南丹生活

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第31回 美園町

 河原町、宮町という懐かしい町名を右手に下り、国道9号線を渡ったあたりが、新しい園部町のメインストリートになっている様子で、やや現代風な商店が5、6軒並ぶ。その中にMスポーツ店がある。美園町と呼ばれる界隈である。Mさんは昭和30年度の1年6組にいた。担任の統率能力に欠けたこのクラスは、何時も雑然としていて、S・H・Lの折など、自席に着かず、机の上に腰掛けている者もあり、ごちゃごちゃした集団であった。

 その中で際立って清楚で美しい人だった。どこか少年のような媚のない人で、国語のM先生(標準語を美しく話す)の放送部所属でもあったが、硬式テニス部にも入っていて、その先輩と結婚、現在、二人でスポーツ店を営んでいる。

 今回の園部町散策の会に当たり、U君は、「先生、会いたい人があったら言ってください。」と尋ねてくれ、「初めて担任した1の6の人達」と答えたところ、早速、Mさんに連絡して、南丹市立文化博物館で会わせてくれたのだった。

  • 色白の締まれる顔がほほゑみて入学写真のままの君来る

 そこで展示も見ずに喋り続けたのだが、50年振りの話は尽きようもなく、帰りがけに又、会いに来てくれると言う。

 待ち合せ場所と時間がちぐはぐになり、店先に寄ったら、ご主人が、「先生に会うと言って車で出ましたが、狭い町内のこと、今に現れるでしょう。」と気さくに言ってくれた。

  • 君の駆る白き車は城下町巡り巡れど行き会ひがたく

 待ちがてら、すぐ前の丘の上、生見天満宮に参詣した。私も生徒らもお詣りしたことがない。道真が生きている頃から祀っていたので「生身(いきみ)」というそうで、元は城内にあった。明治維新の頃、園部城内に天皇を迎えねばならぬかも……ということがあり、城外の向い側の丘に移動していただいたものである。宮司は武部氏で、姉のM子さんも国語を教えたし、弟のH君は、私の会いたい1の6のひとりだった。目のくるくるした愛らしい姉弟だった。今はどうしているのか……と思いつつ、秋祭りの屋台の出ている境内に入り参詣した。

 ゆっくり境内を下りて、Mさんの車を待つ間、隣接する南陽寺の石段の下に来た。禅宗の静かな寺院である。折しも、車から降り立つMさんに、ふと思い付いて尋ねると、N君の家の墓地があると言う。1の6で担任したN君は、45歳の若さで他界した。人なつこい笑顔で、「先生、やっとここまで来てくれましたね。」と言われているような気がした。N君に呼び寄せられて、ここらをうろうろしていたような、妙な気がした。美園町とN君、切っても切れぬ場所だったのだ。

  • 人なつこい笑顔は秋の陽に融けて見えないけれどわがかたはらに

更新日 平成22年5月25日

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第32回 最初の座席

 園部高校へ赴任したのは、昭和27年の秋、2学期の途中からだったが、所属は図書館。転勤の中だちをしてくれたのが、漢文のA先生。図書館長でもあったから、自然と図書館の仕事が与えられた。

 当時の校内図を思い浮かべる。校門から真直ぐ入り、本館の大玄関を入る。上履きに替えて右に行くと暗い校長室、前は事務室だった。正面に広い階段があり、上ると講堂、その裏側に図書館があり、別天地の静かさだった。図書館は閲覧室に続く開架式の図書室があり、広いフロアであった気がする。その真ん中に衝立があるわけでもなく、4、5台の机が寄せられていて、そこに係の教員が座る。商業のH先生が、とても面倒見のいい人で、何でも教えてくれた。社会のY先生も居られた気がするが、無口でおとなしい人だった。交した言葉も覚えていない。館長のA先生は常駐しておられなかった。

