南丹生活

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第81回 商業H先生の病床

 平成10年頃だったか、第8回卒業生のT.Iさんらが中心になって作った「あすなろ会」が何回か亀岡のガレリアであった。その時、たまたま商業のH先生、私がおじちゃんと呼んで親しんだ先生が、亀岡の病院に入院していられると言う。

 会いたいと言うとT.Iさんの娘さんが車で案内してくれた。中程度の病院、夕方でもあったから薄暗い病室にH先生は嵩低く寝ていられた。

 枕許から顔を出して、「中村ですよ」と言うと、昔のままの口調で、しっかりと、「ほんとうに中村さん?」と当然ながら驚き、本気に出来ない様子だった。ほんとうの私と分かり初めて言われたことは、「いつかは二条駅に呼び出して悪かったなぁ。」と。余程このことが気になっていられたに違いない。

 私は24歳だったと思うが、ある寒い日の朝、二条駅まで出て来てほしい。話があると電話があった。昔の殺風景な二条駅で、木柵に囲まれたあたりで会った。

 相手は学校の教員で奥さんを早く亡くし、お子様ももう高校生の方だった。その先生が私と結婚を約束したから、仲人をしてほしいと頼まれたと言う話。

 まさか……と思って途中で確かめたのである。私の方も驚き、そんなことはないと強く否定した。H先生は「そうやろなあ、すまなかった」と言われ、お茶を飲もうとも言わず、すぐ次の列車で帰られた。

 私は不用意で、誰とでもはしゃいで喋るから、その方は好意があると思われたのであろうか。そのことをH先生は死の間際まで済まない――と思っていられた様子だ。

 痩せた手を握って、「何とも思ってないよ。」と繰り返し、「先生に会いたかった。又、来ますよ。お元気になって下さい」と固く固く手を握り返して囁いた。

 「又、来てくれるか。」と先生も言われた。奥様は病身だったので早く亡くなり、お子様もいない。卒業生が面倒を見ているという。意識はしっかりしていられたが、きっと、これが最後だと思っていた。

 人間ってどこかで心が通っていて、会いたい、と思えば必ず実現するものだ。人情に厚いH先生は、満州にいた時も中国人から全幅の信頼があった。

 そして大連育ちの私を可愛がって下さった。きっとあの世でも、いい場所に座っていられるに違いない。

  • 嵩うすくなりし死の際 誤りし過去をわびくれる手を取りて泣く
  • 最後の声薄暗きベッドに聞きてをり五十年を経て呼び寄せられき

更新日 平成24年7月10日

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第82回 続・八光館の同窓会

 Y.I君は京都新聞へ投稿したコピーを綴じたものをくれた。北朝鮮で生まれ、終戦の折、家族5人で収容所を脱走、半月かけて山中を歩き38度線を越えた。命がけの逃避行である。

 高校時代の彼は、音楽クラブに所属していて、I先生の思い出を沢山話してくれたのも嬉しかった。私の初めての座席は図書館で、教え悩んでいた頃、うっとり聴いたショパンの「別れの曲」などにも、彼の声が混じっていたのかもしれない。今日もリーダーとして校歌の出始めを美しく唱ってくれていた。

 国語を習いました――と言ってくれた何人かの中にI.O君もいた。真面目な生徒で、後に園部高校の校長にもなった。T.Y君は恰幅があって、すっかり見違えた。ひ弱で色白の府警さんだった。何回か府庁の横の府警本部のあたりで優しく呼び掛けてくれたものだ。

 温厚で無口なY.Oさんは、女性で中学の校長になった。責任感は相当なもので、私が顧問の文芸部の部長をしてくれた。ご主人の介護で大変な中を来てくれた。T.Kさんはお下げ髮を長く編んだ丸顔の子だった。結婚後、お花やお茶の先生をし、幸せだったというのに、50歳ごろだったか他界した。

 この学年も、そろそろあの世が賑やかになって、雲の上からこの桜を見る同窓会を共にしているのかもしれない。

 駅からすぐの八光館への送迎をK.Mさんがしてくれ、翌日にも丁寧なお電話をいただいた。園部高校は、どの学年も温かく、行き届いていて、50年前の青春の充実を胸しめつけられて思う一日であった。

