南丹生活

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第11回 涙の耐久競争

 立春も過ぎた2月9日の土曜日だった。朝から打ち合わせがあって、母校の園部高校へ出かけた。天気予報の通り、市内の南西部にある我が家の周辺でも細かい雪が降っていた。粉雪が舞うという状態ではなく、やや水分を含んだ小粒の雪だった。それでも、垣根や屋根瓦がほんのうっすらと白くなりつつあった。今年になって3度目の雪なのだが、最近の気象情況から判断して積もるかどうか期待は持てなかった。

 JRの保津峡のトンネルを抜けると、亀岡盆地は猛吹雪だった。愛宕山方面の北山連峰は全く見通しが効かない。千代川駅辺りから、上りの列車待ちでダイヤが遅れ始めた。八木駅から吉富駅へ進むにつれ、プラットフォームに3〜4センチ程も雪が積もっている。園部駅へ着いた列車は約10分の遅れだった。雪はいっそう激しく降り続いていた。

 降りしきる雪の中に立ったのは何年ぶりだろう。私は二本松峠を越えて、母校まで歩くことにした。土曜日の午前9時30分である。峠道を歩く人はほとんどいない。一人だけ学生らしい若い女性が私の前を歩いていた。それでも歩道には何人かの足跡が残っている。積雪に靴が埋まるほどでもない。誰かが残した靴跡を踏みながら、数十年前はもっと深い雪の中を長靴で何度か越えたことを思い出していた。前を歩いていた女性は峠の頂上から、伝統工芸大学校のある左の方へ曲がって行った。

 私の高校生の頃は、毎年2月になれば耐久競争と称する長距離レースがあった。船坂から中山峠を経由し、八田を過ぎて丹波水戸から右折する。そして観音峠を越えて母校までの、およそ18キロのコースだった。3年生の最後の2月は雪こそ見られなかったものの、曇り空の下で凍てつくような寒い日だった。今は公園になっている場所にグランドがあり、薄着の私たちは肩を竦(すく)めながら集合した。

 体育のY先生の号砲で、女生徒が先にスタートした。そして、その20分後に我々男生徒が出発した。私は球技こそ好きだったが、走り高跳び以外の陸上競技はまるで自信がなかった。周山中学や八木中学でも耐久競争は実施されていた。高校でも毎年行われていたはずである。そのいずれにも、私は適当に息抜きをして中程の順位で帰校していたのである。

 高校最後の耐久競争であり、体育の成績にも加味するから頑張るように、とY先生に釘を指されていた。そのせいもあり、スタートから私は本気になって、かなりのスピードで走り出した。黒田を過ぎた船坂の近くで、先にスタートした女生徒の集団に追い着いた。彼女らは数人のグループで、ほとんど最初から歩いていたと思われる。その中に生徒会副会長のYさんも居た。

 私は余りにも早く先発組に追い着いたので、驚くより思わず笑ってしまった。男生徒の私の順位としては、まず早い部類で20番目くらいだったと思う。しかし、彼女らは全く悪びれる素振りもなく、「頑張って!」と逆に笑顔で声援を送られてしまったのである。そのせいかどうか、私はさらに全力を挙げて走り出した。竹野小学校が見える辺りで、後ろから硬式野球部のA君が私を追い抜いて行った。

 「クラスのためにも頑張れよ」と、A君が苦しそうに息を吐きながらも、真剣な顔で私を激励してくれた。彼とは同じクラスで、私はバレー部員だった。たまたま野球部に欠員があったため、彼の推薦でしばらく一緒に硬式野球の練習したことがあったのだった。ただ、彼のセリフが大袈裟(おおげさ)過ぎたので、私は黙って頷くしかなかった。

 A君の姿はたちまち見えなくなった。私も快調に飛ばして、女生徒はもちろん何人かの男生徒も抜いて行った。そして、このレースの最難関である観音峠の上り坂の途中で、前生徒会副会長のKさんらを追い抜いた。彼女らは数人で喋りながら、かなりのんびりと坂道を歩いていた。その近辺までは、たまに走りながら到達したらしい。

 私が彼女達を追い抜いた後ろから、「ここまでやったら、入賞できるワ」と言うKさんの声が聞こえた。おそらく、半ば私に聞えるように言ったのだろう。しかし私は、そのセリフを聞いた途端に力が抜けた。彼女らは、追い抜いていった男生徒の人数を知っているから、順位は分かっていたのだろう。その時点で、私は10位以内に入っていたのだ。