 生徒が絶えず出入りして、本を検索したり、立ち読みしたりするところに、全身をさらされて私は座っていた。教える文章と、指導用の参考書と合わせながら、時に教科書に書き込みをする。一夜漬けどころか、朝漬け、昼漬けの、その日暮らしの私の姿を、そっと見ているであろう大人びた生徒たち。当時の3年生は18才、私は23才の5才違い。名ばかりの先生を、生徒達はどう思っていたのであろう。

 古典1講座だけ3年生を受け持っていたが、30名ほど。ほとんど知らない3年生。中でも秀才の聞こえ高いH君は、眉目秀麗な人だった。真直ぐ高い背と白い項(うなじ)が、よく書架に向いた後姿で立っていた。彼の家は、八木駅近くで、グリーンピースの缶詰の製造をしているとか。高い煙突のある家だった。噂に違わず、京大工学部にらくらく入ったとか。

 図書館所属とは、名ばかりの校務で実務をした覚えがない。3月の終わりに、本を目録と合わせて並べる館員全員の作業に従事しただけだった。しかし、図書館の隣りあたりの音楽室からは、ショパンの「別れの曲」の合唱が聞こえたりした。京都の北区から通うI先生は、ゆったりとした大柄な方で、老齢だが技術と言い、センスと言い、すぐれた方で、生徒の人気を集めていた。

  • 海見ゆる砂丘の上の高校より丹波山波のただ中に来し
  • 書を捜す生徒ら書架をめぐる中に是も非もなくて教材研究
  • 図書館の火鉢に掌(て)かざすしばらくを「別れの曲」の合唱聞こゆる

 館内には、勿論ストーブもあったが、教員の4、5人の近くに、小使さん、今の用務員さんが、毎朝炭火を運んでくれていたのも、なつかしく、ありがたいことであった。

更新日 平成22年6月10日

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第33回 もっかいさん

 昭和27年秋、園部高校に赴任して半年、新学期を迎えた私の所属は、生徒部。座席は学校の心臓部の第一職員室になった。正面玄関を入った左側になる。北入口から入ると、向かい合わせ2列の席が教務部、次の向かい合わせ2列の席が生徒部。窓際から副校長のY先生、次が部長のK先生、国語科で、生徒に誤読があると、「もっかい(もう一度)」と素朴に言われる、そこから「もっかいさん」と親しみ呼ばれたとか。無口で男らしく、包容力のある人だった。図書館長のA先生は、「Kさんが、女の人が必要だとか、年齢構成に若い人が……とか、うまいことを言って、あなたを持って行かれた。必ず又、図書館に来てもらいますから」と詫びてくれた。私は天上びとから地上の人になった。

 賑やかな職員室に南向きに座り、全室ほぼ一望できる席で、南入口のあたりの出入りも見えた。当時、女性教員は少なく、特に未熟な若い人には、親切な保護者団がいたが、私はここで、K先生の庇護下に入った。先生は35歳、少し前に奥さんを亡くし、男の子と女の子が遺されていた。住居は近かったのか、就学前くらいの早百合ちゃんいう子が、時折やって来て、先生の膝にもたれて甘えていた。「サユリなんて柄じゃないけど……」と言いながら、先生はとても可愛いらしかった。その後、2、3年して定時制の家庭科のS先生と結婚、男児が生まれた。「申彦(さるひこ)が生まれて……」と手紙を下さった。申歳、昭和31年生まれの、その男児も、今は50歳を越えている。先生はお元気なのだろうか。桃山高校の校長を勤めたり、なかなか出世された。

