南丹生活

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第6回 懐かしの映画館

 11月最後の土日のテレビドラマで、松本清張原作の「点と線」が放映された。かつての名画がテレビでリメイクされることがたまにある。9月にも黒澤明監督の「天国と地獄」と「生きる」がドラマ化されていた。しかし、たいていの場合、リメイク作品が過去の作品を超えることはまずない。いつも後で落胆させられるので、この路線はめったに見ないことにしている。

 ただ、今回の「点と線」は2日間連続放映の大作であり、昭和30年代の鉄道のセットや当時の列車の復元が評判だった。事実、観賞後の感想でも中々の出来栄えに思えた。原作は言わずと知れた「4分間の空白」が白眉の、推理小説の最高傑作である。ただ、物語の面白さもさることながら、私には昔の映画の物足りなかった印象が残っているため、今回の放映を眠いのも我慢して熱心に見た経緯がある。

 昭和20年代後半から30年代はテレビがまだ各家庭には普及せず、娯楽といえばまさに映画の全盛期だった。終戦の直前から7年間を疎開先の北桑田郡宇津村(現右京区京北地区)で過ごした私には、たまに小学校の講堂で上映される巡回映画が最大の楽しみだった。演壇とは反対側の後ろの壁に白布のスクリーンをぶら下げ、床に茣蓙(ござ)を敷いた即席の会場である。時折り窓の隙間から入り込む風にスクリーンが揺れる。夏には誰かがいたずらで放った蛍が、画面を横切ったりスクリーンの隅に止まって点滅していることがあった。中学3年生の夏休みに八木町へ引っ越した私にとっては、常設の映画館があるのが最高の驚異だった。

 本町1丁目の国道9号線(旧街道)を脇へそれて、南丹病院まで幅3メートルばかりの道路が通っていた。そのおよそ300メートル程の道路の、中央部辺りに八木映画劇場があった。比較的新しい建物の割には、黄土色のモルタル塗りの外観で重厚な感じは余りしなかった。だが、私には夢の映画館である。建物の前方に自転車置場が設けられていて、板塀の向こうには田圃が広がっていても気にならない。俳優の顔は全く似ていないとはいえ、手書きの大看板まで懸かっている。

 道路は舗装のされていない狭い地道ではあったものの、精米所・駄菓子屋・豆腐屋・銭湯・中華料理店・食堂喫茶店・煙草屋・小間物店などが軒を並べていた。製材所や砥石工場も営業しており、砥石工場の上には珠算教室まであった。脇道から奥の方へ町営住宅が続いていて、町の中心部を外れていながらかなりの賑わいを見せていたのだった。

 引っ越した翌日の昼前に、大音声で突然レコードの音楽が聞こえて来た。最初は状況が分からずに何事かと驚いた。やがて、つい眼と鼻の先にある映画館の屋根から、拡声器で流れて来る歌だと知った。私の住む借家は大堰川の堤防の突端に建つ社務所である。丁度窓の辺りが映画館の屋根と平行線上にあり、レコードの音声がまともに聞こえて来る位置になっていたのだ。直線にすれば数十メートル程の近距離である。拡声器は4方に口を開けている。開演前の昼ごろ、それも日曜日は10時ごろからと、上映の合間毎に音楽は聞こえて来た。さすがに夜になれば流れることはなかったが、休日の昼間は3度も4度も最大のボリュームで同じ歌を聞かされたのである。

 「肩にやさしく手をかけて/君はささやくイエスかノーか・・・ネー娘十九はまだ純情よ」。私は忘れもしない。このコロムビアローズ(初代)の歌を何度聞かされたことだろう。4番まで完全に覚えてしまって、今でも忘れられずにいる。4番が終われば裏面に変わったはずなのに、そのころになれば私の集中力は途切れており、「娘十九はまだ純情よ」以外の歌は記憶に残っていない。

 八木映画劇場で私が見た最初の映画は、学校推薦の「原爆の子」(新藤兼人監督)である。これは学年全員の団体で出かけた。広島で原爆の洗礼を受けた子供たちの作文を編集した、広島大長田新教授の「原爆の子」が元資料の衝撃的な作品だった。それ以後、映画は私にとって最重要事項となった。

 「点と線」(小林恒夫監督)を見たのも八木の映画館である。その時はもう大学生になっていたから市内の映画館へ行くことが多かったが、たまには地元で見ることもあった。映画の出来栄えはかなり面白かったとはいえ、原作に比べるとやや物足りない思いは否めなかった。

 昭和30年当時の入場料は、もちろん封切館ではないから子供は40円で学生(高校生以上)が60円。そして、大人で80円だった。それでも、中学生の私の小遣いで映画館へ入れるのは、せいぜい1カ月に2度か3度である。友人に誘われて小遣いの前借りを母にせがむこともあり、入場料の工面に苦心惨憺したものである。高校に進学してしばらくの間は、帽子の徽章を中学のものに付け替えて子供料金で入るなど、いろいろアタマを悩ませたことだった。入り口で子供料金の入場券を渡すと、受付の人が必ず顔を見上げた。帽子の八木中の徽章を見て半券を渡してくれるが、何となく不審そうな顔をしているのが分かる。そして、何度目かで遂に中学の徽章を見ながら「大きい中学生やなぁ」と云われ、それからは偽装工作を辞めることにした。

