南丹生活

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第41回 壊された恋

 食物のN子先生は、同じ京女の出身で1歳上、大柄で色白、ふっくらした女性らしい体形で亀岡の人だった。父親が校長という家だったから、結婚相手には事欠かない恵まれたお嬢さんだった。おっとりした物柔らかい物言いで、仲良くしてもらった。

 お見合いをして、そろそろ決まるだろうと思われた頃、抑え切れない思いを打ち明けた先生がいた。激しい思いのようであった。N子先生の周囲には、所属の教務部の先生達が中心になった保護団体があった。おっちょこちょいの私にハラハラする保護者団とは異なり、箱入り娘に風を当てまいとする集団だった。この事件になるまでに、両者の間に入り思いを聞き取る人もあったのだろうが、お見合いの方が優先されたのだろうか。

 忘れもしない、昭和29年の冬、第1職員室の真ん中には、背の高いストーブが燃えて、授業中なので深閑としていた。焚き口で石炭を掻き混ぜる鉄の棒の、真赤になったのを手にした或る先生は、国語のK先生と向き合っていたが、その棒を突きつけて、低い声の口論になった。私は例のごとく予習に忙しく、机にうつ向いたままだった。察するにその先生の激しい思いを、K先生を中心にして、皆で諦めさせようとしているらしかった。赤く焼けた鉄の棒を振り上げた右手を、K先生はしっかりと押さえた。短く制する声が聞こえて、そのまま事は終わった。K先生は柔道も熟練しているとかで、太っ腹だった。

 国語のM先生からは、「中村さん、何かあったらN子さん、守ってあげてね。」と優しく頼まれた。いつも同じ通勤列車で、亀岡まで一緒だったからだ。出来たら守ってほしいカヨワイ? 私が、守ってあげる立場だとは。何とも複雑だった。恋した相手も立派な人だったし、守る役割を果たす機会は無いまま終わった。

 30年の春、N子先生は市立高校の国語の先生と結婚、出産を前に退職した。定年まで勤める女性は、まだ珍しい時代で、女性は腰掛け程度の教職であった。

  • ストーブの燃える静かさ この教材調べ上げねば授業に出られぬ
  • 教師といふ深みにはまりゆくわれに化粧などせよと母は気遣ふ

更新日 平成22年10月26日

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第42回 幸運の女神の後ろ髪

 恋の成立には、向き、不向きもあるが、重要なのは「時」であろうか。時が食い違うと壊れてしまう。そのチャンスを捉むのは、勘であり、決断力、行動力なのであろうか。

 N子先生への恋は、もっと早く打ち明け、穏やかに事を運べば、どちらにも不足な相手ではなかった。同じ職場に何年も共に居て、女性が他の結婚を決めようとする時になって、この人を失いたくないと気付く。幸運の女神には、前髪は有っても、後ろ髪はないそうである。過ぎ去ろうとした時には、もう間に合わない。

 その幸運の女神の後ろ髪を掴めた人もあった。同じ家庭科のY子先生は、同志社出身の講師で、愛らしい人だった。昭和29年度の卒業式だったが、私たちは和服に袴姿で参列する約束をした。Y子先生だけが黒いビロードのワンピースで、とてもお洒落で、可愛く見えた。私は着馴れない和服に胸元が苦しく、母に無理を言って袴を縫ってもらったのだが、何か卑屈な忍従を強いられている女性の代表のような感じだった。和服は私に合わない、その時身にしみて思ったので、以後はほとんど着たことがない。育った大連の家は呉服屋だったと言うのに。

 Y子先生も、その時代の通例として、幾つかのお見合いは体験していたことであろう。もう決まってもいい年頃であった。数学のT先生との噂さなど聞いたことがなかった。だのに、突然決まった。T先生が申し込まれたとのことだった。T先生は、ぶっきら棒で、正直な人で、生徒の人気は抜群だった。「もちこい先生」とあだ名で呼ばれた。持って来いを早口で言うと、そう聞こえるのだそうだ。広島高等師範学校の出身だから、広島方言なら、そんな感じの言い方になるような気がする。短く切った油気のない頭髪が、さらさらしていて、垂れ下がる前髪を掻き上げ掻き上げしていた姿が浮かぶ。幸運の女神の後ろ髪をT先生は掴むことが出来た。あんなに若々しく元気だった人が、定年後間もなく他界されたと聞いた。あの時、思い切って行動したお二人の、中・晩年は、幸せだったに違いない。

