南丹生活

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第51回 サザエさん

 園部高校に転勤して半年、昭和28年3月13日の日記に、数学のN先生が、私のプリントの平仮名が美しいと褒めてくれた。又、第二職員室で、漢文のA先生が、「どうしてサザエさんって言うんだろう」と言い出し、「私って、そんなに滑稽に見えます?」と答えたら、周りの皆が頷いた、と書いてある。この若くて無鉄砲な女の子を、皆でかばってくれる、温かい職員集団だった。

 それから2年後の昭和30年2月19日の予餞会の「私は誰でしょう」のクイズ番組の1番目に私のことが出た。第1ヒントは、「杏(あんず)咲く土地でロマンティックな少女時代を送りました」というので、少女時代と言えばすぐ分かってしまう。あとで、司会のT.T君が第2ヒントも読んでくれた。

 「皮肉もよく言いますが、頭を振って話し出しますと皆、許してくれます。毎朝、朝日新聞でおなじみです。」と言うのだ。そして付け加えて、1.2年生に、「サザエさんです」「知らない人はよく覚えておいて下さい」なんて言った。T.T君は赤い着物に帯を締めて、本当の女の子みたいに可愛らしかった。

 私に一番親しいのは、やはりこの3年生だったのだ、と別れがしみじみ悲しかった。「小さな恋人たちのために」と前置きして、「いかで君と別れゆかん」を唄った。賛美歌のひとつだったろうか。

 サザエさんの由来は、誰だったかが教えてくれた。髪をまとめるのが下手で、前髪をロール巻きして、そのさばき方がおかしかった、それが漫画のサザエさんにそっくりだった、と言うのだ。美人は悲劇の主人公になるが、丸顔の不美人は喜劇の主人公にしかなれない。それに、ウッカリ、チャッカリ、絶えず問題を作り出す――この行動の型がぴったりだったのだろう。ズータリ先生(国語のM先生)の「あだ名」についての随想にもあったが、なかなか好意のあふれたネーミングであったと、今も感謝している。

  • 前髪をくるくる巻きのサザエさん大見え切って教壇に立つ

更新日 平成23年3月26日

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第52回 職員劇『蟻部隊』

 昭和30年2月19日の予餞会には、『蟻部隊』をした。これも筋書、作者を忘れている。イソップ童話の「蟻とキリギリス」を下敷にして、戦後の日本社会を風刺風にアレンジしたもののようである。

 体育のT先生は細身で背の高いキリギリス、ヴァイオリンを構えている。国語のN先生は女王蜂の恋人のアロハ。白い洒落たスーツで、横に女王蜂、実習助手のクロチャンがふっくらとした顔で目が美しい。国語のM先生は中央で台本を持つ。演出だった。

 サーベルという部隊長は、これまた数学のN先生がいかめしい顔付きである。バクタ(体育のY先生)、セイトン(地理のT先生)、シンケイ(国語の私)、コン平(数学のK先生)という蟻の兵隊がしゃがんで写っている。数学のT先生とS先生は照明係。皆、校務に忙しくっても集って楽しみながら演技した。きっと生徒の拍手や野次が一そう進行を引き立ててくれたに違いない。

 早春の光が表玄関に斜めに射し、皆真面目な劇中人物になり切って写されている。数学のN先生は、園部の若松町に住んでいた。私が園部を去って、4年後ぐらいだったか、出火し、一度は外に避難されたのに、何を思い出されたか、家の中へ。そして亡き人となった。長い焼香の列に並んだ記憶が、鮮明にある。恰幅があり、額の広い方で、鷹揚、折にふれて私を励まし、育てて下さった方だった。

 体育のY先生は小柄で、素朴な人だったが、よく声を掛けて私を盛り立てて下さった。園部町黒田の人、36才とあるが、私にはもう中年の人に思われた。写真の11名の中で、生きて会えるのは、3人ぐらいであろうか。地理のT先生の消息は絶えて聞かない。

