南丹生活

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第16回 寂しき青葉の候

 同級生のK君から、5月の半ば過ぎに1泊で琵琶湖周遊をしないか、との提案があった。先月の初め頃だったか、自家用車だから4〜5人は乗れるとの話だった。彼が何人かに声を掛けるとのことだったので、人選は任せることにして、私は神戸に住むH君にも電話をしてみた。彼とは仕事上で一度世話になったことがあるものの、その後は年賀状の交換程度で過ぎてしまっている。高校の同窓会でも最近は会わないので、もう10年以上も顔を見ていないことになる。

 今回の小旅行計画で、彼に声を掛けたのには理由がある。丁度5月の半ば頃だった。H君とM君の3人で、瑠璃渓へ飯盒炊爨(はんごうすいさん)に行ったことを思い出したからだった。3人とも学生だったので、今から50年近くも昔のことになる。なぜこの3人のメンバーで出掛けたのかは忘れたが、M君は下宿しながら大阪の大学へ通っていて、たまたま帰省していたようである。

 今は温泉やレジャー施設が完備していて、大阪からの直通バスもあるらしい。しかし、当時は料理旅館が1〜2軒あるだけで、かなり手前でバスを降りて、渓流の入り口まで歩いた記憶がある。確か5月15日の快く晴れた日で、私達は涼しい風に吹かれながら、緑の中を谷川沿いにのんびり歩いて行った。

 あの渓谷は秋の紅葉の頃に人気があるのか。それでも、一年で最も爽やかな青葉の季節である。それにも拘わらず、私達3の人以外には誰にも出遭わなかった。おそらく、平日だったせいかも知れない。それなら、学校をサボッた我々だけだったとしても不思議ではなかったのだろう。

 錦織岩と呼ぶのか小さな滝のある前の辺りで、飯盒で飯を炊いて食べた。おかずは魚の缶詰で、じゃが芋の味噌汁を作ったのだった。私は北山や比良山それに日本アルプスなど、あちこちを登山していたので、飯盒とコッヘルだけは扱うのに慣れていた。昼食後はまた、のんびりと通天湖まで足を伸ばしたが、そこでも全く人影は見られなかった。

 瑠璃渓での記憶はその程度で、初夏の一日をのほほんと過ごしたことだけが、今も忘れられない。それ以後は、彼らには同窓会でたまに会うくらいで、何年も過ぎてしまった。そんな昔を思い出してH君に声を掛けたのだったが、彼に代わって奥様が電話に出られた。

 H君は1年ばかり前にクモ膜下出血で倒れ、半年程のあいだ入院していたとのことだった。今は退院しているものの、言葉が上手く喋れない上に身体の半分が不自由なため、車椅子でリハビリ中だと教えられた。 そんな事情を私はまるで知らなかったので、お見舞いの言葉をどう述べていいのかも分からなかった。そう言えば、今年の年賀状は奥様の代筆だったようである。近況など詳しい事が書かれていなかったので、私は何も知らずにいたのだった。

 小旅行とはいえ、久し振りの邂逅(かいこう)は不可能となった。M君は3年前に骨髄癌で亡くなっている。我々は70歳に達したので、古希はやはり文字通り古来希な年代なのか。新緑の下で溌溂としていた2人なのに、1人はすでに鬼籍に入り、1人は日常生活もままならぬ状態である。

 琵琶湖周遊の計画は、参加予定していたメンバーの1人が直前になって都合がつかなくなったため、結局は流れてしまった。今日も朝から快晴なのに、今年の五月晴れは少し寂しい。

更新日 平成20年5月18日

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第17回 青春に悔いあり

 園部高校120周年記念誌の編集業務が進みつつある。その間の高等小学校から高校までの卒業生は、2万名を優に超えるという。その各年度から2名を原則として、寄稿文を寄せてもらっている。高等小学校や女学校時代の卒業生はほとんどが故人となられたので、旧制中学からの卒業生が対象となっていて、寄稿者はおよそ160人に及ぶ。

