南丹生活

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更新日 令和3年11月24日

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中尾祐蔵『丹のペン〜丹波の時どき』

丹のペン〜丹波の時どき

著者は昭和18年、亀岡市生まれ。同志社大学卒業後、京都新聞社に入り、平成元年から同5年まで園部支局長を務めていた人である。

園部支局は園部の中心部の入口、国道9号線に面したところにある。今でも、この支局の記者が取材しているのを目にすることがあるだろう。

本書は、著者が園部支局長時代に京都新聞の丹波版に執筆した「丹のペン」をまとめたもの。「丹のペン」は丹波エリアの支局長が執筆する丹波ウォッチングのコラム欄である。本書はそのコラムの中から、中尾祐蔵執筆のものを集めて一冊にしたものだ。序文を寄せている京都新聞編集主幹の齊藤修が「このコラム集は、丹波の地を四年間駆け巡ったひとりの記者の、八十通の『恋文』である、と思った。あて名はむろん、丹波一市八町の郷土を愛する人たちである」と述べているが、著者自身のふるさとでもあるこの地域への愛情が滲み出た文章が多い。

題材的には、行政関連、環境や文化、時事問題、市民活動など色々あるが、この時期に口丹波でどのようなことが起きていたのか、振り返ることができる。

内容的には、まさに地域密着である。たとえば、「ところで、園部支局横を流れる天神川沿いの道で、しばしばごみの散乱シーンに遭遇する。路上に出されたビニール袋が犬やカラスの攻撃を受け、散乱しているようだが、どうも夜中から明け方の襲撃らしい。とすれば、夜中にごみを出すのではなく、決められた時間を守ってのごみ出しで、散乱も防げるのではないか。回収のスペースをきちっと守るのも手だ」(平成4年6月1日付)

身近な体験からの啓蒙的な文章の一部だが、地域住民としての視点と新聞記者という客観的に地域をウォッチする視点がうまく混ざり合っている。ちなみに、現在は南丹市もごみ出しが厳しくなり、こういう現象はかなり減った。

読んでいると、地域の記録であるとともに、地域づくりの運動の有機的な部分にもなっていたコラムであったことがわかる。地域にとっての夢や構想のかけらが本書の中に散らばっている。その一方で、夢や構想がそのまま眠ってしまっているケースがいかに多いかということにも気づかされる。

京都新聞出版センター/平成15年初版

更新日 平成27年11月15日

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細見均・岡本裕介『里山のこころ〜新しいつながりを生きる』

丹のペン〜丹波の時どき

著者の細見氏は南丹市で30年間小学校教員を勤めた人で亀岡市の里山に暮らしている。岡本氏は兵庫県出身の社会学者で京都学園大学教授。

本書は口丹波にゆかりの二人が、南丹市の里山で新しいタイプの活動をしている人々、関わりをもっている人々を取材した56ページのブックレットである。

エコツーリズムの概念であるウーフ(「世界に広がる有機農場での機会」を意味する)、及びその機会を体験する人々を指すウーファーという用語が鍵になっている。

取材されているのは、南丹市日吉町佐々江の農家民宿「節恵庵」の藤原恵一・節夫妻とウーファーの二人、美山町北の民宿「久や」の主人中野忠樹さん。

人間と生態系が共存して形成された里山の意義が見出され、多くの人が里山に目を向けるようになっている状況があるが、本書ではさらに過疎化が進んだことで田舎の人間関係や社会関係を律する伝統的な拘束がゆるみ、よそ者や都会人にも里山が開かれるようになり、Iターンで里山に住みつく人々や都会から来て里山を歩く人々が増加していることが、里山の新しいライフスタイルを生み出している要因だと指摘している。そして、里山の暮らしにはアイデアを実現できる豊かな環境があり、また、新しいつながりが生まれていくという。

里山の環境と暮らし方が、エコロジーの観点からだけではなく、伝統的な日本を体験できるという観点からも、新しい観光資源になっていることが面白い。そして都会の人々の田舎体験は言うまでもなく、たとえば外国人がそうした環境で日本語を学ぶというような滞在型ツーリズムの場所としての可能性を持っていることなどが理解できる。

田舎の生活そのものが価値になっているのである。大都市志向、経済成長至上主義、自然破壊の方向ではなく、里山というエコロジー的に持続可能性のあるライフスタイルに尽きせぬ可能性があるということがわかる。

クリエイツかもがわ/平成25年初版

更新日 平成27年11月25日

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浅野晃一郎『京の山城におこしやす』

京の山城におこしやす

著者は昭和14年に京都市下京区で生まれ、同志社大学経済学部を卒業して金融機関に勤務していた人で、現在はNPO法人京都歴史地理同考会会員としても活動している。父は京都を撮り続けた写真家浅野喜市である。これまでに、金融機関に就職した若者向けに職業意識と人間的魅力、実務性の修得方法などを説いた『新入行員読本 仕事編』(ビジネス教育出版社、平成8年)というビジネス書も出している。