  • ほのぼのと眉を開きて撮られたり二月の日差し影明るくて

更新日 平成23年4月11日

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第53回 千鳥が渕のボート

 保津川下りの舟は、亀岡の手前、馬堀から出る。汽車の窓枠を上げて、船頭が激流に竿さし、大岩を避けて巧みに小舟を操る景を眺めた。舟の客が振り仰いで、車窓に手を振ってくれる。窓から乗り出してそれに応える手を振る、そんな楽しみもあった。その舟は嵐山まで下ると、帰りはトラックに積まれて戻る。その景もよく見たが、乗ったことはなかった。トンネルが幾つもあって、すぐ窓を下ろさないと煤だらけになってしまう。油断のできない難所でもあった。

 列車の中は私の勉強室で、行きは今日の授業のために、帰りは明日の質問のために、全くその日暮らしの毎日だった。遊びのことなど頭をかすめることもなかったのだが……。それに、戦後間もない頃は、男女交際も今のように自由でなかった。生徒の手前もある。やはり慎み深さが求められる職員間の雰囲気でもあった。ただ、保津峡を抜けるともう旧体制の丹波盆地ではない。世界は広がっている。

 そんな気分だったのか、昭和28年5月16日の日記に珍しい記述があった。土曜日だったのか、何かの行事があったのか、学校の帰りは早い列車に乗ったようだ。嵯峨に来た時、嵐山でボートに乗ろうという話になった。社会のY先生(29才)がここの住人だったから言い出したのだろう。英語のT先生と3人で降りた。そして3人で乗った。男2人ではおもろないし、この人も連れて行こか、くらいのことだったのだろう。

 日記にはこうある。「Y先生は逞しく、単純に物をさばいていく人だ。悠然としたところがこの上なくユーモアをたたえている。太い神経、けれど英語の○○先生のような意地の悪さはなく、常に自己に自信を持っているゆえに、他人にも寛大である人だ。もっとも、上役の人は彼の可愛い反逆心の対象になる。」と。彼が漕ぎ手、後ろ向きでぐいぐい漕ぎ回り、他のボートと衝突しそうになると、ブブーと口でサイレンを鳴らす。当然、私が真ん中で、後ろがT先生、この人は神経が細かく疲れやすい人だから、黙っているがはらはらしている。対照的だ。嵐山を遡った千鳥が渕は、水深もあり碧色に水をたたえている。自殺の名所でもあるが、若者らのボートで、この日はいっぱいだった。

  • 碧緑の千鳥が渕を漕ぎめぐるボートにありしよ歓声あげて
  • 触れ合ふも恐れぬ君のボートなり、息呑むわれもきらきらとして

更新日 平成23年4月25日

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第54回 雪の保津峡

 京都市立高校時代の同僚から、雪の保津峡の美しさに息を呑んだ。周りの人も立ち上がり、ケータイで撮っていた。と便りが来た。彼女はトンボ玉作りに熱中していて、毎週、馬堀に通っている。

 今年はなぜか雪の多い年で、特に2月14日の雪は見事だった。見る見る屋根を白くし、暮れてゆく銀鼠色の空とけじめなく繋がった。10センチも積もったか、公園の真ん中に雪だるまが出来ていた。きっと子供を誘ったのは親の方だったのだろう。昔は、眉は切炭、目は炭団が決まりで、ブリキのバケツを斜めに被らせたものだが、平成の雪だるまは、目も眉も木の葉、三日目に解け始めたら、いよいよ笑い崩れていった。

  • 屋根に積みたちまち白し銀鼠(ぎんねず)の空と繋がり昏れ色となる
  • 譲り葉の目と眉下がる雪だるま三日目解けていよいよ笑ふ

 さて、保津峡のことだが、京都の街と丹波盆地を繋ぐ細く険しい渓流で、四季を通じて絶景だった。3年間通勤した昭和30年頃は、今より雪も多かったし、恐らく幾度もの感動をもらったことだろう。雪の峡谷は、迫る両岸の樹や岩の真ん中を、凍るように白く流れていたに違いない。ぼーっ、ぼーっと汽笛を鳴らし煙を吐きながら走り抜けるSL。「ほづきょうーほづきょうー」と長く延ばして呼ぶ駅員の声ばかり、乗降客は無かった。寂しい駅だった。

