南丹生活

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第91回 熱い握手

 「八桜会」(園部高校第8回生同窓会)に50年ぶりに出席させていただいたのは、平成20年11月16日だった。

 その時、名は覚えていなかったが、脚の不自由な男性がいて、若いのにどうしたのだろうと気になりつつ、声を掛けそびれていた。

 K.M君で、嵯峨在住、将棋の好きな人だということを、後に何となく知った。

 同じ八桜会のU君が誘ってくれて私の所属する「原型」歌人会のメンバーになってくれ、2年余り、その「原型」が終刊になるまで参加してくれた。

 終刊の平成24年4月号の10首にも、

  • 古希過ぎて未だ恋歌に縁もなく老いて誘われ老い老いの歌
  • 俳聖に肖りたしと広沢池雲に隠れてまだまだ見えぬ

 など、不自由な脚でもよく歩く人であり、感情に溺れぬ歌を毎号に出してくれた。詰将棋4段の知力から生まれた歌であろう。

 今回の同窓会で、隣席の数学のS先生と懐かしそうに担任をしてもらった昔を語っていた。数学もきっとよく出来たのだろう。そして、私に手を差し伸ばし握手した。熱があるような掌だった。3月25日の「小短会」に出席してもらえなかった残念さが双方にあったが、こんなに元気でほっとした。

 「原型」終刊についてこんな手紙をくれた。

 「短歌にお誘い下さり、曲りなりにも2年が過ぎ、もう駄目と思って居るところで閉誌の知らせを受けたことで、残念と思う反面ほっとしているとも言えるのが今の自分でもあります。」とあった。

 大変だったのによく頑張って「原型」の誌面を賑やかにしてくれたのだ。ほんとうにありがとう。

更新日 平成25年7月18日

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第92回 歩き遍路

 今回の「八桜会」は90名の盛会だった。園部高校の同窓会も卒業年度ごとに多い中でも、この第8回卒業生の「八桜会」は有名なのだそうだ。

 活発な活動あり、個人的な業績あり、今年は初めてH.H君が友禅の伝統工芸の技術で叙勲した。その作品を見たことはないが、京都には特に多い友禅工の中から認められたのだから相当なものだ。H.H君は童画も描く人で、私はむしろその方のファンである。

 H.H君に続く叙勲者も多いそうだ。勲章だけが名誉ではないと思うが、そこまで勤めあげ、技能を磨いたことは尊い。

 同じテーブルに、H.K君が居た。いつも余興にあるビンゴゲーム、なぜか今年は少しも数字が合わない中で、H.K君はいち早くビンゴになって、賞金(覗くと1000円)を獲得して、とても無邪気に喜んだ。K大の農学部出身の秀才だそうであるが、母上が生涯短歌を作られた。そのご縁で、「原型」に入ってくれて、終刊までの2年余を、「歩き遍路」の名歌を多く寄稿してくれた。

 終刊号の10首の中から好きな歌を抜く。

  • 巡礼の悩みにはかに受けかぬるその径(みち)の名は遍路転がし
  • 鶴林寺遍路泣かせの登り道笑顔の碧眼女性下り来る

 H.K君もK.M君と同様の思いの手紙をくれた。

 「先生方が育てられた『原型』廃刊はショックですが、私には月10首は非常に重荷でしたので、潮時かと何となく納得しております。」とあった。

 皆大変な思いで努力し、協力してくれていたのだ。昔の教え子は有難い。

更新日 平成25年7月25日

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第93回 国甲と国乙

 私が園部高校に勤めた昭和27年秋から31年春まで、国語は甲が現代文関係、乙が古典で、別に漢文があった。漢文の嫌いだった私は、学生時代によくサボって、他の授業にこっそり出席したりしていた。幸いにも年配のA先生が一手に引き受けてくれていたから、助かった。

 国語乙は選択であったが、私としては得意な領域だったし、教材もその頃から定年の頃まで変わらず、「祇園精舎の鐘の声」とか「春はあけぼの」とかで、ほとんど暗誦できており、日本人が英語を習うほど、生徒の能力とかけ離れていたから、大丈夫と妙に自信があった。