 そんな苦心を重ねながらも、私の映画館通いは続いていた。夏は天井で大扇風機が回っていても汗が滲んだ。1箇所にしかストーブの無い冬は、震えながら寒さをこらえていた。それでも、木製の椅子は小学校の講堂の茣蓙よりはるかに座り心地が良かったのである。

 そして、そのころの私に最も印象に残る映画があった。高校3年生の冬だったと思う。定時制高校の2年生だったT君のお姉さんに映画へ誘われたのだ。彼女は私より1歳年上で駅前通りの雑貨店へ勤めていた。夏休みの夜などにはT君の家でよく遊んでいたから、彼の弟や姉とも親しくなっていた。しかし、女性から映画に誘われるなど、生まれて初めての出来事である。

 私は頭に血が上ったが、冷静に考えれば同じ町内にある映画館へ誰が来ているか分からない。同級生に見つかる恐れも十二分にある。迷い悩んだ末に、親しくしていた同級生のM君を誘うことにした。私は本当の理由は言わずに、面白い映画だから行こうと誘った。幸いにして彼はあっさり同意してくれたので、私も彼女を裏切らずにすんだ、と思った。そして約束の日に時間を少しずらして入場し、私たち2人は彼女の後ろの座席に座った。気配を察した彼女は振り向いて私たちを見たが、一瞬怪訝な顔をしてそのまま前のスクリーンの方を向いてしまった。まさか私が友人を誘って来るとは予想していなかったのだろう。彼女の背中が強張っているのが何となく分かった。

 上映されていた映画は「渡り鳥いつ帰る」だった。永井荷風の「春情鳩の街」「にぎりめし」「渡り鳥いつかへる」を久保田万太郎が構成し八住利雄が脚色した、久松静児監督の文芸作品である。鳩の街(花街)に生きる娼婦の物語で、水戸光子・久慈あさみ・桂木洋子・高峰秀子・岡田茉莉子・田中絹代らの豪華キャストによる力作だった。男優は森繁久弥・織田政雄・植村謙二郎らの渋い役者が出ていた。新劇の加藤春哉が軽薄な若造役で印象に残っている。

 前の座席にいるTさんを気にしながらも、私はいつの間にか画面に引き込まれていった。底辺の世界に生きる女性たちの暗くて救いのない内容ではあったが、それでも個性的な女性の生き様がきめ細かく描かれていて興味深かった。その上さらに印象に残ったのは、コロンビアローズが歌う挿入歌である。

 「別れちゃ嫌だと泣いたとて/花でも摘んで捨てるよに/そしらぬふりして別れゆく/あなたは男つれない男/いいえ私は離さない」。哀調溢れる旋律が胸に沁みた。屋根の上の拡声器から毎日何度も聞こえてくる歌とはまるで違う旋律と歌詞に、同じ歌手が歌っているとはとても信じられなかった。その日以後、「渡り鳥いつかえる」は、私の隠れ歌謡のベスト1になったのである。

 映画が終わると、2本立てのもう1作を見ることもなくTさんは黙って席を立ち、外へ出て行った。女性の気持ちをまるで理解できずに、浅墓な私は彼女を裏切ってしまったのだ。高校を卒業してからはT君とも疎遠になり、彼のお姉さんと会うこともなくなった。それからも何度か八木の映画館へは足を運び、昭和30年代の名作の多くを観賞している。しかし、あの日のほろ苦い思いと共に、木製の固い椅子が段々と馴染まなくなっていく気がした。

 八木映画劇場が取り壊されたのはいつのころだろう。園部や亀岡にも映画館はあった。周山にさえ常設ではないが映画館があった。高度成長とともにテレビの全盛期が訪れ、映画は徐々に衰退していった。八木映画劇場の跡には、いつの間にか住宅が建っている。たまにあの通りを行くと煙草屋だけは残っているものの、菓子屋も豆腐屋も銭湯もその他の店は全てが無くなって跡形もない。八木の映画館だけでなく、若松町にあった園部映画劇場もすでに無くなって道路や住宅街になっていると聞く。

 私が気づかないだけなのか、テレビの名画劇場や衛星放送で「渡り鳥いつ帰る」が放映されたことは一度も無い。まして、リメイクなどされるはずもない。また、たまにある懐メロ特集などで、この挿入歌が歌われるのを聴くことも無い。試しに何人かの友人や知人に尋ねても、この映画の存在さえ誰も知らない。歌については、そんな感じの歌があったような気がする、と言う者がたまにいる程度である。今は、映画も映画館も、私だけの遠く苦い思い出となってしまっている。

更新日 平成19年12月2日

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第7回 喪中にて

 年末が近づくと、「喪中につき、年賀のご挨拶をご遠慮申し上げます」との葉書が届き始める。早いものは11月の下旬ころから届いている。年齢を重ねるにつけ当然ながらその枚数は多くなり、今年はすでに私の分だけでも18通になった。そろそろ年賀状を書く準備を始めようか、というころである。喪中葉書はそれに間に合うように送られて来るのだろう。