 覚えているのは、昭和25年一学僧が金閣寺を焼き、丹後の故郷から上京したその母が、デッキから投身自殺をした。昔の汽車はデッキにドアは無く、ここに立っているとただでさえ振り落とされそうであった。昭和28年ごろだったかの新緑の頃だった。幾曲りもする曲り角から母親は一物体となって、この美しい谷に抛り落とされた。この哀しい出来事だけが胸に残っている。

更新日 平成23年5月10日

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第55回 小短会

 平成22年10月24日の「小短会」のお誘いが来た。小さな短歌会に、小さな丹波の会が掛けてあるのだろうか。短歌を作っている人は勿論、未経験の人も遊び心で参加してください。とある。気の張らないようにと優しいお誘いの文はU君の、細やかな心遣いで嬉しい。

 京都発10:17という電車で、亀岡に着いた。この日は亀岡祭の前祭の日で、駅前には山鉾が集まり、人出も多い。この行列も見せてやろうという現地の世話役の人の、これまた行き届いた計画。こんな手厚い催しに、過去に国語を教えただけの私が乗せていただく、そのご縁が勿体ない思いであった。

 折しも小雨、駅の東北に広がるコスモス畑の、うす紅色が灰色っぽく濡れている。玉川楼という名料亭が会場で、コの字型に席が整えられていた。この日の詠草は既に印刷され、前もって配られているという周到さ。21名分が記されていたが、当日の欠席もあり、集まったのは十数名。

 10年ほど前、ガレリオ亀岡の、「翌桧(あすなろ)の会」のメンバーが多いが、新しい顔も数名、当日の選歌は、欠席者にも広く喧伝され前もって集められていた様子、世話役の労苦は大変だったであろう。

 11時からU君の司会で、自己紹介から歌会へ。番号順に1首ずつ取りあげ、感想・意見を言い合い、私がまとめさせていただく形。終始、砕けて気楽な雰囲気。殆どが70歳を越えているから、名歌を目指すものでもなく、日常を楽しんだ、その人らしい作品だった。

 選歌番号を集計して、高得点の人には、Iさんの心をこめた千代紙細工の小箱が用意されていた。名を呼ばれると恥ずかしそうに、それでも嬉しそうに受け取る。いいお土産になった。

 Iさんは病気療養中と聞くのに、娘さんからご主人まで動員して、賞品を作ってくれたし、電話で多くの人を集めてくれた。相変わらず行動的、人のためにやらねば気のすまぬ人だ。「あとでお体が悪くならないかと心配です。」とご主人に言ったら、「もうどん底まで行ってますから、これ以上にはなりません」と、軽く受けてくださる。明るく温かいご主人に支えられて、幸せなIさんがある。

 どの歌も良かったが、敢えて……と言われ3首を私は選んだ。

  • 窓越しの庭に咲きたるプリムラの淡き紅(くれない) 我が思い妻 (H.N)
  • 少女へと変わりゆく孫のまぶしさに少し間をおく語る言葉を   (F.N)
  • じりじりと日照りが常の敗戦日はじめて眼にせし母の涙は    (T.I)

 21首の詠草の中には、私所属の結社「原型」に入会してくれている人のもあり、他結社で活躍の人のもある。「石川さん、『帆柱』でご一緒でしたね。」と声を掛けてくれた紳士がいた。前登志夫門下、「ヤママユ」という結社の同人のNさんで、『千の語部(かたりべ)』という立派な歌集を下さった。前登志夫流のアニミズムの世界の、それは素敵な歌集だった。

 私は前先生の朝日カルチャーに10年余学んだ。「石川さんは歌はどうやろ。批評はいいが……」と何時も嘆かせていた劣等生で、『帆柱』はその頃の年刊歌集だった。すごい歌人が混っている中で、歌会の中央に座ったのは、赤面の至りであった。