 それに戦後間もなく、谷崎潤一郎が現代語訳『源氏物語』を出した時、原文に忠実に―が謳い文句だった。文法には国語学者の山田孝雄が付き、口語訳には京大助教授玉上琢彌が下訳をして参考に供した。私は学生時代、その玉上先生に習い、大変な畏敬を感じ、試験も頑張っていたので信頼もあり、先生の下訳のそのまた下訳のアルバイトをさせてもらっていた。

 戦前に潤一郎が出版した現代語訳は、松子夫人が「ははきぎ」など巻名を美しい平仮名で書き、用紙にも凝った美しい装丁であったが、潤一郎はもう一度、世に問うものを出版したかったらしい。

 映画でも長谷川一夫が光源氏役で、一大源氏物語ブームが湧き起こっていた。玉上先生が夏のある日、「これから谷崎さんとこに打ち合わせに行くのですけど、あなたも一緒にいらっしゃい。」と誘って下さったことがあった。

 私は、どう考えても谷崎好みの美人ではなかったし、女人(にょにん)に特に気むずかしそうなその人の前で、何を喋っても嫌われそうだし、お茶ひとつお菓子ひとつ食べるのも手が震えそうなので、躊躇してしまって、行かなかった。谷崎邸は下鴨神社の近くだったと思う。惜しいことをした。

 そんなこんなで国乙には変に自信があったのだが、困ったのは国語甲、1年生から3年生まで必須のカリキュラムで3単位だったろうか。しかし、取り組むと古典より面白かった。

 3単位と言えば週に3時間、必ず1回2時間続きがある。頭が空っぽな新任の私には50分+50分の時間の長さをどう持たせるかさえ至難のことだった。しかし意見がくい違って丁々発止とまでは行かなくても、意見続出、異議ありで、どう生徒を説き伏せるか、どう妥協するかの瀬戸際もドキドキとスリルがあった。

 又、生徒もひ弱な若い教師と渡り合い、勝ち名乗りを上げるという面白さがあったようである。

 教材は多種多様、特に評論文が多く、私には自分に理解させることさえ難しいのに、それを他人に教えるという作業が加わる。その頃の教科書は学年末に学校に返却するので手許にはないが、授業案めいた小さなノートは残っている。

 「ヒューマニズム」、「小説作法」(丹羽文雄)、「ゲーテ的とシェークスピア的」「写実論」などの題名がノートに残っているが、一番印象深いのは、「ゲーテ的とシェークスピア的」で、まとめに、自分はどちらの型か? と200字程度で書かせた。これは生徒にも己を見直すきっかけにもなり、習ったことを覚えてくれている人も多い。

 小説では、森鴎外「寒山拾得」志賀直哉「城崎にて」、モーパッサン「首飾り」などがあった。小説は具体があるだけにやり易かった。

 これらは国甲Ⅱ、2年生の現代文だったと思うが、教師用解説書も簡単で、困惑しながら、我流でこなすよりいたし方なかった――のが実感である。

  • 選択の古典を取るに大好きな音楽捨てしを悔やむ子ありき
  • 繋がれし猫が簾を巻き上げて見えたる姫を恋ひし柏木(かしはぎ)

更新日 平成25年8月2日

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第94回 父の夢

 私の父は京都西陣の織元の三男、松三郎と言った。いじめられる時は、「松つあん松葉かき溜めて……」とかはやし立てられたと言っていた。昔のイジメはたわいないものだ。

 その家は、孝明帝の即位の折の黄櫨染(こうろぜん)の御袍(ごほう)を織っていた。その布の切れ端20cm×10cmほどが大切に保存されていた。今も私の手もとにある。黄櫨染というのはハゼノキと蘇芳の煎汁で染める黄褐色で、皇太子が天皇になってはじめて着ることが出来る色、文様は、桐・竹・鳳凰・麒麟と決まっている。

 長男次男は若く死に、はからずも跡継ぎになったが、その頃父の父、私の祖父は人のいいぼんぼんで保証人にさせられ、借金を返さない人のために晩年期に破産した。父は同志社中学に入学を勧められていたが、それどころではなくなり藤沢薬品に就職、その後、自分の好きな養蜂家になろうと北海道に渡り、先生に就いて技術を習った。

 その先生のお嬢さんは父と同じ年ぐらい、ひそかに恋心と言うか、憧れを持っていたようである。奈良女高師(今の奈良女子大)出身の才媛だったとかで、自分の娘を将来その学校に入れるのが父の夢だった。