  • 大堰川沿ひの桜は咲き盛り半生記前の思ひ出鮮やか

更新日 平成24年10月3日

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第83回 園部高校図書館一隅

 第8回生のU君から、図書館の一隅に、旧職員、卒業生の棚があり、著作などを残してくれることを聞いた。私も3冊の歌集を送らせていただいた。加えて私の貰っていた関係の人の著作も送った。その時も副校長さんからご丁寧なお礼の電話があり恐縮だった。

 この8月に出版した自己満足の第三歌集『凍る相聞』も送った。これには園部高校、園部の町の思い出の歌も多いので、卒業生でゆかりのある人にはすべて送った。

 何と間もなく大きな封書が届いた。現在の園部高校は中高一貫教育で、全府から応募できる「京都国際科」も併設されている。近辺では憧れの名門校となっている。草に埋もれた城跡で、廃校となっていたとしても、私にはたまらない場所であるが、以前にも増した学校になっていると知ると、嬉しさもこの上ない。

 大きな封書にはカラフルな学校案内が2種同封されていた。進学の統計を見ても、内容の充実が歴然と分かる。中高一貫教育棟という新校舎も竣工の運びとなった。

 昔、体育館のあったところだそうで、思い出の風景も新しく作り直さねばならない。それに校長先生からのお手紙まで同封されていた。無断で、ここに写させていただくことをお許しいただきたい。

「さて、このたび貴重な歌集を頂戴いたしまして誠にありがとうございます。1首1首に先生の『ぬくもり』が感じられるすばらしい作品だと感動しているところです。

 とりわけ『点描の町』では、故郷に向かう途上の風景と心情、故郷へ着いたときの風景と感傷、故郷を歩きながら、まるで目を閉じて昔日と現在が交錯するような心情と時間に対する切なさ……など、みごとだなあと感銘いたしました。」と、細やかな感想をいただいた。

 少し褒めすぎではあるが、先生がまともに読んで下さったことが分かる。校務でお忙しいであろうのに。学校案内には写真も出ていて、にこやかな方だった。

 ぜひ関係のある皆さんの著作は送ってほしい。いつかその図書館を見せていただけるかも……と心が躍った。

  • 空時間は校長ともどもテニスせし昔まぼろし城門の裡(うち)

更新日 平成24年10月15日

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第84回 園部〈陽だまり〉小短会 その1

 3月25日(月)に、T.Iさんが第3回目の短歌会を計画してくれた。彼女は天性から人を集める才能がある。才能というより、人のために何かしたい――という、奉仕的な優しさとでも言った方がいいのだろうか。

 今回も20余名が来てくれることになった。彼女に誘われると断れないのが不思議だ。電話代も馬鹿にならないのに。

 丹波は寒いですよ、十分に着て、1枚ずつ脱いでいくようにして……とN.Mさん、T.Kさんからも優しい電話があった。予想通り薄ら寒い日で、山陰線9:00発の最後尾車両で、京都のH.Sさん、T.Kさんと落ち合う。

 何時も楽しみにしている保津峡は、トンネルの闇を2、3回抜けるとともに渓流が煌めき、あっと言う間に馬堀の駅、昔、此処は畑の真ん中で何のために止まるのかも分からぬ駅だったのに、今は大勢の乗降がある。

 外人も多く混じって、トロッコ列車や保津川下りの発着所になっている。トロッコ列車の軌道が昔の保津峡を繋ぐ山陰線なのだ。

 此処には一度書いたことがある「真夏に煌めくガラスたち」の篠瑠璃という、とんぼ玉工房がある。宝石にも増して美しい、それぞれの受講生が個性ある作品を目指している。

 亀岡のガレリオの作品展を見てサインして帰って以来、年賀状もいただくようになった。

 元同僚のAさんから、今年1月に電話があった。新年度はじめての製作日に、机上にひとりひとりプリントが配られていて、手にすると、私のブログの文章だったので驚いた――とはずんだ声だった。

 先生から「あなたは短歌を作らないのですか」と尋ねられたとか。∪君の好意で始めることが出来たブログ『石川路子短歌放浪』のことを賀状の返事にちらっと書いたのを、篠瑠璃の先生が親切にコピーして下さったようである。

