南丹生活

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第71回 白いセーターの女の子

 昭和30年の高校入試は3月1日だったと思う。京都府はその日が決まりだった。教室の南窓の隅、教壇の右横には、ダルマストーヴが焚かれていた。

 職員室などは背の高い塔のような形の上等だが、教室は焚きやすく単純なこの形と、どの学校も決まっていて、よく燃えると腹の部分が真赤になる。

 窓側からアイウエオ順に生徒は並んでいたのか、ストーヴのすぐ前に、M.Iさんがいた。ノーブルな顔立ちで、白い手編みのセーターで、そこにぽつぽつと黄やオレンジや青色の点々が出ているのを着ていた。

 監督の私は、とても緊張していて、ミスがあってはと、1枚1枚試験用紙を配る。時計をにらみながら、終了5分前です、などとも言わねばならない。

 その女の子と何を話した訳でもないのに、どこか利かぬ気らしいその子が忘れられなかった。私は、その年、初めて担任を持たされたのだが、1年6組に、何とその子は居た。

 思った通り、上に兄がひとり、と言うさばさばとやんちゃな子だった。成績も良くて、学級委員を決める時は、すぐその子に決めた。腕白揃いで、担任もなめられているクラスであったが、決して男の子に負けない子だった。

 私はこの学年を1年間しか担当できず転勤したのだが、今に至るまで、便りをかわす仲である。京都薬大に進学、薬剤師になり、その学校で知り合った人と結婚、広島で薬局をしている。

 白衣姿で店頭に立ち、地域の病人に頼られているらしく、私が電話で少しでも症状らしきものを言うと、高価な漢方薬などを送ってくれる。

 名物の牡蠣は何度も送ってくれた。お返しらしきものを送ると怒るので、すべて貰いっぱなし、一度声を聞きたいひとりである。

  • 鼻筋の通る横顔火照らせて入試問題にひたすらの子よ
  • ふかふかの白のセーターに混じりたる点々の色 五十年消えず

更新日 平成24年1月24日

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第72回 風花

 M.Iさんと共に忘れられないのはS.Oさん、色白で丸顔、ふくよかな、大柄な人だった。殿田中学出身だったが、会計委員などにぴったりの真面目な女の子、卒業して京都府教育委員会に就職した。学校の事務職員で、あちこち転勤したが、長女は山城高校にも居たことがある。地域制で高校が決まった頃で、山城高校の学区になった。

 晴れの入学式に連れ立って行ったら、校長はあの国語のズータリ先生、授業料を納める窓口にS.Oさんが居て、奇遇と言おうか、とても心丈夫に思った。

 S.Oさんは、同じ教育委員会で、たしか体育関係の仕事をする男性と、早く結ばれ、圭介ちゃん、佐保子ちゃん二人の母親だった。素直で優しいS.Oさんを放っておく手はない。

 夫は能面を打つのが趣味の人で、龍安寺下に家があった。結婚式にも招待してくれ、担任としての祝辞を言わせてもらった最初だった。二人は平服で、場所も小さなホールだった。

 私の娘は、親に似ぬ大胆な子で、2年生の折の体育祭の応援団の打ち上げで、飲酒事件に連座していたらしい。急性アルコール中毒でひとりの男子が救急車で運ばれたことから、ばれてしまったと言う。新聞にも出た。

 その始末書も親に見せず、勝手に印を押していたのだが、秋の保護者面談で告げられた。親も教師と言うのに……。

 謝罪どころか、恥ずかしさばかりだったが、きっとS.Oさんも知っていたに違いない。ズータリ先生は、退職して予備校の教師になっていられ、その点は助かった。

 その後、何年たっただろう。平成14年だったと思う。M.Iさんから電話が入った。S.Oさんが癌で急逝したと言うのだ。

 広島から駆けつけたM.Iさんと京都駅で落ち合い、右京区龍安寺下の坂道を捜し歩き、やっと葬儀に間に合った。2月頃だったか、とても冷たい日で、風花が舞っていた。

  • 風花の肩に散りくる昼の葬(はふ)り小面(こおもて)のごとき死に顔なりし

更新日 平成24年2月10日

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第73回 遊子会

 昭和28年頃だったか、京都から通勤していた社会科の優秀な先生方が、市内の高校に転勤、先生の質は少し低くなった気がする。しかし、その分庶民的な雰囲気が広がった。特に図書館に席があった地理のT先生は、気さくな人で、世話好き。藤村の「雲白く遊子悲しむ」から取って「遊子会」を作った。