 養蜂家もうまく行かず、和歌山で製材業を始めたりしたが、それも昭和9年の室戸台風で工場がつぶれ、結局、妹の嫁していた大連市の呉服屋を手伝うことになり、家族三人で渡満した。

 父が私に掛ける期待は大へんなもので、毎日の日記も父の指導で書かされ、画も書道も作文も、必ず父が手を入れて完成させた。自分の思いと全く違う父の作品を、何時も持って行って提出した。作文など表彰されたこともある。

 又、自分の好きな謡曲を娘にもやらそうと、絶えず能の鑑賞に連れて行ったが、シテの動きの遅さに私はジリジリし、「イヤー」ぽんと打つ太鼓(おおかわ)も馬鹿馬鹿しく、すっかり嫌いになってしまった。しかし、父の謡曲仲間らは、集まると、「この子は先生に向いている」と言っていたのを不思議に覚えている。

 叔母の経営する呉服屋は、大連一の繁華街の真ん中、遊ぶのは百貨店めぐりか本屋の立ち読み。全く都会の子として育った。店には大勢の番頭さん小僧さん、炊事のボーイさんの中国人と女中の中国の女性がいた。それに一緒に住んだ叔母の家は男の子ばかりだったから、私は男性の中で育ったようなものだ。大連で妹二人が生まれ三人姉妹だったのだが。

 それがいいことだったかは分からぬが、私はいつか男性社会というものに馴染んでいた。敗戦後京都に引き揚げ、父の言う奈良女高師進学は夢のまた夢であったが、いつか私は国文科を目指すようになっていた。

 おかしなことである。そして、予言どおり教師になってしまった。他人の一言は怖い。

  • 継ぐはずの暖簾よぢれて漂泊(さすらひ)の父の描きゐし風の穂芒

更新日 平成25年8月14日

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第95回 薔薇色の人生(ラビアンローズ)

 昭和61年、私の30年勤務表彰の折、履歴書を写していた校長が、「石川さん、園部高校に勤めていたことがあったんやなあ。」と言われた。H.T校長は旧制園部中学出身の方で、とても懐かしがってくれた。

 生物専攻で薔薇作りの名手との噂があった。「お庭の薔薇が素敵だそうですね。」と言うと、「もう、薔薇作りは弟に譲りました。」と答えが返ってきた。

 弟さんはY.K先生、その頃、国語科研究会会長で、私と同じ年の紫野高校の先生だった。私も、日吉ケ丘高校からの輪番制の代表だったので、1ケ月に1度ほど研究会で会った。初回の4月の会に集まった時、会議室に浅くて幅の広い花器が卓上にあり、菜の花の黄と大根の花の白が乱れ溢れた姿で活けられていた。さりげなくて豪華だったのが今も忘れられない。

 後に知ったことだが、Y.K先生の邸宅の薔薇園はそれは素晴らしく、葉の1枚もおろそかでなく生き生きしていて、季節の5月になると同僚に分け与えてくれる。私の美人の友人などは、特に沢山貰えた様子。羨ましいことだった。

 Y.K先生の邸宅の隣に「ラビアンローズ」という喫茶店が、5月になると開かれて、香り高いお茶を薔薇の匂いとともに味わえる。そのことを聞きJR嵯峨野駅と嵐山の流れの中程にあるその店に行ったことがある。貴族的な雰囲気に浸れた5月の午後のひと時であった。

 退職後のY.K先生は薔薇一筋で、それも世界的な活動の明け暮れであったようだ。『世界の日本とローズガーデン』という鮮やかなカラーの大版の著書を、私にも送って下さって、本棚のよく見える所に立て、折ごとに眺めたり読んだりしていた。

 世界的にも有名なこの美しい本を独り占めにするのは、何とも勿体ない。ふと、園部高校の旧職員旧生徒の図書が集められているコーナーに保管してもらったら……と思い付いた。黙って勝手なことをするのも、と20年ぶりに電話した。先生はお元気で、それなら自分が送りますと言われた。が、折り返し電話があり、「実はもう在庫がありませんでした。よかったら、石川先生のを送ってくれますか。」とのこと。この名著は、古書店でも1万円からの値が付いていると言う。何か惜しくなったが、約束通り送った。