 ところで、若い女性をと望まれて入った生徒部、学校要覧には、「視聴覚係」とある。視聴覚の機材を扱って活躍した訳でもないし、何をしていたのだろう……と思っていたが、古びた黒い生徒手帳が出て来た。繰っていると、終わりのメモの白紙部分に、「ひろしま」とあり、1の5・3,000円、2の3・1,940円などとずらりと書いてあり、計13,120円の大金を集め、映画館に支払った様子である。中にN先生20円などともある。先生もきちんと1人前の20円を支払っていたのが、嬉しい。学校に集合してから園部映劇へ並んで行ったようだ。田舎の小さな劇場だったが、ここで私は、沢山の名画に出会った気がする。「二十四の瞳」や、「自転車泥棒」、「禁じられた遊び」などが思い出される。

 何のことはない。私は映画鑑賞の集金係として、生徒部に抜擢されたことになる。

  • 花散らす風は運び屋ひとひらにあちら向くひとふと振りかへる
  • 相聞の歌などあれよ風に返るメモの裏紙 白紙(しらかみ)ばかり

更新日 平成22年6月25日

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第34回 替え玉受験

 昭和27年秋に園部高校に転勤した私は、国語甲とか乙とか、18時間分の時間割が渡された。困ったのは2時間続き90分の授業があることだった。1時間50分の授業ならば、始め10分は、出席を確認し、前置き冗談を入れ、終わりの10分は、遅刻・早退の記入や、宿題の提出や、わやわやと雑事でつぶれる。2時間授業はみっちり70分の内容が必要だ。それに相応する予習が辛い毎日だった。2か月後の期末考査の時期には、まだ生徒の名と顔が一致していなかった。

 3年生の授業は、さすがに加減してくれたのか、乙Ⅲの2時間のみ、選択なので30名ほどの小人数講座だった。古典は比較的楽で、異国語を教えるようなもの、生徒より知識もある。考査は私自身の監督で、木造の第2校舎の2階の教室、静かに時が経ち、近隣の教室でテストを早く出した生徒たちが、廊下でがやがやしていた。廊下側は透きガラスの窓で、外からもよく見える。終了のベルで答案を回収して出ると、Yさんが近寄って来て、小声で、「先生、○○君は替え玉で答案を書いてもらってました。」と告げた。Yさんは転居したのか、同じ汽車で京都から毎朝通学していた。目の大きな綺麗な子で、友達のような間柄だった。

 放って置くわけにはいかないだろう。うつうつと自席のある図書館にもどり、面倒見のいい商業科のH先生に打ち明けた。名と顔の一致しない私の弱点はここから公(おおやけ)になる。

 やはりこのまま握りつぶすと秩序が立たない。替え玉試験の名の生徒を、担任を通じ呼んでもらった。文字を見れば別人だったと分かると思ってのことだったが、見覚えのある細身長身の真面目そうな青年が現れた。「もう一度、試験受けてほしいのだけれど。」「なぜですか?」「もうひとつ出来がよくないのよ。」私はしどろもどろであった。

 指定した日の放課後、現れたのは同じ青年だった。図書館の机の空いた所で、青年は答案を書き始めた。H先生は、担任を呼びに行ってくれた。担任は、あの数学のT先生だった。「I、お前今ごろ、ここで何してもうてるのや。」と言うことになり、現行犯逮捕だった。

 後日、職員会議で処分が決められた。大方、家庭謹慎で5日とか7日とか言うものだったのだろう。会議が終わると、英語のT先生から、「あなたは役者だね。」と言われた。妙な具合だった。問い正すと、説明に感情がこもって、表現がうまかった――と言うような意味らしかった。私に演技するゆとりがあるはずがない。ただもう、私さえしっかりしていたら、生徒をこんな目に合わせることはなかった、と言う思いで一生懸命だった。担任のT先生は、素朴な、生徒思いの人だったから、「あいつら、図書館によう行かんようになりまして。」と、前髪を掻き上げながら笑われた。

 2年後、I君の妹が入学、私の国語甲に当たった。「兄ちゃんがあんなことしたから、私は中村先生に睨まれている。」と苦しんでいたとか。私は二代に渡って罪を作ることになってしまった。替え玉を頼んだ生徒の顔も名も忘れたが、頼まれた生徒の、真面目な顔、そしてよく似た妹の細おもての容貌が、今もなつかしく忘れられない。