 心ある生徒さんが少しでも増えて、保津川の煌めきをガラスで表現してほしいものだ。

 沿線の桜の蕾は脹らんでいるのに開花は未だ、お喋りしていると瞬く間に亀岡盆地を電車は突き切り、並河、千代川の住宅地を抜けて行った。

  • 音の無き映画セットを行くやうな本町通り春うすぐもり
  • 生活のにほひと音に賑はひし園部本町 半世紀後来つ
  • 死後に残る藍染めの額 元園部高校教師とその名記され

更新日 平成25年4月22日

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第85回 園部〈陽だまり〉小短会 その2

 園部駅は以前のように出て……と言われ、裏側にエレベーターで降りた。バスの溜り場があり、左側に、見覚えのある淡路屋、建て替えもなかったままの姿。駅弁やその他菓子類、雑貨の類が並べてあったように思うが、入って買い物をした覚えはない。

 買い物の場であった本町通りは、何時来てもしんと静まった、映画のセットのような気がする。するすると車は〈陽だまり〉に横付けされ、暖簾が揺れていた。生活臭のあった雑然とした本町通りには再び会えない。

 1昨年お願いして、〈陽だまり〉の壁面に貰っていただいた藍染の「花」と「花火」に再会できた。古風な民家にはよく似合って、ある雰囲気をかもしている私の作品、「元園部高校職員」と名の下に注がある。

 初めて担任したM.Mさんが発見してくれ、「先生、こんなこともされるのネ」と、∪君のパソコンに書き込みしてくれたという嬉しい出来事もあった。

 中に入れば既に∪君ら世話役の人らが会計を。座敷に歌会用に机が並べられ、おみ足の悪い人のための椅子もある。

 二間続きの奥深い和室に懐かしい顔が埋まって22名。もう此処は、しんとしたセットの部屋でなく活気に満ちた園部高校そのものだった。22名もの人が集まってくれたのは中心的幹事を何時もしてくれるT.Iさんの電話攻め催促の効果である。人柄には色々あって、T.Iさんのような世話好き――それも欲得抜きの人集めの出来る人は滅多にない。

 10時集合が10時30分になって「小短会」は始まった。司会に欠かせないのは∪君。この人無しには20余首の進行は難しい。適当な人に批評を振り、適当に自分の意見、それも問題点を含んだ表現について、鋭く私の意見を求める。

 「先生、どうですかこの点」と言われ、どぎまぎして答える頼りない指導者である。表現者の思いを大切に――をモットーにした和やかな会に今年もなった。

 昼食は例により、隣の三亀楼の三つの亀の店の印がなつかしい弁当、持ち寄りの銘菓が半紙いっぱいに包まれたお八つ。食べあまるほどで夫への土産に包んだ。

 いい作品も多く、最後に選歌数と作者名が発表されると、「わあっ」と喜びの声や「うまいなあ、あんたのやったんか」と羨望の声。あとくされのない会である。1人5首を投票して集計がなされている。

 印象に残った幾首かを挙げてみる。

  • 「畦焼きは止められてますのや」と老農夫 虫除けの火種に豊作願う (M.K)
  • 仏花にも松竹梅が添えられて妖気華やぐ暮れの霊園       (H.S)
  • AKB、TPPも舌を噛むPTAはまだ言へたのに       (T.I)
  • 雪降りて屋根よりしたたる寂(さび)庭に千両の実は赤く艶やか (H.N)
  • 立ち枯れの竹の梢のカラカラと鳴るふる里は風花の中      (H.H)
  • 大根の味しみ入るをひがな待つなすこともせず炎見て寒     (A.T)
  • 遍路道こんな所に蕗の薹 金剛杖(つえ)を頼りにスキップで越す (H.K)
  • 藁納豆届けてくれし友は亡く雪の古里いま遠くして       (M.U)
  • ジャズピアノ聴く母親に抱かれてからだでリズムをとる幼な兒が (N.M)
  • 手袋の小さき綻び何時からか母の形見を使い続けて       (T.K)
  • 柚子風呂につかりて一句浮かびたる早う上りやと夫の大声    (T.K)
  • 暈取れて春光みち来る中空は雪と晴間の鬩(せめ)ぎ合ひかな  (K.T)
  • マスクの人マスクを取れば美形かとをりふし思ふ関はりなけれど (T.N)
  • ふり返えり楽しき日々の子育ても今は遠くて無事祈るのみ    (H.I)