 私たちの年代になれば、最も多いのはやはり義父母を含む両親のいずれかの訃報が多い。ほとんどが90歳以上で、稀に100歳に達する人もある。平均年齢を遥かに超えているのなら、むしろ天寿を全(まっと)うしたと云えるのだろう。そういえば、我が家も昨年は97歳で亡くなった義父の喪中葉書を出したのだった。次いで多いのは兄弟姉妹の逝去であるが、送って来る当人より故人の年齢の低い場合は、いささか粛然とした気持ちになる。

 しかし、何よりも痛切な知らせは、やはり同級生の訃報である。小学校以来各種の学校で同級だった友人や、また会社の同僚を含めると、その人数は数百名にも及ぶだろう。そのうち、賀状のやり取りをする同級生はおよそ百数十名になる。さらに、年齢の近い先輩や後輩を含めると200名程度だろうか。そして、その中から毎年1人2人と不幸が続き、奥様から喪中の挨拶が届くことになる。

 私たちの年代になればごく親しい一部を除いて、頻繁に当人と顔を合わせたり、手紙のやり取りなどをすることはそうは多くない。せいぜい年に一度の年賀で、近況を報告し合う級友がほとんどである。師走の一日、今年の正月に貰った賀状を改めて眺めながら、来たるべき新しい年の挨拶を書く。私の場合はパソコンで印刷した画面に、一言ずつ自筆で何かを書くことにしているので、それでも丸一日を費やすのが例年の習いではある。

 そして、年末に届いた喪中葉書の中の当人を、この正月に受け取った年賀状からそっと抜き出す。それが、1枚か2枚、多い年には3枚にもなることがある。毎年届く年賀状はそれほど多くはなくても、およそ300枚にはなる。それらを総て保存することは不可能なので、やむを得ず年末に破棄する習慣にしている。しかし、故人となった友人の賀状は、抜き出して残して置くことにしており、それが今では何枚になったのだろうか。

 たとえ年賀状とはいえ、かつて交流のあった友人の最後のメッセージである。簡単な挨拶文だけのものであっても、その文面の向こうからは、級友たちの長い間の息遣いが聞こえて来る。ただ、中には1、2度はやり取りはあったものの、いつの間にか途絶えてしまって消息の分からない者も何人かはある。

 私は中学3年生の2学期に、京北町(現右京区)の周山中学から南丹市の八木中学へ転校した。だから、私の中学校の同級生は2校に存在することになる。ただ、八木中学はわずかな期間だけの在校だったので、そのまま園部高校へ進学しなかった級友とは、一部を除いて交流はほとんど無いといえる。同窓会は卒業して40年ばかり経ってから初めて開かれたけれど、その後は3、4年に一度の間による開催になっている。

 そのため、かつての同級生と出会う機会は、比較的少ないといえるだろう。回数の少ないその会合で、卒業以来始めて顔を合わせる者もある。長い歳月の空白があるためお互いに忘れている場合が多く、一目で思い出す相手は極めて数少ないのはやむを得ないと思える。

 そんな中の一人にSさんが居た。学校ではクラスの異なる彼女と、口を利いたことは一度も無かった。ただ、黒瞳(め)がちの彼女が小麦色のしなやかな手足を伸ばして、グランドを走る姿が印象に残っていた。そして、私には忘れられない出来事があったのである。

 Sさんは複雑な家庭の事情があったらしく、高校へは進学せずに就職したと聞いていた。私が園部高校へ入学したある日、園部の町内を歩いて下校したことがあった。そして、本町の自転車店の店先に立っている彼女を見かけたのである。2、3人の友人としゃべりながら歩いている私たちを見つけて、彼女は恥ずかしそうに俯(うつむ)いていた。友人らは気がついていたかどうか。私は横目で彼女を見やりながら、そのまま黙って通り過ぎてしまった。

 園部駅から学校へ通学するコースには3箇所があり、たいていは山か川のコースを利用して町のコースはあまり通らない。私が町内を行くのは、たまに江村書店へ立ち寄る時くらいだった。江村書店は小さな構えで、置いてある本も多くはなかった。それでも、2軒ある書店から江村書店を選んだのには理由があったのだ。

 「古城下の園部本町ゆきづりの書舗の表札江村定憲」。これはまだ我が家が宇津村に住んでいる頃に、父が仕事で園部町へ出向いた折りに見た情景を詠んだ歌である。店主も短歌か何かの分野で著名だったのだろう。そんな父の歌が記憶にあったので、私は江村書店に何となく親しみを感じていたのである。ただ、店番をしている定憲氏は厳格そうな老人で、近寄りがたい雰囲気ではあった。私はこの江村書店で、筑摩書房の日本文学全集のうちの3冊ばかりを買った記憶がある。

 私が自転車店でSさんを見たのはそれ切りだった。めったに町コースを通ることはなかったし、彼女がいつの間にか店を辞めていったのかも知れない。そういえば、まだあどけない少女に自転車店の仕事は似つかないような気が、私にはずっとしていた。