本書は著者が歩いた京都府の山城エリアと丹波エリアの25の山城を紹介したもの。山城(地域)の山城というのもややこしいが、後者は山に築かれた城のことで「やまじろ」と読む。主に中世後期、戦国期に作られ、明智光秀のような著名な武将が築いたものから、無名の土豪が築いた村の城まで色々ある。

著者によると、山城国には46、兵庫県を含む丹波国には約150の山城があるという。本書では山城篇が4城、京丹波篇が21城紹介されている。山城が平地ではなく山地に多いのは当然のことで、上記の数字からもわかるように、丹波は山城が非常に多い。その意味では、この本はほとんど丹波の本と言える。

著者は「ここで取り上げた山城は特定の理由があるわけではない。地図を見ながらこの城跡なら行けそうだと決めたにすぎない」とあとがきで述べているが、南丹市域の城が多く、八木町から八木城、池ノ内城、広瀬城、新庄城、園部町から蜷川城、高山城、黒田城、埴生城、日吉町から塩貝城、美山町から島城、殿城の11城が紹介されていて、21城ある京丹波篇の半分以上を占める。

これをお読みの方の地元にも山城がきっとあると思う。山城は丹波の中世を偲ぶことができる歴史の証人なので、もっと語られてもいいものだと思う。京都では平安京の社寺ばかりを価値あるものと考えがちだが、丹波の山城の歴史は見直されるべきだろう。著者も「村起こしが叫ばれている今日、身近な村起こしが可能な村が多いのではないか」と提言している。巻末に城跡一覧があり、南丹市域は51城が掲載されているので、地元の山城を確認してみるのも楽しいだろう。

文芸社/平成28年初版

更新日 平成28年5月11日

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馬渕睦夫『いま本当に伝えたい感動的な「日本」の力』

京の山城におこしやす

著者は昭和21年、八木町日置生まれ、富本小・大江中・園部高校を卒業し、京都大学3年の時に外交官試験合格して外務省に入省、キューバ大使やウクライナ大使兼モルドバ大使を務めた人。外務省退官後には防衛大学の教授も務めた。

本書は、2011年の東北大震災の翌年に刊行されており、著者にとって初めての本となる。未曾有の危機の時にも騒ぐことなく団結して対処した日本人に対する感動が著者を駆り立てて本書を書かせたのだが、それとともに、日本はもう一つの国難に見舞われているというテーマでも書かれている。その国難とは、新自由主義によるグローバリズムである。天災という国難は国民性によってしのげるが、グローバリズムは国民性そのものを解体するものであるから、じつはこれこそが真の国難であるというメッセージが伝わってくる。

そのようなグローバリズムの時代であるからこそ、日本人は自分たちのアイデンティティを確かに自覚しなければならないということで、著者が考える日本文化の美点や、大使を務めたキューバとウクライナがいかに自分たちのアイデンティティを守ろうと頑張っているかなどが論じられている。

新自由主義・市場原理主義のグローバリズムが世界を席巻して、文化的多様性を破壊し、これまで国家によって保護されていた各国の国民に格差を生み出し、国内的に自立した暮らしの安定を崩してしまうこと。グローバリズムのネガティブな側面はここにあるが、著者はそうした観点から日本の農業を破壊するものとしてTPPにも反対している。

著者のいう日本文化は、外来文化を排斥するものではなく、それらを自分たちの伝統にあったものに「造り変える力」、つまり土着化するものであるという。また、そうした「造り変える力」の源泉には、「和」と「共生」の思想があるという。「和」と「共生」の思想に合致するものを取り入れる、あるいは合致するものに「造り変える」ということである。この「和」も、権力が穏和な国民を都合良く統治するためのものでは決してあってはならず、著者は福島の原発事故の責任者たちが国民の方を見ずに自分たちの身内の利害だけの論理で動いていたことを「和」の思想に悖るものとして指弾している。

最後に、「おわりに」から一文を引用しておく。

「私自身、日本人の高貴な精神の片鱗に触れ、感動する経験をしたことがあります。今から四年前、母校の京都府立園部高校で講演した際のことです。この講演の内容は本書で縷々述べてきた諸外国の日本に対する高い評価を中心にしたものでしたが、私が感動したのは生徒達の感想文です。生徒たちは私の講演を聞いて、『日本人としての自覚を取り戻した』、『日本のよさを発見した』、『日本に誇りを持てるようになった』、『日本を良くする為に頑張りたい』等々の反応を寄せてくれたのです。これらの感想文を読んで私は大変勇気付けられ、また若者たちの瑞々しい感性に感銘を受けました。そして、日本人のDNAはまだまだ失われていないということを実感しました。生徒たちの溌剌とした心意気は、今回の大震災の被災者の方々に対して示された日本国民の一体感を生み出した精神に通底するものがあります。」