  • 替へ玉の試験に生徒裁かれる担当のわれも共にうなだれ

更新日 平成22年7月10日

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第35回 聞き合わせ

 商業のH先生は、フランクで、シャイで、温情あふれる人だった。園部高校に赴任した私の、最初の座席が図書館だったこともあって、面倒を見てくれる第一の人だった。年令は「高校要覧」に40歳とあった。そして頭の後光もあったので、決して若くは感じなかったが、この土地のこの年令の人にない若さが、自由さがあった。同志社ボーイだったからかもしれない。

 たまたま、妹が南丹の人とご縁があり、そこは農家、私の実家は商家で、それも長い大連暮らし。京都で言えば、四条の大丸さんの向かい側で生まれ育った子であった。叔母はよく、「大陸育ちの娘が、内地(本土)で嫁ぐのはなぁ、大変やで。のんびりしてて気は付かへんし……」と、姪たちの結婚を案じていた。母は割に呑気な人だったが、さすがに心配していて、婚家に近いH先生に、それとなく聞いてほしいと言う。私の尋ねに、H先生は、「経済的にはまあまあの家なのに、上の学校に行ってはらへん。おつむの方はどうでしょうなあ。」と答えた。私はそのまま母に伝えた。恋愛結婚なので、それくらいのことで壊れるはずもなく、目出度く結婚したのだが、後日、妹の口からその話が洩れ、H先生はひそかに婚家一同から恨まれることになった。申し訳ないことである。

 もう一つ忘れられないのは、私の結婚が決まった時、園部から通えるように、川べりの、小さな橋を渡った平屋の、こじんまりした新婚向きの家を捜してくれた。今の町のどのあたりにあったのだろう。そこに住むには夫の勤め先が遠すぎて、実現しなかったのだが。園部高校を止めなければならないのは、辛かった。あの家に住めて、さらにさらに背伸びの勉強を続けていたら、私はきっとステキな国語の先生になれていただろう。そうは出来ない運命の取り決めのようなものがあった、そんな気がしてならない。

 H先生は早くから、白い小さな車を運転しておられた。50歳になられた頃だったが、事故で亡くなられた。八木駅から電車が園部へ走りはじめると、間もなく右手に見える三角の水田の傍が事故地で、私は窓から身を乗り出したい思いで、先生、と呼び掛ける。厚い眼鏡の奧の、あの優しい笑顔には、もう永遠に会うことが出来ない。章子ちゃんという一人娘は、園部高校に在学していて、私も教えたことがある。おとなしい子だったが、きっと家を継いで、もうお婆ちゃん――と呼ばれているのだろう。会って先生のことを語ってみたい。

  • 若きらの旅に誘はれ登山帽似合ふ君なり白樺林に
  • 度の厚き眼鏡の奧の優しき目 怒りしことのなき人なりき

更新日 平成22年7月25日

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第36回 おばちゃんとおじちゃん

 私は敗戦後、旧満州の大連市から引き揚げ、父の故郷京都に住むことになったが、意外と周りには引き揚げ者が多かった。そのひとりが家庭科被服のS先生、嵯峨駅から同じ電車で通勤した。小柄だが美しい人で、年齢は「学校要覧」に50歳とあった。にこやかに、おっとりと話され、いつも品のいい香水の匂いがした。満州の新京市だったかで、相当いい暮らしをしておられたようである。

 私は親しみをこめて、「おばちゃん」と呼び、あちらも娘のようにあれこれ注意してくれた。ある日は、「あんた、もっとお化粧したらどう?」と言われ、ある日には、「あんたいつも忙しそうやけど、えらい閑そうな時は閑なんやなあ。」などと、私の本質に触れた感想を言ってくれた。