 それらの原稿を整理していると、それぞれの時代の卒業生が寄せる母校への思いが、手に取るように伝わってくる。もちろん、戦前や終戦直後からその後の経済成長の著しい時代、そして現在へと、各世代の学校生活の様子はまるで異なる。特に、太平洋戦争中の学徒動員などの体験は悲惨である。終戦直後の貧しい時代の学生生活も苛酷なものである。また、それ以外のどんな時代でも、辛苦を避けられないのは世の常でもあるのだろう。

 しかし、どんな時代にあっても、寄せられた寄稿文のほとんどは、文字通り青春を謳歌する内容に溢れていることに気付いた。寄稿者の人選の基準は、各年代毎の編集者に任されていて一定していない。そんな中で、高校の3年間をクラブ活動に熱中した、という卒業生が圧倒的に多い。運動部だから日々の練習はハードである。それを3年間やり遂げた達成感が、卒業後の人生に生き続けているという人がほとんどである。各年代の寄稿者が、何かを持っている者の視点から選ばれたのかもしれないが、それらの熱い文章を読んでいて、我が母校も極めて健全な人材が育ったのだ、と爽快感さえ覚える。

 まだ整理中なので具体的な記載は避けるが、野球・テニス・バレーボール・サッカー・陸上競技など、様々な分野で母校の生徒達は活躍していることが知れる。府下大会・近畿大会への出場と優位の成績達成。中には全国大会へ出場した者もある。そういえば、私が卒業して3〜4年後に硬式野球がベスト8まで勝ち残った記憶がある。テニスなどでも相当な大会へ進出していたようだ。残念ながら私は野球しか趣味的に関心がなかったので、その他のスポーツの記録は覚えていない。そして、最近までもずっと母校の活動について無関心に過ぎてきたことを、今更のごとく恥じているのである。

 それにしても、特に、後輩達の活躍は凄いものがあったのだ。私は、在学中にはバレーボール部に所属していた。中学時代にしばらく経験していたから、なんとなく入部した経緯がある。また、当時のバレーボール部のレベルは極めて低いものだった。顧問は生物担当のN先生ということだったが、練習に顔を出されたことは一度もなかった。少なくとも私は見ていない。尤も、私はぐうたら部員であり、毎日練習に行っていたわけではないので、その辺は先生の名誉のためにも断言は出来ないが。

 しかし、たまに開催された試合でも、顧問の顔を見た記憶はないのである。あの頃は学年別に対抗試合をしていたのだろう。同級生のメンバーの顔しか覚えていない。もちろん9人制である。練習もコーチが指導することもなく、全員が我流でやっていたのだ。先輩から教えてもらった経験もない。2年生のいつ頃だったか、雨上がりのコートで長靴を履いて練習していると、部室から顔を出した先輩に注意されたことがある。その情けない出来事が、私の唯一の練習記憶なのだ。

 市内の岡崎グランドで、たまに対抗試合があった。私は前衛のレフトが受け持ちだった。しかし、練習不足(+素質不足)の我々のチームが、市内の強豪高校に勝てるわけがない。いつも1回戦で簡単に負けてしまっていた。同じクラスのO君が中衛センターでアタッカーだった。前衛センターのM君がトッサーで、彼らは園部中学からのコンビだったようだ。前衛のレフトといえば、アタックもする必要がある。私は得点したことより、一度胸が触れて、ネットタッチの反則を取られたことが忘れられない。ユニフォーム、といっても個人持ちのランニングシャツだ、が微かにネットの脹らみに触れたらしい。不審顔で私は首をかしげながら審判を見上げたが、もちろん聞き入れられるはずもなく、どこかの高校の教師らしい審判に、軽蔑したような目付きで無視されたのだった。

 かくの如く、私の部活の記憶は、思い出すのも恥ずかしい様な情けないことばかりである。それでも、一つだけ懐かしい思い出がある。私達が最上級生の3年生になった時だった。岡崎グランドでの試合前に、私の胸ゼッケンの糸が切れて、半分剥がれたことがあった。コーチやマネジャーも居ないので、どうしたものか困惑していると、1年後輩のHさんが私を木陰へ連れて行って、取れかかったゼッケンを鮮やかな手つきで縫ってくれた。

