南丹生活

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第1回 山コースを行く

 母校の園部高校が、平成20(2008)年7月に創立120周年を迎えるという。それを記念する種々の行事が予定されていて、その一つに記念誌の編集が計画された。私にも、編集委員として参画するように要請があった。委員長や顧問の他に、各卒業年度から1人ずつの担当が選任になっている。旧制中学第13回卒から高校第37回卒まで、全員で約50名になるとのことだった。その第1回目の会合が7月1日に開催されることになり、私は久し振りに山陰線を利用して母校を訪問した。まだ梅雨は明けないのに、空は青く晴れ上がり朝から眩しく暑い日だった。

 かつて私が住んでいたのは一つ手前の八木町である。その期間はおよそ10数年間で、両親の逝去した今は借家も壊されて跡形も無い。ただ、妻の実家があるため、今でも八木町へは義父母の墓参りなどで1年に一度は訪れる機会がある。しかし、隣りの園部町まで足を伸ばすことは余りなかった。母が長生園に入っていた3年前まではたまに出かけることがあっても、駅からタクシーで往復するだけの短時間の滞在に過ぎなかった。

 駅から母校までは、バスの便もありタクシーも利用できる。また、歩くのなら幾つかのコースがある。以前に私が通学していたころは、「町」「川」「山」と称する3つのコースがあった。狭い道幅で両側から軒を接する商店街の中を行く町コースは、循環の町内バスが走っていた。乗車時間10分足らずの運賃はわずか10円だった。だが、学校裏の小向山の麓にある溜まり場状の「招月」では、素うどんが同じ10円で食べられた。そのため、よほどの雨風の荒れる日にだけしか利用するわけがない。田圃の中の濁った小川沿いに行く川コースは、途中に製材所の裏側が見えるなどして約20分の平凡な田圃道である。それに比べ、駅の裏から急な坂道へ続く竹藪の山コースは、学校まで15分足らずで到着することが可能だった。ほとんど毎日の往復を、私はこの最短距離の山道を利用していた。

 その日、私は躊躇なく山コースを行くことに決めた。会議は午後2時からである。駅舎の階段横にあるレストランで昼食を済ませても、まだ30分以上も余裕があった。50年前なら15分とは掛からなかった最短コースである。今でも2倍の余裕があれば大丈夫だろう。駅舎には、昔は無かった山側に出口が作られている。西出口と称するらしい。駅の陸橋から階段を下りると広場があって、バスの停留所やタクシー乗り場がある。現在ではこちらがメインになっていて、新しく伸びた広い道路を越えると直ぐに峠への上り口になった。

 あのころは、表側の出口(今は脇役の東出口?)しか無かった。山コースへは遠回りしながら踏み切りの線路を越え、田圃の畦道を横切って竹薮の峠道へ踏み込んだものだ。新しい道路が開けているせいか、無関心だった左角の山陰に神社が目立つようになっている。3年間も通ったのに、私はその神社の名称さえ知らなかった。それよりも、変電所などがあったのか。右の角にあったはずの、同級生のMさんの家はどうなったのだろう。石塀を巡らした広大な屋敷で、屋根にはテレビのアンテナが立っていた。昭和20年代の後半に、テレビのある家庭などほとんど無かった。プロレスの放映がある時間は、近所の電気店へ子供も大人も押しかけたのである。清楚で無口な彼女が姿勢を真直ぐに正して峠道を帰校する後ろから、我々男生徒は声を掛けるのも憚れて羨望の眼差しでその姿を眺めていたものだ。卒業後の同窓会で一、二度彼女に再会した記憶があるが、亡くなってからもう数年が経つと聞いている。

 峠道は竹薮が切り開かれて広くなり、舗装された道路には歩道まで設けられていた。聖カタリナ高校(当時は聖家族高校)辺りまでの薄暗く細かった道の脇には、医療科学大学や伝統工芸大学それに建築大学校などが誘致されている。そして、道中は長く続く住宅地域に変貌している。頂上を少し下った所には喫茶食堂もあった。土曜日のせいか通りを行く生徒はほとんどいない。時折すれ違うことはあっても、男生徒は学帽など被っていないし、女生徒の制服も私の記憶とは異なりどの学校の学生かはまるで分からない。

 私たちの時代は夏場こそ学生服を脱いでカッターシャツ姿になったものの、いつも校章を付けた学帽をかぶっていた。また、エンジ色のネクタイを締めているのは、園部高校の女生徒だと一目で判別できたものだ。めったに出会う人も無い静かで寂しい山道を、下校時は1人で帰る日もあった。いつだったか、京都市内のH高校の生徒が3人で歩いて来るのに、峠の頂上辺りで出会ったことがある。彼らは峠を下りた近くの在所から市内の学校へ通学していたのだろう。朝の登校時には駅へ向かう彼らとたまに出会うことがあり、私は何となく顔を覚えていた。その日の午後は、たまたま1人で私は駅へ急いでいた。