 遊子は、遠く旅する人のことで、「有志」が掛詞になっている。図書館長は社会のY先生、無口だが、にこにことした坊ちゃん風な人、長く図書館の住人の商業のH先生とともに、一家の主人であって子供さんも居るというのに、恵まれた旧家らしく、経済的に豊かで無責任な気楽さ。誘えば一つ返事で賛成し行動してくれる。図書館はだから格好の企画室になった。

 以後3年間、夏休みの3泊4日の旅には、校内の若者がこぞって参加できる遊子会であった。常連は図書館の3人に加えて、実習助手で実家がお布団屋のKちゃん、国語の通称お嬢さんのN先生に私。時には数学のT先生、家庭科のY.Y先生、事務職のOさん、理科のN先生、家庭科のK.Yさんなども加わり、誰にも開放的な楽しい会だった。

 昭和28年は小京都高山の街を見学した後、平湯を経て、3260メートルの乗鞍岳へ。バスで登れる唯一の山だからで、肩の小屋という山小屋に1泊、翌朝、そこから100メートルほどの尾根を登って頂上でご来迎を拝んだ。

 忽ち登山道を巻く山霧、足もとも見えず、雲海の切れ目に御岳や槍ヶ岳などの峻峰が現れた時の感動。黒百合は恋の花――の高山植物のお花畑。残っている雪渓。何もかも初めて見るものばかり。

 帰りは上高地に1泊。梓川の雪解け水に手を浸した。河童橋から見る穂高連峰は、青い空を限る屏風のようだった。落葉松林、カッコウの声、白樺のベンチ、登山道で行き違う人達が、「コンニチハ」と挨拶することさえ、珍しい世界。

 ボストンバッグにパラソル、そしてサンダルにスカートのわれわれを見て、上高地も俗化しましたなぁ~。と陰で誰かが嘆いていたとか。商業のH先生は登山帽を被ると、禿頭がすっかり隠れ若々しい同志社ボーイそのものになった。白い水蒸気の立つ夜の明神池でボートを漕いだのも忘れられない。

 昭和29年は、永平寺から東尋坊、金沢兼六園方面で、特別のつてで永平寺に1泊させてもらった。旅行者と言えども修行僧と同じ行動を取らされ、食事も風呂もすべて修行なので無言。4時起きの朝の礼拝にも当然参列せねばならない。

 それが、辛くて横道に逃げようと企(たくら)んだ一行は、早速発見され、叱責を受けた上、道場に連れもどされるという、先生稼業には全く不名誉な一事件もあった。

 東尋坊の切り立った、そして海に突き出た断崖、荒々しい日本海の怒涛が打ちつけていた白さも、深く頭に刻まれた。

 昭和30年は、志賀高原の熊の湯から渋峠を越えて茅ケ平、そこから草津、そしてあこがれの軽井沢で1泊した。緑に塗った貸自転車で町を走った。私はその頃自転車に乗れなかったから、皆の走っている間、どうしていたのだろう。

 安い旅館に泊まったからか、夕食はどんぶり1杯だった。がっかりしてお箸をご飯の上に仏飯のように突き刺し念仏を唱えて食べた。軽井沢はブルジョアの町だったのだ。

 その後、甲府に入り、富士山を見、音止滝、白糸滝を眺め、伊東から大島へ渡り、三原山にも登っている。大島に渡る連絡船で途中投身自殺があった。船員5、6人が飛び込み助けた。三原山の上まで待てなかったのだろうか。

 若い日の旅は、美しい日本の自然とともに、それぞれの心を彩り、豊かにしてくれたが、あのメンバーで生存しているのは、私と誰がいるのだろう。とにかく地理のT先生に会ってみたい……と思い続けている。T先生は間もなく殿田の中学に転勤したと聞いた。

  • 若き日の空を限れる穂高の峰こころ震へて友と仰ぎし
  • 乗鞍の尾根はたちまち霧が巻き前後の友も他界に消えぬ
  • 遊子会の友らは彼岸 アルプスの空を自在に飛びめぐらむか

