南丹市の誕生
旧園部小学校を再利用した市役所
南丹市誕生の背景〜平成の大合併〜
平成18年1月1日、船井郡園部町・八木町・日吉町と北桑田郡美山町が合併し、南丹市が誕生しました。なぜ南丹市が誕生したのか。ここには「平成の大合併」と呼ばれる時代背景がありました。
平成11年からスタートした平成の大合併は、政府の行(財)政改革の一環として推進されたものです。行政改革は構造改革とも言い、新自由主義の思想に基づく小さな政府論と市場原理主義(公共サービスの民営化、国内産業や労働者を保護する規制の緩和、大企業・外資系企業の優遇、公共事業の削減、地方分権など)を政策の軸にしています。
合併のメリットとして、次のようなものが挙げられていました。小さな市町村が合併することで行財政基盤を強化し、行政サービスの高度化・多様化の需要に対応できる。議員や職員の数を減らすなど経費削減・効率化・合理化を行なうことによって、地方財政が再建・改善できる。大規模化することで政令指定都市等へ移行し、権限が拡大するなど地方分権・地方自治が推進できる、などです。
合併のデメリットとしては、それぞれの地域の特色・伝統がなくなる恐れがある。それぞれの地域の住民のニーズに合った行政が失われる恐れがある。広域化することで行政サービスが低下する恐れがある、などが挙げられます。
政府の推進した平成の大合併の実態は、地方分権の掛け声のもとに、地方交付税や国庫補助負担金の削減など、政府による地方の切り捨て政策であると指摘する声もあります。現実に政府が推進してきた政策は、公共事業の削減、大企業・外資系企業の優遇、国内産業や労働者を保護する規制の緩和などで、その結果、地方の疲弊や荒廃、地域格差の拡大、貧困層の増大による格差社会の到来をもたらしました。
地方分権では、「地方にできることは地方に」というスローガンの下、いわゆる「三位一体の改革」が推進されてきました。三位一体の改革とは、国庫補助負担金改革・税源移譲・地方交付税の見直しの三つを一体として行なう改革です。しかし、補助金や地方交付税の削減、そして道路・ダム・箱物など土建中心の公共事業の削減は、それらに依存してきた地方にとって危機的な状態をもたらしています。税源移譲と言っても、実態はさほど移譲されておらず、裁量も広がっていませんし、そもそも課税対象が少なく財源が乏しい自治体には税源移譲はほとんどメリットがないということもあります。
このような国への地方の依存体質は、国策的に推進されてきた産業構造の近代化による地方の衰退の一方で、官僚主導の省益拡大を目的とした紐付きの公共事業によって地方を依存体質にさせてきたという実態があり、政治家はこの路線上で地元への利益誘導によって支持基盤を確保するという政官業の癒着の構造そのものでした。この構造の後始末をせずして地方分権の名の下に地方を切り捨てるというのは国の無責任ですが、地方が財政的に自立して行き、地域に合った政策を行なうことは望ましいことです。
しかし、財源的に見て地方が財政的に完全に自立経営に転換することは不可能ですし、国が大きな国家経営のヴィジョンの下に地方に対して相応の負担をすることは当然のことです。地方分権においては、もっと本格的に地方に税源移譲をして教育・医療・福祉などに関しては自治体が自立経営し、国はライフラインのインフラ整備や国土保全に関して責任を持つという役割分担を明確にして、それぞれの領域で責任を持つという方向性が望ましいでしょう。当然、無駄な、そして未来のない公共事業はやめるべきであり、未来のために時代のニーズに合った高付加価値で生産性の高い産業に公共事業を転換しなければなりません。しかし、公共事業や需要喚起のための政府の財政支出そのものは否定すべきではなく、効果的に行なわれるべきものです。
農林業の位置づけということも考えなければなりません。国土保全や環境問題や食糧自給など地方が担うべき役割は安全保障の一環として国の存続に関わる社会資本であり、そのすべてを経済効率には換算できないものです。この点が日本の地方政策では忘れられてきました。そして、そうしたことを考えて行けば、経済のグローバリゼーションとは異なる、持続可能な循環型構造を基本とする地域システムを構築することが結局は必要になると考えられます。