 3人は私の姿を見つけて、小声で何か話し合っていた。そして、すれ違う寸前にその内の一番生意気(に見えた)そうなのが私の前に立ちはだかって、ニヤニヤしながら「さいなら」と云った。完全にからかう態度だったので、私は彼を睨みつけて黙って通り過ぎようとした。するとその不良学生(恐らく)は、威嚇する言葉を発しながら道端に落ちていた石を掴んだ。一瞬にして険悪な雰囲気になり、私も真剣に身構えてしばらくは睨み合いが続いた。あいにく他に通る者は誰もいない。私は内心ではいささか心細かった。すると、もう1人の比較的真面目そうに見える学生が、「やめとけ」と止めに入ったのである。私たち2人はまだ睨み合いを続けていたが、やがてそのまま双方がお互いの帰る方向へ歩き出した。もう1人の小柄でおとなしそうな男生徒は、最後まで口を利かず不安そうな眼をしていた。

 それから何カ月か経った登校時の峠道で、駅の方向へ急ぐその不良(!)学生に出会ったことがある。私は彼の顔を覚えていたので、向こうがまた何か云うのかとやや緊張した。しかし、こちらが複数だったせいか、相手はうつむいたまま足早に通り過ぎて行った。目が合っても、恐らく私のことは覚えていなかったのかも知れない。思えば、当時は例え悪ぶっていても可愛らしいものだった。あの3人も単なる悪戯気分に過ぎず、本気で喧嘩を売る気持ちはなかったのだろう。そういえば、母校でも苛めや校内暴力や不登校などは無かった。運動会など大きな行事の後に運動部のボックスで日本酒で乾杯して、数名が1週間ばかり停学になったのが最大の事件だった。それも、今では同窓会で懐かしい笑い話になっている。

 その日、私は母校へは20分ばかりで到着した。それほど足は衰えていないようである。会議が終わった後の帰路も、私は峠道を駅まで歩いた。昔は授業が終わり汽車の発車が迫っている時は、走って10分も掛からずに間に合ったこともある。山コースは今ではすっかり様相を変えてしまったが、半世紀ぶりに歩いた私に様々な事を思い出させてくれた。容赦なく照りつける真夏の太陽の下を行く頭上からは、クマゼミの鳴き声が降り注いでいた。あのころは、アブラゼミが鳴いていたのではなかったのか。直射日光を避ける木陰さえ無くなった山コースの道は、周辺一体の大きな変貌に加え、いつの間にか夏のセミまでも主役が交代していた。

更新日 平成19年10月10日

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第2回 遠き秋の日

 彼岸の中日に八木町の義父母の墓へ参拝した。今年は東京から長女夫妻が来たので、妻と4人が同道することになったのである。今夏の記録的な猛暑をすっかり忘れさせてくれる、穏やかな秋日和の一日だった。龍興寺裏の柴山へ越える山裾にある墓地の周辺は、紅葉にはまだ少し早くて木漏れ日が柔らかな影を映していた。そして、前方に広がる田畑の畔には、帯になって咲く彼岸花の赤い群れが見られた。所々で、秋桜(コスモス)が緩やかな秋風に揺れている。墓前に供えられた花の中では、数本の紅白の水引草が小さな秋を告げていた。今は義弟が後を継いでいる義父母の実家に、義姉夫婦や姪を含め10人ばかりが久しぶりに顔を揃えたのだった。

 義父が健在だった平成16年の正月までは、盆の花火大会の日を含め年に2度は3組の家族が集まるのが恒例になっていた。しかし、その年の4月に義父が亡くなってからは、その習慣は中断されている。中学3年生の夏休みから10数年間を暮らした私にとっても、八木町は3番目の居住地とはいえ懐かしい古里である。ただ、両親はすでに故人となっているため、私の帰省する家は今はすでに無い。

 かつて私は、駅前本通りから右へ入った栄町通りに住んでいた。道幅は3メートルばかりの狭い通りで、その中程からさらに路地へ入った所に我が家はあった。部屋数がほんの3間しか無い平屋である。八木大橋の上流に当たる堤防の突端にあった黒住教の会所から引っ越したのが、昭和30年の高校3年生の春だった。その2年前の水害で床上浸水の被害を受けたため、所々の壁が落ちたまま放置されて空家になっていたらしい。隣接した他人の家屋に三方を囲まれ、目の前に洗濯物が干してあった。洗面所は玄関の外にあり、排水溝の臭いが鼻を突くなど住み心地は余りよくなかった。

 それでも、教会の会所やその前の宇津村では神社の社務所を借りて住んでいた私には、十年ぶりに住む“普通の民家”である。2畳の部屋を個室にしてもらって、それなりに私は満足していた。その部屋には、なぜか不似合いにも丸窓が着いていたのである。その窓の下に、宇津村の庭から持って来た沈丁花を移植した。だが、この沈丁花は、いつだったか父が剪定し過ぎて枯れてしまった。大切な花が枯れて、私はずいぶん落胆したものだ。それでも狭い庭の隅々には、母が植えた薔薇や小菊や石竹(せきちく)などの草花が少しずつ増えていった。もちろん風呂場などは無かったが、そのころは銭湯が2軒もあったので不自由はしなかったのである。