 私がSさんに再会したのは八木中学の同窓会だった。卒業して40年目に初めて集まり、それからまた何年かは経っていただろうか。今から10年ばかり前の6月に、大堰川畔の八光館で何度目かの同窓会があった。梅雨の晴れ間の、汗ばむような暑い一日だった。たまたま籤引きで、私は彼女と同じ席になったのである。

 Sさんはずっと独身を通してきたらしく、近くの居酒屋で働いているとのことだった。初めて出席した会合の場へ持参した、昔の中学時代の写真を見せてくれた。卒業間近かに何人かの仲間と写したらしく、数十年前のあの少女が一目で判別出来た。その日は、宴会が終わった後に彼女の勤める居酒屋で十数名が2次会を開き、束の間の名残りを惜しんだのだった。

 その翌年の正月にSさんから年賀状が届いた。私も返礼を出したが、彼女からの賀状はその年だけで終わった。私がSさんの訃報を聞いたのは、それから3、4年経ってからである。同窓会はあれから2年後にも開催されているが彼女の姿は無かった。すでに体調が思わしくなかったのだろうか。私がSさんが癌で亡くなったことを知ったのは、同級生からの風の便りだった。

 ほんの一度だけの年賀状の交換である。もちろん、一人居るという妹さんから喪中葉書が届くはずもなかった。そのため、彼女の年賀状を破棄してから何年かが経過していたから、すでに手元には残っていない。

 間も無く、中学校を卒業して私たちは55年目を迎える。師走のひととき、喪中葉書を眺め古い賀状を繰り、そしてまた、かつて受け取った便りの文面を思い出しながら辿っていると、同級生の様々な人生の光芒が浮かんでは消える。わずか一枚の葉書にさえも、人それぞれの生きて来た軌跡が垣間(かいま)見られ、時として筆が進まない。

更新日 平成19年12月17日

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第8回 歳月流れる

 小晦日の30日に京都市内に初雪があった。愛宕山が薄いながら白く染まっていた。同じ日、京北地域の山々も雪化粧をしたと旧友からの便りが届いた。大晦日から元旦にかけて、日本列島は続いて雪模様になるとの予報だった。明けて1月1日の朝は見事な朝焼けの快晴になり、やがて、眩しい初日の出が見られた。私の目の届く範囲だけなのか、雪の予報は完全に外れたらしい。私は久し振りに雪の正月が迎えられるのかと密かに期待していたので、やや落胆したのが正直なところである。

 私が子供だった昭和20年代から30年代にかけては、宇津村(現右京区京北地区)はもちろん、引っ越した八木町でも正月に雪の積もる年があった。元旦の朝に年賀状を待ちかねていると、郵便配達の人が雪で凍った道を自転車を押して届けてくれるのに出会ったこともある。あの頃に私の住んでいた教会の社務所は、大堰川の堤防の突端にあって、朝からそんな所を歩く人などは誰もいなかった。何となく我が家が特別扱いを受けているような気がして、その年の年賀状が特別に大切なものに思えたものだった。

 私の中学から高校時代は近所に遊び仲間もかなり居て、町営住宅に住む同級生のU君とよく遊んでいた。八木町営住宅は本町1丁目の映画館の北側に開けた新しい住宅地で、当初は数軒だったのがやがて20軒ばかりに増えてかなり活気があった。

 正月には遊び仲間のK君宅へU君を初め近所の数名が集まり、トランプや百人一首で遊んだ。K君は1年下で、4歳下の彼の弟も遊び仲間である。姉が2人あって、私より1年上のTさんもたまにトランプの輪に入ることもあった。まだテレビの普及していない頃である。私達は室内の遊びに飽きると、住宅内の道路でバトミントンなどをしたものだ。庭先に雪が積もっていて、退屈紛れに雪を丸めてぶつけ合うこともあった。

 昨年の年末に所用で八木町へ出向いたついでに、私は町の中を少し歩いて町営住宅の辺りへも立ち寄ってみた。記憶に残っている遊び仲間達の住んで居た家も残っていた。もちろん住人は異なり建て増しや修復した個所があるなど昔と様相は少し変化しているものの、住宅地の佇まいは当時のままである。まだ小学生だったT君の居た家もあった。

 高校を卒業してU君は亀岡市へ引っ越し、結婚間もなく白血病が原因で28歳になった直後に亡くなっている。南丹病院に入院していたので、友人らと献血をしたのに効果がなかった。彼の父親は早くに戦死されていて、小学校の先生の母親と2人暮らしだった。90歳を超えられたお母さんから毎年欠かさず年賀状が届いているのに、今年は来なかった。葬儀に参列して以来、私は不義理をしてしまっている。何度か訪問しようと思いながら果たせていない自分を、私は責めるばかりである。