一方で、財政再建を地方や社会的弱者にしわ寄せしながら、中央官僚の利権は温存されており、公務員制度改革は進捗していません。民営化の名の下に、政府のコントロールのきかない天下り先を増やしているだけという批判もあります。抜本的な公務員制度改革が望まれます。
国だけではなく、地方の行政改革も必要です。地方公務員や地方議員による税金の無駄遣いを排除し、民間との協働(パートナーシップ)を推進し、指定管理者制度や行政機能の民間(企業・NPO)への委託などアウトソーシングを活用すること、そしてその一方でそれが第3セクター・NPO法人などを隠れ蓑にした利権構造になったり、パートナーシップの美名の下にNPOを安上がりな下請けとして利用することになったりしないようにすることが必要です。税金を地域社会や市民生活に還元することのみに主眼を置いた透明で公正な行政のあり方へ改革・再編すること、そして地域全体が持っている潜在能力を最大限に引き出すことが求められます。また、地域振興のためには従来のハードウェア偏重を改め、人材やソフトウェアをこそ開発すべき時代になっていますし、国だけではなく地方も持続可能な循環型構造を基本とする地域システムを構築する努力をして行くことが必要です。民間企業の経営を取り入れた行政の経営改善と組織力の向上も必要です。
いずれにしても、国も地方もしっかりとしたヴィジョン、コンセプトと、グランドデザインに基づいた制度作りと予算の組み立てとチェック体制を構築しなければなりません。
話を戻して、合併特例法(市町村の合併の特例に関する法律)は、合併を推進するために、平成17年3月31日に期限を切り、そこまでに合併した市町村には合併特例債を認め、地方交付税額を保証し(10年間)、市町村統合に必要な経費に対する補助金を交付するなどの財政上の優遇措置を打ち出していました。合併すれば得になる、しなければ損になるぞ、という合併推進策です。市町村はこの優遇措置を目当てに合併に流れ込んで行ったという現実は否めません。
市町村が優遇措置目当てに合併に流れ込んで行ったことは、見方を変えれば、構造改革によってどうせ切り捨てられることになるなら目の前の優遇措置をとりあえず選んでおこうという地方の生き延びの選択でもありました。地方経済ではこれまで土建中心の公共事業が大きな比重を占めてきましたが、従来型の公共事業依存の経済構造には将来はありません。しかし、短期的には合併に伴う公共事業があるので、合併は地方の既得権を持つ経済構造が一時的な延命を図ったという面もあります。地方としては、短期的に合併特需でしのぎつつ、景気回復を待ち、その間に少しでも将来に向けての改革や基盤整備をするという選択だったのでしょう。しかし、合併前後の駆け込み需要やドサクサ支出、合併バブルと言われる現象も起こり、合併特例債による支出が今後財政的な負担として重くのしかかっていく自治体もあるようです。
結果的に平成の大合併では、3232あった市町村が1804までに再編されました(平成19年3月31日現在)。
合併の経緯
合併の経緯を振り返りましょう。
平成14年7月15日、北桑田郡・船井郡の8町の長等で構成する「北桑田・船井地域分科会」を設置。この段階では、京都市に編入された京北町も参加していました。京北町は8町の合併ではなく京都市への編入を望み、平成14年11月7日に京都市に編入を申し入れ、平成14年11月15日には分科会を休会しました。平成14年12月2日、残る北桑田郡美山町・船井郡の7町の長等で構成する「北桑田・船井地域任意合併協議会」を設置。この段階ではまだ、のちに別個に合併して京丹波町となる丹波町・瑞穂町・和知町を含めて新市を構想していました。
しかし、丹波町・瑞穂町・和知町との間に不協和音が生じ、平成15年12月9日の第7回北桑田・船井地域任意合併協議会において丹波町・瑞穂町・和知町が離脱し、4町で合併協議を進めることとなりました。
