第21回 町内対抗があった頃
秋分の日が近付くと町内の運動会の回覧板が回って来る。毎年の恒例なのだが我が家では子供が成人になって家を出たため、特に関心も無く見過ごしている。今日は亀岡の義姉の学区が、やはり運動会とのことだった。南丹市でも、それぞれの学区で行われていることだろう。
私が八木町に住んで居た昭和30年代は、運動会の他に球技大会があった。私は園部高校時代はバレーボール部に所属していて、3年生の秋頃に野球部から、部員が少ないので来てほしいと要請を受けたことがある。バレー部でもコーチの先生は名ばかりで、練習のコートで見掛けたことがない。その練習も生徒が自主的(!)にしていて、いわば中途半端な遊び半分の雰囲気だった。たまに口丹波大会や、更には府下大会の試合に出場することはあっても、口丹波大会はともかく、府下大会での成績は惨憺たるものだった。
私達が卒業して何年か後には、かなり熱心な運動部にレベルアップしたようである。後輩諸君には誠に申し訳ないと、未だに慚愧に耐えないものがある。そんなぐうたら部員だった私に、野球部への勧誘があったのだ。昼休みにはソフトボールで遊んだり、休日には八木中のグラウンドなどで草野球をしていた。そんな中に野球部のK君が居て、私を推薦したらしい。
野球部の練習も生徒が主体で、たまに監督のN先生が顔を見せられた。数学担当のN先生は私のクラスの担任でもあったが、野球の実力は知らない。一度だけ練習でノックを受けた記憶がある。しかし、入部(?)した時期は秋の終わりでもあり、主な大会も済んでいて部員全体にもそれ程活気は感じられなかった。そして、私もいつの間にか自然退部となっていたのである。同窓会で、当時のキャプテンだったS君にその頃の話をしても、彼は私が練習に参加していたことを覚えていない。いずれにしても、私は幻の“野球部員”だった。
母校は私が卒業した3年後くらいに優秀な投手が現われて、京都府大会で初めて確かベスト8へ進出したことがあった。エースのM君は、卒業してからも関西6大学や都市対抗でもかなり活躍していたと記憶している。私は目下、園部高校の120年記念誌の編集に携わっているが、その頃に卒業した寄稿者の思い出に「野球部が大変強かった。甲子園目指して必死で頑張った。地域の応援も多くて後援会を作る話もあった。新聞にも記事が載った。剛球・駿足・長身…素晴らしいチームだった」との一文があるから、やはり事実なのだろう。
私が母校で野球をやった、などと言う資格のまるでないことは承知している。秋の彼岸が近付いて思い出したのは、八木町の町内対抗のことである。私は一度就職して、改めて大学へ進学していた。その頃に八木町を幾つかのブロックに別けて、男女のバレーポールと男子の野球、女子のソフトボール対抗が毎年1か月程掛けて行われていた。
いつの年だったか、我が栄町チームがバレーボールで優勝したことがある。私は高校時代に一応バレー部員だった。当時はバレーボールの裾野は広くはなかったから、レベルはかなり低かった。東洋の魔女が出現する前である。9人制で前衛のレフトでアタッカーを受け持った私は、それなりに活躍したのだった。住民の応援も多くて町全体が燃えていた。
そして、私は野球にもレフトで出場した。本町チームに所属していた頃は投手も勤めたが、栄町へ引越してからはポジションが変わった。それは、チームに抜群の投手が居たからである。彼は同じ町内に住んではいたものの、中学から京都市内へ通学し、高校は京都では有数の平安高校の野球部員だった。
私達と町内野球をする頃は卒業して実業団のチームに所属していた。新聞で名前を見ることもあった。仮にA君とするが、彼は私を部員に誘ったK君とも友人で、休日に草野球していると立ち寄ることがあったので、何度か口を利いたことはあった。
昭和30年、私が2年生を終了した春の選抜大会で、京都代表の平安高校は大阪代表の浪商高校と準決勝当たりで対戦した。私はラジオ放送を聴いていたのを、今でも忘れることはない。エースのI投手が打ち込まれ、A君がリリーフとして登板した。だが、当時の浪商は甲子園の常連で、過去に何度か優勝しており、その年は特に圧倒的な強さを誇っていた。プロへ入った坂崎・山本(八)・勝浦・谷本など、超校高級の選手を擁していた。リリーフのA君も打ち込まれ17対4で大敗したのだった。それでも、その翌年の夏の大会で平安高校は優勝している。岐阜商業を相手にI投手が勝利投手になった。A君の出番があったかどうかは記憶にない。