 あの頃は小学生だったT君は大阪の大学で文学部の教授をしており、今でも年賀状の交換をしている。あと3年で65歳の定年になるとのことである。K君は高校を卒業して東京へ就職したと聞いているが、今はどうしているのだろう。彼の弟のJ君には、10年ばかり前に八木町の街角で偶然に出会った。八木中学の同窓会に来た、と昔と変わらない人懐っこい笑顔で話していたのに、数年前に亡くなったと風の便りに聞いた。

 南丹病院へ続く道路から町営住宅地へ入る角に、映画館と並んで銭湯があった。当時の八木町には銭湯が2軒あって、当初は駅前通りの栄湯だけだったところに新しく八木温泉が開業した。今はどちらも休業して普通の住宅になっている。私は自宅近くの八木温泉をいつも利用しており、正月の初風呂は毎年2日から営業していた。

 朝の10時に遊び仲間と示し合わせて、私達は数名で一番風呂へ入ったものだ。初風呂とはいえ、そんな時間に客は他に誰も居なかった。プール感覚で大騒ぎしてふざけ回り、番台の小母さんに注意されたこともある。私達の初風呂遊びは3年ばかり続いた。その仲間達も、すでに亡くなった者や遠くへ引っ越した者、そして消息不明の者もいる。

 あの日、私は町営住宅に次いで歳末の町並みを歩いてみた。あと3日で新年を迎えるという、1年中で最も賑わうはずの日である。しかし、駅前通りから町の中心部では人通りも少なくてひっそりと静かだった。その後で私は園部町へも足を伸ばしてみたが、本町や若松町の商店街でも八木町と同じ様な印象を受けた。

 かつては、師走には商店街を挙げて歳末大売出しで活気に満ちていた。道幅いっぱいの横幕が張られ店毎に幟(のぼり)がはためき、特設の福引き会場は人だかりで身動きもできない混雑振りだった。あの賑わいは、今では新しく開けた国道沿いへ移ったのか、それともスーパーなどの大型店へ流れているのかも知れない。今年の福引会場は、以前は由緒のあった茶舗跡に設けられていた。しかし、案内の張り紙はあるものの入り口のガラス戸は閉じられたままで、人の気配がまるで無い。その隣の私が中学3年生の年末にアルバイトをした和菓子の老舗は、看板の文字が薄れシャッターが下ろされていた。

 それまで宇津村に住んで居た私には、アルバイトなどは生まれて初めての経験だった。菓子舗の主人が借家の管理人も兼ねておられ、その縁で手伝いをすることになったのである。店にはキャラメルや飴玉など一般的な菓子の他に、自家製の和菓子や進物用の砂糖などが並んでいた。私は近所の子供の買い物の担当を任された。贈答用の和菓子や砂糖を買う客があった場合は、店の奥で作業をしている人に知らせる仕組みだった。

 アルバイトの仕事は難しくはなかったが、たまに同級生の女生徒が買い物に来ることもあって、その時はうまく応対できなかったものだった。親の言いつけらしく同じクラスのMさんが、古い紙箱を持参で進物にする砂糖を買いに来たことがあった。彼女の家庭は地元の旧家と聞いていた。箱代などは精々5円程度である。それでも、あの頃は慎ましい生活意識があったのだろう。私にはかなり強い印象となって、今でも忘れられないでいる。

 あのアルバイトは1週間ばかり続いて、最終日にまとめて500円のバイト料をもらった。私が生まれて初めて稼いだ金である。しかも、持ったことのない大金である。正月はいつになく裕福な気分だった。森永ミルクキャラメルが20円の時代で、アンパンは10円だった。子供料金が40円の映画へも、しばらくは気楽に入れた。母の命令で幾らかは貯金もして、我が生涯の輝けるひと時ではあった。

 今年の正月は次女が帰国していて、夕方には長女も来ることになっている。それぞれの夫達も合流する予定である。義父母が健在なあいだは、2日に八木町の自宅を訪問する習慣になっていた。妻の姉弟一家を含め、多い時は十数名が顔を揃えた。全員が揃って春日神社へ参詣したあと、賑やかな会食になった。義母が10年前に亡くなりその後も元気だった義父が一昨年に故人となり、それからは恒例の新年会は途絶えた。

 そういえば、神社の境内に雪が積もっている年もあった。正月2日の神社に参拝客の姿はほとんど見なかった。私が雪を丸めて娘達にぶつけると、彼女らは大騒ぎしながら逃げ回っていた。義父がにこにこ笑いながら、それを眺めていたのが昨日のことの様に目に浮ぶ。

 元旦の夜に京北地区には雪が降ったと便りがあった。平地にも5センチばかり積もったらしい。八木町はどうなのだろう。またいつか雪の正月になれば、春日神社へ参拝しようと思う。

更新日 平成20年1月2日

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第9回 雪の日はるかに

 我が家の周辺で1月17日の昼前に雪が舞った。今冬の初雪である。しかし、期待した雪は1時間ばかりで早くも止んでしまい、その後にはまた小春日和を思わせる穏やかな陽射しが戻った。少しの間だけの、冬の挨拶のように舞った雪だった。最初から積もる気配はまるでなかったのか。今年もやはり暖冬なのかも知れない、と思いたくもなる。