 お返事不要と記したにもかかわらず、森利夫校長から丁寧なお返事があり、学校の現況を記したカラーの案内書も同封されていた。無断で引用させていただきお礼に代えたい。

 「K先生の『世界の日本とローズガーデン』とA.S先生の『手づくりの楽しみ』を確かに受け取らせていただきました。K先生の色鮮やかなバラの色と分かりやすい解説・説明には御研究の成果が本書に凝縮されているように思います。あの繊細で栽培の難しいバラ栽培の御研究と文学の融合は、私たちの心にすがすがしさをもたらす美しさや優しさが感じられます。また、S先生の御本には御研究の成果及び手づくりのよさとともに、お母上様の豊かな愛情が感じられるすばらしい内容で、大いに参考にさせていただきたいと存じます。本校御卒業の偉大な先輩の偉業に、ただただ感服いたすばかりであります。」とあった。

 S先生と言うのは第8回卒業生の1人の女性で、「母を待つ」にも記した。この本も手放し難かったけれど、可愛い手提げや、少女向きのスカートの製図もある。手に取って作ってみたいと思ってくれる園高生も多いはずである。

  • 黄の平和(ピース)も真紅のクリスチャンディオールも目つむりて嗅ぐ若き日恋ひて
  • 薔薇色の人生は容易ならざりき枯れ枯れ一樹わが庭隅に

更新日 平成25年8月28日

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第96回 花火のような生(ヴィ)

 国語の教材で、古文・漢文はどの時代も、どの教科書会社のもさして変わりはない。しかし、現代文は時代の流れ、特に教育方針に左右されて随分変わる。だから怖いと言える。新任の頃の国語科研究授業で私が選んだ、井伏鱒二の「屋根の上のサワン」。大失敗して見るも厭な小説であったが、その後、幸いにもお目にかからなかった。

 短編小説の1年生の教材は何時も芥川龍之介で、それも「羅生門」が多かったのだが、時々「舞踏会」が採られていて、私を喜ばせた。鹿鳴館の舞踏会に貴族の令嬢明子は、初めて出席した。そこでフランスの将校と軽やかに踊りながら上がる花火を見た。将校は、「われわれの生(ヴィ)のような花火」と明子に囁く。後日、老いた明子はその日の思い出をある若者に話す。若者は愉快になって、その将校があの有名なフランスの小説家ピエルロティであったと告げるのだが、明子は全くその意味が分からない――と言う話だった。

 生の花火を上げる時期は人によって違うのだろうが、私の花火は何時だったのだろう。80歳を越えた今、思ってみる。

 卒業して教員になったとき、私は「文学」を生徒に教えたいと、意気込んでいた。鳥取で1年半、そのあと園部高校に赴任した。私は23歳から25歳、生徒とは7、8歳の違い。昭和27年から30年頃の高校は、まだ旧制の名残りのような雰囲気があり、おおらかで、理系を目指す生徒もジイドやトルストイを読んでいた。若い私には手ごわく、毎日毎日が背伸びも背伸び、勉強の連続であった。

 その頃の生徒と50年も経って同窓会で出会い親交が深まり、短歌結社「原型」で10名余と名を並べ短歌を作り合うまでになったことは、第89回に記した。私は園部高校から京都市立中学や高校を歴任し、約40年国語を教えていたのだが、教材を「文学」として教えられたことは一度もなかった。専ら担任をした生徒の生活指導にかかわったり、有名校に進学させるための補習に放課後を使ったりしていた。

 だから、その後の人生は、あの老いた明子夫人のようであったのかもしれない。

  • 一茎のゆらぎとなりて仰ぎをりなだれ降りくる八重芯花火を

更新日 平成25年9月4日

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第97回 親の願い―命名

 忘れもしない8月3日、物静かな優しい声の女性から電話があり、園部高校に在職したK.Mの娘ですと告げた。

 ブログ「短歌放浪」の「ズータリさん」を読んで、あまりによく父のことを覚えておられるので、懐かしくなって……と言う。

 驚いた。そして嬉しかった。ズータリ先生のことは他にも、「ふたりっきり」「職員劇蟻部隊」には写真入りで、「屋根の上のサワン」「風花」にも書いている。

 お嬢さんは宇治在住で陽子さん。M先生は園部のあと鴨沂高校に転勤、その後、山奥の大江高校の校長になった。家族を引き連れ赴任されたと言う。

 次は亀岡高校の校長と、だんだん市内に近づき、国語の実力を買われて、府教委の指導主事に。その頃、庁舎の門前でお会いしたことがある。

 最後に山城高校の校長になられ、奇しくも、わが娘の入学式でお会いすることになる。校長室の大きな椅子がよく似合い、あの変わらぬ笑顔であった。その1年後が定年退職、駿台予備校で教えておられた。奈良の短大の講師でもあったと聞く。