 歌会が終わり、三段重になった美しいお弁当を開いたころ、お祭の行列が玉川楼の前を、ゆるゆると過ぎた。もっとしっかり見送りたかった。あと、ガレリオの広場でIさんのご主人のピアノ伴奏で、プチコンサートがあった。秋の童謡・唱歌の合唱で、何曲も何曲も続けて合唱、やさしい昔の自分にもどれた。市民総出の亀岡祭に呼んでいただいたのだ。

 短歌というのは不思議なもので、わが師齋藤史は、「奇妙なる楽器なれども鳴りて居り五弦あるいは三十一文字」と歌い、「書かざればわが歌消えむ六月のうつつに薄きながれ蛍や」とも詠んだ。

 書かなければ永遠に消えてしまう思いを、57577のリズムに刻んでみると、不思議に鳴りはじめ、思った以上に他に広がる。

 一度歌ってみてその効用を確かめてほしい。昔の国語の教師を遠慮なく利用していただきたい。ただし、私が添削していい歌になるかは疑問であるが、参考ぐらいにはなるであろう。丹波の地に短歌の輪がますます広がることを祈りつつ。

更新日 平成23年5月25日

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第56回 百済観音の招き

 昭和28年の園部高校の行事予定表がある。5月中旬に「小旅行(1・2年)」と書いてある。3年生は秋に修学旅行があるから、1・2年だけのバス旅行で、京都、大阪方面に出掛ける。担任は無論付き添うが、他の者は自由、自主的休日も可である。生徒部の端の机に、行き先、担任、クラス名の一覧表が置いてあり、付き添い希望欄が空欄で、書き込めるようにしてある。

 この時の1年生のコースは、園部―京都―法隆寺―奈良(昼食)―宇治―園部で、気が付いた時はもう、空欄が埋まっていた。しまった、遅かった。までは覚えている。だのに、どうして行けたのだろう。アルバムにその旅行のスナップの数枚がある。その上、法隆寺の百済観音の絵はがきに、「はつなつのかぜとなりぬとくわんのんはをゆびのうれにほのしらすらし」と会津八一の歌が書いてある。副校長のY先生は日本史専攻だったから、鳥打帽の洒落れたのをかぶり、棒で高みを指して説明している。制帽をかぶった男子生徒が、まだ幼い感じの顔で一斉に見上げている。真面目な1年生の顔だ。京都在住の私にとって、奈良に行くくらいは、簡単だったろうに、どうしてこんなに行きたかったのであろう。百済観音の細身長身のたおやかな姿に魅了され、一目実物に逢いたかった……と言えばそれまでであるが。

 奈良で昼食。奈良公園の芝生で円形になりお弁当を食べている。校長も副校長も、数学のN先生、T先生、S先生、社会のY先生や商業のA先生まで、くつろいだ姿で写っている。生徒はどこかに散らばって、鹿とでも遊んでいたのであろうか。宇治ではきっと平等院あたりの見学だったのだろうが、小休憩を職員は万碧楼でしたらしく、ソーダー水を飲んでいるスナップがある。教員の楽しみの旅でもあったのだろう。引き揚げ者の私には、奈良も宇治もまだ2、3回目ぐらいしか行けていない場所で、行きたかったのも無理はないが。

 当時の日記を読むと、その1日のことは何も記してなくて、翌16日にはいろいろと書いている。朝の汽車の中から、商業のH先生に、「吊し上げに会うぞ」とおどされて登校した。生徒部長の国語のK先生が、「振られても行くところが中村さんらしいやないか。」と笑われ、傍で日本史のK先生までが、「それほど熱心だったと言うことになります。」と口を添えられた。日本史のK先生は細っそりした温厚な人だった。どうやら私は、定員オーバーのところを強引に行ってしまったようである。こんな冗談で許してもらえるほど、当時の職員集団は大らかであった。若くて無鉄砲なところを面白がってくれたのだが、許された第1の原因は若い、と言うことであったに違いない。もう5、6才年上ならば、きっと厚かましい――と言うことになったのだろう。