 栄町通りは20軒ばかりの民家が並び、駅前通りとの角には食堂があった。そして、所々に板金や木工所、それに石材や呉服店などが混在していて歯科医もあった。旧本町街道に接する所には、農協の事務所と昭和相互銀行が向かい合わせに建っていたのを記憶している。商売を営む家がかなりあったのに、自動車はめったに通らない静かな町内だった。私は自宅の向かいと隣りのほんの2、3軒の人としか挨拶をする顔馴染みは居なかったが、10軒ほど向こうには妻の実家があった。そのころは、小さい子供らが道路で段跳びや隠れん坊で遊んでいるのをよく見かけたものである。小ぢんまりしていても、町並み全体には活気が溢れていた。

 結婚と同時に私は市内へ転居した。そして、10年ばかり前に母も老人ホームへ入居してからは、その家には他の人が移り住んだので、長いあいだ私は昔の住処(すみか)に近付くことはなかった。彼岸の墓参りに来た長女の希望で、彼女らと私たち夫婦の4人で昔の家へ立ち寄ることにした。娘にとっても、幼児のころにたびたび訪れた思い出の場所である。自分の旦那にもその家を見せたかったらしい。駅前通りから入る細い道を長女は覚えていて、住んでいる人に遠慮しながら私たちは他家の角を曲がった。

 しかし、その場所にあった家は無くなり、更地になっていた。隣に並んでいた2軒の家も同時に壊されて跡形も無い。私たちはしばらく言葉もなく呆然と立ち尽くしていた。入り口に建っていた家も無くなっているので、路地の中だったはずの場所が今では栄町通りから直接に見えている。しかし、通りを行く人も見られず、隣り近所には人の気配もしない。慎ましくてもかつては人の住む家が建っていたその空き地は、晴れ上がった青空の下で遮るものも無く秋の日に白々(しらじら)と照らされていた。私の青春ともいうべき時代に住んで居た痕跡は、完全に消えてしまった。路地の中の粗末で小さな家ではあったが、そこに確実に居た時代の出来事は私にとっては決して小さくはない。

 50年前の今ごろだった。同級生のN君が、私の家に立ち寄ったことがある。彼は大阪に下宿して大学の電気科へ通学しており、私は働きながら受験勉強をしていた時期になる。高校時代から彼はよく私の家へ遊びに来ていた。何を話し合ったのだろう。とりとめもない事が多かったけれども、それなりにその時の重要だった事柄を、私達は時間を忘れて語り合ったのだった。その日は、氷所に実家のある彼がたまたま帰省したのである。私たちは縁側で話していてふと見上げた空に、無数の鰯雲が浮かんでいるのが目入った。周囲を民家に囲まれた狭い空間である。その小さくて青い長方形のカンバスに描いた様に、真っ白な鰯雲が鮮烈だった。私たち二人は会話を中断して、お互いに声も出ずに空を見上げていた。2分か3分かほんのわずかな時間だった。やがて鰯雲は形を崩し、流れ雲となって消えて行った。路地の中の限られた空間で見た思いがけない光景だっただけに、その日の鰯雲を私は今でも忘れることはない。

 大学を卒業したN君が就職先の電気工場で感電死したのは、その翌年の秋のころだった。彼の就職祝いを兼ねて飲む約束をしていたのに、私は果たすことが出来なかった。その当時は電話のある家が少なく、私は自転車で諸畑から吉冨や南広瀬の同級生宅へ彼の訃報を伝えて回った。通夜の夜が更けて彼の家の2階で泊めてもらった私の耳に、時々お母さんの悲痛な嗚咽(おえつ)が聞えて来て私は朝まで眠れなかった。早くに父親を亡くした彼と妹は、母親の手で育てられたと聞いている。翌朝は在所の瑞雲寺で葬儀が行われ、彼はその山裾の墓地に葬られた。それ以後、私はN君の家族の人たちと会うこともなく、そしてまた、彼の住んでいた家を訪れることもなく50年近い歳月が流れた。

 消滅してしまった昔の借家の跡地に立って、あの秋の日が生涯の中で大切な一日であったと、私には思い出されるのだった。

更新日 平成19年10月20日

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第3回 日吉ダム秋へ

 秋深まる十月の終り近く、義兄の車で双方の家族4人がスプリングスひよしへ出かけた。私たちはまず京都駅から日吉駅まで山陰線に乗った。殿田駅の名称が変わり無人になって初めてだから、この駅で降りるのはもう何年ぶりになるのか。駅前の旅館などは、昔の面影の建物がそのままに残っている。ただ、ひっそりとして人の気配はあまりない。角を曲がった所の食堂も古くからある。そういえば、私たちの宇津小学校(京北地区)の同級生28名は、その食堂の前を通って殿田駅で初めて汽車を見たのだった。

 ちょうど4年生の国語で、「汽車の中」という授業を受けていた。昭和22年の秋の遠足は、先生の提案で殿田駅へ汽車を見に行くことになったのである。私は出征する叔父を京都駅へ見送りに行った折りに一度だけ見ていたが、他のほとんど全員が汽車を見るのは初めてだった。線路の脇に並び息を殺して眺めている私たちの目前で、真っ黒な蒸気機関車がいきなり汽笛を鳴らした。あまりにも突然の甲高い音に、全員が思い切り飛び上がって驚いた。それを見た先生が涙を流すほど笑われたことが、つい昨日のことのように思い出される。その日の夜は、寝てからも遠くに汽笛が聞えるような気がして中々眠りにつけなかった。