 半ば冷やかされた感じの私は、懸命に頑張るのが馬鹿らしくなって徐々に気力が薄れ始めた。そのうえ、坂道の上りのせいもあってスピードが一気に落ちた。そして、峠の頂上辺りから私の膝に異変が起こり出したのだ。膝に力が入らず、足が進まなくなったのである。少し走ると力が完全に抜けて動かなくなり、耐え切れなくなって歩く。そんな状態が頻繁に続いた。思えば、私はバレーボール部に所属していたとはいえ、ランニングなどのトレーニングは全くした経験が無い。生物担当のN先生がコーチだったとはいえ、グランドへ出て来られたのを一度も見ていない。メンバーの生徒だけでいきなりボールを持って練習をする、実に生半可なクラブ活動だった。したがって、基礎体力がまるで無く、筋肉も完全に不足していたのだろう。

 そういえば、八木中学時代に駅伝の府下大会があり、老ノ坂を自転車で選手に伴走したことがあった。駅伝最難関であるそのコースを走ったのは、エースのU君だった。学校の前から襷(たすき)を引き継いだ彼の横を、数名の同級生と自転車で走りながら声援を送った。しかし、老ノ坂の登り口に差しかかれば、自転車を下りて押すしかない。我々応援団を路傍に置いたまま、U君はたちまち走り去って行った。

 私達は懸命に自転車を押して坂道を登り、頂上からは一気に下り坂を飛ばした。それでも、次の中継地へ到着した時は、引継ぎはすでに終わった後だった。U君の姿は何処にも見当たらなかった。帰路の登り坂では、また自転車を押さねばならなかった。峠の途中から私の膝の動きが鈍くなった。何度も休みながら、必死で仲間に着いて行く破目になったのである。

 その時と同じ現象が、耐久競争で私の膝に発生したのだ。次々と男生徒に追い抜かれて行った。あろうことか、そんな私を追い抜いて行った女生徒も何人かあった。完全に戦意喪失した私だったが、それでも時には走ってみたりしながら観音峠を下りきった。そして、ようやく河原町の橋の手前まで来た時、私は目を疑うような情景を目撃したのである。

 U君が片手で膝を抑えながら歩いていたのだ。彼はバスケットボールの名手であり、中学時代からの長距離のエースでもある。その彼が、どうした理由からか足を引き摺って歩いていたのだ。おそらく、彼は膝を痛めて歩いていたのだろう。私が走れなくなった原因とは、少し異なるように見えた。何ともいえない照れくさそうな顔で俯むき加減に歩いている彼を、私は気力を振り絞って追い抜いて行った。そんな私と競争する意志もない彼は、やはり相当な重傷だったようだ。

 それからも、後わずかな距離を何度立ち止まったことだろう。やっとのことで私は学校の正門前へ辿り着いた。体育担当以外の学年担任や記録係りの先生達、それに先にゴールインした同級生らが大勢持ち構えている。その前を、私は動かない足を引き摺りながら通った。担任のN先生が、「上野、走れ!」と大声を上げられた。私は聞こえないふりをして、下を向きながら辛うじてゴールインしたのである。おそらく先生の目に、私がふてぶてしいヤツと映ったことだろう。私にしても、走れるものなら走りかった。しかし、もうその力が全く残っていなかったのである。私なりに必死で頑張っていたのだが、そんな事情を知る者は誰もいなかった。

 18キロの耐久競争の記録は、陸上部のF君がトップで1時間10分と少々だった。女生徒は誰だったのか。おそらく同じく陸上部のKさんが、1時間40分程度だったと記憶している。私は順位など問題にならないくらい遅れてしまっていたし、女生徒の何人かよりも遅い記録だった。男生徒は150人ばかりいたが、おそらく100位以下だっただろう。

 高校3年間の最後の耐久競争は、散々な結果に終わった。通知簿の体育評価も悪かったはずである。ただ、運動万能でエースのU君を抜いたことだけが、わずかな気休めになった。しかし、症状は異なるとはいえ、お互いに手傷を負った者同士である。彼の心境も察して余りある。半世紀以上も昔のことである。U君は、もうそんなことは忘れているだろう。

 2月の土曜日の日は、会議の間もずっと雪が舞っていた。まるで止む気配がなかったので、帰りの駅までメンバーのYさんが自家用車で送ってくれた。二本松峠へ差し掛かる前方から、別の広い道路が開けていた。私が通学している頃は無かった西口へ、彼女の車を横着けしてもらった。雪は休みなく降っている。車を降りて後ろを振り返ると、峠道は雪で朝よりもずっと白くなっていた。

