫式部の実のほろろ 七十代つて暮れやすおすなあ
  • ハンカチを四つに畳む十三夜 あしたも笑(わろ)うて涙拭きまひよ

更新日 平成22年2月10日

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第25回 数学クラブ

 平成20年11月16日の「八桜会」に、ただひとり、正担任として出席されたのは、数学のS先生だった。近くのホテルでは第6回卒業生の同窓会も開かれており、途中からはそちらにも出席するという忙しさ。6組6人の担任も3人はあの世の人となった。漢文のA先生にしろ、生物のT先生にしろ、数学のN先生にしろ、私から見ると、古武士のように気骨のある方々だった。

 S先生は職員室の北側、私の席からは後ろの暗い場所に座っていて、教務部の中心的存在だった。部長をしていた期間も長かっただろうと思う。私が園部を出て、もう長くたってから、確か平成12年ごろの旧職員の懇親会でも出会った。その時、園部高校に来て3年目、25才の私が1年の担任をすることについて、Y校長が、「中村さんで大丈夫なのか」と、何度も念を押され、不安がったという思い出を語ってくれた。1年の担任ですら、こうであるのだから、3年担任というと、相当重要な校務であったに違いない。

 S先生は数学クラブの顧問で、このクラブは、京大などに進学するような秀才ばかりが集まっていた、とⅠ君が話してくれた。そう言えば、I君はいつもF君とセットで思い出されてくる。1年の時二人を教えたが、特にF君は、あまり笑わない手ごわい生徒であった。日記などを読むと、この二人が3年になって、大学進学のため、どんな国語の参考書を選べばいいかと尋ねに来てくれたことが書いてあり、今は教えていない私に、わざわざ尋ねてくれた――といたく感激とした様子であった。ベテランのM先生に聞けばいいものを……どうして私などを思い起こしたのであろうか。秀才たちにしては、残念なことだ。

 F君はもうこの世で会うことが出来ないが、Ⅰ君は同窓会の席上、私に一番たくさん過去の私を語ってくれた。アイウエオ順に並んだので席も前列だった。それで、しっかりと覚えていた。嬉しい再会であった。

 S先生は、同窓会の最後に数式を書かれ、次回にはその解答を持って来るように言い渡された。どこまでも熱心な方だ。しかし、今年10月18日の園部高校訪問の会には、急に体調を崩されて欠席だった。「今」という時間が大切なのだ。「次」や「あした」は、もう当てにならない。

  • あけぼの杉落ち葉激しきをふり仰ぐ 行き急げるは生き急ぐこと
  • ひとしきり時雨叩きて陽(ひ)当たれば一樹の楓 鬼女のくれなゐ
  • 霜の夜の浅き眠りに彷徨(さまよ)ひつつ抱へてゐしはどこのだれの子

更新日 平成22年2月25日

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第26回 野球少年 その後

 平成21年11月18日、9時33分発の山陰線、今は嵯峨野線先頭車に、というU君の行き届いた案内が届いた。昔、遠足の前夜眠れなかったように、早く目が覚め、調べておいた近鉄京都行きよりも、一(ひと)電車はやく乗れてしまった。だから指定の9時33分が着くのを待って乗り込んだ。

 同行する人の名、3年生のクラス名までU君は書いてくれており、前もってアルバム―U君に借りっぱなしになっている―を開いて見ておいた。9時20分ごろ、過去に見知っているような男性が乗って来て、人を捜しているような素振り、同行の誰かだ!と思ったが、U君が来るのを待つ。25分頃、U君が近づいて喋りはじめた。

 やはり当たっていた。私はサングラスを取り座席を前へ移動した。F君だった。調べて記憶してきたアルバムの顔とは、似ても似つかなかった。卒業後、F君は京都府警に入り、最終は警視正に昇格し、天皇送迎の新幹線に乗り、警護に当たってもいた。七条署の署長でもあったとか……。長身で、背筋の正しさはさすがで、往時の腕白少年の面影など全くない。