A君の実績がそうであったとはいえ、町内野球に加わればレベルは格段に異なる。ただ、彼は卒業後のノンプロでも硬式野球の選手である。町内対抗は軟式野球だ。練習の合間に遊び半分で彼が硬球を投げると、キャッチャーのT君は手が痛くて受けられなかった。軟球となればボールは文字通り軽くて柔かい。それでもA君が投げると、相手チームはまるで打てなかった。
栄町チームの監督は年輩のNさんで、私達より2年ばかり年長だったNさんの弟は、やはり平安高校の野球部員だった。キャプテンでサードを守り卒業後は東京6大学からノンプロへ進んでいる。その頃の栄町には、レベルの高い野球選手が2名も居たことになる。私達のチームは当然ながら勝ち進んだ。ただ、それ程打てなかったので、いずれも僅少差の勝利だった。観客もいつになく多く町全体が盛り上がった。しかし、我々は決勝戦で1対0で本町チームに負けてしまった。相手の投手も草野球チームとしては相当なもので、遂に我々は打てなくて惜敗したのだった。A君の心境はどうだったのだろう。お遊びの軟式とはいえ町内対抗で負けたのだから、その胸の内を推測すると我々は彼に悪いことをしたような気持ちになり、その後は野球の熱も冷めてしまったように思う。
あれからA君はノンプロのチームを変わり、その後の動静はあまり知らない。やがて不況により、彼の所属する会社も野球部を廃止したことをニュースで知った。いつだったか、妻が彼岸の墓参りでA君を見掛けたと言っていた。町内に彼の住居は既に無い。持病があるらしく、歩行が覚束無い様子だったとのことである。八木町の町内対抗は、今はもう行われていないのだろう。かつて、ほんの少し野球をかじった私が、本物の野球選手と接した、遠い日の思い出が蘇る秋の彼岸の今頃である。
更新日 平成20年9月21日
第22回 丹波の秋今昔
この10月16日の京都新聞夕刊に『朱に染まる幻想の海』のタイトルで、「丹波地域の秋の風物詩“丹波霧”が早朝に発生し、丹波町下山の丹波広域基幹林道(標高約350メートル)では、眼下一面に幻想的な雲海が広がった。その雲海が丹波高原や亀岡盆地を覆い尽くし、辺りの山は海原に浮かぶ島のように見えた。午前6時過ぎ、遠くに霞む愛宕山の尾根付近から朝日が昇ると、波打つ白い海が瞬く間にオレンジ色に染まった」との記事に併せて、雲海の中から朱色に染まった顔を出す愛宕山の写真が掲載されていた。
説明によると、丹波霧は朝晩の寒暖の差が大きくなる秋から初冬にかけて、風のない晴天の朝に放射冷却の影響で発生する。その日の園部町では午前3時の気温が9.6度(京都地方気象台調べ)となり、前日の最高気温23.7度から約14度も下がったのが原因とのことである。
かつて私が八木町に住んで居た今頃の季節から冬に掛けても、濃い霧が毎朝のように発生していた。もちろん現在でも変わらないのだろう。たまに朝早くから山陰線に乗れば、列車は霧の中を走って窓からの景色がまるで見通せないことがある。園部駅に着いた頃にやっと光が射し始める。ことに、亀岡盆地は大堰川が保津峡で急激に狭くなっていて、その地形の関係からも八木町周辺を含め霧が発生し易いと聞いたことがある。
最近は京都府近辺への台風の直撃がほとんど無くて、霧の立ち込める穏やかな秋の風景が日々続いていると言える。かつて昭和20年代から30年代に掛けては、京都周辺は台風によく直撃されたものだ。私がまだ宇津村(現右京区京北町)に住んで居た昭和24年(1949)と翌年の25年(1950)の晩夏から初秋に掛けて、ヘスター台風とかジェーン台風など当時はアメリカの女性の名前を冠した台風に見舞われている。また、26年(1951)には集中豪雨による亀岡平和池の決壊で、100人近い犠牲者を出したこともある。
昭和28年(1953)9月末に京都の南部を襲った台風13号の影響により、大堰川の堤防が決壊して大洪水が八木町を襲った。旧八木町内の住宅のほとんどが2階まで浸水している。また、南広瀬にある八木中の同級生の家が流されるなど、八木町で史上初といわれる大災害となった。堤防の上に建つ黒住教の会所を間借りしていた我が家は水の直接被害こそ受け無かったものの、家の中が避難者で溢れ返り大混雑になった。高校1年生だった私は2日後に数名で班を組み、購買部の先輩の家へ床上浸水の跡片付けの手助けに行った記憶がある。