更新日 平成20年2月16日

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第12回 公孫樹ありき

 園部高校120周年記念誌の編集会議で、寄稿の依頼可能な高等小学校や高等女学校の卒業生が生存されていないことが話題になる。1世紀を軽く超える120年間の節目の記念誌編纂のため、それは当然のことではある。母校では、「創立百周年記念略誌」が昭和63年(1988年)に発行されている。「略誌」と断わってあるくらいだから、A4サイズで僅か36ぺージの極めて簡略な内容に過ぎない。それでも、高等女学校時代の卒業生2名の寄稿が見られる。

 それ以前となれば、「創立十周年記念誌」といきなり歴史が遠くへ遡(さかのぼ)る。この記念誌は新制高校になって10年目だから、昭和33年(1958年)になる。時期的には私が卒業した2年後であり、今から50年も前のことになる。コンパクトなA5サイズの155ぺージばかりで、記念誌というよりは小冊子の感が拭えない。高等女学校の卒業生は1名だけが寄稿されている。半世紀も昔の発行なのになぜ1名だけなのかは、ページ数の関係からかも知れない。発行責任者は世界史の担当だった吉田証先生である。私の卒業した2年後の発行だが、卒業生の私達に配布された記憶はない。

 さらに古くを辿れば、昭和11年(1936年)に、「園部中學校十年史」が編集されている。遙か70年以上も昔の発行で、寄稿者は当然のことながら旧制中学の卒業生ばかりとなっている。これもA5サイズながら185ページに及び、時代背景を考慮すればかなりの努力が払われているというべきだろう。発行責任者には江村定憲元校長の名が記されている。

 他校の記念誌発行の度合いは知らないが、100周年略誌が出たとはいえ、やはり正誌(史)の発行には間隔が開き過ぎたことは否定出来ない。そんな折りに、何か過去の資料がないものかと探索している中で、机の奥から「公孫樹(こうそんじゅ)」が2冊出て来た。第7号(昭和30年3月)と第8号(昭和31年3月)である。後者は私の卒業年度の発行であり、第8回卒業と号数が合致する。それから考えると、新制高校になってから1年に1度編集されていたと思われる。そうであるなら、第6号も配布されたはずなのに手元には見つからない。2冊とも粗末な紙のB5サイズで、それぞれ65ページと70ページの薄い冊子である。

 2冊の表紙は当時の図画の担当だった人見少華先生の正門を描いた水墨画で、題字は書道担当の谷部橘南先生の筆になっている。その当時は私の無知から無関心だったが、お二人共かなりの大家と知ったのはずっと後になってからである。発行責任者は、どちらも吉田先生となっている。巻頭には当時の吉村光雄校長の言葉が掲載されている。

 第8号の「公孫樹」が配布された時点で目を通しているので、掲載内容には僅かに記憶がある。私達の同級生では5名が作品を投稿していて、そのいずれもが女生徒である。その内の3名の投稿作は、2年生だった時期にも第7号に掲載されている。常連の一人ともいえるKさんは、小説や短歌・俳句の他に和歌研究の論文も投稿している。当時からかなりの文学少女だったことが推察される。ただ一人同級生の男性で、日本史クラブのN君の「ニワトリ塚古墳〜」の記録が第7号に載っている。

 先生はもちろん上級生や下級生の中には、記憶にある氏名が何名かあって懐かしい。国語の中村道子先生の、「表現」と題するエッセイ風の寄稿もある。社研部員達の先鋭な詩が数篇見られる。

 私は昔の記憶を思い浮かべながら、同級生の作品に目を通した。そのほとんどが、自殺や生活苦に結び付く暗い内容のものばかりである。当時の世相を反映しているのだろうか。深刻な話題には目を背けて安閑と暮らしていた私には、読んだ当時はとても着いて行けないと敬遠した内容ばかりだった。

 そのうえ、ページ数の問題からか細かい活字がびっしり埋まっていて、余計に重苦しい雰囲気が横溢している。そして、彼女らの作品はどれもが1万字前後で、中には1万2千字に及ぶものがある。400字詰め原稿用紙にすれば、25枚から30枚に達することになる。これは短編というより、中篇と呼ぶべき枚数といえる。17歳か18歳の高校生だった彼女らがこれだけの力作を書いていたことは、私からすれば実に驚嘆に値(あたい)すると言わねばならない。2年間に亘りMさんが寄稿した創作と恋愛論。有為の若者が暗澹とした前途に翻弄されるKさんの力作。卒業を前にして痛恨の叫びを寄せたYさんの私小説的作品……。年を経た私がそれらを読んで、今にして強く胸を撃たれる思いである。

 それぞれの作品の出来栄えを、現在の視点から判断することは筋違いだろう。ただ、恐らくは深刻な事柄を何も考えずに日々を過ごしていた私と同じ世代の女生徒が、その当時からかくも複雑で多感な心情を持って、苦悩し呻吟して生きていたのだと思えば、今さらながら感慨も一入(ひとしお)のものがある。