 園部駅に列車が着くまでの1時間、たっぷり昔の思い出話を聞いた。高校時代の彼は、野球部で頑張っていた。放課後の練習が終わり殿田へ帰宅するのだが、練習疲れでうとうとしてしまい、慌てて降りたとき、持って出たのは野球道具だけだった。教科書やノートの類は列車と共に遠のいて行く。仕方なく駅員に頼み込み、逆行の列車で送り返してもらった。鞄が着くまで、友人も一緒に待っていてくれた。何かいじらしい友情である。戻ってきたものを受け取るとき、駅員からさんざん説教をされた。野球用具だけを持ち、肝心の教科書を忘れるとは、生徒としてもっての外、というのである。その間、F君と仲間たちは、深々と頭を下げていたという。

 卒業アルバムのF君は、のんびりと明るい顔をしていた。この思い出話の中に、ありありとよみがえってくる顔である。それにしても、昭和30年の頃、少年少女を育てるのは、親や教員だけでなく、そのへんのおっちゃんやおばちゃんも参加していた。他人事(ひとごと)でなく、目配りをして、叱ったり褒めたりした。若者も、ちょっとむかつく事を言われたから刺した――などは無かった。

 のんびりしていて、温かい人達がいた園部駅が、しみじみとなつかしい。

  • 罪もなき笑顔の卒業アルバムと似ても似つかぬ警視正殿は
  • 目見(まみ)静かに背筋正しきは半生の警官職に養はれしか

更新日 平成22年3月11日

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第27回 緑の指

 園部高校第8回卒業生の10名に誘われた園部散策、京都駅からは、U君とF君に出会い、話がはずむうちに、亀岡で二人の女性が加わり、賑やかに園部へ。改札口には地元の同級生が出迎えてくれた。まだ集まるはずだと言うが姿が見えない。足の調子の悪い人らは、なつかしい小型の町営バス、今はぐるりんバスと言うそうだが――に乗って一足先に学校に向かうことに。T子さんは、折角来たのに山道を歩かない法ってありませんね、と先に立つ。もとより私も、山から学校への道が何より懐かしいのだから、そうよ、そうよ、と足を揃えた。

 U君、F君はまだ来ぬ2、3人を気にしながら、ゆっくりと大股で、私たちは小股ながらも充分時間を取り、斜面の両側に目を凝らした。山道への入り口は、見違えるほど変っていた。左側は、なるほど、見覚えのある円いなだらかな丘の形なのだが、右側には堂々とした専門学校の校舎が建っている。

 T子さんは、嵯峨御流の生花の先生なので、植物にはとても詳しい。私の指さす花の名を、よどみなく教えてくれる。鵯上戸(ひよどりじょうご)の丈高くて白い花、細っそりとした葉で、蕾のような三つの放射した実を付けている姥百合、うす紫の野菊、赤黒い小花の密生した球形の吾亦紅、私の住む郡山の野には、もう見られぬ花野が広がる。

 追憶の中に鮮やかなのは漆の木の紅葉――。私の通勤していた50年前もこんな風で、生徒たちの群に追い付いたり、追い越されたりしながら、おはよう、寒いネなどと声を掛け合ったりしていた。教えていない生徒とも顔見知りになっていた。まぼろしの花野が、今、ここにある。

 今年は異常気象で、木犀が二度咲きした。その匂いで、心は床しい過去へ過去へと遡っていく。姥百合の実は乾燥させて種を取り出し、そーっとプランターに播いてください、芽が出ますよ。吾亦紅も、ぱらぱらっと揉んで播いてやってください。大丈夫、芽が出ますよ。T子さんは、野の花をいとしむような、うっとりした目をして教えてくれる。きっとT子さんは、誰かの童話にあった「緑の指」を持っている人なのだ。私の指は乾燥していて、芽吹かせることは至難なように思われるが。それでも姥百合の実、吾亦紅の花を野から盗んで、そーっとバッグに入れた。思い出が毎年芽生えることを夢みて。

  • 萩 すすき 鵯上戸 吾亦紅 生徒の足音(あおと)がわれを追ひ越す
  • 吾亦紅ほろほろ崩し播けと言ふ花の命をいとしむ眼して

更新日 平成22年3月26日

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第28回 二本松峠

 園部駅から高校への山道は、春日神社の脇から入る。二本松峠という詩的な名がある。その昔の足で20分ほどだったと思うが、50年後の足どりは、止まっては歩き、歩いては止まるという具合。上り傾斜を味わいながら、一木一草に目を遣り、木犀の香の混じる秋日和を、たっぷり吸い込み、随分ゆるゆるだった。京都駅で同じ列車に乗り込むはずだったK君が、15分遅れの電車で追い掛けて来た。ひたすら上って来たのか、額に汗が光っている。あらかじめアルバムを見詰めて覚えて来た顔、その少年時代の顔とそっくりそのままだった。この人ほど昔と変わらない人はいない。真面目な童顔になつかしさが込み上げた。