  • 袴つけしわれらの真ん中ビロードの黒つややかにあなたは笑ふ
  • 三月の日差しまぶしみ写る四人 老女の今を何思ふらむ

更新日 平成22年11月9日

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第43回 ファイア‐ストーム

 私が園部高校に赴任した昭和27年の秋、運動会を前にして生徒らはファイア‐ストームに燃えていた。ある日の昼休み、急に生徒会の指令で全校生徒が、体育館に集められた。付属の要求として、国語のY先生の後任は、同等の学力のある教師を、ということもあり、非力な私がその後任のように、この時期に転任して来てしまったことが、何とも惨めであったことは、先の「転任のいきさつ」に触れた。

 『学芸(後に公孫樹に改名)』と言う年刊誌があって、「想い出の記」という5ページが当てられている中に、「ストーム」の感動が多く綴られている。「夜空を焦がす情熱の火の、おお大地をゆるがす青春の歌声」「何処からか聞えるデカンショ節 花さそう火、まさに天を突かんとす 踊り狂う若人は次第に夢の境地へと」「夕闇に包まれた校庭に赤々と燃える火。その火を取りまいて手をたたき、唄いそして駈け回りながら、学生生活もあとわずかと思うと、ただでさえ寂寥に襲われるのに空の星はなおも淋しさを誘う。」と、記されている。まさに青春の血を燃える火に託し、夜空の星にロマンを感じながら、最後の学生生活を謳歌する一夜であったようである。

 しかしこのストームは他校生の入場も許されたこともあり、闇の中の解放感と昂揚は、常識を逸脱した行動を誘発したらしい。29年度は、生徒の熱望にもかかわらず、実施されなかった。生徒らの失望は大変なものだったらしい。中にはやけになって酒を飲んだりする者もあったとか。30年度も中止したい学校側に対して、再びストームを熱望する声が上った。28年と同様、生徒会が全生徒を招集、昼休みから5時限の授業もカットした集会に、私はすっかり驚かされた。戦時中の教育を受けた私にとって、学校の時間割を、集団の力で押し潰すなど、とんでもない非行であった。

 学校側も譲らなかったようで、妥協案として昼のグラウンドのストームとなった。闇でこそ火は映える。多くの火祭はみな闇である。明るく差す日の光の下で燃える火など、しらじらとして気が抜けたようであった。

 『公孫樹』に、社研クラブの「たいまつ」という詩の幾編かの中に、「ストーム」という詩があった。「私たちの手で勝ちとった、ファイア‐ストームしっかり組んだスクラム 互いに交流する血潮は 輝かしい未来 社会の進歩に向う 青春の唱歌だ もえる情熱は平和にみちみちた 青春のバク発だ みんなの目はいきいきと輝き その目は互にささやいている “やれば出来るぞ”“団結すれば”」

 社研の顧問は社会のI先生だった。額の広い、理性的な人、冷静な理論による指導の跡の見える詩である。この日、踊る生徒らを、I先生は1歩離れた所から、じっと見守っていたという。フォークダンスが流行していて、オクラホマミキサーの曲で、向かい合った輪が逆行しながら回って行く。次々と手を取る相手を変えながら軽やかに踊る。相手の目に微笑みを返し、男女の差なく柔らかく手を握り合う、新しい時代の伸びやかな踊りを、グラウンド一ぱいに楽しんだ。

 夜の行事に出来なかった生徒会の無念を、少しでも慰めようと、朝礼台に立ち、応援旗を振っていたのは、数学のT先生だった。その後ろ姿が、今も目に焼き付いている。

  • 師弟の垣、男女の垣をとっぱらひフォークダンスに酔ひしあの秋
  • 手を取りて挨拶交はししなやかに回転しつつ次の手を取る
  • 秋陽差すグラウンドに大き二つの輪逆回りする目つむれば今も