 あれから、もう半世紀の歳月が流れた。彼女らのその後の人生の細部を、私は知るべくもない。たまに開かれる同窓会で顔を合わす者もあるが、それ以外での日々の生活の様相を認識する由もない。中には一度も顔を出さない者もいるから、なおさら卒業後の生きてきた軌跡は私には不明である。あの時の多感な少女達は、今はどのような心境や人生観で日々を暮らしているのだろう。

 母校のシンボルを表象した「公孫樹」は、すでに20年も前に廃刊になっていると聞く。その理由は不明だが、私達の在学中には少なくとも自分達の思いの発表の場があったのだ。そして、作品を寄せた者もそれを読むだけの者にも、同じ様な苦悩や生き様の問題について、多くの者が共に考え共に語ることが可能だったのである。貧しくて恵まれることの少ない時代だったとはいえ、少なくとも共通の意識が持てる時期だったのである。それは、人間としてむしろ幸せともいえる若き時代だったのかも知れない。

更新日 平成20年3月2日

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第13回 南丹病院より

 母校の120周年記念誌の編集委員会で、このところ月に一、二度は山陰線を利用する機会がある。だが、私の古里である八木町で下車することはなく、いつもそのまま通過している。JR八木駅は、私が住んでいた40年前と少しも変わっていない。降りる所用が無くても、やはり八木駅に着くと気持ちが引かれるものがある。朝の通勤通学の時間帯を過ぎていれば、狭いプラットフォームへ降りる人はほとんど見掛けない。古くなった木製の跨線橋を列車が潜ると、直ぐ右手に南丹病院が目に入る。

 そして、この南丹病院の新館が線路の左側に増築されていて、本館と繋ぐ新しい跨線橋が架かっている。列車は徐々にスピードを上げるから、病院のある場所は瞬く間に通り過ぎてしまう。昨年の暮れに歩いた駅前の商店街は、人通りが無くてひっそりとしていた。だが、南丹病院は増築されて大きくなったのだから、通院や入院患者の数は増えているのだろう。口丹波では有数の総合病院なので、八木町の人口減少とは無関係のようである。

 2年前の4月に亡くなった義父が入院していた頃には、何度か見舞いに行ったものだ。病室は渡り廊下の向うの新館にあり、廊下の窓からは山陰線の駅や線路が見渡せるなど、昔とは完全に異なる構造になっている。正面の待合室や受付窓口も、私が記憶している頃よりははるかに清潔で広くなった。

 私が高校生の時代には、たまに南丹病院へ治療を受けに行った経験がある。私は洟水の出る肥厚性鼻炎に罹り、同級生のF君のお父さんが耳鼻科の医者でお世話になったものだった。病院の敷地内に医者の官舎があり、彼の住んで居る家へもよく遊びに行っていた。新館の増築に合わせて総合的に改築されたのか、今ではF君の居た家は跡形も無くなっている。秋になれば運動会が開かれていた中庭の広場にも、今は病棟が建ってしまっている。

 南丹病院にまつわる思い出は、もう記憶の中だけのものとなってしまった。ただ、昨年の暮れに周囲を散策した折りに、私は本町1丁目の町営住宅も訪れてみた。そして、その周辺が昔とほとんど変化のないことを知ったのである。現在はすでに住む人が替わっているだろうが、遊び仲間のK君の居た家もそのままに残っていた。

 そのK君の長姉のMさんが、南丹病院の受付に勤務されていたのだった。夏休みの夜などに、彼の家でトランプやゲームをして遊ぶことがあった。そんな時にお姉さんを見掛けることがあり、挨拶を交わすようになっていた。その当時、私は大堰川畔の土手上の家に住んでいた。おそらく昼休みだろう。同僚と川畔へ散策に来られたMさんに出会ったこともある。

 彼女は、女優の桂木洋子に似ているとの評判だった。私も、桂木洋子は木下恵介の「肖像」のデビューで注目していた。その後、「破戒・晩春・破れ太鼓・乙女の性典・醜聞・日本の悲劇・黒い河・喜びも悲しみもいく歳月……」など、数多くの名作に顔を出し私は大ファンになっていた。大きくて寂し気な目が印象的な女優だった。もちろん、かの「渡り鳥いつ帰る」にも出演しているのである。

 その人が南丹病院の受付に居られるのを知ってから、敬遠していた病院通いが逆に楽しみになったのだった。いつだったか、なぜか鼻血が止まらなくなったことがあり、その程度なら通常はちり紙を詰めて靜かにしていれば治まる。しかしその時は、もし止らなかったら、と勝手に理屈を付けて病院へ行った。F君のお父さんには笑われながら治療してもらった。そして、帰り際に窓口で治療費を精算しながら、期待通り(!)に、「お大事にネ」と云ってもらい、それだけで満足していたものである。