 スプリングスひよしの2階にあるギャラリーで、園部高校の同級生の「広野文男絵画展」が開かれていた。副題に「思い出の中から・悠久の郷」とあり、子供のころの風景が実に細やかなタッチで描かれている。あの当時はカメラのある家庭などはまず無かったから、光景の全てが彼が在所の五個荘で暮らした記憶である。作品のどれもが、胸の奥深くから遠い日が鮮やかに甦(よみがえ)る懐かしい絵ばかりだった。田圃の田植えや山の木馬仕事、それに土間の篭編みや囲炉裏端の藁仕事に精出す大人たち。そして、子供らが川の魚獲りや道端で遊ぶ場面、神社のお祭りや手伝いをする姿。それらの1枚1枚が、私が過ごした宇津村のかつての生活と重なり合って遙かな昔へ誘(いざな)われた。

 半世紀もの昔へタイムスリップした私たちは、やがて会場を出てからダムに沿って車を走らせた。十月もすでに終わろうとしており、周辺の木々の紅葉が始まり柔らかい秋陽に輝いている。しかし、ダムの水が異常に少なくて、先日の新聞には貯水量が20%を切ったと出ていた。その後の降雨で少しは回復したものの、それでも30%程度の充足率に過ぎないとのことである。水際を取り巻く山肌が赤く覗いているのが目につく。これ以上水量が下ればダムはどうなるのだろう。そんな心配をしながら行く舗装された道路は出会う車もまるで無く、大堰川の上流の宇津地区へは10分もかからずに到着した。

 芥川賞(「光抱く友よ」)作家の高樹のぶ子に、『満水子』(まみこ)という作品がある。水ばかりを描く人気女流画家の魔性に、取材したノンフィクション作家が深く呑み込まれていく物語りである。優しさとか繋がりの深さなどの情愛を、人間の美的資質追求の道具だと考える濃密な恋愛小説だった。ただ、私が関心を持ってこの小説を読んだのは、ヒロインの出身がダムの底に沈んだ日吉町の天若地区だったからである。

 小説は、嵐山の渡月橋の場面から始まる。日本各地の「水百態」を背景にして、愛の不条理に主人公は身も心も次第に絡め取られていく。主人公の男性作家は満水子の生い立ちを調べ、彼女が保津川上流(大堰川)のダム建設で水没する日吉町の出身であることを突き止める。作品は、川で溺れて植物状態になった満水子の姉や、水死した両親の謎が次々に現われるミステリー仕立てにもなっている。「大堰川は日吉ダムが出来る前はしばしば氾濫した。満水子の掴みどころがなく御し難い性格を象徴している」。嵐山を舞台に選んだ理由を、作者はこう説明する。非日常の切ないひとときを求めた、優れた情愛小説との見方も可能である。

 物語の背景となったダムには天若地区の民家150戸ばかりが沈んでいて、高校の同級生の住居もある。そして、後日に聞いた話が今でも忘れられない。水没する二度と帰れない村を出るのだから、墓地の移転は最も重要な仕事となる。ある時期までは何処でも土葬だった。その墓を掘れば、当然ながら人骨が残っている場合がある。先に亡くなった配偶者や子供らの骨を、拾わねばならない住民たちがあった。墓を掘り起こして、かつての妻あるいは夫そして人によっては愛する子供の白骨を見るのは、まさに生きながらの地獄さながらの気持ちだった。長い歴史のある先祖からの住居を捨て去るということは、かくも辛くて悲惨な出来事なのである。世話役だった地元の知人から、私はそんな生々しい話を聞かされたのだった。

 世木小学校の天若分校が、私の通う宇津小学校の秋の遠足の目的地だった。下宇津の下浮井(しもうけ)から直ぐに貞任峠へ入る。戦国武将安倍貞任の首を埋めたという伝説の峠は、当時の宇津村と世木村を結ぶ唯一の近道だった。宇津側からの峠は36曲がりの急坂で、峠を下りた掛かりに天若の金比羅神社があった。そして、もう1箇所は何と呼んだのだろうか。小雨若と書く神社があって、目的地の分校へはおよそ2時間ばかりの道中だった。

 分校の講堂で私たちは待望の弁当を広げた。中味はとろろ昆布を巻いた大人の拳(こぶし)くらいの握り飯が定番だった。梅干が入っていれば上等である。中には巻き寿司を持って来るものも居て、羨望の的(まと)になったものだ。おやつは柿か茹で栗か芋するめなどの自家製がほとんどで、それに煮ぬき卵があれば最高だった。当時は農家でも鶏卵は貴重品だったのである。弁当を食べ終わって運動場へ出ると、分校の生徒らが私たちを遠巻きにして珍しそうに見ていたものだ。あの分校の校舎も運動場も、今はダムの底に眠っている。