更新日 平成22年11月25日

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第44回 ジャイアント

 ジャイアントと呼ばれ親しまれたのは、英語のY先生。私の在籍当時44歳の同志社出身、大柄な体を少し前かがみに歩く。度の強い眼鏡を本の紙面にこすりつけるように近づけて読む。それも、さして苦にならない様子で、全く社会の風習など気にしない無邪気さ。山科が自宅だったから、毎朝同じ列車で通勤した。『学芸(後の公孫樹)』には、「憧れの英国へ」の一文がある。船で15日程かかって行き、K・Hホールで社会事業に従事した―とある。同志社の関係からだろうか。難しい話はなく、生徒らにロンドンの街の珍しい風習を紹介するのが目的の文章であった。

 文学好きな人だったので、話も合ったし、あちらも若い女の子の私は快かったらしく、気に入っていたようである。恐妻家で、絶えず妻の話、そして必ず、結婚なんかつまらぬものやし、せんでもいい。と言われた。まだ結婚が一つの夢であった私は、そんなわけないやろ……とひそかに思っていた。

 昭和30年に担任した1年6組のH君からの手紙に、「Y先生に初めて会って挨拶したとき、『君の名は?』と聞かれたので、フルネームで答えると、その後で、『はい、おはよう、H君』と返事が返ってきました。それから挨拶するたびに、『おはよう、H君』と返事がもらえるのが嬉しくて、先生が列車から降りられるのを楽しみにしていたものです。今になって思えば、英語担当の先生としては、当たり前のことを実践されていただけだったかもしれません。けれど、たいていの先生が『おはよう』とだけしか返事がない中で、必ず名前を呼ばれたことで、Y先生には、当時、ぐっと親近感がわいたものでした。」とあった。眼の悪い分、聴覚の記憶の確かな人で、人間味のある人だった。このH君は、後に中学校の英語の先生になっている。

 詩などに凝っていた私は、あまり気を遣わなくていいY先生に、よく読んでもらっていた。結婚する前、Y先生がその詩を全部預かってあげると言う。愛とか恋とか死とかは、整理してから結婚した方がいい――と思ったのか。ふとその言葉に乗せられて預けた。何年後だったろうか。思い付いて山科の家を訪ねた。安朱馬場町、定年後の先生はさらに視力が衰えて、部屋の壁を伝って歩いていた。会いたかった恐妻は、やはり外出好きと見えて留守だった。詩を返してほしいと言ったが、そんなもの、預かってない、とすっかり忘れ去っていた。残念だった。1冊の青春の詩集ぐらい作れるほどあったのだから。

  • 若き日の詩片のやうなちぎれ雲しばし輝き流れ去りたり

更新日 平成22年12月10日

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第45回 万葉古今植物展

 裏庭から南に広がる休耕田に芒の穂群のそよぐのが見え、右隣の田んぼの稲は黄色く熟れた。畦には曼珠沙華がつんつん伸びはじめ、炎群(ほむら)のように燃えあがる。この頃になると、急に風流心が湧きあがり、花鋏を手に川堤を歩く。竹篭の花器に秋草を入れてみたくなる。

 文芸部の顧問をしたのは昭和28年、園部高校に就任して半年後だったか。既にこのクラブはあったのか、それとも詩歌好きの私に集って来て新設したものだったか、定かには覚えていない。文学好きの、それも優秀な女生徒が集ってくれていた。第7回卒業の生徒らが3年生の29年の秋、文化祭に「万葉古今植物展」という展示をした。

 時は秋、万葉集にも古今集にも花や木の歌が多くある。

  • 路の辺(べ)の壱師(いちし)の花のいちしろく人皆知りぬわが恋妻を(柿本人麿)
     ※壱師は彼岸花
  • さぬ葛(かづら)のちも逢ふやと妻のみに祈誓(うけ)ひわたりて年は経につつ(柿本人麿)
  • 葦辺(あしべ)行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ(志貴皇子)
  • 高円(たかまど)の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人無しに(笠金村)

 又、山上憶良の有名な秋草の歌もある。

  • 萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花
         女郎花(をみなへし)また藤袴 朝貌(あさがほ)の花
     ※朝貌は今の桔梗

 これならば、1首に秋草は七つも出ている。古今集にも、

  • 秋風の吹き裏がへすくずの葉のうらみても猶うらめしきかな(平貞文)
  • 女郎花秋野の風にうちなびき心ひとつを誰に寄すらむ(藤原時平)
  • 心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花(凡河内躬恒)