 高校2年生の夏休の終わり頃だった。K君から、「姉が来春に嫁ぐことになった」と聞いた。彼は何の思惑もなく、雑談の中で言ったのだろう。嫁ぎ先は彼の古里の近くの間人(たいざ)で、丹後ちりめんの織元の家とのことだった。

 私はこの珍しい地名は知っていたものの、まるでどんな所か想像もつかなかった。ずいぶん遠くへ行ってしまわれるのだとの気持ちが先立って、私はお祝いの言葉を述べることさえ忘れていた。しかし、言い渋る彼から、私はその相手の氏名を聞きだしたりして、心の動揺を静めるのに苦労した。追求して聞いたのが、却って逆効果だったかも知れない。

 年が明けて正月は相変わらずK君宅でトランプなどをして遊んだが、Mさんの姿を見掛けることはなかった。おそらく嫁ぐ相手に会いに間人へ行かれたのだろう、と私は勝手に想像していた。それ以後は、K君のお姉さんに会うことはなかった。

 3年前の今頃に、高校の同級生と間人へ蟹料理を食べに行く機会があった。少しシーズンを外れており、丹後半島の蟹の名所はかなり空いていた。友人が仕事の関係で時々は利用するという、民宿の様な旅館だった。最近では、幻といわれる間人蟹の料理ともなれば、最高級で一人15万円のコースがあると聞く。我々はその何分の一もの遙かに安いコースで、それでも堪能して翌日は経ヶ岬へドライブをした。

 途中で見掛けた地元の人に私が覚えていた氏名の織元を尋ねると、直ぐに場所を教えてもらえた。友人には簡単に理由を説明をして、それでも笑われながら同行してくれた。地元では老舗らしい丹後ちりめんの織元の建物は、いとも簡単に見つかった。かなりの規模で展示室もあるらしく、春の新作展示会開催中の看板が出ていた。

 建物の前で30代の男性が掃除をしていたので、私は近寄ってMさんの弟の友人であることを告げた。その男性は織元の経営者で、ご両親は福知山で呉服店を開いているとのことだった。彼は昔のMさんによく似た目をしていた。彼が息子だと名乗らなくても、私はその前に感ずいていたのだ。Mさんには会うこともなく終わった。だがその日以来、京都府最北端の間人が、私にはいっそう忘れられない土地になったのである。

更新日 平成20年3月16日

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第14回 散る桜あり

 今年はいつになく雪の多い冬だった。それが、3月に入って急に気温が高くなったからなのか、桜の開花はいつもより1週間ばかり早い3月25日に宣言された。しかし、咲き始めてからまた気温が下がったこともあって、結局は例年より2日早いという4月1日に、市内の染井吉野が満開と発表された。それでも、桜の花は7日間ばかりの束の間の命ではある。その年の気候次第で、咲く時期は早くもなり遅くもなって定まらない。年齢のせいなのか、そのたびに一喜一憂するのが最近の常となっている。

 古来から、桜の花を詠んだ数々の名句がある。その中で私は、「いつとなくさくらが咲いて逢うては別れる」。この山頭火の句を、いつも決まって思い浮かべるのだ。そして、必ず想い出す出来事がある。過去にも何かに書いたことがあるが、私の桜の記憶は高校の入学式に遡る。

 母校の園部高校は、JR山陰沿線の片田舎にある。前身の船井郡高等小学校創立が、明治27年7月と記録にある。高等女学校から旧制中学校へと変遷して、戦後の昭和23年に新制高校となった。振り返れば、今年で創立120周年の歴史を数える。その節目に当る今年は数々の記念行事が計画されていて、私も委員の一人である記念誌の編集がスタートしている。過去にあっては100周年略誌が発行されたのみで、今回が300ページを超える開校以来の正誌になる予定である。

 母校の校舎は園部城址にあって、かつての城門が校門として名残りを留めている。道路脇から50メートルばかりのなだらかな石段が続き、右側に2、3本の山桜の苔蒸した古木が坂道を覆うように生えていた。正門を入った校庭の右側には、シンボルの公孫樹(いちょう)の大木が聳えている。この名称を冠した校内誌が、毎年3月に発行されていた。先生の論文や生徒の文芸作品が対象で、同級生の小説や短歌や俳句の掲載が中心だった。投稿はほとんどが女生徒で、小説は若い男女が自殺や心中に至る暗い内容が主流である。その深刻な内容や複雑な表現に戸惑いながら、私は読み流すのが精一杯の状態だった。この校内誌は、今は廃刊になっていると聞く。