総和社/平成24年初版

更新日 平成28年5月17日

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秋田久氏『丹波訪食記』

京の山城におこしやす

著者は昭和57年、愛知県生まれ。大阪大学法学部卒業後、京都新聞社に入り、平成30年4月から令和2年3月まで南丹支局に赴任していた。その後、舞鶴支局に異動。

本書は、京都丹波地域を主な範囲として、南丹支局時代に丹波訪米記、丹波訪食記として月2回ペースで連載していた記事をまとめた本。

京都丹波は、自然の恵みに富み、古来から京都の食材供給地として、そして今も京野菜や丹波栗、丹波大納言小豆、和牛などブランド産品を生み出す食の宝庫として知られる。本書ではそうした京都丹波の食の歴史、年中行事、生産者、農業の最新潮流、ジビエなどをテーマに、コラムを書いている。

記事の性質上、断片的な書き方になっているが、この時代の丹波を生き生きとアクチュアルに捉え、京都丹波の現在を知るのに貴重な文章になっている。暮らしとともにある伝統的な年中行事の取材も行なっており、食文化も含めて、民俗学的な面でも貴重な記録である。

京都新聞出版センター/令和2年初版

更新日 令和3年3月30日

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奥村覺『山楽・山岳・山学』

山楽・山岳・山学

著者は大正14年、旧西本梅村南八田(現園部町)生まれの教育者・植物研究家。三重高等農林学校(現三重大学生物資源学部)を卒業後、須知農林学校・北桑田高校教諭などを経て、園部中学・蒲生野中学の校長を務めた。教鞭を取りながら植物学(丹波植物誌・植林・自然保護等)の研究を行ない、郷土研究のリーダーとして活動してきた人。

本書は、著者が生涯にわたって関わってきた山・森の記録を記したもので、丹波、とりわけふるさとの南八田の記事が多い。古木などの自然遺産を記録し、文章とともにスケッチや写真が多数収録されている。

自然誌(特に植物誌)であるとともに、植物と関わる民俗誌としても貴重な記録になっている。方言や道標などの純粋に民俗学的な文章もある。

弘報印刷出版センター/令和2年初版

更新日 令和3年5月7日

小寺英治、片山健治、大石和佳子編集『新訂 若宮神社由緒書』

新訂 若宮神社由緒書

南丹市園部町横田の旧村社、若宮神社に伝わっている由緒書を現代語訳した小冊子。由緒書は明治16年に京都府庁に出されたもの。園部町殿谷の地域史研究家安田和彦氏が解読し、解説を寄せている(安田氏は編集委員の同社氏子大石和佳子氏の父に当たる)。神職はいないので、神事・祭事の用語等に関しては同じく殿谷に鎮座する鹿嶋神社の堀江幸雄宮司が助言している。

若宮神社は創建年代は不詳で、天文4年(1535)に再建されたとある。安田氏によると、戦国時代には横田村は成立していたと推測されるので、その頃に村の神社を建てたものだろう。竹井に鎮座する園部有数の古社摩気神社に属して、その祭礼に参加していたらしい。同じく今は参加していない隣村の大村(現城南町)、黒田村とともに、神幸祭や神様と相撲を取る神事に復帰するのも面白いだろう。由緒書には廃仏毀釈以前の神仏習合の様子も書かれている。

安田氏の解説により、戦国期から江戸時代の横田村や周辺の地域史もわかる。関連年表も付いている。この年表を見るだけでも、簡潔に理解できる。

古い村の地域は若宮神社の鎮座する周辺であり、横田区は現在は住宅地として拡大しているが、戸数、人口が増加しているそのパワーを取り込んで、若宮神社のルネサンスを興すきっかけにこの由緒書現代語訳の刊行がなるかもしれない。

若宮神社、令和3年(2021)2月

更新日 令和3年9月27日

吉田重光『幻の志和賀城ものがたり』

幻の志和賀城ものがたり

南丹市日吉町志和賀の地域史をまとめた小冊子。著者の吉田氏は志和賀の旧家出身で、京都市上下水道局技術長などを経て、現在は郷土史家、周辺5社の宮司も務めている。本書は文献や資料、吉田氏の文章、講演などから成る。

かつて中世城館の志和賀城があったが、平成25年の京都府教育委員会の調査では城主は大槻氏、史料や伝承が残っていないので詳細は不明ということになっていたが、本書では、新たに古文書によって戦国時代には明智光秀に仕えた舟越氏が城主であったとしている(古くは大槻氏であったかもしれないという)。

江戸初期に園部藩領などの相給の村となって清水村、山口村、西谷村が分離されたそうだが、著者の吉田家は清水村の旧家で、元は清水氏であったという。明治時代には志波加神社の社掌(神官)であった。