 恒例により高点にはT.Iさん手製の千代紙の箱、私も作り溜めてあった藍染のハンカチを出した。

更新日 平成25年5月13日

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第86回 園部〈陽だまり〉小短会 その3

 小短会(小さな短歌会)の楽しみは二つある。終わったあとにもうひとつ、「思い出の歌」を、T.Iさんのご主人の伴奏で唱う会があることだ。今回は冬の頃からこの小短会を考えていて下さり、「冬の星座」「冬の夜」など冬の歌から収録した冊子が用意されていた。

 しかし、開催が春になったので、唱ったのは、「春よ来い」「どこかで春が」から、T.Iさんのご主人の力強い伴奏と、解説が始まった。「陽だまり」のホールにはグランドピアノもあり、きっと子供らの小さな発表会もしばしば行われ、拍手が響くのであろう。

 T.Iさんのご主人は音楽の教師、そして指導主事的な役目もされた方と聞くが、地位より何よりも、芯から音楽を愛している方だ。定年後もあちこちからのお呼びで忙しい。ピアノを暗譜で弾かれたと思うと、作曲家、作詞家のエピソードを語る。

 次の曲に移ると、われわれの間の抜けた音感に、ちくりと注意を入れる。唱う速さは私のピアノに合わせて下さい――などと。

 そう言えば此処はフェルマーターが付いていたのだった……と首をすくめながらも、又、次の曲へ。

 「朧月夜」は皇后さまの一番お好きな歌だったとか。「めだかの学校」。メダカは駆け寄るともう居ない。けれど、ここはメダカの学校だからすぐ戻って来るよと息子が言った。その通りだった。それをヒントに茶木茂は作詞したのだそうだ。

 しみじみと昔が懐かしく、大きくぱくぱくと口を開け、日頃のもやもやを発散する。「故郷」のあと、思いきや、私のために「仰げば尊し」を弾き唱わせて下さった。

 そして、ここでの小短会は3回目で終わることを告げた。胸がじーんとなった。もうこの何とも言えない熱い思いの会が此処で行われることはない。

  • 再度聴く「仰げば尊し」この会も卒業せよと〈時〉急かすなり
  • そつと来て覗くもメダカは集まらぬメダカの学校に陽は透くばかり

更新日 平成25年5月27日

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第87回 牛と家族の童画

 3月25日の「小短会」の帰り、京都方面の者6人が固まって席を取った。たった3回で、どうしてこの会に終止符が打たれたのか……。まだ咽喉に詰まって悲しかったが、私の年齢もあり、世話役のT.Iさんの体調もすぐれなかったのだろうか。

 ただ一つ嵯峨まで一緒だったF.H君と身近かに語ることができ、彼の描き続けている水彩画を手に取って味わわせてもらえた。これは得がたい機会だった。

 その昔、農業の助けに欠かせない牛と、子供、家族が主題の4~5枚であった。この日の「小短会」のF.H君の短歌もなかなか見どころのある2首で、もっと早く作歌を勧めたらよかったと後悔した。

 彼、廣野文男作品集は、南丹市総合ガイド「南丹生活」にも紹介され、∪君のブログ『ふらり道草』にも解説付で幾度も取り上げられている。それに平成12年に京都府伝統産業優秀技術者(京の名工)となり、16年には、近畿伝統工芸士会功労者の表彰を受け、平成19年にはスプリングひよしで「思い出の中から、悠久の郷~廣野文男絵画展」が開催されている。

 だから十分有名な人なのだが、出会ってみると素朴なひとりの男がいるだけである。それもとても嬉しい。

 彼の広げた4~5枚の絵が、固まって座ったわれわれの手から手へ渡される。ほとんどが牛のいる生活が描かれ、牛も人もなつかしげな表情をして家族に溶け合っている。牛をいつくしむ農夫も子供も全く小利口な表情はない。他人をだましたり傷つけたりするような人はどこにもなく、正直で、素朴、思わずほほえみが浮かぶ。