 もうひとりの引き揚げ者の先生は、商業で簿記を教えていたH先生。戦時中の満州で羽ぶりのいい満鉄(南満州鉄道株式会社)に勤め、相当な役目であったらしい。敗戦の折、ソ連兵に連行され糾弾を受けるほどの責任ある地位だったようだ。奥さんに別れを告げ、ひとり家の外へ出た。ソ連兵に腕をつかまれ連行されようとした時、下役として働いていた中国人が、こぞって、「この人はいい人だ。」と泣いて訴えてくれて、連行をまぬがれ命拾いをしたと話される。

 小柄だが、きびきびした商社マンらしい人、そして断固とした信念と熱情の人だった。もともと世話好き、親身に私の面倒を見てくれた。私は、「おじちゃん」と呼び、あちらは「お姉ちゃん」だった。亀岡から同じ電車で通勤していたが、お子さんは無く、病身の奥さんは、寝巻のままでも、出勤の折には玄関に手を突いて、「いってらっしゃいませ。」と必ず挨拶する――と話された。夫婦のけじめもしっかりした、昔気質の人だったのだろう。

 私の3年目の校務は、この先生が部長の「職業指導部」の「書類整理」係と書いてある。書類を触った覚えもなく、大方、遊ばせてもらっていたのだろう。

 この昭和29年の秋だった。台風が急襲して、八木を流れる川が氾濫、八木嶋あたりの土手が決壊して、山陰線が不通になった。生徒らは早目に下校させていたが、なぜか私は帰れなくなって学校に泊まった。保健のI先生と、家庭科のH先生と3人で、保健室のベッドで寝た。夕食、朝食は食物を教えているH先生のお手のもの、調理室で作ってくれたし、保健のI先生は、顔中が笑顔のような明るく気さくな人なので、楽しい合宿だった。

 翌朝、職員室の自分の机の上のものを、濡れないように机の下に片付けてから帰った。隣の、H先生の机上のことは考えなかった。と言うより、他人の物を勝手に触ってはいけないという考えがどこかにあった。自分なら触られたくないと思うのか、いやそうでもない。

 その翌日出勤したH先生は、大変な怒りようで、「知らん、あんたのような人は。」としばらく物も言ってもらえなかった。思うに、その後も、いつも私はこの考え方で薄情な人と思われて非難された。ほんとのところ、私は利己主義な人間なのかもしれない。

  • 右窓は校門につづく杉木立午後は明るみ教科書青む
  • こころよく縛られをりき商社にて部下多かりしあなたの庇護に
  • 歯切れよく生徒をさばく人情家 君の横の座に多くを学びき

更新日 平成22年8月10日

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第37回 園部らしい人

 平成22年6月19日、第10回の『八桜会』(園部高校第8回卒業生の同窓会)に招待された。前回(20年11月16日)に次回の予告があった。1年半も後のこの日に出席できるか不安だったが、何とか元気にこのホテルグランヴィアに来ることができた。

 前回と異なり、私の座も大分落着いてきた。84名の出席者の顔と名も、半数ぐらいは識別できるようになった。今回は担任団のひとり、英語のM先生に会うことができた。一度平成10年くらいの旧職員の会でお会いできているが、それからでも10年以上になる再会である。お世辞抜きでお若く、思わず、「何年生まれ?」と聞いてしまった。昭和2年生まれ、83歳というのに、背筋が伸び、恰幅もあり、堂々としておられた。あの頃の園部高校は、校長をはじめテニスの愛好者が多く、M先生もその仲間であったことを思い出した。

 園部と言うと、最も園部らしい人として浮かぶのが、何故かM先生だった。土地の人と言うだけではない。温和で、不要なお喋りをされないところが、私の園部人のイメージに適合するのだろうか。M先生が初めて担任したのがこの学年だったとかで、最も思い出深い生徒たちの集りである様子。N同窓会長らと語っていられるのを暫らく傍聴していた。