志波加神社は慶雲2年(705)創建と伝えられる延喜式内社で、平成29年には現本殿・拝殿・境内社天満宮が京都府暫定登録有形文化財に登録されている。

志和賀区まちづくりプロジェクト、令和元年(2019)9月

更新日 令和3年9月28日

グレゴリー・ケズナジャット『鴨川ランナー』

鴨川ランナー

第二回京都文学賞受賞作の表題作他一編を収めた小説。著者は1984年、アメリカ合衆国生まれ、2007年にクレムソン大学を卒業後、外国語指導助手として来日、本格的に日本文学を学ぶために同志社大学文学研究科国文学専攻博士後期修了、現在は法政大学グローバル教養学部准教授という経歴の人。

京都文学賞を受賞した「鴨川ランナー」は、アメリカ人青年の日本体験を描いたもの。14歳で日本語を学び始め、16歳の時に二週間だけ初めて訪れた京都の印象を忘れられず、外国語指導助手として京都に来るが、京都市内ではなく、初めて聞いた南丹市八木町というところの中学校に赴任することになる。

憧れの京都を目指して来日したアメリカ人青年が、八木町に赴任する山陰線でトンネルを越えると景色が別世界になる印象を、「どこかで見た山水画」と描写している。田舎教師の経験はそれはそれで面白いものではあるが、早朝の大堰川をランニングするぐらいしかすることがないので、仕事が終わると山陰線で二条駅に行って、夕方から夜の京都の街をうろうろするようになる。そんな暮らしの中で、日本人から外国人というキャラクターとしてのみ扱われることに疎外感を抱いたりしている。二年間を八木町で過ごしたあと、京都市内の出町柳に転居して高野の英会話学校に勤務する。そうこうするうちに、何となくアメリカに帰り損なって、そのまま日本に居ついてしまう。

ALTで来日する外国人は今ではすっかり見慣れた存在になっているが、個人的に親しくなった少数の人以外は、彼らがどのように暮らし、どんなことを考えているか、日本や日本人のことをどう感じているかなどについては、ほとんどの日本人が知らないだろう。理想から現実へ。異文化に溶け込めない不満から諦めや見切りも含めて徐々に日本社会に適応し、今度は現実として日本文化の魅力を発見していくプロセスを、主人公を「きみ」という二人称を用いて語る手法で描いている。日本語も素晴らしく、面白く読ませる力もあり、京都文学賞を満場一致で受賞したというが、それに相応しい魅力のある作品である。

もう一つの短編「異言」は、福井市の英会話教室が倒産して結婚式の牧師役のバイトを始めることになったアメリカ人青年の話。日本社会において外国人に配されている役割をアイロニカルに描いている。

講談社、令和3年(2021)10月

更新日 令和3年11月22日

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南丹市立文化博物館『鉄道と観光〜地域をむすぶ交通』

丹のペン〜丹波の時どき

南丹市立文化博物館の令和三年度夏季企画展「鉄道と観光〜地域をむすぶ交通」の内容を冊子にしたもの。

明治32年(1899)に京都〜園部間に開通した京都鉄道から現在までの変遷を紹介し、鉄道開通による南丹市内の町の変化を、博物館や個人が所蔵する古文書、写真、パンフレット等の歴史史料を用いて紹介している。この史料が誌面の大半を占めるほど、充実している。

第1章「丹波へ広がる鉄道」、第2章「駅周辺の観光と産業」、第3章「バスの開通による交通網の発展」の三章の構成で、多くの史料を駆使してこの百有余年の南丹市域における鉄道の歴史を辿っている。

丹波の鉄道が現在の形になるまでにどういう経緯を辿ったのかがよくわかる。幻の鉄道となった殿田駅(現日吉駅)と小浜駅を結ぶ小鶴線の計画が正式に廃案になったのは、昭和62年だったというのも面白い。昭和63年に京都縦貫自動車道の一部が開通するので、取って代わられたのだろう。南丹市から福井県の嶺南を結ぶルートは、隣接しているのに未だに便利とは言えないので、小鶴線が実現していればどんな可能性があっただろうと空想が広がる。

昭和35年の八木駅の利用風景の写真(P20)に見る、当時のサラリーマンとOLのファッション。昭和46年の殿田駅利用の写真(P42)に見る、学生の多さは尋常ではないが、修学旅行か何かだったのだろうか、それともこのぐらいの学生がふだんから利用していたのだろうか。

その他、商店街の様子、ボンネットバス、今はなくなってしまった建物やお店など、色々見どころがある。

鉄道ファンならば歴史の部分は知っているだろうが、その周辺のエピソードや文化史的な事柄がまとめられているので、貴重な一冊である。

南丹市立文化博物館/令和3年初版

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