更新日 平成24年2月28日

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第74回 藍染の額

 平成23年10月、園部本町の、「真心ステーション陽だまり」という町営のホールで、短歌会をさせてもらった。

 「陽だまり」という命名が、何とも温もりがあり、左半分がホールで洋風、右半分が和の部屋続きの施設だった。

 本町のほぼ真ん中にあるのも場所的によく、独りで本町筋を歩いて、旅人のような顔をして、左側の喫茶室にぼんやり座っていたいなあーと思うようになった。

 その時、家の真ん中の通り庭の入り口に掛かった暖簾が、花のデザインはいいのに色褪せていたことを思い出した。

 私が過去に染めて使わずに蔵ってあるあの額、何とか利用出来ないやろか、と思い始めた。

 グランドピアノのあるホールの後ろ、うす暗い壁に掛けてもらったら丁度いい。

 すぐに亀岡のT.Iさんに相談したら、どうやら貰ってくれるらしい。

 白塗の木の枠の大きな藍の花と、細かく縫った白木の枠の花火のデザインのを送った。

 反応は忽ちあった。第8回卒M.U君のパソコンにこんなメールが届いた。

 「たまたま、ボランティアで、子供達を連れて『陽だまり』に行きましたら、グランドピアノの後ろの壁に、中村先生作の藍染の大きな額が掛かっていました。あんな美しい染め物などもなさっていたのですね。」

 と言うことで、私が居なくても作品が昔と今の繋ぎ役をしてくれているようである。嬉しいことだ。

  • 藍の色深めて染めし花の額 陽だまりサロンに教へ子を待つ

更新日 平成24年3月10日

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第75回 「落葉松」の詩

 私が昭和27年秋に園部高校に転任した時、1年生だったのが、第7回卒業生。一番教えやすく気の安らぐ講座だった。国語甲と言って、現代文の3単位だった。卒業までの2年半になじんだ多くの生徒の名は忘れられない。昨年はI.M君が幹事で、同窓会の案内を呉れたのに、他の行事と重なり行けなかった。

 もうお誘いは来ないだろうと安心していたら、2月10日、似顔絵を名の横に添えたY.I君の丁寧な案内が届いた。名も顔もよく覚えていたので、似顔絵に思わず笑ってしまった。

 彼らは74歳ぐらいになっているのか、年とともに昔が懐しくなるらしくて、担任でもない私にまで案内が来る。嬉しいような心苦しいような思いである。

 何故なら、名や顔や、その昔のその人のしたことを定かに覚えているわけでないから、何のために雛壇に並ばせていただき、ご馳走になっているのか、分からなくなってしまうからだ。

 今回は断れないし、電話で出席を伝えようと思っていたら、翌11日の朝、律儀な電話があった。

 「あなたのこと、お名前もお顔もよく覚えているのよ。」と言うと喜んでくれ、あちらも「先生、初めての授業の時、『落葉松』と『牡蠣の殻』を朗読してくれました。発音が際やかで、今のお声で思い出しました。」と言ってくれた。

 何の芸もない私は、出来るのは朗読ぐらいで、女学校の頃から、アパート(安もののマンション)の屋上、ここはシーツなど大きな物を干す場になっていたが―ここで「源氏物語」須磨巻を朗読していた。

 敗戦後、ソ聯兵が進駐して来て、うかうかと女の子は外に出られなかった。兵隊は女を求めてさまよい歩いているから攫われたらお終いなのである。

 就職も、なりたいものは学者、次にアナウンサー、第3が学校の先生の順だった。時事問題に弱くアナウンサーはあきらめ、家が貧しいので学者もあきらめた。

 その名残りの朗読はあちこちの教室で披露して、生徒達も覚えていてくれる。「落葉松」は北原白秋作で、「落葉松をしみじみと見き 落葉松はさびしかりけり 旅行くはさびしかりけり」のあれだ。落葉松の繰り返しの快いリズムの詩で、今もほとんど言えるが、「牡蠣の殻」は、蒲原有明ので、朗読をした覚えはなかったのに、Y.I君は、「牡蠣の殻なる牡蠣の身の…」と覚えていてくれる様子である。

 4月17日、体調が良ければ、なつかしい人達に会えて、又、過去の私を発見できるかもしれない。

  • 「落葉松」の詩を繰り返し唱へつつ寒時雨する街角曲がる
  • 新任を迎へる好奇の眼のなかに肩張り背伸びし立ちたりわれは

更新日 平成24年3月26日

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第76回 入学式の宣誓役

 昭和30年、私が園部高校に転任して2年半、1年6組の担任という校務が回ってきた。学年主任は商業のH先生、おじちゃん、お姉ちゃんと呼ぶ間柄だったので、随分細かく気を遣ってくれた。