 こう思って、もう一度作者の顔を眺めたら、この人も全く画中の人と同じ表情をしているではないか。

 十分に有名であるとしてもまだ宣伝が足らない。もっともっと知ってほしい日本のよき時代の生活を描いた画である。

  • 首伸ばす牛に相寄る父母子供〈農〉が生活(たつき)の素朴な目に目
  • 童画から抜け出たやうな男ゐて牛と家族の絵を見せくれる

更新日 平成25年5月27日

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第88回 落葉松の林を出でて

 園部高校第7回卒業生は、私が昭和27年秋に赴任した折の1年生。一番心を許して授業できる学年だった。

 白秋の「落葉松」の詩を、自己紹介代わりに朗読したりもし、サービスに努めたが、あちらは様々な悪戯もして応酬してくれた。まだ中学生気分の抜けぬのは男子生徒で、前にも書いたが、チョークの粉の赤・黄にまみれた黒板拭がドアを入ると落ちてきて、大切な白いデシンのブラウスが染まったり、教卓に前のめりになると、其処にもチョークが塗り付けてあって、スカートの胴が真っ赤になっていたりした。それを親しみと感じ、授業中の矢継ぎ早の質問も、意地悪よりも熱意と受け止め、やり甲斐のある授業だと私は思っていた。

 その学年の同窓会に昨年、初めて出席し、懐かしい八木駅に近い料亭八光館の桜を見ることができた。今年も4月15日、京都駅に近いホテルへの招待状を貰った。

 会長はT.O君、優しい顔が今も鮮やかに残る人だ。招待状は女生徒の字らしくて達筆。私は筆跡診断士の資格を持っているが、文句の付けようがなく美しい文字だった。

 出席して、今年は藤村の「初恋」でも朗読したら喜んでもらえるに違いない。だのに行けない。自律神経失調症とでも言うのだろうか、その日の自分の体に自信が持てないのだ。更年期を私は知らなかったが、それが80歳を越えてからやって来た――という感じだ。涙を呑んで「欠席」と記した。

 その後2日ほどして、Y.I君からの手紙が届いた。京都新聞に投稿したコピーが同封されていた。「先生の朗読で60年前に」という題で、こんな文章だった。

 高校の最初の授業で聞いた『落葉松』の朗読が印象に残っているので、毎年開いている学年同窓会の幹事をするに当たり、国語のN先生にお願いした。

 当日は朗読する先生の顔が涙にかすんで見え、60年前にタイムスリップした。当時の授業は選択制で、自分の好きな科目を選択して時間割が組めた。漢文もやってみたい。古文も……。欲を出した挙句、好きな音楽がとれなくなったのが残念だった。

 子どものころ、父が植物や昆虫の名前、星座のことなどよく話してくれたので興味を持ち、理系が好きだと思っていたが、高校のころは、いつの間にか文系に変わっていたようだ。今でもテレビの古典や文学系の教養講座に関心があり、時々見ている。同じ作品に接しても、高齢になると若いころとはものの見方、考え方が変わってきたのかと思っている。