 北海道や東北などの北日本では積雪もかなり多く、各地のスキー場の状況は昨年よりも順当と思われる。ただ、京滋地区のスキー場では、積雪はかなり少ない現象が起きている。19日朝の新聞では、京都の2個所のスキー場である大江山(宮津市)と広河原(左京区)は30センチとなっている。これは今冬になって初めての記録であり、それでも大江山は一部だけでしかスキーが可能ではない。

 かつては、広河原の手前の花背(左京区)や神吉の近くの越畑(右京区)にもスキー場があったことからすると、やはり最近は決定的に雪が少なくなっているのだろう。昔の越畑スキー場へは、国鉄八木駅の前から京都バスが出ていた。スキーを担いでバスに乗り込む大勢の人を、よく見かけたものだ。昭和30年代(1955〜)はそんな風景が見られたのに、いつの頃からスキー場は閉鎖されてしまったのか。

 もう一つ古い新聞記事を見つけた。「……漸くこの十日ごろ完成することとなった。土着の人の話では春三月中旬ごろまで雪は絶えぬさうである。今年も去月二十三日三寸の初雪を見た。例年三尺の積雪を見ると云ふから愛宕電車の割引と相俟ち、スキー場に恵まれぬ京都の好き者にとって絶好の福音とならう」(京都日日新聞 昭和4年12月4日)。昭和の初め頃には、愛宕山にもスキー場があったらしい。

 私が八木町に移り住んで初めて冬を迎えた昭和28年(1953)の1月は、町内にはまだ雪は積もっていなかった。それまで住んでいた北桑田郡宇津村(現右京区)に比べると、やはり積雪は少なかったようである。その年の1月の終わり頃に、北桑田郡の北星中学(現美山中学)で、口丹波中学校のバスケットボール大会が開催された。私は前校の周山中学ではバレーボール部に所属していたが、八木中学にはその部がなくてクラブ活動は何もしていなかった。

 八木中学の体育館で、前年の10月に市内の洛陽中学と紫野中学の招待バスケットボール試合が開かれた。八木中学にはバスケットボールル部はあったものの、技術レベルが格段に上の2校の華麗ともいえる試合内容に、私達全員が熱狂したのだった。それ以来、八木中学ではバスケットボールがブームになり、昼休みなどは体育館で何組もが入り乱れてバスケット遊びをしたものである。

 北星中学の遠征に、私は補欠選手として選ばれた。元々は球技が好きだったため、体育の授業でかなり好成績を残したかららしい。当時の美山地区は北桑田郡の行政区にあり、京北地区と併せて南北の北桑田郡を構成していた。監督のY先生に引率されて、私達はバスで北星中学へ向かった。中学のある在所の宮島は、深い雪の下にあった。試合の合間の体育館でランニングシャツ1枚のまま待機していると、身体の芯まで冷え込むほど気温は低かった。

 その大会の試合経過はどうだったのだろう。確か優勝は亀岡中学で、八木中学は3位だったと記憶している。しかし、その他の学校の記録は全く覚えていない。私達のチームには野球も抜群で万能選手のN君や、私と同じ時期に転校してきたU君などの名選手がいた。私は正式部員ではなく臨時に選ばれた補充手だったが、それでも試合の後半には2度ばかり出場してゴールを決めた。折角参加しているのだから、先生の温情による1試合だけの出場かと最初は思っていた。その最初の試合で何度かゴールを決めた私を見て、Y先生が次の試合にも思い切って選抜されたのだった。

 私がゴールを決めるたびに、待機している周山中学の選手から拍手が起こった。つい数カ月ばかり前までは、同じ校舎で学んでいた級友達である。バレーボール部にいた私が、まさかバスケットボールの選手として現われるとは誰も思っていなかったようである。試合の前に少しばかり旧交を温める時間があって、私は冷やかされたりしていたのだった。

 それでも、私のプレーに拍手を送ってくれる、以前の級友の気持ちが嬉しかった。彼らの中には、私の最も親しくしていたS君がいた。彼とは転校後も手紙や年賀状などのやり取りを続けおり、私達の交友は途絶えることはなかった。そのS君の拍手が一番大きかったように、私には思えた。雪の中の体育館は冷たくて手が凍えるほどだったけれど、古くからの友人の声援を受けた私の心は温かだった。その日はトーナメント試合だったこともあり、八木中学と周山中学との試合はなかった。

 S君との交友は、彼が50歳で亡くなるまで続いた。そして、それからすでに20年の歳月が過ぎたことになる。その間に、北桑田郡は分割されて、美山町は南丹市へ、そして京北町は京都市の右京区へと編入された。今年の雪の状況はどうなのだろう。やはり、雪は昔より少なくなっているのだろうか。一度、冬の間にかつての古里を訪れて確かめて見よう。

更新日 平成20年1月20日

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第10回 雪の向こうに

 今冬は各地の積雪がかなり多く、何処のスキー場も賑わっている様子である。その状況から取り残されていた感のあった京滋のスキー場も、1月の半ば過ぎから雪が積もり出した。京都府に2個所だけある大江山と広河原も、70センチの積雪で久々に活況を取り戻しているとのことである。ただ、京都府全体から見れば、やはり昔の様に雪が積もる状況にはないようだ。そんな中では、さすがに美山町が40〜50センチの雪の下にあって、この日本有数の萱葺きの里は昔と変わらない光景を見せている。