 昭和28年4月の入学式の当日は、穏やかな快晴だった。私達は新制高校の第8回の入学生になる。その折りの正門前で撮った記念写真はすでに色褪せてしまったが、1年2組の46名全員が陽光をいっぱいに受けて眩しそうである。男生徒は詰襟の制服に学帽をかぶり、女生徒は紺のブレザーに臙脂色のネクタイを締めている。中にはセーラー服姿の者も何人かいて、全員が質素で初々しく写っている。校門の左側に昔の原形を留めたままで建つ白壁の巽櫓(たつみやぐら)の辺りから、暖かい風に乗った桜の花びらが一ひら二ひら舞っていた。

 高校への通学は、園部駅から約2キロの道程になる。私は、隣町の八木駅から下り列車で通学していた。その頃の山陰線は、単線に蒸気機関車が走っていた。ちょうど上り列車との時間調整で長く停車しているのを見越して、家を出るのはぎりぎりの時間である。いつも発車寸前の列車に飛び乗って、デッキに立ったままだった。八木中から須知高校へ入学した友人も居て、わずか10分ばかりの乗車時間を雑談している間に到着したものだ。

 通学のコースは山・田・町の3種類があった。最短の山道ならおよそ15分ばかりの、竹藪の中の薄暗い急坂を越える裏コースである。田圃道は細い小川に沿った平坦な農道で、20分ほどの変わり映えのしない田畑の風景が続いていた。当時の町の中心の商店街コースは、歩くとなれば30分は掛かる。低い軒先に触れるばかりにして通学バスが走っていた。しかし、10円のバス賃が必要である。学校裏の小向山の麓にある「招月」で、素うどんが10円で食べられた。よほど荒れ狂う風雨の日しか、バスに乗る贅沢などする気にはなれなかったものである。

 帰路はたまに町コースを歩いて、本屋へ立ち寄ることもあった。E書店は、老人が一人で店番をしている小さな書店だった。この老人がかつての母校の旧制中学時代の校長と知ったのは、ずっと後になってからである。私は入学後間もなく、E書店で講談社の日本文学全集を3冊買った記憶がある。3冊で終わったのは、おそらく小遣い銭が続かなかったからだろう。もう1軒のI書店は少し大きくて、学校の教科書の指定店にもなっていた。いつだったか英語のM先生が、「I書店では、試験前になると英語のサボが飛ぶように売れるらしい」と、苦笑しながら言っておられたものだ。

 私の高校生活はまるで慌ただしく過ぎた。今から思えば、集中力の最も欠如していた時期ではあった。私は家計の事情で、就職が目的の商業科を専攻していた。当時は、受験戦争などで特に騒がれることもなかった。だが、就職コースなのを理由に勉強は全くしていない。試験の時は、例の「サボ」と称する解答集を重宝したものである。入学早々に私はクラスの会計係に任命された。主として、修学旅行の積立金集めが役目である。入試の成績を基に役員を決めたと担任の先生から内々で説明があり、級長は同じ八木中出身のY君が指名されている。

 特別に授業に情熱を感じることもなく、取り敢えず中学からの延長であるバレーボール部に入った。放課後には毎日練習をすることになっていたのに、私は週に2、3度しか参加していない。専任部長の先生がおられるのに、コーチをされることなど滅多になかった。先輩の部員が適当に指導するだけの、遊び半分に近い部活である。たまの対外試合で岡崎グランドへ遠征しても、勝った記憶はまるで無い。何もかもが中途半端で怠惰に流されていた。

 3年生に進級してからも、特別な変化は何も無かった。授業は選択によっては、普通科の連中と一緒になることがある。古文の授業に、生徒会副会長で社研部と絵画部のメンバーを兼ねるYさんが居た。色白で涼しげな翳りのある大きな瞳が印象的だった。

 無口な彼女が、生徒会の役員に選出された理由は不明である。自ら立候補するような性格でもない。恐らく、所属している文化サークルからの推薦と思われる。私が会計委員に選出されたのは、単に商業科専攻だったからに過ぎない。役員の定例会議に私はほとんど出席していない。そのため、不良委員の私が彼女と口を利く機会などはまるでなかった。

 2年生の春休みの頃、園部の町役場が展示会のポスターや図表を描くアルバイトを募集したことがある。私も退屈紛れに応募した。募集箱に投函した申込用紙を見て、同じ町に住むYさんが自宅まで採用の連絡に来てくれた。絵画部員が中心だが頭数が少し足りない、との説明を受けた。彼女とは中学も同じで、その当時からYさんは何度も展覧会に入賞していた。私も絵を描くのは好きな方ではあったものの、メンバーが絵画部員ばかりと聞いて自信を失くした。しかし、躊躇する私の胸を彼女の強い瞳が射抜き、私は結局は承諾してしまった。

