第101回 メダカの学校
たった3年半の園部高校だったが、幾人かの先生が去り、新しい先生を迎えた。何しろ京都市内から通勤に2時間近くかかるので、多くは市内へ転勤を希望していた。転出できる先生の殆どが優秀で、高校よりも大学転出希望だった。又、博士課程の勉強などを望んでいる向上心の強い人だった。だから、転入して来る人達はやや小者だった気がする。私もそのひとりであったが。
しかし、社会科のI先生だけは人格も高潔、視野も広いし、学問的にも深く、忽ち生徒の心を捉えた。 社研の顧問になり、生徒会の指導者。当時、生徒が切望したファイヤーストームの実現を支えるなど、新しい時代の教育を指導実践できる人だった。京都市内からの通勤だったので、汽車も一緒、心から尊敬して色々教えてもらった。
2学期、9月10日の日記に嬉しいことが書いてある。
「朝、I先生が言う。N君は夏休みに沢山本を読みました。そして日本の社会の疑問点を五つ出しました。N君は生徒会長などになりたがらないでしょうね。学究型だから。一度なってたくましくなるのもいいけれど。」
同感だった。Nにたくましさがプラスされたら有用な人間になるに違いない。更に「理づめの頭をほぐしてやって下さい。人間の究極目的は幸福なのだから」と。
盲滅法の担任の私に何が出来ると言うのか。出来るだけ柔らかく豊かな人間味を、国語の授業とH・Rの時間に盛り上げてやることにしよう――などと考えた様子だ。
又、10月9日の日記には、球技大会があって、男子はソフトボールをしたが、遊び半分に終始し、その上終了のベルも無視して止めない。「一応止めて、後はしたい人だけで。」と辛うじて注意したが、やろうやろうと無視。担任の威厳は皆無で、一度にぐったり、気分が悪くなった。I先生は、「のびのびしているのは中村さんとこぐらいです。」と褒めてくれたのだが、慰めてくれたのかもしれない。
寛大はいい。それでも大きく抱容して、クラスをまとめながら、理想のところに持っていく、そんな担任でありたかったが、今回も破れた網目から小魚たちは皆逃げてしまった。
「メダカの学校」の唱歌に、「ダレガセイトカセンセイカ…」と言うのがあったっけ。
でも、このあたりからH・R担任という仕事に私は憑かれはじめたのかもしれない。その後40年近く教師をした間、校務分掌は殆ど担任希望だったのだから。
- 担任の指導殆ど無視されて「誰が生徒か、先生なのか」
- 網打ちても小魚たちは皆逃げて担任の肩がつくり落ちる
更新日 平成26年1月12日
第102回 秋風の廊下
文化祭の会場の片付けに手間どって薄暗くなるまで立ち働いた。N君、K君、Y君が下りてきた。勉強家の仲良し3人組である。
「先生、宿題の期限延ばして下さい。」とNは柱にもたれて言った。
「困った人達ね。人の顔を見れば宿題の話ばかり。」と笑い、
「いいわ延ばしてあげる。」
「本当ですか。後で受け取らないなんて言われたら事だからなぁー。」
「馬鹿ね、男じゃないけど、人間の一言に偽りはない。」
私も理性のない表現が、なぜかすらすら出た。
夕暮の気分が少年達を感傷的にしたのか、話は発展した。
「ねえ、先生、いずれ死ぬことを考えたら、何をするのも馬鹿馬鹿しくなるのです。」
特にNはよく喋った。私ははっとした。この子達はもうこんなことを考えている。自分でもよく分からない事を無理に説明する時、私の声の調子は高くなる。
「死ぬことを考えるのが最もよく生きることじゃないの?」
果たしてNは「と言いますと……」と幾分おどけ気味に受けた。私はますますあわてた。
「いくらもない人生だと思えば、死に至るまでの時間を充実させたいという気持ちが湧くからよ。そう考えるのが健康な人間じゃないの?」
どうもこれは知識の切り売りで、私はNに、ひたすら健康な考えでいてほしかった。三人の中でNだけが私のクラスだった。
そして私は私で、別の、よく似ているが全く違った真理が浮かび上がって来た。何時かこの子達と別れる時が来ると考えたら、この瞬間がこの上なく大切だということだった。