 彼女は購買部で私と一緒だったので、応援に来てくれていたのである。いつも元気溢れる活発極まりない彼女が、裁縫(私にはそう思えた)が出来るなどとは意外だった。第一、携帯用の裁縫ケースなど持っていたのが不思議である。友人に借りてくれたのかも知れないが、とにかくてきぱきと仕上げてくれる間、私は照れ臭くて周囲ばかりを見回していたのだった。実際、近くに居たメンバーのN君から冷やかされている。小柄な彼は後衛のセンターを守っていた。

 数多くの寄稿文の中から、大勢の卒業生が、それぞれの青春を思う存分に謳歌した熱い思い出が伝わってくる。私にとっては予想外の発見である。そんな素晴らしい青春の日々が、母校にはあったのだ。そして、ほとんどが卒業後もかつてのメンバー達との交友を続けている。そのことを知っただけでも、記念誌を発行する意味はあったのだと思う。

 私達の同窓会でたまに顔を合わすと、バレー部の同窓会をやろうか、とN君が思い出したように言うが、まだ一度も実現していない。私は、その実現を本気で考えてもよい気持ちになってきている。

更新日 平成20年6月2日

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第18回 山陰線の悲喜

 このところ、母校の記念誌編集に関わり始めてから、山陰線の列車に乗る機会が増えた。1か月に1度は例会に出席するため、列車に揺られて園部まで出向いている。会議はいつも土曜日なので座席はかなり空いていて、前方の車両であれば確実に座れる。京都駅からは、55分間で終着の園部駅へ到着する。かつて私が住んでいた八木駅までなら47分間、と50分間を軽く切る乗車時間である。

 私が通学・通勤していた昭和30〜40年代では、八木駅から京都駅まで60分間(1時間)と言うのが定番だった。単線なので時には出会い待ちで一時停車を余儀なくされるため、実に70分間を要するなど1時間を軽く超えることもあった。その当時は園部駅まで乗ったことはないが、八木駅〜園部駅間が10分間は掛かっていたから、京都駅〜園部駅間は優に70分間を、時には80分間を要していたと思われる。

 それが今では、15分間から20分間も短縮されたことになる。やはり電化されたお陰だろう。やがて複線化が実現されれば、今もたまにある出会い待ちが無くなるため、更に5分間以上は短縮されると予測される。現在でも、快速なら49分間で50分間を切っているし、特急なら32分間しか掛からない。ただ、快速のダイヤは1時間に1本と少なく、特急は当然ながら特急料金が必要となる。別に急ぐ旅でもないので、私はいつも、車窓からの55分間の眺めをぼんやりと愉しんでいる。

 私が山陰線を利用していた頃は蒸気機関車だった。重油の内燃機関を利用したディーゼル機関車もたまに見られるようになっていたものの、主力は石炭を焚く蒸気機関車である。現在はトロッコ列車の走る当時の沿線には、京都駅に着くまでにトンネルが8箇所もあって、窓が開いていれば車内はまともに煙責めになる。もちろん冷房などは無いため、夏場はトンネルを出入りするたびに窓を開閉するのが、窓際に座った者の任務となっていた。まだ「窓際族」の言葉は無かったが、座席の背凭(もた)れは堅い板製で、1時間の乗車時間はまるで苦行に等しかった。

 汽車の本数は、朝の7時台を除くと1時間に1本のダイヤしかなかった。そのため、学校や会社の始業時間に上手く合わせるのは難事業で、大学はともかく会社勤めを始めてからは、常に30分間以上も前に到着していた。そのため、そんな事情を知らない市内の同僚などからは、私は極めて真面目な新入社員だと思われていたのである。

 そんな辛くて不便な汽車通ではあったが、それが却って幸いした(!)ことがあったのだ。ダイヤが少ないため、毎朝の乗る汽車は必然的に同じ時刻になる。そして、1時間の長丁場を座って行くためには、自ずと乗る車両も決まることになった。私が家内と知り合ったのも、その毎朝の同じ車両の中だった。就職して通勤を始めた3年目頃のことだった。

 それまでは、お互いに別々の車両に乗っていたのだろう。車中で出会うことは一度も無かった。その年の歳末近く、帰宅する汽車で彼女とたまたま同じ車両になったのである。同級生の妹で同じ町内に住んでいたため顔と名前だけは知っていたが、それまでに口を利いたこともなかった。最終列車の八木駅で降りる出口で顔を逢わせて、顔見知りなのに黙っているのも不自然(!?)なので、私から何気なく軽く会釈をした。