  • ゆるやかに纏ふ天衣(てんね)の裾揺れて百済観音風踏みたまふ
  • 木の温みに触れつつ巡る夢殿に春の潮(うしほ)の風満ちて来つ

更新日 平成23年6月10日

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第57回 覚えのない名前

 平成23年3月15日、I・Mと署名のある封書が届いた。覚えのない姓名で、開いてみると、園部高校第7回卒業生の同窓会の招待状だった。M姓で、名がI、男女どちらにも考えられる一字だった。そうだ、あの子だ。丸坊主で真面目だった男の子の顔が浮かんだ。

 招待の日は4月24日、ほんの少し前、ある歌会に出る約束をしてしまった。とにかく返事しなければ……。手紙にしようかとも思ったが、話もしてみたかった。

 Mさんのお宅ですか、Iさんはいられますか。果して、電話に出た男性が、僕です。と答える。私の記憶もまんざらでなかった。丸坊主だった? ええ、そうでした、背もちっちゃくて。背は覚えていなかった。手紙の文字も几帳面で、真面目だった。皆にお会いしたいが、欠席せねばならなぬことを伝える。

 東日本大震災が11日にあって、大災害だったから、幹事だけで相談して、来年に延期するつもりだと言う。だから、その折はぜひ。数学のK先生も出席されるはずです。と言われた。

 M・I君は、私の顔を忘れていて、写真で確かめました、と言ったが、私とて、名と顔が一致しない生徒がいる。それどころか、記憶に残っていない子もある。そんな中で招待される心苦しさ。出席したいのは山々だが、辛さもひとしおである。

 時は容赦なく私の記憶を砂嵐のように埋めていく。皆待ってます――という言葉を、私はどうすればいいのだろう。

  • 刻々と記憶を攫ふ砂嵐にやがてこの身も埋もれてゆかむ
  • 風紋を崩して砂は移動する女体の丘の凹凸作りて

更新日 平成23年6月24日

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第58回 ホルルタン先生

 数学のK先生は26歳、金沢工専出身と、昭和28年度の学校要覧にある。23歳の私と、そう歳の差はなかったのに、随分年上のベテラン教師のように思えた。既婚の落着きもあったし、貫禄もあり、生徒たちは、ホルタンと呼んでいた。ホルモンタンクの略というから、男性ホルモンたっぷりの意味だろうか。体格は兎も角、男っぽいとは思われず、あだ名の真意は私にははっきりしない。

 前述した、予餞会の職員劇の常連で、付き合いのいい気さくな人だった。文系と理系の教師の違いは、どこの学校でも歴然とあるが、特に数学の先生たちは、あっさり、すっきりで、付き合いやすい感じがする。園部高校でもそうで、年長のN先生、教務部長のS先生、若手で人気者のT先生もそうだった。K先生も同様で、味付けしない素の人間味のある人だった。教務部所属で、2年1組の担任だったから、第7回卒業生の同窓会の欠かせぬ招待者であるのもよく分かる。それに、80歳を越えて元気なのは希少価値で、担任の雛段に欠かせぬ人である。

 私が初めて担任した昭和30年度の1年6組。持ち上がることなく転任した無念さは忘れがたいものがあった。私の去る後の担任団にK先生が入っていて、「中村さん、あんたの組の何人かは僕が受け持つし、安心して。」と優しく声を掛けてくれた。

 その後、昭和54年ごろだったか、須知高校へ歩いて行った。妹の家は国道9号線が舞鶴の方に分かれる所にある。須知高校は、9号線をさらに北へ、山の方へ向くところ、15分ぐらいの場所である。農業科の生徒が、実習に葡萄を栽培して、町の人に分けてくれる。

 ベリーAという紫の美味しい葡萄を、妹は三日にあげず買いに行く。私も付いて行ったのだ。秋の陽ざしのまぶしい日だった。甥は須知高校の2年生。K先生は校長だったので、再会したい心でいっぱいでもあった。大きな肱掛椅子から、さらに貫禄の増したK先生が立ち上がって、にこにこ迎えてくれた。丁度、生物のI先生も須知に赴任していて、校長室で再会した。気取りのない素朴な人だった。白いよれよれの実験着姿も昔のままだった。

 帰り道に蒲生野(こもの)中学があり、そこには、私が園部高校で教え、顧問の文芸部長だったO子さんが、国語の先生になっていた。甥も姪も教えてもらい、国語大好きにしてくれた。相変わらず物しずかで、優しい笑顔であった。後には中学校の校長にもなったと聞く。