 『こんな親では泣けてくる』という著書もあり、PTAの集まりの、親たちへの警告書でもあったと噂で聞いていた。

 訃報は2、3年も経ってからであったろうか。あまりにも早く、やり残したこしの多いM先生の無念さが思われた。特に私は、国語学者としての『讃岐内侍日記』注釈の未完が最大の心残りであられただろうとお察しした。

 陽子さんによれば、著書としては副教材の『日本文学史』もあったという。子供の命名を見れば、親の願いが分かる。長男には睦夫、人間関係の温かさを願い、長女陽子には、人の真ん中にいつも明るく輝いていることを願われたのであろう。次男は博夫、片寄りのない博学を願って名付けられたに違いない。

 そしてある日、職員室で、名前に付いてこうも話しておられた。「子供の名は省略して呼ばないできちんと最後まで」と。ムッチャン、ヨウチャンでなく、ムツオさん、ヨウコさん、ヒロオさんと、きっと先生は呼んで育てられたに違いない。

 静岡生まれで正しい標準語のアクセントで話された先生は、きっと文字の意味と同時に、その音声にも願いをこめ、呼び続けられたと私は思う。長男睦夫さんは外交官、博夫さんは高校の地学・物理の先生だったそうだ。又、陽子さんの二人のお嬢さまの出生もご存知だとか、その名も先生が付けられたのかも知れない。

  • 温容な父の笑顔を重ねつつその声を聞く 留処なく聞く
  • 早逝の父ゆゑさらに美しく恋しくその娘(こ)は父のこと聞く
  • 若き日の父の呼びたる「陽子さん」一生(ひとよ)に響き幸せならむ

更新日 平成25年9月19日

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第98回 藍の帯

 大連に嫁していた叔母は父の妹、西陣小町と言われる美人だったから、貰い手は数多であった。京都中京区のさる金物屋に嫁したが、「子無きは去る」により離縁され、後、大連から呉服を仕入れに来た叔父に見染められ再婚した。美しいだけでなく知力も抜群で、男の子にも負けない小学生時代だった。だから嫁して、左脚が不自由になってからも、「あてが男やったらこんなことしてへん」と言っていた。脚の悪いのも非常に自尊心を傷つけられることであったに違いない。

 破産寸前の兄の家族である私たちを引き取り、親身に面倒を見てくれた。子の無い叔母は3人の男の子を貰って育てた。

 男の子へも夢を持ち、一緒に暮らした姪たちにも夢があった。私の母は社交的でなく子供に甘い人であったのが歯がゆく、私は叔母によく叱られた。宴会などを嫌がると、そんな引っこみ思案では……と引っぱり出された。叔母は金持ちであったから、父母に言うより叔母にねだり、赤ちゃんほどのキューピーさんや、何もかも揃ったままごと遊びや高価なものをためらいもなく買ってもらった。又、本などは同じ商店街の書店で毎日立読みしたが、あそこの子だからと許してもらった。

 叔母は書道の先生を雇って習っていて、私にも習わせ、その人に漢文も教えさせた。『十八史略』だったと思う。返り点通りに読めるようになったが面白くはなかった。長男は敗戦より前に旅順の高等学校を出て東大に入り大連を離れた。

 この従兄が世話焼きで、テストの前になると教えに来る。特に地理は小さな黒板に地図を書き、川の名、山脈の名、町の名を言わせる。それが面白くて100点以外は取らなくなった。又、百人一首の暗誦をさせ、作者を言って、あとでその歌を言わせる。出来ると喜んで「みっちゃん賢いなあ、すごいなあ。」と褒める。それが嬉しくて又覚える――というものだった。