「Y校長から、あんたは一番よく生徒を校長室に連れて来てくれたなあ――。といつも言われた。」ということ。N会長も笑いながら、しきりに大きく頷いて、とても楽しそうである。私は鈍感なので、M先生は感心な人、校長と生徒の融和をはかって、担任する子を連れて、足繁く出入りし、校長も喜ばれたのだろう……と思っていたのだが、だんだん聞くうちに、処分問題が多く、始終その申し渡しに担任として同席したからのようだった。ずばり、確かめると、「どうだったのでしょう。知りませんよ。」とにこにこした。ここらあたりが園部的なのかもしれない。

「中村さん、毎日何してます?」と聞いてくれ、自分は毎日午前中、社会や哲学的な内容の本を読むようにしているが、「2、3ページ読むと眠くなりますよ。」と言われた。当日の挨拶の内容も深かったような気がする。早婚でいられたのか、私の居た頃にはもう結婚もされ、お子さんも居られた気がする。しかし、同志社の大学院にも通っていられて、帰りの電車で、よく一緒になった。ひたすら夢を目指して来られたのであろう。同志社の教授にまでなられた。

  • 担任の大方逝きし同窓会 挨拶ふたり目われになるとは
  • 鷹揚で背高き君は頼もしく丹波山波に立つ大き杉

更新日 平成22年8月25日

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第38回 旧制高校の名残り

 平成22年6月17日の『八桜会』(園部高校第8回卒業生の同窓会)は、テーブルバイキング式というそうで、中華風にテーブルが回り、好きなものを適した量だけ食べられる。私には一番嬉しい方式で、丸テーブルが6台ほどあったろうか。前回の時から各組2名の世話役が決められてあり、皆楽しんでその役を務めている様子。今年は皆、6度目の干支が巡ってくるのだという。

 前回の幹事で会計をされたIさんが亡くなっていた。招待の私へのお土産に、ちりめん山椒を買うなど、気を遣ってくださり、何故か声を掛けそびれたのが気になっていた。しかし、お礼を言うことは永遠にできなくなった。気品のある、言葉の少ない方だったが、前回は更にそうで、目を見合わせながら双方から言葉が出なかった。体調も悪かったのだろうか。嵯峨の大覚寺の華道の師範であられたので、告別式には管長の追悼の辞があるほど、立派だったと言う。

 いいことを言えば、前回体調が悪く欠席だったN君が、すっかり元気そうで、握手することが出来た。最後のカラオケまでサービスして美声を聞かしてくれた。絶対中途半端ではいられぬ優等生タイプの人なのだろう。嬉しいことだった。

 東京のN君は、定年後もやはり国際的な人で、「インドネシアからの看護師・介護福祉候補生への日本語教育の現場から」というプリントを配ってくれた。テレビでもしきりに報道されていることで、彼らは看護・介護の仕事を熱心に学ぼうとしているのに、漢語などの多い資格試験には手が付けられず、合格者はたった2名。3年経っても駄目だと帰国を余儀なくされるのだ。油断できないめまぐるしい仕事の現場、日本語や医学用語を覚えるのにも精一ぱいの過重な毎日であるのに、この資格試験の勉強など、する時間もあったものではない。

 実際の問題の具体例を見せてもらって、その難解さに驚いてしまった。「骨子をなす概念はどれか」「~を疑うのはどれか」などというあいまいな質問に加え、「褥創」「末梢」「合嗽」などの漢語は読みすら難しく、医学のカタカナ用語「トリアージ」「メタボリックシンドローム」などもこなさなければならない。合格は神技(かみわざ)としか言いようがない状態を、具体的に見せてくれるプリントで、いたく考えさせられた。

 また、終わる頃、しんみりと話し掛けてくれたI君の話も、あの頃の高校生の程度の高さを、改めて私に認識させてくれた。自分の周囲には理数系の進学希望者が多くいたが、ロマン・ローランの小説を読むことなど、ごく当たり前のことだった、と言うのだ。息子さんは東大卒、その結婚式に父親として挨拶したのだが、出席者が自分の話に感動してくれた―そのことが生涯のささやかな喜びだという。