 日吉ダムが完成して十年が経った昨年のお盆に、天若湖畔でかつての村人が追悼の供養をしたと聞いた。岸辺に灯篭の灯を点(とも)して、昔に自分の家があった場所を偲んだという。湖水に映る灯篭の灯は、水没した人たちの住居や墓地にまで届いたのだろうか。子供らが学んだ学校や遊んだ神社の境内へはどうだったのだろう。そして、今年の夏も追悼会はあったのだろうか。

 私の手元に、地理調査研究所(現国土地理院)発行の5万分の1地形図がある。昭和25年応急修正・昭和32年5月発行とあり、私が学生時代の登山に常用していた地図である。1色刷りで地名が右書きになっており、天若地区の小芽・上世木・楽可・澤田・世木林・宮村などの地名が明記されている。もちろん、神社や学校や集落の記号もはっきり読み取れる。その在所の真ん中を流れる大堰川が細長く描かれている。

 そして、もう2枚の地図がある。1枚は平成9年修正の同じ地域の4色刷り地図で、日吉町の文字は横書きになっているものの、すでに天若地区の地名は削除され「ダム建設中」と記されている。ただ、大堰川の流れはまだ細いままである。もう1枚の平成15年4月に発行された2万5千分の1の最新版では、「天若湖」と記載された広い箇所が水色で塗り潰されている。黒1色だけの昔の地図と比較すると、茶色の等高線で描かれた土地とその間を縫って流れる川が水色に塗られた新しい地図は見やすくて美しい。しかし、ある時期まで人々が確かに生活していた天若地区は水色に塗り潰され、地名や記号の消え去った単なる空間になってしまっているのである。古里を捨てざるを得なかった人たちは、どんな気持ちでその地図を見るのだろう。むしろ、水色に塗られた地図など見たい気持ちが起こらないかも知れない。

 遠い昔の秋の日、小学校の遠足で通り過ぎただけの私の記憶から村の風景は薄れつつある。たとえ小さくても大切な思い出である。私は古い地図の上でそれを偲ぶしかない。

更新日 平成19年11月1日

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第4回 無断外泊

 3年ばかり前まで母が園部の長生園にお世話になっていたので、何度か見舞いに行くことがあった。その近くに厄神祭で名の知れた八幡神社があり、何箇月間かに渡って修復工事が行われていた。この神社は、私にとって忘れられない出来事がある。神社そのものというわけではなく、この神社のすぐ裏手に八木中学時代の恩師K先生のご自宅があるからだった。私の中学時代は昭和20年代の終わりなので、もう半世紀以上も昔のことになる。工事で広く変わりつつある八幡神社の前を通るたびに、遠い日にこの神社の横を通って先生のお宅を訪ねた日の事を私は思い出していた。訪ねたというよりは、本当は押しかけたというのが事実なのだが――。

 私が北桑田郡(現右京区)周山中学から八木中学へ転校したのは、中学3年生の2学期からだった。どちらの学校も1学年5クラスで、生徒数はほぼ同じ規模である。前校では4組だった私は12ホームルームに編入され、その担任がK先生だった。社会科の担当でもあった先生は、朝のホームルームの時間に朝日新聞の「天声人語」を朗読されるのが日課だった。歯切れがよくて熱の篭った口調に、私たちは熱心に耳を傾けたものだ。自宅で新聞のコラムを読む習慣のある生徒は少なかったと見えて、全員が真剣に耳を傾けていた。いつだったか朗読の後で、衆議院の政党に関する質問で指名された私は、先に当てられた者が知らなかった社会党の左派・右派を答えて少し得意になった。しかし、次いで緑風会と答えて、それは参議院やと先生に笑われたのだった。先生は別に笑われたわけではないのだろう。転校して初めての質問に間違えて恥ずかしかった思いが、今でも焼きついて忘れられないだけなのかも知れない。

 私が八木町へ引っ越して来たのは、3年生の夏休みの半ばである。宇津村(現右京区京北宇津地区)の在所のトラックを頼み、1台でも隙間があるほどの僅かな家財道具と共に私も荷台に乗って引っ越して来た。真夏の太陽が照りつける地道を埃まみれになりながら、宇津村より下流で川幅も広くなった大堰川に架かった青い八木大堰橋を渡った。新しい住居は、大橋の袂(たもと)から堤防沿いに少し上流へ入った岩盤の上に建っていた。住む人が無かったらしく長い間空いていた黒住教会の社務所が、私の7軒めの住処(すみか)になったのである。

 宇津小学校6年生の春の遠足で、八木町へは一度だけ訪れたことがある。中地の平野橋を渡り、樹木の茂る細い小細(おぼそこ)峠を歩いて越えた。当時は北桑田郡の一部だった神吉村を過ぎて、八木大堰橋付近の河畔で弁当を食べた。片道およそ10キロ近くはあったのだろう。駅前通りの商店街を歩き八木駅で汽車を見学して満足した私たち28名は、往路とは反対に西田・青戸の水無し川(三俣川)沿いを逆行して帰路に就いた。そして、旭町・郷ノ口から渋坂峠を越えて神吉・宇津村へと、喋る元気も無くなり疲れきった足取りで帰り着いたのだった。当時の神吉村には周山中学の分校があり、26名の同級生が在籍していた。だから、後に八木町へ統合する神吉村まではまだ同郷の感があったものの、八木町は宇津村からすれば異郷と呼ぶのにふさわしい遠い町だったのである。