 そして、住居が近所のため帰る方角が同じであり、その時は最終列者だったせいか改札を出ると2人だけになった。黙って歩くのも気詰まりなので、彼女を横目で見遣りながら私から何となく声を掛けた。

「ボーナス出た?」

 それが、彼女との会話の第一声だった。年末のことでもあり、彼女は当時の京都では有数のD工業に勤めていることは知っていたから、そんなセリフが口から出たのだろうか。しかし、初めての遭遇で、私は実に下らない言葉を発したものである。それに対して彼女は少し微笑みはしたものの、何も応えなかった。それはそうだろう。如何に姉妹の同級生とは言え、それまで無関心だった男性の、しかも、程度の余り高くない(むしろ低い)会話に真面目に応じる訳はない。たちまち我が家の前に着いたので、「おやすみ」と言って(多分)別れたのだった。

 晩年にその時のことを家内に尋ねると、「初めてなのにしょうむない事を訊く人や、と思った」、と推測通りの答えが返ってきたものだ。

 年が明けてから、何となく意識するようになった私は、朝の通勤列車も彼女と同じ時刻であることを発見した。それまでは別の車両だったのだが、すでに“顔馴染み”である。その日から、当然の如く同じ車両に乗ることになった。それに、園部駅が始発の汽車だったため車内はかなり空いていて、大抵は向かい合わせで座ることが叶った。それ以降は、京都駅までのあれほど長かった1時間が、実に短く感じられるようになった。2時間掛かっても3時間掛かっても、或いは永遠にでも構わない、と私は思うようになったのだった。

 京都駅から園部駅までの間が電化されたのは、平成2(1990)年とのことである。私が山陰線を利用しなくなって40年が経つが、20年間ほどは1時間コースだったのだろう。それが今では20分間も短縮され、それも平成20(2010)年には複線化が完成するという。そうなれば、所用時間は更に短縮されることになるはずだ。便利になるのが良いことなのか。時と場合によっては、そうでないこともあるのだ。山陰線に乗るたびにそんなことをぼんやり考えながら、古里を走る列車を私は愉しんでいる。

更新日 平成20年6月30日

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第19回 新しい橋が

 この春の彼岸に義父母の墓参りで八木町を訪れた際、大堰橋周辺の景色に大きな異変のあることに気付いた。その日はよく晴れていて、法事を済ませてから大堰川沿いを少し散策した。寅天井堰の辺りから上流を眺めると、大堰橋の向うに、もう一つの橋が架かっているのが目に飛び込んできたのである。いつ頃から架かっているのだろうか。少なくとも1年前には見掛けなかった橋である。

 私はたまに帰省しても大堰橋周辺しか歩かないので、八木町全域の詳細は分からない。ただ、少なくとも大堰橋を中心とした上下流の堤防は護岸され、昔の面影は全く消滅していることは知っている。この変貌は、昭和35年に襲った台風16号の被災の影響に発端していることは間違いないだろう。

 あの頃の堤防はほぼ自然のままの状態で、大堰橋の上流は楠や樫の大木が林立して、夏は涼しい木陰を作っていた。岩場のある渕があって、水泳の飛び込み場にもなっていた。橋畔には料亭の屋形船が浮かび、貸しボートの発着場があった。橋の下流は子供らの水泳場になっていて、夏休みにはテント張りの脱衣所が設営された。堤防は葦などが茂るなだらかな土手になっていて、花火大会の見物は草の上に寝転んで夜空を見上げたものである。

 16号台風の直撃で八木嶋地区の堤防が決壊し、八木町の中心部が水没した。商店街周辺の住宅はほとんど浸水の被害を受け、堤防が決壊した近くの住宅が3軒流失している。私の同級生のAさんの家も流されたと聞いた。その翌年も第2室戸台風で、住宅や田畑の被害を受けたと記憶している。

 そうした経緯があって、大堰川流域の護岸工事が完成したのだろう。その後間もなく私は八木町を離れたので、工事の過程は詳しくは知らない。だが、帰省のたびに変貌する光景に感慨深いものがあった。そして、今年の春には大堰橋の上流に架かる、もう一つの橋の風景を見たのである。