 敗戦の2年後、一文無しの引き揚げ者として京都に帰り、従兄と再会した。彼は東大法学部を卒業し、丸紅飯田に就職していたが、既に恋人がいるようだった。進学を相談して賛成してくれたが、女の子は家政科がいいと言う、ただの男性になっていた。私は失望し、この人に就いて行けないと悟った。

 ロッキード事件の裁判で、ある日従兄の顔が大写しになった。ピーナッツとかピーシーズとか言っていて角栄と飛行機を買うのにロッキード社に賄賂を贈った事件の被告であった。

 叔母は息子を案じ体力を消耗したのだろう、ふとした風邪が因(もと)で死んだ。三男の嫁が一緒に暮らしていたが、生前の叔母は何時も私のことを言い、長男と結婚させたかったと言っていたそうである。その頃、従兄との結婚はよくあることであり、しかも叔母の実子ではないのだから、あってもおかしいことではない。しかし私は叔母の望む従順な女の子として育っていなかったのだから、これでよかった。

  • 腰細き叔母の形見の藍の帯 巻くことなしに色深みゆく

更新日 平成25年10月4日

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第99回 青い山脈

 戦後の若い人に忘れられないのは、石坂洋次郎の小説『青い山脈』である。これまで男女間の恋などはご法度、忍び隠れてする犯罪のようなものであったのに、急に明るい青空の下で許されることになった。しかし、最初は不馴れでおずおずとしたものであったのだが。

 『青い山脈』は映画にもなった。「変しい変しい新子さま」という書き出しのラブレターが発覚した東北の某高校。「変しい」は実は「恋しい」の誤字だったのだが、職員会議の席上、しかつめらしい教頭が読み上げる場面が印象的であった。

 そして、歌謡曲にもなった。今でも同窓会があると、白髪頭に腰の屈んだ面々が目を潤ませて斉唱している。校歌の次に懐かしいメロディなのだ。

 昭和30年4月30日、私は初めての担任として1年生の修学旅行に行くことになった。この年の行き先は、大阪の電気科学館。2年前のように、望まれないで無理押しの付き添いで行った時とは違う。堂々と39名を引率して、バス1台をH・Rの場として行くことが出来るのだから、その嬉しさは相当なものだった。

 車中で唄う歌などを集めた「旅の栞」作りが始まる。普段は統一を破る側のM君やK君などが協力的で、「先生39名分ですよ。」などと印刷を手伝いに来る。勿論ガリ版を切り1枚1枚インクのローラーを転がして刷り上げる。綴じるのにもホッチキスなどあっただろうか?

 体育のT先生が添乗希望の先生を6台のバスに割り当てている。分けにくいなあーとこぼしながら、やっと作り上げ発表すると、あちこちの担任からクレームが付く。誰も若くて気安い女性職員を希望しているのだ。私は文句など言える立場でなく、英語のY先生と社会のI先生を体よく押し付けられた。

 しかし、頼りない私には嬉しい配置だった。Y先生は私の弟分のような後輩だし、I先生は判断力のある、人間的な人だったからだ。今の学校なら考えられない我儘で差別的な担任の発言。「だからこの役は厭なのだ。」とT先生がむくれるのも無理はない。

 当日は園部に住むY先生に出発点から乗る生徒と、八木から乗る生徒の名簿を渡しておき、私は亀岡から乗り込めばいい。オジちゃんと呼ぶ商業のH先生が学年主任。各クラスのバスを亀岡に来て整列させた。

 「ちょっと中村さん、うちの組のバス、見に来てご覧。」と言われて覗いたら、か弱い女子は前方に、腕白な男子は後部座席に整然と無口であった。私の組のバスと言ったら、口うるさい男子が前にのさばり、大人しい女子は後ろに押しやられて、影の薄い存在になっていた。いつものH・Rの情景の再現である。計画性のない担任の力量はここでも歴然だった。英語のY先生は優しい兄さんの感じで、車酔いのYさんの傍に付き添ってくれていた。

 マイクが往路からしきりに回り、仕切るのは例の腕白たち。「校歌なんてものあったんですか?」と素知らぬ顔。男子代議員のDちゃんが気をつかって唱ってくれる。いい声である。文句なしに皆が唱うのは「青い山脈」。あの一日修学旅行を思い出す時、始めから終わりまでが「青い山脈」の唄声で、青空と若葉の走り去る街道だった。