 右手に山らしい山がしっかりあるのだが、裾はのどかな住宅街になっていて、木犀もそのあたりに濃く匂い、ピラカンサか、梅もどきか、赤い実。紫式部の紫の実、野葡萄はまだ青い実だった。

 峠はそろそろ下りになる頃、笛太鼓の音がして、次第に遠のいていく。今日10月18日は生身(いきみ)天満宮の秋祭りの日だという。行列が過ぎ去ったらしく、子供連れの主婦が戻って来る。昔は聖家族といって、山裾に1列の白い校舎のあるだけの淋しい高校だったが、今は聖カタリナ学園、付属幼稚園もあるあたりは、ほんとうに様変わりして、方角が分からなくなる。

 1台の車が止まり、男性と女性が一人ずつ降りた。駅の東口で待っていてくれたが、われわれは西口でしばらく止まり、気にしながらここまで来てしまった。ごめん、ごめんを連発しながら、広い通りを渡り、細い道を取ったのだが、あの竹薮が見えはじめた。

 1年前、妹と二人で来た初冬の日は、逆に歩いて来たので、この竹薮は住宅の庭の一部分のように見えたが、峠から来ると、少しは往時の感じが残っていた。しかし、ささやかな三角の地に、さやさやと竹はそよいでいた。一つの赤い傘を預け、二人並んで通るのがやっとの細道だった。とぎれる会話に春雨の音が混じり、又、会話がはじまる。雨の音は止まない。そんな時間を作ってくれるほどの長い細道など、もうどこにもない。この竹薮を右に折れると広い通りになる。覚えのある距離が見えてくる。もう真っすぐで校門前に出る。ああ、この道だった。50年たって、こうしてその昔の生徒たちと連れ立って歩くことが出来ようとは。

  • 秋祭りの行列(れつ)過ぎゆきし峠道 笛太鼓の音追ひつつくだる
  • 小さき社(やしろ)に祭り幟(のぼり)のはためきて秋の日溜り園部城下は

更新日 平成22年4月11日

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第29回 銀杏(ぎんなん)の嵩

 前もって連絡してくれていたとかで、校門脇の小門はあいていた。今日は日曜日、模擬試験の会場になっている校内は静かだった。一行の足は真っ直ぐ北庭に向く。園部城築城の頃からのシンボル、公孫樹は、数百年もその位置を変えることなく聳えている。葉はまだ青く、大木の周囲には銀杏がびっしり散り敷いていた。塀際の大きな焼却炉にも、既に掃き集められた実が詰め込んである。しみじみと踏み歩く11人の背にも、折々にその実はこぼれて、昔を語り掛けてくれているように思える。掃いても掃いても降ってくる、大樹の尽きない思いであろう。

 N君は墨絵を描いている。数枚を「南丹生活」のブログで見せていただいたが、園部高校の校門、かつての城門も描いていて、奥深い筆致のなかにも、真に迫る描写に心吸い込まれる思いがしていた。そのN君も来てくれていて、過去にはこの木の前面に池か沼のようなものがあり、その向こうに立っていたのだ――と話してくれた。そう言えば、私も在職中にこの樹のめぐりを広々と歩いた記憶がない。校舎の向こう、北西の奧の方に、この樹は朦朧とあったような気がしている。

 銀杏は降りこぼれたばかりで、腐るとにおうあの臭気もなく、ただ新鮮に固いままころがっている。その上を踏んでは、老樹をふり仰ぐ。目と目が語り合い、心と心が頷き合い、声のない14、5分であったろうか。