 今年の同窓会は4月。N先生は出席してくれるだろうか。次はどんな朗読プレゼントがあるのか、楽しみにしている。

 この1文に応えたくても、老いの体が動いてくれぬ。何とも残念である。

  • 急坂を下れるやうに老いは来る去年(こぞ)の桜と今年の段差
  • 詩の朗読一編に涙したといふ便り朗読(よ)むはたやすし行きて読みたし

更新日 平成25年6月13日

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第89回 結社誌『原型』の終刊

 「新風十人」と呼ばれ、昭和初期から歌壇に新風を吹き込んだ一人、斎藤史(ふみ)。史の結社が「原型」。

 私は此処に所属して短歌を発表していた。史の死は平成14年4月、紆余屈折があり、平成23年から編集室が関西に移った。

 これを機に園部高校の教え子、第8回卒業生を中心に10名ほどが協力的に参加してくれた。国語を教えて50年も経ってから、同じ雑誌に毎月、名を並べることになった。

 発刊50周年誌も、終刊25年3月号にも、アイウエオ順に名を並べることが出来たのには、深い縁(えにし)があったとしか思えない。

 私としては、教え子10名の個性的な作歌の助力を貰って、最後の『原型』を飾り、史先生孝行が出来たという微かな満足を得ることが叶えられた。

 10名に心から感謝したい。

  • 白内障手術を終えて晴れ晴れと夫はやさしき孫にはまして    (T.I)
  • 水張田(みはりだ)にかこまれ浮巣のごとき日々 和鋏落とし鈴鳴りにけり (M.I)
  • 蝉の音に想いを乗せし遠き日よ今鳴く蝉に何を託さむ      (M.∪)
  • 金剛杖(つえ)持ちて歩き遍路は黙々と一人ひとりの悩み秘めるか (H.K)
  • 荒れにしと咎める夫も今は無し庭に拡がる草いろいろに     (T.K)
  • ぽあーんとした暖かい風髪ゆらす僅かな土地を手放した午後   (H.S)
  • スーパーの棚から棚へととびまわる妻の書きたるメモを片手に  (A.N)
  • 節電と節食といふ大義得てひと日こたつに背なを丸めつ     (K.T)
  • 筏の上艀に引かれ港まで明け方の夢の故郷の川         (N.M)
  • 嵯峨菊の手入れ誇れる妻の声聞き流しつつ吾駒いじり      (K.M)

 他にも協力者であった2名の短歌。

  • 寅年に吉兆願い鈴鳴らす大吉なれどマグロに銭貼る       (Y.K)
  • 大雪(だいせつ)の日の釈迦堂の大根(だいこ)だき大きなお椀に湯気立ち昇る (K.M)

 中断するには惜しいこれらの短歌、よき指導者、よき発表誌を得て、ぜひ作歌を続けてほしい。

更新日 平成25年6月25日

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第90回 老いと若さと

 前回の八桜会(平成22年11月8日)の時、今回の会が平成25年6月14日と決まった。

 幹事のひとりに任命されたT.Kさんが、「わあ~困った。田植えの最中や。主人にどう言おう。」と悩んでいたのが今も残っている。私も心ひそかに、その時、ここに来られるかしら……と思った。

 予感どおり、昨夏は塩分不足の熱中症で救急車で運ばれた。地震、雷よりも怖いのが暑さである。招待状をいただき、間際まで自分の体に自信が持てなくなっていた。

 だが、駅の中のホテルなら、冷房の電車を降り、真っ直ぐ冷房のホテル内へ駆け込めば大丈夫だ、と強く強く自分に言い聞かせて来ることができた。老いとはこういうことであったのか。

 体格堂々として、読書を忘れないと話をされたM先生は、骨折で来られず、平成20年の会で再会し、その後調子が悪いように聞いていたS先生が出席だった。意外な嬉しさだった。

 それも以前に増したお元気さで、例によって「虫喰い算」とか「伏面算」とかの、先生独自の問題2枚が配られていた。私はスーパーのお釣りすら計算しない人間なので、数学専攻の孫に持って帰ってやらせてみようとしか考えない。が、さすが解き始める教え子もいる。

 何時の間にか園部高校の昔の渦に巻き込まれて、私はすっかり25歳の自分にもどっていた。

 「黙祷の友が増え出すクラス会」こんな川柳を最近読んだが、此処もそうであった。

 園部駅から学校までの山道は廊下の続きと言ってもよく、追い越したり越されたり、つい並んで喋りながら駅まで歩いたこともある。

 その中で忘れられない二人があった。どちらも同姓のH君、おとなしい方がK彦君、やんちゃなのがK介君。

 K介君にはここ3回の同窓会でいつも出会えている。つい、「K彦君はどうしてるの?」と聞いてしまうが、あちらも「どうしてるんでしょうねえ。」としか返ってこない。今回は「先生、K彦は亡くなってますね。」と言われ名簿の物故者欄でその名を確認した。真面目な、あのK彦君は何処でどんな一生を終えたのだろう。

 K介君は、「いつだったか、今日は眠いから授業は止めましょうと言って先生に叱られた。」とか、相変わらずだった。

 そう言えば、前にも書いたが、英語のT先生からも、「テニスコートで打ってるとあなたの声がほろほろと聞こえるんだ。案外内容のないこと言ってるんだろうなあと皆で話してた。」と聞いたことがあった。

 内容がなくても生徒を叱れる強さ? 自信? それが若さであったのかもしれない。

  • 自信無きに自信ありげに見えしとか若き日のわれ今も不可解

更新日 平成25年7月2日

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