 第1に私は1組の担任だったが、1組は何かにつけ先に動かねばならぬことが多いから……と6組に変えてくれた。でなければ担任になれなかったY.N君、この秀才は入試の成績がトップで、生徒宣誓をすることに決まっていた。担任として初めて声を掛け、その後40年、親しくさせてもらった。

 講堂に入場する時、担任はY.N君を役目柄最前列に坐るよう指示することになっていた。その男子生徒は長身で眼鏡を掛けて丸坊主、にこやかな生徒だった。そのことを伝えると「僕、厚かましゅう最前列によう坐りませんから、皆に分かるように、先生から言ってください。」と言った。

 どこか甘やかな声で、目立つことが苦手らしく思われた。私は彼の言う通りにして、宣誓は無事に終わったのだが、この第1歩から、私の担任としての不必要な気遣いが始まってしまったのだ。担任というのは校務分掌でも最重要な役目であったらしい。どうして私の名があがったのかは知らぬが、校長は、「中村さんで大丈夫なのか?」と幾度も念を押し、不安を洩らしたと、何十年も経ってから教務部のS先生から洩れ聞いた。

 入学式後のクラス別写真が残っている。私は黒い柔らかなウールの式服で、生徒らは50音順に前列右から左へ、そして後ろへという形で並ぶことになっている。担任は前列真ん中、晴れの場である。

 39名の男女の生徒らも、まだ誰がヤンチャなのか、手に負えない反抗をするのかも分からない。賢く大人しそうである。女性の担任は園部高校では珍しかったから、口に出さなくても、与しやすしとか、大丈夫やろかとか思っていたかもしれぬ。日差しの麗らかな昼前であった。

  • 中学生気分の子らの真ん中に微笑み作るわたしは担任

更新日 平成24年4月14日

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第77回 ホームルームの担任

 H・Rは確か木造の2号館の2階124教室だった。4月28日の日記に、3年生男子のU君らが此処まで付いて来て、「可愛い子ばっかりだ」と覗いて行った。又、3年のS君は、「妹がお世話になります」と律儀な挨拶。私はいよいよ一人前の教師になった気分だった。しかし、入学の7クラス写真の或る組には担任がいなかった――とからかわれたれりもするほどに子供っぽく写っていた。

 園部高校は始業前に職員朝礼があって、各部からその日の伝達事項があり、担任はそれをメモしてS・H・Rに行く。「アッセンブリー」と呼んでいたような気がする。担任になったら遅刻は禁物である。この30年度だけは、何と1回も遅刻はしなかった。やれば出来るのだ。

 教室は名簿順に座席を決め、男子は帽子を取り立ち上がって挨拶をする。最初はうまく行ったが、だんだん揃わなくなる。待っている間の苦痛は相当なもので、「おはようございます」と言って座らせたあとは、よく我慢できたものだと毎朝思った。だから次第に男子の腕白が秩序を乱しはじめ、自席に着かず机の上に座ったり、椅子を逆さに股に挟んで座ったり、全く無茶苦茶の集団になってしまった。学年主任のH先生からも、「中村さんとこ、H・Rで席に着かず、ぐちゃぐちゃになってるってほんと?」と問われるまでになった。

 入学当初の幾種類かの書類の回収、身分証明書用の写真すら、揃えることが出来ない。これぐらいのことで怒りたくない、いや、怒れない担任を生徒らはお見通しであったのだ。

 3年生男子の某君が、「T.M君は中学で問題児でした。先生、しっかり叱らなあきません」と注意してくれた。

 しかし、顔を見ると、とても可愛いのだ。問題児とも、厭な子とも思えない。ちょこまかするT.M君を、私はひそかに「ポタブルチャン」と呼んでいた。その頃流行(はや)り始めたポーターブルラジオのように軽くて賑やかな子だと思っていたのだ。

 N.K君も単純で可愛かった。1年経って、彼に出そうと書いた郵便はがきが残っている。「ただ、もっと落ち着いて、授業中、先生の言われる事を大切に聞いて下さい。のびのびとした気質、正直に自分の感情を言うことば、とてもいいなあ―と思いました。腕白も若い人らしく結構です。しかし、団体生活がうまく出来るようになって下さいね。時には自分の感情を意思で統一して、社会性のある人間になられますように。」1年間の担任が終わり転任の折にひとりひとりに書こうとした1枚で、出さぬまま残った。