 昭和25年には、周山町から八木町まで丹バスが通った。私はこのバスに八木町まで乗り、さらに汽車に乗り継いで亀岡まで口丹波青年団陸上競技大会の応援に行ったことがある。しかし、その日は台風のような暴風雨に見舞われ大会は中止になり、夕方になって空しく引き返したのだった。当時のラジオの天気予報がよく外れたとはいえ、あの暴風雨がどうして予知出来なかったのかいまだに不思議である。小細峠の道路が狭くて危険だったため、丹バスは翌年には運休になっている。その後はまた28年に復旧して何年かは運行していたようだが、村を出た私には正確な記憶は残っていない。

 2学期も1カ月が過ぎてようやく新しい学校に慣れたころ、社会科の教生としてT先生が就任された。K先生と授業を分担され二人の進歩的な授業は魅力的で、どちらも多くの生徒から人気を集めていた。K先生の後輩になる大学生のT先生は年齢も接近していたので、私たちは気さくな兄貴のように親しんだ。そして、年が明けて3学期も半ばの日曜日だった。私たち5人の仲間で胡麻郷のT先生宅へ遊びに行ったのである。私のクラスから3名と他のクラスから2名が同行した。

 私は胡麻郷に高原の駅のイメージを持っていて、郷愁を呼ぶようなこの名前の駅へ降りたのは初めてだから何となく旅行をするような気分だった。目前に山の迫った駅前はひっそりと静かで、山肌の所々に積雪が残る冷たい風に私は思わず肩をすぼめた。先生の自宅は駅から10分足らずの新町にあった。ご両親にも歓迎されて、昼食に餅を焼いてもらいながら私たちは話に熱中した。

 昭和28年(1952)当時は、アメリカの戦後支配に対抗する動きが活発になった年でもあった。前年には「アカハタ」が復刊され、改進党も結成されている。確か第4次だったか長期政権を迎えた吉田総裁の自由党で内紛が相次ぎ、教育制度にもいわゆる復古調の波が押し寄せるなど、世情が混沌とした時期だった。国際的にも朝鮮戦争終結と南北分割など、そんな話題に私たちは生半可な知識を振りかざして議論するのを、社会科の専門であるT先生が分かりやすく説明されて、瞬く間に半日が過ぎて行った。途中で先生の弟さんが京都市内の映画見物から帰宅された。ソ連映画の「ベルリン陥落」が面白くて2度も観た、と話しておられたのが記憶に残っている。

 夕刻が近づいたころ、先生が私たちを駅まで送りに出られて、汽車の時間待ちの間に東胡麻の辺りを散歩した。細い村道を歩きながら、胡麻郷は大堰川と由良川の分水嶺になっていて、風の向きによって道路脇の溝の水が右や左へ流れるなどと教えてもらった。英語の教生のS先生の自宅へ挨拶に寄ると、先生は不在で弟君が出迎えてくれた。後に知ったのだが、彼とは園部高校で同級生になったのである。その時は折り目正しい言葉使いの彼を、まさか同じ年齢だとは思わなかった。そして、胡麻駅から帰路の汽車に乗った私たちは、途中の園部駅へ降りたのである。

 私の提案でK先生のお宅へ行くことにしたのだ。もう夕刻に近かったから、そんな時間に訪問すれば迷惑なのは知りながら滅多にないチャンスである。他の3人が賛成し、一人反対だったH君も最後には仕方なく行動を共にした。先生の住居は内林で近くに神社があることを、うろ覚えながら誰かが知っていた。私たちは何度か道を尋ねながら神社まで辿り着き、その近くを通り過ぎた人にK先生の家を教えてもらった。

 突然の5人の訪問に先生は驚かれたのに違いない。しかしそんな顔色を見せられることはなく、私たちは笑顔で出迎えてもらった。新婚間もない奥様からも暖かい持てなしを受けた。そして、夕食までご馳走になったのである。調子に乗った私たちは一向に腰を上げず、昼間の話題の続きに熱中した。先生の明快な解説が面白かった。私たちは時間の経つのも忘れ、遂に最終列車の時刻が過ぎてしまったのである。先生は折角訪れた教え子たちに、帰るようにとは云い難かったのだろう。結局私たちは、そのまま泊めてもらうことになった。

 当時は電話のある家庭はまだまだ少なかった。南丹病院の宿舎に住むF君と市内で呉服商を営むI君の室畑の実家、それに南広瀬の旧家で農家のH君宅には電話があり、それぞれ連絡がついた。しかし、私と青戸に住むO君宅には電話が無かったのである。夜遅くなって両家で大騒ぎになったらしい。当然だろう。O君宅の母親が我が家へ来られ、二人がF君宅へ尋ねて行って、漸く顛末が判明した。翌朝早くに自宅へ戻った私はきつく叱られたのは勿論である。O君もそうだったと思う。当然ながら学校でも問題になって、K先生は校長からも咎められたようだった。しかし、先生は私たちを一言も叱責されなかった。それだけに、先生のいつもと変わらない優しい眼を見ていると、余計に私は胸に堪(こた)えて反省したのだった。