 アルバイトは学校の図画教室で、数名の同級生が作品製作に従事した。バイトメンバーの全員が絵画部の女生徒で、チーフを3年生のH部長が引受けていた。部外者は私とU君の二人だけである。U君には1年生で同じクラスになり、例の日本文学全集を貸したことがあった。しかし、私達二人の作品の出来映えには、絵画部員とは格段の差があって、私はその仕事が終了するまでずっと肩身の狭い思いをしていた。彼はどう思っていたのだろう。同窓会でたまに会うことがあるので、この次には尋ねてみよう。

 H部長から間接的に嫌味を言われたのを女生徒の一人から教えられ、本当は辞めてしまいたい心境だった。役場の担当者がたまに顔を見せて、彼女らの作品の出来栄えを褒めた。その言葉を傍で聞くと、私はいっそう意気消沈したのだった。もちろん、H部長の描いた絵も抜群に上手かった。

 それでも、Yさんが誘いに来てくれた経緯もあり、私は休まずに精勤に働いた。彼女らは作業をしながら文学のことや、政治情勢などを賑やかに話題にしていた。しかし、私はその中に加わって喋ることは、ほとんど出来なかった。Yさんの他に社研部員も居たのだろう。その頃の社会科学研究部は最先端の思想傾向の持ち主ばかりで、私には雲の上の存在に思えていた。女生徒の一人のKさんなどは社研部員ではなかったが、「公孫樹」投稿の常連ではるかに大人に思えたものである。現在はプロの童話作家になって、作品も数多くある中から日本有数の作品賞を受賞している。

 Yさんと私は八木町から通学していたので、帰り道は同じコースになる。峠の山道を避けて、いつも平坦な田圃道から帰った。しかし、二人きりになると何を話題にすればよいのか、まるで頭に浮かばない。それに、狭い道を並んで歩く勇気が出るわけがない。私は緊張感に固くなりながらさっさと先に歩いた。おそらく肩の辺りが強張っていただろう、と今にして思う。

 「もっとゆっくり歩いて」と、何度も彼女に忠告ばかりされていた。アルバイトは1週間ばかりで終わった。その後、通学の往復でたまに田圃コースを行く日があれば、いつもこの時のことが頭に浮かんだ。

 時たま開かれる生徒会の役員会に、私は殆ど出席していない。サボリ委員の私は役目の遂行どころか、副委員長のYさんと親しく口を利く機会なども自ら放棄していたことになる。古文の授業だけが同じで、時たま指名されて朗読する彼女の声を聴く程度である。私が名指しされた時はかなりの早口で読んで、先生に注意されたりしていた。

 卒業式の後で、先生を囲む謝恩会が開かれた。有志で合唱や寸劇をしてYさんも出演したらしい。私はその謝恩会へは出ずに、購買部の部室でぼんやり過ごしていた。謝恩会はいつ終わったのだろう。Yさんとは顔を会わすこともなく別れた。

 高校を卒業して4年が過ぎた。それ以来消息を知ることもなかったYさんが結婚する、と風の便りに聞いた。私は就職した会社を辞めて大学へ入り、アルバイトに明け暮れていた頃である。母校の桜の消息など知る由もない4月の半ば近く、彼女は嫁いで行った。その年の桜は、早く咲いたのかそれとも例年より遅かったのか。今では覚えていない。

「君嫁(ゆ)けり遠き一つの訃に似たり」(高柳重信)。何かで知ったこの句が残っているだけである。

更新日 平成20年4月4日

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第15回 逝く春へ

 連休の初日に、義父の3回忌法要で八木町へ出向いた。ゴールデンウィーク期間はいつも好天気に恵まれるようで、朝の9時台の山陰線はかなりの混雑振りだった。それでも嵯峨駅を過ぎると、列車はがら空きになっていた。亀岡駅は一部改装が終わったらしく、これまでとはイメージがかなり異なって見えた。駅の裏側には菜の花畑が広がり、明るい太陽の光を浴びて黄色い絨毯が一段と目に眩しかった。その向うの土手は、濃淡のピンクや白の芝桜で色鮮やかに区切られている。山陰沿線はまさに春爛漫の日を迎えていた。

 義父の菩提寺である龍興寺は山裾にある古い寺で、龍安寺・龍潭寺と共に京都三龍の一つと呼ばれ1452年(亨徳元)の建立とのことである。私には、義父母の法要以外はそれほど馴染みはない。それでも最近は、盆か彼岸の日に1年に一度は訪れるようになっている。石段脇の鐘楼が、南丹市の文化財に指定されていると聞く。寺の前は80本ばかりある梅園になっていて、開花の季節には訪れる人も多いらしい。境内の奥には蓮池があって、夏はやはり見物に来る人がかなりあるようだ。