 などと材料には困らない。どの歌を挙げたかは記録していないので分らない。

 アルバムに2枚のスナップ写真があって、その展示の様が思い出される。半切に筆の流れも美しく、墨継ぎの濃淡も際やかに1首ずつ書かれ、その前にそこに歌われた秋草が花瓶に挿してある。一教室分の展示で机を積み黒幕を張って、「ヨ」の字にめぐりつつ観賞出来るようにしつらえてある。文字を書いて下さったのは、何と谷辺橘南、書道の大家。日展の審査員になられた方だ。全く謙虚な親切な先生で、労を惜しまず書いて下さり、又、短歌にも植物にも詳しく、教えていただいて追加した作品も多かった。あの見事な半切は、展示後、誰かが貰ってくれ、大切に蔵われているに違いない。

 展示を背にした記念写真に、19名が満足の笑顔で並んでいる。私も後方左に首をかしげて笑って並んでいるが、着ているのはオールドローズ色のワンピースだったな、と思い出す。

  • ふつさりと垂れし稲穂は斎(ゆ)つの櫛 三輪山くだる風を梳きつつ
  • 渦を巻き倒しし稔りの田を抜けて風神はうしとらの宙(そら)に消えたり
  • 鶴首の縁欠けてより秋よろしう秋明菊に狗尾草(えのころ)添はせる

更新日 平成22年12月26日

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第46回 老大家

 卒業式に羽織袴で威儀を正して並んでいるのは、美術の人見少華先生(66歳)と、書道の谷辺橘南先生(48歳)だった。昭和23年に新制高校が始まったが、旧制の時代の名残りで、すぐれた先生が多く、後には大学の教授になった方が殆んどである。非常勤講師の人見先生とは言葉を交わしたことがない。来校されても美術室に居られたからだろう。

 未だに、先生に学んだ墨絵で、園部を描いているN君(第8回卒業)に出会い、特になつかしい園部城の城門、高校の校門にもなって毎朝くぐったその門の重厚な迫力ある筆勢に圧倒された。

 常勤講師の谷辺橘南先生は、いつも同じ列車で通勤した。丸顔の人なつこい笑顔の方で、新参の私に優しかった。駅から山道をたどる道の辺の、草や花の名を教えて下さり、ご自分の作った短歌を読ませて下さる。アララギ風な静かな叙景歌が多かったように思う。

 文芸クラブの「万葉古今植物展」には、惜しげもなく、美しい筆跡を半切に書いて下さったからだ。何枚も何枚も、心を尽して生徒のために書いて下さったその優しさ。仮名が専攻で、後には日展入選の常連になられ、遂に審査員としてその名を残されたのである。人見先生の場合と同じく、その流れを汲む教え子が、今も先生の文字を習っている。

 先生のお宅は、京都の田中関田町バス停から近く、出町の加茂大橋を東へ入ったあたりだったと思う。一度寄せていただいたが、広い板の間の稽古場だけが目に残っている。私の家は今出川大宮で、先生のお宅に比較的近くて、欠勤される時は、小学4年生ぐらいの坊ちゃん、先生によく似た丸顔の可愛い少年が、自転車で知らせに来られた。

 私の家は電話が無かったから、わざわざ朝早く知らせに来て下さったのだ。あの坊ちゃんも、もう70になっていられるだろうか。幻のように先生のお宅への道筋を思い浮かべる。

  • 加茂川は草仮名の音に流れゐつ橘南の歌の墨継ぎ見ゆる

更新日 平成23年1月9日

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第47回 どんぶり会議

 職員会議は毎週水曜日だったが、確か5限で授業が終わり、第1職員室に集まる。就任2年目から、私の居室はそこだったから、他の大勢が椅子を隙間に入れて、ぎっしりの集団になる。議題の大方は忘れた。というより、私が発言しなければならぬことはなく、自席で明日の予習をしていればいい。

 各自が給料から親睦会費を差し引かれており、そこから職員会議にはお菓子が配られる。少し長引く時は、うどんが出る。さらに長引くと、どんぶりになる。今日は「どんぶり」会議やろか、いや意外に早く片付くから「うどん」会議と違いますか、などと暢気なことを言い合っていた。平和な時代だった。