 大阪の電気科学館で何を見たのかも覚えていない。ただ、N君が、「小学校の頃から此処が好きで一日中居ました。」とか言っていたっけ。昼食は何処かのレストランで、先生にはビールなども出された。一日が慰安旅行のようなものだった。これも現在からは考えられない。

 Dちゃんは本当によく出来た生徒だった。素直にマイクを握って何曲も唄った。Oさんは童謡歌手みたいな可愛い声で、「小鹿のバンビ」を唄った。あのふくよかな体が、この世の何処にも居なくなるなんて。本人は勿論、私も全く考えていなかった。そして、科学好きのN君までもうこの世で会うことはない。運命は非情である。

  • 縛るもの皆解き放ちバスは行く「青い山脈」の唄声満ちて
  • 腕白の十人仕切る旅行バス担任も女子も隅に寄せられ

更新日 平成25年12月18日

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第100回 ロングホームルームと芋畑

 戦後の教育は打って変わって、生徒の自主性が重視された。学校の校長からの命令下、担任が国策に添って生徒を束縛し、「海ゆかば水漬く屍 山ゆかば草むす屍 大君の辺にこそ死なめ」ではなくなった。

 クラスも男女代議員が選出され、彼らが中心に討議して、ロングホームルーム(水曜の午後からだったか)を運営する。6つの1年のクラス担任は、どのように指導し、その時間に何をさせていたのかは知らない。特に大したこともしていなかった気もするのだが。

 私は毎週することに悩んで、男女代議員を説得、内容を決めさせていた。特に男子代議員のDちゃんは真面目で、腕白の集団に甚振(いたぶ)られながら担任の非力を補ってくれていた。ある日は、女子のWさんのピアノ伴奏で合唱会をした。あの講堂にあるピアノを囲んで。珍しいことだったか、下の職員室から国語のM先生がとんで来て、褒めてくれたのも忘れられない。Wさんはダンスも上手なモダンで華やかな女の子だったが、その後どんな人生を歩んだのか……と折にふれて思い出す。

 又、戦時中の食糧難の名残りであろうか。2号館の下、テニスコートの続きあたりにあったグラウンドが畑になっていた。そこが、割り当てられて学級菜園になった。何を植えるかも皆で相談した。1畝を花に、4畝を薩摩芋畑にした。花は岡倉天心の『茶の本』にあった「無用の用」のために、芋は「実用の用」にするという理屈だった。

 春、耕して植える時も、わがH・Rは大騒ぎの無茶苦茶だったに違いない。背は小さくても口達者、秩序無視の10名ほどの男子が掻きまぜるのが日常茶飯事であったのだから。

 収穫時の様子は9月16日以降のわが日記に克明に記してあって、書ききれない。試しに掘ったら隣りの5組の方が立派だった。10月19日に掘り上げたら、わがクラスは綺麗な赤色。隣りは白っぽい芋だった。

 男子代議員は後期に入ったので交代したN君。ひとりで気を配り鍬5本を重そうに借りて来たが、既に皆は蔓をたぐり掘り始めていた。後始末も皆知らぬ顔。N君はシャツまで泥にまみれ、又、鍬を返しに行く。彼はひ弱くてしんどそうだった。

 20日に芋をどう処理するかの相談。売るか、皆で蒸して食べるか、分けて持って帰るか、3案が出たが、結局、放課後に学校で蒸して食べることになった。朝早く登校して女子代議員のIさんが洗っておくと言う。蒸した芋は職員室の先生方にも配って喜んでもらっていた。

 3度に分けて蒸したようで、最後に私も呼ばれた。しょぼしょぼのが10個ほどで、すっかり食べられていた。廊下でチビのM君に会ったら、「すみませんでした」とぴょこんと頭を下げた。甲斐甲斐しく世話してくれたのは、目もと涼しく色白美人のKさんだった。美貌と言い、世話女房タイプでもあった彼女は、結婚も早く決まった。それもクラブの先輩と。

 後日、社会科のI先生から、「あの子は仕込んだら、ばりばりの闘士になれる子です」と目を付けられ、生徒会役員にしたかった様子だった。

  • どの組も学級園に芋を植う我らは紅き隣りは白き
  • 放課後に蒸して教師にも配りたりたつぷり食べて逃げしもありき

更新日 平成25年12月27日

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