その後の昭和35年(1960)の8月末には、八木町は二度目の町内水没になる台風16号の被害を受けている。既に私は栄町3丁目の民家へ引っ越しており、床上2メートルばかりの浸水に遭遇した。2階の無い平屋のため、家具など屋内にある何もかもが全滅に近い状態だった。この災害時に福知山自衛隊の災害救助隊員が派遣され、大堰川を渡ろうとしたボートが転覆して3名の隊員が水死した。その慰霊碑が今も八木大堰橋の傍に建っている。
衣類はもちろん私の持ち物では、書物や教科書やアルバムなどが水没した。当時、私は一度勤めた会社を辞めて大学に行っていた。そんな私に最も悔しい被害があり、今だに忘れられないでいることがある。その何よりも残念だった出来事は、教科書よりも映画のパンフレットが水に漬かってしまったことだった。私は昔からかなり熱烈な映画少年で、田舎では巡回映画以外に見る機会は少なかったとはいえ、映画熱は八木町へ引っ越して大学生になってからも続いていた。
恥ずかしいことながら学業をサボってアルバイトで稼いでは、3本立て100円の映画を頻繁に観て回ったものだ。そして、乏しい小使い銭の中から1冊30円のパンフレットを買っては大切に保存していた。そのおよそ500冊が水泡と帰してしまったのである。現在の古書価では1冊1万円にもなる稀覯物も何冊かあった。その時は知る由もなかったが、昭和20年代後半から30年代は日本映画の黄金時代だった。『野良犬』『七人の侍』『二十四の瞳』『雨月物語』『天井桟敷の人々』『恐怖の報酬』『舞踏会の手帳』『第三の男』…その他邦画・洋画を問わず数々の貴重この上ないパンフレットは、空しく泥水に呑まれてしまったのである。
二度目の水害の記憶としては、翌年9月半ばに第2室戸台風に襲われ、次いで10月末に集中豪雨に見舞われている。その時は保津川が逆流して氾濫し、亀岡の被害が最も大きかった。旧八木町の住民は、相継ぐ台風や大雨の予報が出れば川向こうの富本小学校へ避難するようになっていた。
その夜の忘れられない思い出がある。同じ町内にあった妻の家は2階建てだったので、我が家に比べると被害は少なかったようである。それでも2階の畳の上まで水が漬いて、大切にしていた雛人形や蓄音器をダメにした、と今でもたまにその頃を振り返っては残念がっている。
そんな悲劇が起こりつつあった大雨の夜、橋向こうの避難所で不安気に座っている彼女を見掛けたのだった。ゴザを敷いた小学校の講堂は避難者で溢れ返り、横になることも不可能だった。台風情報を知るためには、その中の誰かが持っている鉱石ラジオに頼るしかない。鳴らし放しのラジオは雑音で聴き取り難く、余計に不安がつのるばかりだった。避難する時に渡った大堰橋は濁流に洗われ、水しぶきがかかって足がすくむ程だった。流れに目をやらないようにして、なるべく前方だけを見て歩いて渡ったものだ。まだ小学生の彼女にはさぞ恐ろしかったことと思う。両親と弟も一緒だったのに、私と同級生の姉を見なかったようだがどうしていたのだろう。
その時はもちろん口は利かなかったし、彼女は私の存在にさえ気付いていない。それは後の証言でも明白である。ただ、何百人もの避難者の中で、小さな彼女の愁い顔がひときわ印象に残っているのが不思議である。
最近では理由は分からないが京都近辺への台風の直撃が減って、平成11年(1999)6月末の梅雨前線豪雨と平成16年(2004)10月半ば過ぎの台風23号による由良川の氾濫の記憶が残っているに過ぎない。それでも、現在では大堰川は堤防が完備し、水害による被害は避けられている。ただ、そのために大堰橋を中心として河川流域の眺望が一変してしまい、たまに八木町へ帰省しても余りの変貌に寂しく感じるのは事実である。コンクリートで固められた堤防には、護岸上から樹木は植えられないのだろう。それなら、せめて台風などには永久に見舞われることなく、いつも懐かしい霧の光景に慰められていたいと願うものである。
更新日 平成20年10月20日
第23回 園部高校創立記念式典
2008年(平成20年)10月25日(土)に、母校園部高校の創立120周年式典が南丹市園部公民館にて挙行された。母校の沿革を辿れば、1887年(明治20年)7月1日に設立された船井郡高等小学校がそのスタートとなる。高等小学校の名称はよく見聞するものの、実体を知る人は当然ながら余り存在しないと思われる。