 現在70歳を越えた彼は、どんな生活をしているのだろう、懐かしさがこみ上げてくる。

  • 腕白は腕白するほど可愛くてホームルームは千々(ちぢ)に乱れつ

更新日 平成24年4月25日

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第78回 学級委員Dちゃん

 昭和30年の1年6組の写真を見て、妹らはD・H君が一番ハンサムで賢こそうだと言った。男女の学級委員(代議員と言っていた)を決めなければならないが、選挙はまだ無理だった。他の担任は入試の成績順に苦もなく選出したが、私は妙なところで苦しんだ。

 女子はどこか利かぬき気のM・Iさん、男子は、生徒宣誓したY・N君なのだが、Y・N君を事ごとに重用視したくなかった。それでなくても目立つのを嫌がる、気弱な生徒に思え、そっとしておいてやりたかった。これが初めて担任をする私の、妙な深情けで、そんなひ弱な生徒ではなかったのに。そこで、男子二番手のD・H君を選出することにした。

 線は細いが律儀、腕白の多い級友を押さえ切れず苦労させることになった。それに任命順の不自然さは、発表してみてはっきりした。

 「なんでY・Nでなくて、D・Hなんや。」と皆の無言の目が担任をせめていた。英語の好きなD・H、古風な名で、私はDちゃんと呼んだが、教育大を出て高槻市の中学の英語の先生になったと聞いた。

 30年も経っただろうか、突然ニュースにDちゃんが映った。もうあの細っそりと神経質な人でなく、貫禄のある高槻市の教育長であった。学籍簿開示を言い出したある人物の申し立てが、華やかなニュースとなっていた。

 自分の過去の学籍簿、特に人物評価欄には一体何が書かれているのか、担任の主観で勝手な評価が記されていてはたまらない。希望すれば開示して然るべきだと言う意見だった。

 可否はどちらになったのか覚えていないが、マスコミの追求を正面から受け止めてたじろがない教育長の名が、D・Hであった。堂々と立派だった。私も幾十年、学籍簿を書いた身である。

 担任をすればどんな子でも可愛く、何とか有利になるように記述には頭を悩ませた。読んでみたら本人はきっと、誰のことを書いてあるのか…と不審がるくらい立派に表現してあるのに。と、腹の立つ問題であった。

 その時、思わず昔のDちゃんに励ましの手紙を送ったことだった。

  • 誠実を貫きし生徒は教育長テレビに眩しく再会したり
  • 学籍簿開示を非とし淀みなく臆せず語るに拍手送りき

更新日 平成24年5月22日

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第79回 八木駅

 4月17日の園部高校第7回卒業生の同窓会は、八木の八光館という料亭だった。園部駅も亀岡駅も新駅舎で、高架式になっているのに、八木駅は元のままであった。なつかしい木造のちんまりした駅舎に着くと、前に乗り降りした実感が迫った。

 その昔、駅前は小さいが賑わっている商店街があり、兄妹が生徒であったH精肉店が目立っていた。あの二人は、とても栄養満点の体格であった。二人ともお爺ちゃんお婆ちゃんと呼ばれ、きっとゆったりと孫の面倒を見ているに違いない。

 その道を左に折れて真直ぐ歩いたあたりが、副校長のY先生宅で、一度お邪魔したことがある。

 線路を南に越えたあたりは、何という集落名であったか。すべて郵便は「八木町八木」で届いたが、国語のY先生宅があった。随分田舎めいたあたりで田圃道を南へ南へと15分ほど歩いたろうか。

 卒業して鳥取に赴任が決まったすぐあとに、園部へ来ないかと、家まで来て丁寧に頼んでくれた。背の高い、物柔らかな京都弁の方だった。国語科の主任だったのだろう。私が京都女専で国語を習ったS教授の友人で、私がまだ就職できないことを聞いたと言うことだった。京大出身の人格も教養も十分の方だった。

 夜行で夜明けに着くような鳥取の淋しい漁村にわざわざ行かなくても、こんなに近くに、それも程度の高い高校があったのだ。早まってしまった――と後悔しきりだったが、1度承諾したものを取り消すことは出来ない。泣きの涙で私は園部を断ったのだったが。