 昭和29年3月発行の年刊誌「公孫樹」から2年生のO子さんの短歌を引く。

  • かつ希ひかつ希はざる心ありまだ決めずゐる我の職業
  • 捨てられて庭に幾日も咲きつづく活けあまりたる白梅の花
  • 限りなく夜明けの空を行く雲の時に鋭き光をかへす

更新日 平成23年7月10日

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第59回 白いデシンのブラウス

 何時の同窓会だったか、「先生、はじめての授業のとき、何を着てはったか、覚えてます?」と言った男子生徒がいた。「白のブラウスだったんですよ。」とその子は教えてくれた。私は全く覚えていなかった。

 昭和26年に卒業し、鳥取のA高校に赴任するのに、教師らしい服は何も持っていなかった。戦後間もなくて、百貨店に首吊りの様々なブラウスなども売っていなかった。自分で縫うか、布地を買って洋裁の出来る人に縫ってもらうかである。引き揚げ者でもあったから、なおのこと服は必要最低限だった。隣りのお姉ちゃんに白いデシンのブラウスを縫ってもらったのが、唯一の晴着であった。鳥取のA校での1年半の間にも新調したのは小花のワンピースと、緑の木綿のツーピースを自分で縫っただけだったから、白いブラウス――と言われれば1枚しか心当たりがない。

 その晴着で壇上に立ち、上気して何を喋ったのだろう。枕に、詩を朗読したのを覚えている。最初の授業は10月だったから、いくら好きとは言え、達治の「あはれ、花びら流れ」ではなかっただろう。秋にふさわしい何か、林檎の、「うすくれなゐの秋の実に人恋ひそめしはじめなり」だったのかも知れぬ。今思うと歯の浮くような行動である。

 何回か書いたように、私は、突然転出したY先生の後を、早急に埋めるべく呼ばれた。Y先生は40歳代の円熟した人、出身校も京大だったので、生徒会は校長室に、Y先生と同等の学力の国語の教師を要求していたところに、私は行くことになってしまった。勿論Y先生の持った授業そのままの引き継ぎでは、生徒の風当たりも強い。他の4人の国語の教師の講座を持たせてくれた様子だった。

 2月14日の日記に、1年国語甲のM君が、「先生が入って来た時、ひどく印象的だった。とても強い感じがした」と打ち明けて私に習うのを喜んでくれた。相当な緊張で教壇に上ったのに違いない。この講座は老齢のA先生が受け持っていたらしい。それも「子のたまはく」の漢文専門の方だったから、若い男子生徒は、ひ弱な女子教員である方がからかい甲斐があり、面白かったようである。

 その他にも、なかなか私にとっては厳しい講座ばかりで、教室のドアを開けると、上から黒板消しが頭上に落ちる。それも赤や黄のチョークの粉をたっぷり含ませてあるものだ。教卓に寄ると其処にもチョークが塗り付けてあって、腹のあたりに黄色の縞が太く入ってしまう仕掛け。ここで怒ったりおじけたりしたら負けである。素知らぬ顔をする、冗談で吹き飛ばす、皮肉で応じる、2、3秒待ってドアを入るなど、などである。

 私はひどく小心なのだけれど、行き詰まると妙に居直って、梃でも動かなくなる。不思議な人間で、「窮鼠、猫を噛む」ということであろうか。特に古典での講座は、2単位で、何も取るものがない生徒が辻褄合わせに来ていたのに違いない。2、3年の混合クラスであったようで、一番いじめられた。

 2月13日、卒業間近の授業のことである。入ると黒板に「3年生は授業を止めろ、2年生はやれ。」と殴り書きがしてある。怖い顔をして、「ここに出ていらっしゃる3年生は、皆、聞く意志がある方ですね。」と念を押した。F君が「止めたら欠課ですか」と言う。「分かり切ったことでしょう。もっと授業中は気の利いたことを言って下さい。」と答えたら、皆、黙ってしまった。と日記に書いてある。A先生に、「中村さんは外面はやさしくて、内面は強い。」と言われたが、それは止むを得ない、こう言う居直りを言われたのであろう。