 確かに昭和23年から出発した新制高校の生徒は、旧制高校から引き継がれた気概のようなものが、しっかりと残っていたのだ。どの生徒も皆すばらしく、頼もしく、卒業後の活動もそれぞれに立派だったに違いない。私が先生として教えることなどあったのだろうか。私が生徒に追いつくのに精一ぱいの毎日であったのが、今さらのように頷ける思いであった。

  • 選ばれし高校生とふ誇り持つ生徒らなりきみづから学びき
  • 校章の桜・公孫樹(いちょう)を組み合わせ光る学帽 真面目な笑顔
  • 翳り持つ横顔なりき言葉掛ける機(とき)失ひて再び会へぬ

更新日 平成22年9月12日

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第39回 ズータリさん

 『八桜会』(園部高校第8回同窓会)に、国語はM先生だったと言う女性が二人、私のテーブルに来てくれた。「M先生の文法は、ほんとうによく分かった。とても覚えやすく教えてくれた。」と語り掛けてくれた。「ごめんね、M先生が此処に居られなくて私で。」と、真底言いたい気持ちだった。

 そう言えば創立120年の記念誌『公孫樹』にも、第5回の卒業生の一文があった。「『四段かみしもナラのカサ』と不思議とリズムに乗って覚えられました。今でも口ずさむ毎に、先生のお顔を想い出します。そういえば、先生のことを『ズータリさん』とあだ名してました。」と慕われていた様子が描かれている。

「ズータリさん」とは、動詞の未然形と連用形を作るのに便利で、「動かズ」「動きタリ」と簡単に出来る方法を教えられたからであろう。

 先生は小学2年生で父親を亡くし、昭和11年より教職に就いた苦労人。私の在職した頃は37歳とあり、「高等教員検定」と学歴欄に記されている。大学や専門学校などを卒業すれば、教員免許はたやすく取得出来る。独学の場合は「検定」で取るが、それも「高等」の取得は相当難しい。M先生は並々ならぬ苦学をし、しかも知能優秀の方であったはずだ。当時、Y校長が45歳であるから、37歳は決して若くない。堂々としたベテランとして私には映った。この年も教務部と2年6組担任の兼務であったが、昭和11年からの教員歴から計算すると17年目、国語科では学力も指導も随一であった。今から思うと37歳というのは何という若さであろう。

 確か生地は静岡で、美しい標準アクセント。学校行事のマイクを握るのはいつもM先生、放送部の顧問でもあった。座席は第1職員室の北入り口を入ったところ、壁際に行事や教員への連絡が記される黒板があり、その前。体を寝かせるように足を組むか、台か何かに足を載せるかするような安楽な姿勢で、本を読んでいられた。国語学を専攻し、京大の遠藤嘉基教授の教室に出入りし、『讃岐典侍日記』(さぬきのすけのにき)の校註に集中していられた。園部高校の年刊誌『公孫樹』にも毎年、研究や随想を載せている。「あだ名」「さようなら」「口丹波語溯源稿」の外、松崎耕雨の筆名で、「歌日記 関東修学旅行の印象」「源氏物語を学んで=国語乙Ⅲ選択生=」などの生徒の学習のまとめなども発表されている。

 本館横の南口から出たところに掲示板があって、私が「○○○参考書が来ました。申し込んだ生徒は至急中村まで。」と板書すると、M先生はすぐ飛んで来て、写したメモを見せてくれる。こんな簡単な文のどこを間違ったと言うのか。「申し込み」を「申し入み」などと書いていたのであろうか。お目付役も、このそそっかしい新人には、目放しならなかったようであった。今思えば、このベテランに教えを請うべきであったのに、好き勝手の、自己流の授業しかしなかった。