 護岸工事による川の流れの変化と共に、川下から眺める上流の風景も完全に変わってしまった。背景に迫る緑の山の横腹を真っ二つに切り裂く様に、白い筋が長く走っている。新しい橋は、北広瀬から南広瀬へ通じる橋らしい。

 最近の八木町は人口が減少しつつあると聞く。なぜ今になって、あの辺りに新しい橋が架けられたのか。やはり、それだけの必然的な理由があるのだろう。傍観者の私にはその経緯はまるで不明であるが、その橋の架かる周辺へ私は一度だけ行ったことがある。そんな些細な理由ではあるが、新しい橋の出現はかなり大きなショックだった。

 転校して来た八木中で同じクラスだったH君の家が、北広瀬にあった。高校へ進学してからも交友関係は続いていて、2年生の秋の日曜日に彼の家へ遊びに行ったことがある。自宅を訪問すると彼は不在で、お母さんに彼が渡し場の当番をしているから、とその場所を教えてもらった。その頃は橋など架かっていなくて、北広瀬から対岸の南広瀬へは渡し舟を利用していたのである。岸から岸へワイヤーが張ってあって、ボートより少し大きい程度の木造舟が係留してあった。在所の農家が、当番制で渡し守りをすることになっているらしい。学校の休みの日が当番に当たり、H君がその手伝いをしているとのことだった。

 川原の小さな椅子に座って、彼は英語の単語集を読んでいた。私は別に用事があったわけではないので、とりとめもない雑談を2時間ばかりして別れた。その間に渡し舟を利用した人は一人も見掛けなかった。彼の話によれば、多い時でも一日に数名程度らしい。時間制なので、当番が不在の時は自分でワイヤーを引っ張れば舟は動かせるとのことだった。下流には空色の大堰橋が見えている。対岸へ行くために迂回するのは、確かに何倍も時間は掛かるだろう。ただ、便利な渡し舟ではあるが、利用するのは双方の在所の人だけで、その人数は知れたもののようだった。

 今年の7月の初めだった。童話作家のHさんの祝賀会を、東京在住の同級生達で開いた。私も出席したのだが、彼女の旦那であるH君も出席していた。その席上で話題にした古里の新しい橋のことを、彼は知らなかった。今年はまだ一度も帰省していないらしい。昔の渡し舟のことは覚えていたが、私がその場へ訪れたことは忘れているようだった。次に帰省した折りに新しい橋を見て、彼はどう思うだろうか。11月には同窓会が予定されている。その時に感想を聞いてみよう。

更新日 平成20年7月27日

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第20回 幻の花火大会

 盂蘭盆が近付く頃から各地で花火大会が盛んになる。自宅近くの高台からも、遠方に上がる花火を見ることがある。微かな音と共に夜空が瞬間的に鮮やかに彩られ、そして忽ち元の暗闇へ戻る。その瞬間が華やかなだけに、それから後に訪れる闇は一層深く感じられる。ぼんやり眺めていると、その繰り返しのたびに夏が遠ざかるように思える。

 八木町の花火大会は毎年8月14日と決まっている。今年で第62回とのことなので、終戦の翌年からのスタートということになるのか。私が八木町へ引っ越したのが昭和27年だから、初めて花火を見たのは第7回の時だったのだろう。

「パパパパ…」と頭上で軽やかに空気の弾ける音がしたと思うと、いきなり「ド〜ン」と腹に響く大音響が轟いた。大堰橋から200メートル程上流の堤防に建つ借家に住んで居た私は、驚いて外へ飛び出した。まだ少し明るさの残っている薄青い夏空に、小さな白煙が弾けて散って直ぐに消えた。その日が花火大会だと知ってはいたが、初めての経験である。その大爆発音が、大会が始まる合図だと気がつくまでに暫らく時間が掛かった。大音響の爆発はそれ1回切りで、やがてまた元の静けさが戻った。

 今でこそ、大堰橋周辺の堤防は護岸工事のコンクリートで固められ、川沿いには1本の草木も生えていない。だが、当時の橋の上流には樫や楠などの大木が深い木陰を作り、下流の川岸には茂った葦が川風に戦(そよ)いでいた。堤防の土手は柔らかい雑草で一面に被われていて、その上に座って花火を見物するようになっているらしい。