 K先生は85歳に近い今でも、囲碁やコーラスのサークルへ加入してお元気である。たまに開く同窓会へも必ず出席される。一度、長生園へ行ったついでに先生のお宅を訪問して、帰りは園部駅まで自家用車で送っていただいた。時々ドライブするから運転は大丈夫、と奥様も太鼓判を押されていた。

 先生からは時々パソコンのメールが届く。あれから3年経った最近は、老化が進んで困ると嘆いてはおられるが、まだまだお元気で矍鑠(かくしゃく)としておられる。一度あの時の5人が揃ってお訪ねしたいと私はずっと思っていたのだが、その内の2人は千葉県に住んでいて簡単には来られない。そして、1人はすでに10年ばかり前に亡くなっているので、私の願いを叶えることはもう不可能になってしまった。

更新日 平成19年11月12日

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第5回 復活同窓会

 園部高校(桜ケ丘)同窓会の京都支部懇親会を開催したのは、平成18年(2006)9月30日だった。過去の資料では、平成11年2月に母校出身のN氏の後援会を兼ねた会合が開かれている。それ以来の集まりだから、7年半振りの開催ということになる。復活会合の日の1年ばかり前に、同窓会本部の垣村会長(高校4回)と奥村副会長(同7回)それに永井教育振興会長(旧中13回)の3名が訪ねて来られ、私の勤務先の近くにある新都ホテルの喫茶ルームで京都支部再興の要請を受けた。前支部長のI氏が病気で入院され、長期間中断されたままになっていたようである。そのI氏は2代目とのことだった。私に白羽の矢が立ったのは、垣村会長らと同じ趣味の同好会に所属する同級生(高校8回)のK君から推挙があったらしい。

 母校の園部高校は平成20年(2010)に創立120周年を迎えることになっていて、全身の高等小学校以後の卒業生は2万人以上に及ぶと聞く。1世紀を優に超える歴史の中にあって、物故者を除いても旧制中学校以降のおよそ2万人の同窓生が全国に散在していることになる。同窓会本部の組織以外に、地元を離れて暮らす卒業生を対象にした関東支部と中部支部の同窓会組織があり、かつては阪神支部もあったようである。現在はこの2つの支部が定期的に会合を開いており、中断している京都支部を是非復活させてほしいとの要望だった。

 私が3代目の支部長を引き受けて間も無くI氏が逝去されたため、具体的な引継ぎが全く出来ないままに再スタートをせざるを得なかった。幸いにして、以前に世話役をしていた鍵(高校9回)・鳥原(同10回)・大川(同10回)の3女性に復帰してもらい、改めて新しい組織作りから始めることにした。

 何度か世話役の4名が集まって話し合い、まず基本となる会則の再制定から手をつけた。同窓会に各地の支部が設けられている趣意は、母校から離れていて本部の会合には出席し難い卒業生の親睦を目的としていることにある。ただ、京都支部も過去には何度か懇親会を開催してはいるものの、基礎名簿の整備なども不十分で該当者総てに案内が届いていたわけでもないらしい。現に、私などもその存在さえ知らなかったのである。

 そこで、当支部の対象地域を、京都市内とその近郊(亀岡市以北は地元に近いため除外)・滋賀県・奈良県および大阪府の京都寄り近郊の居住者と定めることにした。ただ、母校の所在地から距離があるとはいえ、最近の交通網の整備でその時間的な間隔はかなり短縮されている。その事情が、関東や中部とは状況を異にしている京都近郊における問題点ではあった。

 私の手元には平成3年度(1990)発行の「桜ケ丘同窓会名簿」がある。15年前の刊行であり、データ収集はおそらくその2〜3年前からスタートしていると予測されるから、もう相当に古い資料には違いない。それ以降は個人情報保護のため、再発行の動きは全く見られず唯一の総合同窓生名簿ということになる。したがって、他に頼る資料は無いので、要請に来られた3役と他の本部役員や前同窓会長の木村先生(旧中14回)らの協力も仰ぎ、また世話役らの卒業年度名簿など最近の名簿入手に努めたのだった。

 同窓会は本来は卒業年度別に開催しており、私たちの高校第8回でも「八桜会」と名付けて、およそ1年半毎に集まっている。今年の6月には、卒業50周年記念の会合を持った。それにひきかえ、縦割りの同窓会は年代が交錯していて当然ながら顔馴染みも少なく、親睦会としてかなり難しい面があるのは事実である。ただ、卒業以来ほとんど開催していない学年もあり、また、お互いに年輩になれば母校を同じくする者としての交流の意識も生まれるだろう、との前提に立って作業を進める励みとした。

 しかし、居住地域を限定してもその地域の全卒業生が対象となると膨大な人数になるため、旧制中学1回から高校15回までの者に絞ってアンケートを発送することにした。年齢的には、比較的自由になる時間が多いだろうと想定される60歳以上となる。高等女学校の卒業生はほとんどが故人となっておられ、残念ながら対象外とせざるを得なかった。