 京都市内から通勤の者が半分近くいたから、7時ごろになると気もそぞろ、早く立たないと列車に間に合わず、家に帰れなくなる。町内バスの時間を気にする者、真暗の山道20分の時間を思う者。ひとりが立ち上がると、一斉に京都組は立ち上がり、堂々と職員室を飛び出る。自然と、多数決を必要する議題はお流れになる。妙におかしい会議だった。

 7時の汽車で帰ると、家に着くのは9時半、そのまま寝て、又5時起きで、6時50分ぐらいの列車に乗るというような時のめぐりとなる。深刻な問題のない時代だからこそ、3年半もこんな具合に通わせていただいたのだろう。PTAからの苦情も無く、府教委からの叱責もなく、警察の絡む非行もない。いや、あったかも知れぬが、上層部で処理していて、下々の私には聞かされなかったのかも知れぬ。

  • 左から右へ議題は流れゆき予習たつぷりしてゐる会議
  • 学籍簿同姓なれば擦り替へて転校させし子もありしとか

更新日 平成23年1月25日

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第48回 担任競う認定試験

 職員会議の中でも重要なのは認定会議で、特に卒業生の及落や、成績については、2月のはじめにある。3月上旬が卒業式だからで、皆勤賞は明白に決まるが、優等賞というのがあって大変だった。

 3年間の平均が4.5以上の生徒で、さらにどんな活動をし、どんな人柄であるとかも話し合われる。6クラスの担任は推薦に必死の様相であった。昭和29年の会議は、私も2年半縁のあった生徒であり、私の顧問の文芸クラブには成績のいい女性徒が多かったので、盛んに名が挙がった。さすが、内職の明日の下調べを止めて耳を傾けていた。

 A子さんの担任は、「体専」とニックネームで呼ばれるT先生、高い背筋を伸ばし、几帳面にすぐれた点を並べ立てる。横にいた私に、他人事みたいに聞いてないで、中村さんとこのクラブでしょう? ときつい視線を向けられる。兎に角立ち上がり、しどろもどろながら、秋の文化祭の「万葉集古今植物展」をするのに、さまざま努力してくれたこと、1954年の『公孫樹』に、「蕪村の人柄とその作品」という研究を2年生の折に書いていたこと、そして温厚で明るく下級生にも慕われたことなど列挙した。

 すると、T先生の横で、これまた自分のクラスのO子さんを推薦している社会のK先生、何か象のように大柄で細い目で、篤実な人だったが、「中村さん、O子も文芸クラブでしょう? 言ってやって下さいよ」、とせき立てる。又、立ち上がって、部長だったこと、責任感が強く、多くを語らない子だが、しっかりしていて、これ又、『公孫樹』に短歌を載せ、さらに、「ノートリット」という、人間の真の幸福や、女性らしさは、一人の人間として生きることによって成り立つ――という論を書いたことなどを取り並べた。私も二人について一生懸命だったが、二人が優等賞を貰えたかどうかは覚えていない。

 3月8日卒業式は快晴だった。貰ったばかりの証書を巻きながら、O子、S子らとテニスコートの審判員の高椅子の上段に立ち、私も中段に上がって撮ってもらった写真がある。私は黒い薄手ウールのワンピース、スカート部分はたっぷりとフレアーになっている。衿元には光るブローチ。精いっぱいの礼装のつもりだろう。高椅子に上がったので角櫓が背に近々とある。桜の大枝がつやめき芽吹きを待つようである。「園城の櫓 春光に輝く」とアルバムにタイトルを付けてある。また場所を変え、温室の前(購買部が背に見える)の枯草に座った6名とのスナップもある。ここにはK子が私の隣で澄まし顔でいる。丸顔でお下げ髪、卒業後も長く縁があり、嫁して50歳ごろはお茶の先生などもしていた優しい子であったが、今は亡き人となった。文芸クラブの送別会は3月1日に既に済ませてあった。卒業生の後ろに、下級生(第8回卒)が並び、皆思い切り笑っている。