 何とまた漢文のA先生からの頼みで1年半後にご縁をもらうことになった。それは、あの物柔らかいY先生の亀岡高校への転勤に伴う穴埋めのためであった。教えを請いたかったY先生宅へ挨拶に行くため、初めてこの八木駅で降りた。

 Y先生は病弱そうな夫人と二人暮らしだった。丁度、教科書のサボを作る仕事を出版社から依頼されていて、私に1年生の分を手伝ってほしい――と言われ、自信もないのに引き受けることになってしまった。

 だから、1週間に一度はその仕事を見てもらうために、この駅に降りることになった。国語のM先生に言ったら、あまり喜んでもらえなかった。2人の仲はもう一つであったのを知らなかった。Y先生は恵まれた京大出身、M先生は苦学の人で、高等検定の難関を突破、教員資格を得た人だったから、合わないのも無理はなかったろう。

 Y先生は何年か後に夫人を亡くされ、豊中に転居して別の人と結婚した。きっとロマンスがあり華やかな二人だったのだろう。お祝いの便りを出すと、「悪事千里を走るですね」とあったのを妙に覚えている。あの淋しい一軒家は、その後どうなったのだろう。今は見渡すかぎり住宅街である。

  • 木造の玩具のような八木駅は春の光に温もりてゐき
  • 教養と人格恋ひし文数多『公孫樹』にあり惜しまれ去りき

更新日 平成24年6月9日

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第80回 八光館の同窓会

 八光館は旧館が焼け、国道9号線に玄関は面して、車の行き来が激しいが地の利はある。裏は大堰川に面し、流れの風景が美しい上に、4月17日は、堤の桜並木が満開という、この上ない日であった。

 1階の大広間に、園部高校第7回卒業生60名が集まった。男性が多いせいかボリュームがあり、会場を見渡すと80名ほどにも見えた。中央のテーブルに数学のK先生と並んで席があった。

 この学年も担任でお元気なのはK先生のみとなっていた。商業のH先生、生物のN先生、国語のM先生が出られるはずの会に、担任でもない私が招待された。昔のものなら何でもなつかしい気分に皆なっていた。75歳にもなれば他界者も40名を越えていて、やはり死者への黙祷、校歌の斉唱から始まった。

 私が赴任したのはこの学年の1年生の2学期10月、まだ子供っぽい生徒も多く、若い23歳の私の手に合う生徒も多かったから、やり甲斐もあった。国語甲だった。

 特にK・T君は生徒会の役員で、弁もさわやか、頭の切れ味もよく、何を質問しても手ごたえがあった。というよりも手ごわい生徒ですぐさま反論が飛んだ。家での夕食の折、母や妹2人が、「K・Tさんの話の出ない日はないのネ」と言っていた。

 このK・T君が、何と、物故者の中にあった。「先生、頼りなかったですネ」と、びしびし叩かれたであろうに、もう言葉を交わすことも出来ない世界の人であった。

 京大を目指していたと聞いたが、有能な人はどうしてこうも早く逝ってしまうのか。第8回卒業生のK・F君、第10回卒業のY・N君もそうだったが。

 数学のK先生は、大正15年生まれ、10月5日が誕生日で、15と15と覚えればいい。私の夫くらいで、透析に週3回通いながらも、昔と変わらぬお元気さである。園部の校長として戻られたから、現在の園部高校が中高一貫の進学校として成果を上げている話をされた。

 私は何も内容のない話で、幹事のY・I君が覚えていてくれた、北原白秋の「落葉松」の朗読をした。23歳の頃よりは、詩の感じがよく出たと思うが、皺くちゃの顔はどう直すことも出来なかった。

 K先生は、その昔から思いやりのある人で、「中村さんが出席してくれるというので、遠くから無理して来てくれた人があり、賑やかになりましたよ」と喜んでくれた。そう言えば、八王子から来てくれたS・Aさんは、文芸部で、卒業後1度も会えなかった人である。結核と聞いたのに回復、ごく普通の奥さんになり、私が結婚祝いにあげた調味料の食卓セットのことを言った。

 今の私の頭の何処からも思い出せないことである。又、文芸部のI・Fさんは、NHK短歌の入選作の綴りを呉れた。やはり今も詩歌好きでいてくれたのだ。「秀作」に入選した2首を書こう。さすがにいい。

  • 休耕田に百万本のチューリップ色競い咲く山里の春
  • 吾が母も行水したる木製のたらいに睡蓮二つ咲き初む

更新日 平成24年6月27日

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