4町の住民の中にも合併に反対する動きがあり、美山町では平成14年10月4日に合併に慎重な住民で構成する「美山住民投票ネット」が議会に合併の是非を問う住民投票条例の制定を請求、しかし同年10月26日に美山町臨時議会で賛成6反対7(白紙1を含む)という小差で否決されました。この結果に対して「美山を愛する2875ネット」は平成15年1月28日に議会の解散請求を選挙管理委員会に提出し、同年2月28日に住民投票が行なわれましたが、議会の解散請求は否決され、合併の方向が確認されました。日吉町でも平成14年11月16日に「これからの日吉をみんなで考える会」が合併の是非を問う住民投票条例の制定を請求し、11月30日の日吉町臨時議会で賛成2反対13の大差で否決され、住民投票にまでは到りませんでした。
平成16年3月16日に各町3月定例議会で合併協議会設置議案を可決。同年4月1日、「園部町・八木町・日吉町・美山町合併協議会」を設置、同月15日、第1回園部町・八木町・日吉町・美山町合併協議会を開催。その後、平成16年6月15日〜30日には住民アンケート調査を実施し、何度も合併協議会や小委員会を開催し、平成17年3月25日には各町で合併関連4議案を議決。同年3月30日、京都府知事へ合併申請を提出。同年4月1日、「南丹市合併準備局」を設置。同年8月12日、「南丹市」発足の総務省告示。同年12月31日、「園部町・八木町・日吉町・美山町合併協議会」を廃止するとともに、「南丹市合併準備局」も解散。
以上のような経緯を経て、平成18年1月1日、南丹市が誕生しました。
市名決定の経緯
南丹市という名称が決まった経緯ですが、平成16年7月28日、第3回合併協議会において新市の名称候補を公募することが決定。同年9月30日、第8回新市建設計画策定小委員会において、応募のあった540候補の中から委員投票により5候補が決定しました。5候補は南丹市・西京都市・京丹波市・京南丹市・京口丹市でした。
平成17年1月26日、第8回合併協議会において投票が行なわれました。1次投票の結果、南丹市と西京都市に絞られ、決選投票で新市名称が「南丹市」に決定しました。南丹市23票、西京都市17票という票差でした。
委員の中には西京都市を推したい人たちも多かったようで、これは将来亀岡市との合併を射程に入れた場合、南丹市という名称では亀岡市に飲み込まれてしまう恐れがあるので、西京都市という名称にしたいということもあったようです。しかし、京都の西と言えるのは南丹市の一部であることを思うと、丹波の南部というエリアを表わすものとしてずっと使われてきた「南丹」は4町すべてをカバーできる名称であり、適切なものだったと言えるでしょう。実際、亀岡市も含めて南丹地域であり、南丹市・京丹波町・亀岡市を対象地区とする役所に京都府南丹広域振興局や京都府南丹教育局があります。もし将来亀岡市と合併する場合、南丹市や京丹波町が亀岡市になる必然性は全くありませんが、逆に亀岡市が南丹市になるのは自然なことと言えるのです。
初代市長事件〜保守分裂を背景に〜
こうして新たな船出をした南丹市でしたが、初代市長が就任まもなく公職選挙法違反で逮捕され、辞職するという新市を揺るがす事件が発生しました。
初代市長選は保守分裂の選挙でした。これは南丹市が生んだ大物政治家野中広務元衆議院議員の後継争いに端を発した保守派内の内紛が原因です。
そもそもの発端は平成14年の京都府知事選挙で、野中広務や自民党が推す山田啓二前副知事に対抗して、当時八木町長で野中グループだった中川泰宏が出馬したことです。知事選は山田啓二が当選しましたが、中川泰宏の後任を決める八木町長選では、中川泰宏が推す八木町の野中広務後援会会長で前八木町助役の関武夫と野中広務が推す元八木町議会議長の岸上吉治との戦いになり、岸上吉治が大差で当選しました。