 すぐ横の教室では模擬試験が実施されていることもあり、私たちは樹を仰ぎながら南西の庭に後しざりして行った。憩いの広場らしく、ベンチとテーブルがあり、ブラバンの練習曲も聞こえる。U君から、何か短歌の話でも……と宿題が出ていた。何も話せないような気がして、ただ、『公孫樹』4冊を抱えて来た。N君が師事した美術の人見少華先生の水墨画に、書道の谷辺橘南先生の題字。年刊で、教員や生徒の研究、文芸など取り混ぜて載せてある冊子である。今、ここに参加しているM子さんの小説「百日草」は、昨夜しっかり読み直して来た。絵筆を取り、ピアノを弾く感受性豊かな女性が、社会主義思想を知り、恋に目ざめていく、しかし自分を統一出来ず自死を選ぶという物語であった。自分を主人公に重ねながら書いた部分も多いはずだが、その表現力に並みなみならぬものがあった。M子さんだけではない。『公孫樹』には、驚くほどの才能の閃きが感じられる人々の文章が多い。そんな優秀な生徒達を前に、過去の私は何を語っていたのであろう。

 秋の真昼の太陽は、語り掛ける私の額にまともに射す。T子さんが日傘を差し掛けてくれた。昔の校庭、昔の生徒。私の声は老い、聞く生徒も白髪まじり。今を見ず、ただ昔を聴いてくれていた。

  • 時の嵩 銀杏(ぎんなん)の嵩踏みてめぐる老樹は言はず我らも言はず

更新日 平成22年4月25日

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第30回 星座のある舗道

 園部高校の裏、北西に小向山がある。校歌に「小向山淇水に映えて静かなるわが学び舎」とある。淇水――園部川が流れていて、私のいた昭和30年頃は、貸ボートもあったような気がする。今は全く整然と刈り込まれていて、秘密基地のような楽しさはない。授業をサボって隠れたり、茂みに寝ころんでぼんやりと空を見ていたり……不思議の要素が混り合った場所で、啄木の「不来方(こずかた)の城跡」のような場所であった。

 町に出る道は広げられ、舗装路に蛇や熊やの星座の模様が嵌め込んである。ここからは星の国ですよ、というイメージなのだろうか。そうすると小向山の辺りに星の観測所や、プラネタリウムのようなものがあればぴったりなのだが。町長だった人の意図は中途半端で、快い下り道を行くと、右側に昔の街道、河原町、宮町と言った辺りが見える。店舗は少ない淋しいところである。暫らく行くと国道9号線を横切る。その手前の鮨屋で特注の幕の内弁当をいただく。玉子焼きがふわふわで大きくて、自らの血糖値も無視して、残らずいただいた。

 S君は色白のおとなしい少年だった。英語が好きで、ためらわず同志社に進学、今も某女子大の講師をしているとか。そういえば、あの頃、同志社関係の先生が園部には多かった。Kさんは忘れもしないヤンチャな子だった。顔も言葉も昔のままで、現在の町の変革についても、ずばずば批判する。そのリズムの歯切れ良さ、星座の舗道についても、容赦しない。同感だった。「中村道子さんって、知ってるでしょ」と、丹波に嫁いでいる私の妹に尋ねたら、全く知らなかったとか。妹はKさんと同じ地域の婦人会の役員をしたことがあって、とても世話になったと言っていたことがあった。嫁ぎ先の家風に忠実であろうと、いつも無理をしていて、きっと実家の姓まで忘れてしまっていたのだ。

 生花の先生のT子さん、水墨画のN君、山道で追い着いたK君、警視正殿のF君、「百日草」のMさん、そしてこの会の企画者U君のことは前に触れた。その他、パッチワークに熱中しているTさんがいた。手提げの袋も実に素敵だったので、頭を寄せ合って、どうしたらこんなに出来るの?などと言い合っていたが、今日会う私のために1メートル四方の膝掛けを作って来て、プレゼントして下さった。1針1針心をこめて縫い取った茶色っぽい膝掛けは、これを書く間も膝元を温めてくれている。それにSさん。無口な方で、積極的に自分を語らないが、あい間あい間に掛けてくれる優しい言葉がとても嬉しく、こんな娘がいてくれたら、どんなに心が安らぐだろうか……と思ったことであった。

  • 星座模様の舗道拓かれ九号線園部城下を串ざしにする
  • 九号線以北は星の国ならむ小熊座獅子座を嵌めし舗道(しきみち)

更新日 平成22年5月11日

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