 随分無理をしていたのだなあ――と思うばかりである。

  • 説明の確信なさを嗅ぎ分けて生徒しやべり出す止めどもあらず
  • 流行の服行き交へる街に出る何処かにチョークの粉付けしまま
  • 脱ぎ捨てしコート「く」の字に袖曲げて既に明日(あした)に躓きてゐる

更新日 平成23年7月25日

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第60回 あはれ 花びら流れ

 桜のころは、やはり心に沁みる。西行の、「吉野山梢の花を見し日より心は身にも添はずなりにき」で、今年の花を思いっきり眺めて、あくがれ歩きたくなる。今住む町の郡山城址も花の名所、3月26日から4月3日までが「お城祭」で、様々の行事が組まれていたのだが、今年の花は10日ほど遅れた。それに3月11日の東日本大震災があり、雪洞(ぼんぼり)も取り外して、人工的な騒ぎを自粛した。静かな花の城址であった。

 訪れた5日ごろはまだ3分咲き、咲き満ちようとする清らかな生気もよかったが、その後、咲ききわまってちらともしない桜も見事だった。又、15日ごろからは、花びらの降る空間を味わいに行った。18日にもなると、次第に花びらの数が減り、ゆるやかな時空の眺めとなった。

 城門の中に郡山高校がある。何時も此処に来ると、城門を校門にした園部高校が思い出される。18日は月曜日、今ごろは5時限のはずなのだが、見上げる校舎の窓は閉じられ、ひっそりとただ花が散るばかりであった。その昔、私の声は大きくて、窓から洩れ出て、近辺の教室に迷惑を掛けた。

  • 大切なことは小声で言ふひとと隣り合はせの5限の授業

 と歌ったのは晩年に勤めた日吉ヶ丘高校だった。賢い人と怠かな自分の差を見たようだった。老いた私が、大声で説明すればするほど生徒は喋り、そっぽを向いた。この学校は清水寺続きの東山の小高い丘にあり、桜で埋もれた。谷間(たにあい)を、流れる風に乗って渡る花びらは息を呑むほどだった。

 「さまざまなこと思ひ出す桜かな(芭蕉)」ではないが、園部高校赴任半年目の春の日記を読むと、23歳の頃の私の授業の片鱗が伺われる。3年生の5名ばかりとの会話が記されている。「授業に行く私を捉まえて、『何ですか?』と覗き込む。『竹取』『いい声でやっていたらロマンチックでいいですね。皆、眠たがりますよ』『そうでしょうね』どうやら私の価値の低さは堂々と通るようになって、生徒は至って気安いお友達のように思ってくれていたらしい。有難いことではある。」と記している。

 又、後日、例の英語のT先生からも、「『テニスをしているとあなたの声がほろほろ聞こえてくるよ。いい声だけど案外内容がないんだろうって、皆言ってたよ。』と言われた。『そう?』と言いながら、そんな冗談にも馴れてしまった。以前の私なら気になって仕方のないことなのだけれど。頭の悪いことを嘆いてはいるが、まだ自分が思い違いをしているのではないか、などと甘く考えているからなのだろう。」と、いい気なことを書いている。今ならはっきり、内容の低い授業だと言われたことが分かるのに。

 日記には書いていないが、この花の頃は、教科書を横に置き、三好達治の「甃(いし)のうへ」を朗読して、生徒に聞かせた。「あはれ、花びら流れ」のあの詩で、四季派の達治が、あの頃とても好きだった。それに朗読が好きだった。

 郡山高校の教室の窓が開かれて、私の朗読の声が聞こえてきてもいいような気がして、しばらく止まってふり仰いでいた。

  • 半日はさくらを浴びて半日はただ透明な空壜になる
  • 脳葉に散り込むさくら 胸郭を埋めゆくさくら 咽喉(のみど)に噎(む)せて
  • 城壁に組まれて動けぬ逆さ地蔵 顔に今年の花散りたまる

更新日 平成23年8月10日

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