 かつて京北町とともに北桑田郡の一部だった美山町が、合併で南丹市になったのは平成18年である。京北町は、その前の平成17年に京都市の右京区に編入されている。長年のあいだ行政の歴史を同じくしてきた両町が袂(たもと)を分かった経緯は、それぞれに複雑な思惑があると思われる。今でも賛否両論の意見が潜在しているとも聞く。

 ただ同じ郡部にあっても、深見峠を挟んで双方の風土には、やはりそれぞれに独特のものがあるようだ。私は中学3年生の夏までの7年間を京北町(当時は宇津村)で過ごしたが、美山町へ足を伸ばすことはほとんどなかった。しかし、年に一度はいやでも関心を持たざるを得ない行事があった。それは毎年の秋に行われる青年団の運動会で、北桑田郡の南北対抗で全域が大いに盛り上がったものである。もちろん、南部は1町6村の後の京北町(神吉は八木町へ編入)で、北部は5つの村だった美山町である。競技の成績は、やはり人口の多い南部がいつも優勢だったが。

 私が初めて美山町を訪れたのは、父の仕事で連れて行かれた6歳の頃である。鶴ケ岡行きの国鉄バスで周山を通り、深見峠を越えて着いた所は平屋小学校の近くだった。当時は平屋村と呼んでいたのだろう。近くを流れる清流が由良川の源流だと知ったのは、ずっと後になってからである。

 美山町が萱葺きの里として有名になった頃には私は京都市内へ移り住んでいて、会社の部下達と観光で訪れたこともある。そして、娘らが成人して家を出る年齢になった頃、家族揃って出掛けるのも最後のチャンスになるだろうと日帰り旅行を計画した。今からもう、10年も前の2月半ばのことになる。その日、家族4人は短大生の次女の運転で、桃山の自宅から周山街道をはるばると越えて行った。

 丹波高原の東端に位置する美山町が日本一の茅葺き屋根の集落地であることは、今ではかなり有名である。約300戸の農家が今でも残り、特に北村地区では50戸ばかりの民家の内の38戸が萱葺きという。重要文化財に指定された屋敷もある。立地的には福井県との県境に位置していて、町を流れる川は由良川となって日本海へ注いでいる。同じ北桑田郡の京北町を流れる大堰川は太平洋へ流れているから、美山町はそれだけ福井県寄りの北方に位置していることになる。

 その年は特に暖冬だったせいか、美山町はまだ積雪が見られなかった。昔なら考えられない現象である。「つるや」で昼食を済ませてから、私達は集落の中をドライブした。そして、萱葺き屋根の民家が最も集中している場所では、周辺一帯を歩いて散策した。周囲の茶色く霜枯れた山肌を背景に重なり合って佇む茅葺き屋根の山村は、私の記憶している昔の風景とまるで変わらなかった。

 しかし、雪の無い冬のせいか、観光の人影もほとんど無く静まり返っていた。その萱葺き集落の前景には、刈り取りの終わった田圃が黒い地肌を見せている。所々に青い群生があるのは大根畑だろうか。丈の長さから、昔はこの季節にはあった麦畑には見えない。

 もう夕暮れが迫っていた。西から斜めに差し込む落日を反射して、光の当たる部分のなだらかな傾斜の屋根が遠くの方で鈍く輝いていた。私が小さい頃に見慣れた風景が、確実にそこにあった。心が落ち着く長閑(のどか)な眺めであり、いつまでも去り難い景色である。しかし、その場所で暮らすとなれば、そんな気分にばかり浸ってはおられないだろう。殊に厳しい冬の時期には、住民にとってはまた別の苦労や悩みもあると思われる。たまたま雪こそ積もっていなかったものの、夕暮れの丹波高原の風は冷たくて手足が悴(かじか)むほどだった。

 私が住んで居た五十年前の宇津村も、冬の間は同じように凍えるばかりに寒かった。いや、むしろその当時の村は雪が多く、冬の田舎の家は冷え切っていっそう寒かったはずである。ヒーターで暖かい帰路の車の中で、私は目を閉じながらぼんやりとその頃の情景を思い浮かべていた。妻と娘らは、初めて見た萱葺きの里の光景を楽しそうに話し合っている。私はいつの間にか、子供の頃に住んで居た家の中に居た。

 囲炉裏の自在鉤に下がっている真っ黒な鉄瓶には、朝から晩まで湯が沸き白い湯気が出ていた。時おり粗朶(そだ)が弾けて、火の粉が顔に跳ねる。長年の煤(すす)で真っ黒になった天井の梁へ、薄鼠色の煙が揺らぎながらゆっくりと昇って行った。