  • 歳ごとに春光溜まるテニスコート花のつぼみは脹らみてゐむ
  • 五十五年前の春光溢れしめ卒業写真の君お下げ髪

更新日 平成23年2月8日

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第49回 卒業式前後

 卒業生を送る予餞会は毎年2月中旬にあり、盛大だった。私が赴任したのは昭和27年の秋、この年度の卒業生とは半年の縁で、認定会議はやはり最終の7時の汽車でしか帰れなかったが、発言することもなく、頭上を素通りした。この頃になると卒業生らは、てんでに小型アルバム風な思い出帳を持って回る。事務長のU先生まで、「おしとやかに」などと書いている。

 女の人への要求はまだ、あの時代風なものだった。私のところに来たら、断然「世の中の明るさのみを吸ふ瞳」にする。啄木が函館の弥生小学校にいた折の同僚にほのかな恋心を抱いて歌った『一握の砂』の中の「煙」の章にある好きな歌の上句だ。

 卒業式は講堂だが、うかうかと赤いスリッパで行こうとしたら、英語のT先生から又、「靴をはいていらっしゃい。」と怖い顔をされた。

 2年生の送辞を読んだのは誰だったか? 赴任したての未熟な私にも、晴れの場の指導が当たった。

 午後からの謝恩会は茶話会。流行(はやり)の「何のようですか」のクイズだった。司会は国語のM先生、あっという間もなく当てられてしまった。「ピアノの音のようです」「何、何、聞こえない」「はっきり言え!」と野次が飛ぶ。内容は「卒業証書」だったので、「喜びのリズムがこもっていたから。」とかろうじて切り抜けた。M先生はひどい人で、容赦なく私を当てた。才能をためされていたのか、引き立ててもらっていたのか分からない。新任なのに、古い人を押しのけて引っぱり出されたが。日記に詳しいところを見ると、そのことが嬉しかったのだろう。

  • 野次飛ばす五歳違ひの卒業生 ひるまず応じしわれ若かりし
  • 大人びし卒業生らにあしらはれ木の葉のごとく揺れ揺れし意地

更新日 平成23年2月26日

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第50回 職員劇『父』

 昭和29年の予餞会(卒業生を送る会)は、2月19日。演劇好きの国語のN先生の音頭取りで皆集められる。出し物は『父』。筋書きも作者名も忘れたが、父役は数学のN先生。42歳だったが、気が若くいつも若者を支えてくれた。黒っぽい和服に羽織、しかつめらしく映っているから、気むずかしい父親役だったのか。照明は英語のM先生と体育のT先生、弟の次郎役が国語のN先生で、登校拒否でやや痴呆がかった、手の付けられぬ青年。私は姉の早苗で30歳の和服姿。頭に血のにじんだ繃帯を巻いている。弟に怪我をさせられたという設定。舞台は柵に導かれる玄関、そこから和室が一段高く、床の間に「飲酒和陶詩」と軸が掛けてある。きっと書道のT先生の字だろう。

 折しも担任の新宮先生が家庭訪問に来て、姉の早苗が迎え、玄関で立ち話。弟は酒に酔っているのか、大分荒れている様子。先生が煙草を出すので、私がマッチで火を点ける。国語のK先生が扮したのだが、この場面が好きで、私はしたこともないサービス。練習を積んでとても苦心の一幕だった。他に米屋のオッサンという着物姿が数学のK先生。父の友人の三田さんという着物姿が体育のY先生。大学の角帽をかぶった地理のT先生もいる。しがねえ靴磨きの三公が、顔を汚した数学のT先生だ。他に兄の正雄と演出を兼ねた化学のH先生がいる。この人も28歳で家庭を持っていたが、付き合いのいい人だった。何の役だったか菜っ葉服の社会のY先生もいる。

 終ってから本館玄関前で記念撮影をしているが、職員劇は予餞会の呼び物の第一だった。授業が終ってから、てんでばらばらの練習だったが、何とか形にしたのは、教師らの知恵であったろうか。皆、生徒思いであり、若いという自負もあって、労をいとわず、演じる楽しみも大きかった。上から教えることなく、共に行動して、私を温かく包んでくれたのだ。幸せな教師としての出発であった。

  • マッチ擦り煙草に火点けるサービスをただ一度せし舞台に立ちて

更新日 平成23年3月10日

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