私は指折り数えていた。クラスが解散する3月まで、あと5ヶ月しかないのだ。このHRを預けられた日から私はこの考えが底流にあった。
「引き裂かれる思いがやりきれない。」
しかし、こんなことを話せば、くだらぬ少女の感傷だと、誰からも一笑に付されてしまう。特にこの少年達に言うことは出来ない。
Nは私の感傷をよそに、幾分憂鬱な面持ちで、何時になく大声で、いつも使う敬語を忘れた話しぶりで、彼の素顔が露わであった。
私は彼の人生にプラスになる何事も語ってやることが出来ない。済まないと思う場面であるはずだったが、じかに人間として向き合っている感じだった。Nも口を滑らせた。
「先生、こんなこと、お互いに信頼してないと喋れませんね。」私は妙に淋しくなった。Nは私を信頼していることを間接的に表現くれたのだのに、どうしても淋しかった。
Nは頭の良い子だから、人間の生の裏を既に嗅ぎつけている。これも淋しさの一因だが、「信頼している今、殊更言うまでもないことじゃない?」と言いたかったのかも知れない。
- 秋風の通る廊下の夕暮れに行きつく所は死と言ふ少年
- 生のさ中、死を見据ゑゐる少年のあるを知りたり何如にか言はむ
更新日 平成26年1月21日
第103回 私の恋人
私の恋人、それは1年6組の39名だった。小さな心に、これだけの人数が詰っていれば、恰好な恋人など入る余地がない。
ふーっと太き息をして、世の中にこんな素敵な男性が多く居るというのに、私の身の回りに心の通う若い男性は一人もいない。これは自分の魅力のなさに起因するのだけれど。わがクラスだけでなく、2年生にも3年生にも、心を捉えられる男子生徒は多かった。若いということは可能性があること。既に何者かになってしまった男性にはそれがない。だからと言って7歳も9歳も年下の男性を、夫として考えるには、私は古い時代の人間でありすぎた。
1年間見詰め続け抱きしめてきた39名と別れた昭和31年の春は、失意の春で、花は散るばかりであった。それでも忘れずに訪ねてくれたり便りが来たりもしたが、去る者は日々に疎し……である。あの生き生きとした緊張感は当然色褪せていく。
だが、Dちゃんは結婚式の主賓として招待してくれたし、あのふくよかなOさんの花嫁姿も見せてもらった。それに雪の日の葬儀にも出席した。
一番大人っぽかったN君は、京大経済学部に入り、叔父の勤める三和銀行へ入社する方向を取った。ある日、河原町で偶然出会い、しばらく歩いた。Nの友人が見ていて、「先生、恋人かって言われました。」と報告があった。家にもよく来て3歳の息子を抱き上げ、玩具など呉れるいいお兄ちゃん。息子もN兄ちゃんと馴染んだ。
女子代議員だったI子と恋仲のようで、私は嬉しかったが、どこかに岐路があったのだろう。それぞれの結婚をした。
Nは三和銀行のロンドン支店に、夫婦と子供二人で赴任して、とんとん拍子の出世。東京駅前の本店の部長になった。「先生、東京へ来たら電話して下さい。すぐ迎えに行きます。」と手紙が来たと言うのに。40歳で妻が死んだ。
お盆の墓詣りの折、私の勤めていた西京高校に寄ってくれ、彼の車の助手席に座って嵐山のあたりをドライブした。本当ならこの場所は妻の座であったろうに。帰りに花束を買って、故郷園部の墓に供えてもらった。二人の子のため彼はすぐ若い妻と再婚したのだが、間もなく蜘蛛膜下出血で死んだ。日吉ヶ丘高校に電話で知らせたくれたのは、広島で薬局をしていたI子だった。激務で体調も悪く心配していたのだがと言った。
1年生の秋風の廊下でNの言った言葉が甦る。「いずれ死ぬことを考えたら、何をするのも馬鹿馬鹿しくなるのです。」Nは既に自分の人生の終焉を見通していたのだ。
平成11年頃だったか、園部で旧職員の親睦会があった時、私はNの家に立ち寄った。老いた両親は畑仕事から帰ったところで、簡素な仏間に通され、N君夫妻の位牌に出会った。妙な具合だった。あの優秀な頭脳も、温和な笑顔も、少し甘えた物言いもなく、魂も私に語り掛けてくることはなかった。
- 恋人のひとり死なしめ無能われ三十一文字(みそひともじ)に未だ執する
更新日 平成26年2月2日