 正月の残りの餅だろうか。熾(おき)で焙って焼いた香ばしい匂いが仄かに漂う。壁に掛かった柱時計の耳慣れた柔らかな音が、緩やかに眠気を誘った。あの頃の田舎家は土間との仕切りが無く、台所の間は天井板も張られていなかった。朝から晩まで囲炉裏で火を焚いていても、暖気は天井裏の煙出しから外へ逃げて行く。吹雪の荒れる日は、逆に雪の粉がその穴から舞い込んだ。冬場はいつもより早い夕食を終えると、寒い夜は何をすることもなく寝るだけしかなかった。8時から始まるラジオの「二十の扉」や「私は誰でしょう」、それに9時からの「話の泉」などはいつも寝床の中で聞いていた。文化放送があったとはいえ、民放などがスタートする前でNHKラジオが唯一の娯楽だった。

 面白いラジオ放送の無い日は、布団の中で読む本を選ぶのがささやかな楽しみだった。「宝島」「紅はこべ」「岩窟王」「トムソーヤの冒険」「十五少年漂流記」・・・。1年に数冊しか買ってもらえない僅かな“蔵書”を何度繰り返して読んだことだろう。学校の図書館からは江戸川乱歩集や世界偉人伝など、ほとんどの読み物を借りまくったものだ。

 暖かい豆炭の炬燵が、やがて瞼の重くなり出した私を夢の世界へ誘(いざな)う。八幡宮の裏山の杉木立が激しくざわめき、雨戸が揺れて大きな音を立てる。もしかして、雪女が来たのかもしれない。強い木枯しが吹いて何となく怖ろしいそんな夜は、決まって吹雪になったのだった。

 いつの間にか眠ってしまった明け方近くには、「パーン、パーン」と甲高く乾いた音が聞こえて来て目が覚める。初めてその音を聞いた時は猟師が鉄砲を撃っているのかと興味を引かれ、寒いのを我慢して飛び起きた。しかし、早朝からそんな気配があるはずもない。外へ出てよく見ると、雪で曲がった竹薮の孟宗竹が重みに耐えられずに折れる音である。太い孟宗竹が折れるのだから、雪は五十センチ以上も積もることがあったのだ。

 見渡せば、道も畑も同じ高さに埋もれていて境界線が消えている。眼下に大堰川の流れだけが黒く線を描いて、遠く貞任峠は雪に煙ってはっきりと見えない。白一色の世界がどこまでも広がって、一声鋭く鳴いたのは鵯(ひよどり)だろうか。一年を通した普段の日でも、材木を積んだトラックがたまにしか通らない静かな村である。雪の日はさらに道を行く人は誰も見当たらず、どこまでもひっそりと眠ったように色彩の消えた墨絵の様に淋しい風景だった。

 美山町の帰路に、宇津の在所にある親戚へ寄った。雪模様になり家族は反対したが、私の古里でもあり強引に押し切ったのである。私が覚えている昔あった囲炉裏は、布団を掛けた堀り炬燵に代わっていた。土間との間はガラス戸で仕切られ、天井には板が張ってあった。煙が出ることも無くなり、煤などまるで見られない清潔な居間は石油ストーブで温かだった。そういえば、昔の萱葺きの母屋も新築の別棟も、どちらも瓦屋根になっていた。

 話が弾む間に、背戸の南天の古木に雪が積もり出した。慌てて外へ出て見ると、すっかり暮れた山里は猛吹雪になっていた。道や山が瞬く間に白くなる。周山街道の栗尾峠を通過する頃は、数センチもの積雪になっていた。前方から吹き付ける雪で、ワイパーが重くなってよく動かない。新しく替えたタイヤなのに車はスリップして、ガードレールにぶつかる危険な目にも遭った。対向車が無くて命拾いした、と後で皆からさんざん責められたものである。

 雪の積もった杉林の白と黒のコントラストが、車のライトに浮かんでは消えた。光の届かない闇の向こうに、まるで物語めいた世界が広がる。美山町で昼間に見られなかった雪の中を走っているにも拘わらず、私は小さくなって反省していた。次女が必死に運転して、やっと二つ目の笠峠のトンネルを越えると、雪は全く見られなかった。昔に読んだ川端康成の「雪国」は、トンネルの向うに雪国があったはずである。私達のドライブはそれと反対のコースを辿った結果になり、私は少し複雑な気持ちでいた。

 この冬の美山町は、雪灯路の設置や民家のライトアップのイベントがあると宣伝されている。遠方からも、雪景色を見物に訪れる人も多いと思われる。北桑田郡から南丹市になって呼称は変わっても、雪が積もればその下には昔と同じ光景があるのだろう。

 ただ、雪質はどうなのか。積もっても融けるのが早いとも聞く。歳月が流れ行政区が変わり、山里で暮らす人々の生活はやはり相当に変化したことだろう。かつての北桑田郡の南部は、厳しい過疎が進んでいると聞くが。

 今ではわが家の娘達は2人とも遠くに住んでいて、運転を頼むことがもう不可能になった。私達はどちらも免許を持たない夫婦なので、近々にバスでのんびり出掛けようかと考えているところである。その時は、雪の古里への訪問も実現させるつもりである。

更新日 平成20年2月2日

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