「あだ名」という一文にこんなことが書いてある。「本校の諸君の創作し使用するあだ名は、そんなにくだらぬものであってはなるまい。いかにも緑濃き古城のほとりにこそ生まれたという上品なユーモアと、鋭いウイットに富む、洗練された芸術品であらんことを祈るものである。(昭和29.12.19)」とある。

 私の居た頃は、此処に記すのも失礼なあだ名で呼ぶ人が多かったが、この「ズータリさん」は好意に満ちていて、先生も満足していられたかもしれない。

 生存してこの同窓会に出席されたとしたら、95歳にもなっていられるだろうか。

  • 高きもの目指す足もと確かめつつ微笑み絶やさぬ一生なりき
  • 『讃岐典侍日記』の校註びつしりと書き加へゐん彼岸の机で

更新日 平成22年9月25日

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第40回 母を待つ

 平成22年6月17日の『八桜会』(園部高校第8回卒業生の同窓会)で、閉会のことばを言ったのはA子さん。堂々とした体躯である上、物怖じしない態度で、締めくくりにふさわしい人だった。

 A子さんの国語甲を、1年生だったかで担当した。書いた作文が忘れられずにいた。母は小学校の先生で、帰りが遅く、暗くなるまで門先(かどさき)で待った。祖父母も居て不自由はなかったが、寂しかった――というような内容だった。私が園部を去り、結婚した修学院離宮下の家まで、ひとりで来てくれたことがある。その時、祖母が搗いて、色分けをして作ってくれた大きな菱餅を土産に持って来てくれた。上から赤・白・黄・緑と重ねてあったのが浮かぶ。旧暦の雛祭の頃だったから、大学に入学する頃だったのかもしれない。

 彼女は、私と同じ京女短大の国文科に進学、担任も私と同じF先生だったから、よく文通もした。そのあと、父の勧めで、花嫁修業の意味で、藤川学院に行き、特別研究生を経て教授になった。更にそこが、造形芸術短大から4年生大になり、定年までいることになってしまったと言う。

 一方、私は50歳になってからの10年間、京都市立日吉ヶ丘高校に勤めたのだが、最初の年に古典を教えた2年3組が、とても荒れていた。まだ馴れないこともあり、さんざんだった。眠るのは静かで助かるが、喋る、騒ぐ、移動する。板書していて、さて……と振り向くと、もう顔が変わっている。急に髭のある子が居たりする。○○君と当てると、素直に立って朗読もすれば答えもする。

 隣りの2年2組に、PTA副会長の息子が居て、その母親が、「うちの子、先生の担任やないのに、習っているらしいです」と笑う。聞いてみると、この二つのクラスは、授業中、始終入れ替わっていると言うのだ。木造2階建で、真下が校長室。授業中というのに天井で足音が止まない。良心的なN校長は、見に上がるのも担当の先生に失礼だと、思案の足踏みをしていたとか。その時の、忘れもしない髭のT君は、卒業後、造形芸術短大に進学した。A子さんに、何かの折聞いてみたら、「ああ、居りますよ。なかなかの学生です。」とのこと。やっぱり……と笑ってしまった。こんな縁までA子さんとはあった。

 A子さんは、定年退職記念に作品展をし、案内をくれたが、一乗寺のそこまで行けなかった残念さがある。後日、部厚い著書『手づくりの楽しみ』が届いた。一般の人が簡単に作れるものを……と連載していた原稿を整理して1冊にしたものだ。袋物からエプロン・スカートと、素人の私でも作れる製図があり、あの布で、このスカートをと夢ばかり膨らませたが、1枚のエプロンもまだ作れていない。

  • 夕暮れに母待つ寂しさ 君は子にさせしや否や問ふを忘れし
  • 君の著のエプロンドレス作る夢あせざるままに八十歳(はちじふ)の夏

更新日 平成22年10月10日

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