 今の時季は、石段脇から境内に掛けておよそ150本の牡丹が咲き誇っている。濃紫・薄紅・真紅・白色など様々に艶やかな色で溢れ、周囲一帯には微かな甘い香が漂う。庭の奥に咲いている元祖の親株は、150年も昔からある古株だそうだ。今年は3月の蕾の膨らむ頃に寒くなったので、花が内側にエネルギーを一杯に蓄えたため一段と色が鮮やかだ、と和尚の説明があった。そしてまた花は長く咲いていて、昨年より遙かに楽しめる期間が持続しているとのことである。

 そういえば今年は、我が家の近くの自然公園にある白木蓮(はくもくれん)や辛夷(こぶし)の白さが、散歩するたびに一際(ひときわ)鮮明に思えた。また、桜の花も綺麗な色や姿を保ちながら、随分と長い間咲いていた。義父の墓地は細い山道を少し登った木蔭にある。対面の山腹には、新緑に交ざって数本の白い山桜が陽光に映えていた。石碑に水を掛け線香や花を供える私達の頭上からは、和尚さんの読経の声に唱和するように鴬の涼やかな鳴き声が間断なく聞えていた。

 法要を済ませてから、参拝した3家族全員が大堰川の対岸にある緑地公園へ足を伸ばした。八木大堰橋の袂(たもと)から寅天井堰までの区間が整地されて、児童の遊具施設が設けられテニスコートやグランドゴルフのコートになっていた。それに、野外ステージやレストランなども併設され、立派な総合運動公園の様相に整備されている。川岸の芝生の上では、バーベキューを囲んだり弁当を広げる何組かのグループがあった。

 かつては竹薮だった場所で、その一画にはゴミ焼却所があった。高校生だった私は自転車に木製のごみ箱を積んで、何度か捨てに行った記憶がある。堤防沿いの道端に石の地蔵が3体ほどあった。今でもあの時の姿のままで立っているのだろうか。竹薮を塒(ねぐら)にしていた烏の群が、今は馬路の方へ移動したと、亀岡市に住む義姉から説明を受けた。

 広場の周囲や川岸に沿って、桜並木が整備されていた。染井吉野はすでに葉桜になっていたが、所々に八重桜が満開の花を付けている。その中に義父が植樹した八重桜もあった。丁度十年前に苗木を植えたのが、今では3メートルばかりに育っている。妻の姉弟夫婦は近くに住んで居るので、何度か訪れているらしい。私達夫婦には初めて見る場所だった。

 町側になる堤防には染井吉野の大木が聳えていて、今では近郊からの花見客も多い名所になっている。この緑地公園を知っている人はまだ少ないらしく、4月の上旬に元会社の同僚の親睦会で訪れた妻も、この場所には気づかなかったと残念がっていた。

 2年前の義父の葬儀の日は、5月の初めにも拘わらず冷たい強風が吹いていた。だが、3回忌の法要の今年はまるで初夏を思わせる陽気だった。上流の青い大橋を越えて吹いてくる微風が、頬に心地好い。薄紅色のふっくらとした八重桜は、まるで生前の義父の穏やかだった人柄を偲ばせるばかりに、麗らかな晩春の陽に輝いていた。

 私達は桜並木や川畔を散策しながら、時間の経つのも忘れていた。上流へ目をやれば、青く塗られた大堰橋が昔と変わらない景観を見せている。橋の向こうには、私が3年ばかり住んで居た会所の跡地があって、建物が取り壊された今は、欅の大木がまるで森の様に茂っているのが望めた。妻の古里であり私にとっても第3の古里である大堰川畔の町は、長閑で和やかだった。ただ、日曜日なのに駅前通りの商店街はほとんどの店が閉まっている。人通りもまるで見ることがない。墓参の途中に横を通った八木小学校の今年の新入生は、わずか13人と聞く。亀岡駅は改築されたけれども、八木駅は数十年昔とほとんど変わっていない。木製の階段と跨線橋は古くなって隙間だらけである。

 それでも、この10年の間に義父の植えた桜の木は、私達の背丈を遙かに越える高さになった。この後(あと)また10年経てば、桜の木はどれだけ大きくなるのだろう。その頃には、緑地公園の一帯は新しい桜の名所として、訪れる人達も増えているのに違いない。私はそうなるように祈りたい。そしてその場所に、義父が植樹した桜の木があって、私達にはいっそう懐かしく馴染みの深い場所になるだろう。

更新日 平成20年5月4日

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