翌平成15年の第43回衆議院議員総選挙では、政界を引退した野中広務の後継者として亀岡市長の田中英夫が自民党公認で出馬しますが、中川泰宏はここでも対抗して出馬し、田中英夫が当選します。しかし、田中英夫は小泉純一郎首相が推進する郵政民営化法案に反対したため、同年9月11日の第44回衆議院議員総選挙では造反議員として無所属での選挙を余儀なくされます。この時、前回の衆院選で自民党に反旗を翻したはずの中川泰宏がまたもや登場し、今度は小泉首相の刺客として構造改革路線を掲げて出馬、田中英夫をわずか156票差で破って当選し、いわゆる小泉チルドレンになりました。
このような保守分裂を背景に、平成18年2月19日に新市の初代市長選挙が行われました。初代市長への意欲を見せていた野中広務の実弟で旧園部町長の野中一二三が引退を表明したことから、選挙は野中広務や野中一二三などが推す野中広務の元秘書の佐々木稔納旧園部町収入役と、中川泰宏が推す野中グループだった中川圭一旧園部町議会議長の対決という代理戦争になりました。かねてから中川泰宏に呼応する動きを見せていた南丹市出身の府会議員で野中グループだった高屋直志は中川圭一支持に回り、4町の自民系町会議員もどちらかの支持に分かれての戦いになりました。中川泰宏は小泉チルドレンの仲間である片山さつきや杉村太蔵を招いて派手な選挙戦を繰り広げ、結果は中川圭一が次点候補者佐々木稔納にわずか17票差をつけて当選しましたが、市長就任直後に公職選挙法違反(買収行為)が発覚、3月12日に逮捕、同月22日に辞職という前代未聞の事態となりました。
4月30日に再選挙が行なわれますが、さらに代理戦争は続き、野中広務や旧4町の首長が推薦する佐々木稔納と中川泰宏が推す野中グループだった旧園部町助役奥村善晴の対決となり、今度は佐々木稔納が大差で奥村善晴を破り、二代目市長に選ばれました。
一連の保守分裂選挙はポスト野中広務の権力の空白に生じたものでした。その後も争いは尾を引き、平成19年4月8日の府会議員選挙でも中川泰宏が推す現職の高屋直志と野中グループが推す新人で南丹市議の片山誠治の戦いになりました。この時は片山誠治と確執があった野中一二三がそれまで敵対していた高屋直志支持に回るという番狂わせがあり、野中兄弟が分裂するというさらに複雑な事態になりましたが、結果は片山誠治が当選しました。今後この地域の政治がどうなっていくかは不透明ですが、まだまだ争いは続きそうです。(文中敬称略)
南丹市の現状と課題
南丹市は、旧4町時代から丹波ブランドや京野菜など付加価値の高い特産品があり、学園都市作りを実現し、伝統産業と先端産業が融合した新たな産業拠点を作ろうという「新光悦村」構想を京都府や産業界と共に推進し、企業誘致を推進し、独自の子育て支援で少子化対策に一定の成果を挙げ、美山町は田舎の特性を活かした観光振興に成功するなど、未来に向けて活用できる基盤があります。関西の都市部とのアクセスもよく、平成20年には園部駅までのJR山陰線の複線化が完了する予定なので、都会に近い自然豊かな地域という恵まれた条件にあります。
しかし、財政的には厳しい状況にあります。南丹市は多くの山間部を抱える広域自治体ですから、道路の整備補修や治山治水が財政を圧迫する宿命を背負っている自治体です。合併後初めての通年度の決算となった平成18年度の経常収支比率は92.4%と硬直化を示しています。自主財源が歳入のわずか約29%しかないのに対して、歳入の約40%を占めている地方交付税を土木費に注ぎ込んでいるのが伺えます。歳出規模の縮減、土木事業の削減、安易に地方債に依存しないこと、職員の定員見直しなどが必要であり、しかし本当に必要な事業にはしっかりと取り組まなければなりません。
これからの南丹市は、民間的な経営的観点を取り入れ、智恵を絞って効果的な予算の使い方を決め、ソフトウェアや人材の開発にさらに力を入れ、民間との協働を推進し、地域力を全面的に引き出し、市民本位の持続可能な地域システムを構築することが求められます。また、中山間地は過疎傾向にあり、高齢化率は園部が20%なのに対して美山は34%と大きな差があります。中山間地の過疎化・高齢化は農林業問題とリンクしており、農林業政策は地域だけではなく国家の根幹に関わるものでもあります。後継者問題も含めた農林業の再生と振興が、南丹市にとっても大きな課題になるでしょう。
更新日 平成19年9月23日