 堤防の切れる大岩の直下辺りは深い渕になっていて、水泳や魚釣りが可能だった。また、橋から500メートルばかり川下に寅天と呼ぶ井堰があって流れが堰き止められ、橋の下流は児童の水泳場にもなっていた。

 その日は、夕方から緩やかな流れの上を屋形船が往き来していた。大橋の畔に料亭の船着場があって、そういえば、その近くのテントで各家庭から持参する紙製の灯籠を受け付けていた。御詠歌の涼しい鉦の音がゆっくりと流れ、舟の上からは蝋燭の灯をつけた紙灯籠が次々と川面に浮かべられていた。水上には灯籠の数が増え続け、文字や絵を描いた灯籠は僅かな流れを見つけて一列になって川下へ移動し、また川下から吹くのか、あるか無きかの微かな風を受けて小さな灯籠は往きつ戻りつしていた。絶え間なく続く御詠歌に併せるように、徐々に暗くなり始めた水面が仄かな灯にゆらゆらと彩られ、遠い幻想の世界へ誘われるようだった。

 8時頃になったのか。ようやく闇が濃くなると、いきなり炸裂音が響いて夜空に花火が次々と開いたのだった。借家は黒住教の社務所で、堤防から10段ばかりの石段が続く小高い場所にあった。川に向いた大広間の障子を開けると、そのまま花火の開くのが見ることが出来た。花火の打ち上げ場所は、大堰橋の直ぐ下流に続く対岸の竹薮を切り開いた空き地だった。観客の集まる見所は、町側の橋の下流に伸びる堤防である。状況がよく分からないままに、私は家を出てその場所へ足を伸ばしたのだった。

 堤防の土手の上には既に大勢の人達が詰め掛け、茣蓙や莚を敷いた家族が座っている。私は引っ越して来たばかりで、知人は一人もいない。雑草の上に寝ころんで、次々と打ち上げられる花火に引き込まれていた。生まれて初めて近くで見た打ち上げ花火である。大中小様々な大きさの、そして、赤や青や金色やその他の複雑な色彩の花が、漆黒の夜空に咲いては消えていった。打ち上げの合間には仕掛け花火が点火された。人気漫画の似顔に乗り物や建物など趣向を凝らした仕掛けがあった。地元の商店名らしい文字が映ると拍手が起こった。

 8月も半ばになると、川から吹いて来る風が頬に涼しかった。私が7年間を暮した宇津村は目の前を流れる大堰川の上流にある。突然の引越しで友人達や先生らに十分な別れの挨拶が出来なかった。夏休みが終われば、私は新しい中学校へ入ることになる。3年生だから2学期を残して私は級友達に別れを告げたのだった。間もなく夏が終わる。逝く夏と共に私は新しい町での生活が不安だっただけに、失った物が大きいように思えて初めての花火を心底からは愉しむことが出来なかった。

 打ち上げの最後は十数連発の大玉が夜空を彩った。私は八木町に住んで居た17年間は花火は欠かさず見ていた。そして、京都市内へ転居してからも義父母の家に妻の兄弟姉妹の家族が集まる習慣になっていたので、ほぼ60回近く花火を見たことになる。花火大会は徐々に評判が広がり、打ち上げる個数や仕掛けも大掛りになっていった。昨年の記録は8千発の打ち上げで、観客は8万5千人と公表されている。

 子供が生まれてからは、駅前通りに並ぶ夜店の巡回も楽しみになっていた。ある時期は駅前で盆踊りが併催されたこともあった。8月14日はいつも天候に恵まれ、私の記憶では雨で順延になったのは60年間で2度か3度だけである。

 平成10年に義母が亡くなり、そして、3年前に義父が鬼籍に入ってからは、親族一同がお盆に集まる習慣も無くなった。だから私は、第60回を最後に八木町の花火大会を見ていない。今年もその機会を何となく逃してしまった。私にとっては、初めて見た本格的な花火であり、その後の人生の様々な思い出を残すひと時である。来年は必ず古里の花火見物に訪れよう、と今から思心に決めている。

更新日 平成20年8月19日

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