 長い中断期間があり、また、京都支部の存在を知らない卒業生が多いため、懇親会に対する賛否の意識などまるで不明なのが最も懸念された。アンケートを発信する往復葉書は1,150名に達した。しかし、10年以上も昔の古い名簿である。その間の移動が激しいことは当然予測され、住所不明で戻って来た葉書が92名もあった。対象者の約8%である。また、名簿発行後に故人となられた人もあり、家族の方の添え書きで返信されて来た葉書が36通あった。更に、病気療養中などで趣意に添えないとする人が22名あり、この3者を合わせると150名となる。およそ13%の人が、いうなれば賛否不明となったのである。

 約1カ月を経過して、懇親会開催の賛同者は267名に及び、逆に不賛同者が280名の結果となった。また、返信の来ない人が453名と約45%に達し、最終的に意思不明者を除く1,000名の中で、賛同者は約27%の結果となる。対象者の30%に満たないこの数字が多いか少ないかは分からないが、このメンバーを基礎として今後の運営を進めることになった。その後、高校16回と17回卒業生106名に追加のアンケートを発送したものの、賛同の返信は16名に過ぎなかった。やはり、若い年代の人たちの同窓会に対する思い入れは、それほど強くないのかも知れない。この人数を加えた283名で、京都支部は再スタートを切ることになったのである。

 私たちの「八桜会」も、いつも大体30〜40%の参加率で推移している。他の学年はどうなのだろう。ただ、案内状を出しても返信の来ない者が、やはり毎回かなりの人数に上る。卒業以後一度も顔を見せない同級生もある。所用や健康状態など、欠席の返答はそれなりの理由がある意思表示といえる。

 しかし、往復葉書を出しても、無視する心理はどう解釈すればよいのか。うっかりして返信の投函を忘れた場合を除いて、同窓会へ出席したくない、それも返事を出すことさえ無視するのは、相当に複雑な心境が交錯しているのかも知れない。同窓会へ出席出来る者は、むしろ幸せなのだというべきなのだろうか。

 桜ケ丘同窓会京都支部復活第1回の懇親会は、平成18年9月30日の土曜日に、「グランヴィアホテル京都」で開催した。ここには卒業生の垣村君(高校20回)が営業部長をしていて、色々と便宜を図ってもらえた。当日の出席者は55名、そのうち旧制中学の卒業生は8名であった。来賓として本部の垣村会長・山口副会長(旧中18回)・太田副会長(高校9回)・永井教振会長・高屋事務局員(高校26回)・森副校長(高校24回)の来席があり総勢で61名だった。中部の長尾支部長(高校13回)は所用で欠席だったが、西田関東支部長(高校8回)には来席してもらえた。母校が平成19年からスタートする中高一貫の新教育制度導入について、副校長からスライド入りで説明があった。そして、旧制中学と高校の校歌斉唱に次いで、当日の最年長である野中氏(旧中13回)の乾杯の音頭で懇親会はスタートした。

 年代の異なる卒業生の集まりではあったが、詩吟や俳句の披露の飛び入りがあるなど、会合は最後まで和やかに進んだ。出身地の在所が偶然に同郷だったことが分かって話が弾み、新しい出会いもあったようである。ただ、復活最初の懇親会出席者は、対象会員の総数からすれば少なかったともいえるだろう。私の予測は少し外れた。今は同窓会の運営をビジネスとする会社がある。そうした所へ依頼すれば、参加者は増えるのかも知れない。しかし、たとえ年代はお互いに異なっていても、それぞれの青春の時代を同じ場所で過ごした者たちの、たまさかの出会いである。それだけに、手造りで育ててこそ心が通うともいえるだろう。

 次回の京都支部懇親会は、平成20年(2010)3月16日に開催予定である。今回の欠席者からの要望もあって日曜日を選んだ。そして来年度は、私たちの母校は創立120周年を迎える。長い年月の間に数多くの卒業生を送り出し、これからもまた遠い未来に亘って卒業生を送り続けるだろう。その永劫とも思える歴史の一期間に生きる者たちの交流は、少しでも心の通った暖かいものでありたいと思う。

 下記の詩は、私の好きな詩の一つである。

「学校遠望」   丸山 薫

学校を卒(お)へて、歩いてきた幾十年

首(こうべ)を回(めぐ)らせば学校は思ひ出のはるかに

小さくメダルの浮彫のやうにかがやいてゐる

そこに教室の棟々が瓦をつらねてゐる

ポプラは風に裏返つて揺れてゐる

先生はなにごとかをはなしてをられ

若い顔達がいちやうにそれに聴き入つてゐる

とあるまどべで誰かが他所見(よそみ)して

あのときの僕のやうに呆然(ぼんやり)こちらを眺めてゐる

彼の瞳に 僕のゐる所は映らないだらうか?

ああ 僕からはこんなにはつきり見えるのに

※丸山薫(まるやま かおる)
明治32年(1899)〜昭和49年(1974)
大分県出身の詩人。第九次「新思潮」同人。代表作に『帆・ランプ・鴎』『仙境』『月渡る』など。

更新日 平成19年11月23日

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