明治時代から昭和初期にかけて存在した、後期初等教育・前期中等教育機関の名称のことと説明されている。1886年(明治19年)の小学校令で尋常小学校・高等小学校が設置される。この時の尋常小学校(義務教育)の修業年数は4年間であり、その後に高等小学校の4年間の課程があった。現在の小学校の基準からすれば、5年生が高等小学校へ入学することになるのだろうか。120年前に10歳で入学した人が生存していれば計算上は130歳となる。遙かに遠い昔のことである。
その後、母校は明治41年(1908年)に高等女学校となっている。今回の記念誌編集の寄稿文に、1926年(大正15年)に最後の女学校を卒業された99歳の杉森綾子さん(高女第17回卒)の談話(子息の聞き語り)が寄せられているが、恐らく最高齢に近いのではと思われる。残念ながら杉森さんは7月に逝去された。ご冥福を祈るばかりである。
その同じ年(1926年)に府立園部中学が設置され、戦後の1948年(昭和23年)に現在の高校となるまで22年間の旧制中学としての歴史がある。この時代の卒業生は多くが今も健在で、91歳の中西鋼二さん(旧中第3回卒)も寄稿文も寄せられている。こうした120年に及ぶ期間の卒業生は2万人を軽く超えると聞く。そして、今回の記念式典が校史以来の大々的行事として施行されたのである。
式典当日は薄曇りながら穏やかな気候だった。午後1時の開会に12時頃から参列者が集まり始めたようである。役員の方達に協力して、後輩に当たる現役の女生徒の応対が甲斐甲斐しかった。会場を埋めた参加者は、来賓の近郊中学及び小学校長らを含め400人程度だっただろうか。司会は第29回卒の河合多恵子さんで、流暢な会話により幕が切って落とされた。在校女生徒の代表によって高等女学校・旧制中学校・高校と校旗の入場があり、厳粛な雰囲気が盛り上がった。国歌に次いで10名ばかりのコーラス部員による3校の校歌斉唱が、様々な年代の来場者を懐かしい想いに誘ってくれた。
緊張気味の第20代森校長(第24回卒)・垣村同窓会長(第4回卒)の挨拶に続いて、来賓の祝辞があった。山田知事(小石原副知事代読)・田原教育長の他に、中川衆議(第22回卒)・上田府議・片山府議(第31回卒)・佐々木南丹市長らの祝辞となる。同窓生代表は野中元衆議(旧中第13回卒)で貫禄の挨拶となり、在校生を代表して生徒会長西村愛裕実さんの挨拶が若々しかった。校旗入場もコーラス部員も女生徒(男生徒は1人)で、最近の母校の女性は中々活発のようである。
式典の後半は卒業生の演歌歌手多岐川舞子歌謡ショーがあった。彼女は八木町出身の第40回卒業生で、本名は丸山静美さんである。在校中は剣道部員だったらしく、同級生とのやり取りも中々活気があった。持ち歌以外にも懐メロを何曲か歌い、最後は新曲の「石北本線」で締めくくった。歌の合間のトークも面白く、会場は大いに盛り上がった。
現在の母校には「京都国際科」が新設されており、また、普通科第T類、U類など私達の時代に比べると相当な変化がある。さらに、3年前の2006年には附中学が併設され、府下では唯一の中高一貫教育の路線を進んでいる。1世紀を遙かに超えた歴史を持つ母校は、また、明日から新しい歴史を刻み始める。
記念式典に先駆けてこの2月27日には、第16回卒業生でウクライナ大使(当時)の馬渕睦夫さんの記念講演会が開催された。また、11月7日には任天堂開発本部長の宮本茂さんの講演会が予定されている。彼は第23回の卒業生である。120年目の母校にはこの他にも様々な分野で活躍する人も多く、活気に溢れていて頼もしい。
2009年(平成21年)4月に発行予定の記念誌には、各年代の卒業生が寄稿文を寄せている。いつの時代にあっても、同じ年頃を同じ場所で送った者が2万余人も存在する。どの時代の青春が最も幸せだったのかは分からない。卒業後に歩んだ人生も人それぞれである。かつて、あの太平洋戦争の頃には学徒動員があった。強制的に学業から離された生徒の記録は胸が痛い。これから何年も続く未来の同窓生の青春が幸せなものであってほしい、と願うばかりである。そんな思いを強くした創立記念式典であった。
更新日 平成20年11月3日
第24回 「八桜会」幾たび
やや時雨模様ながら穏やかな気候の朝になった。「八桜会」が11月16日にホテルグランヴィア京都で開催された。前回の開催から1年半振りとなる。私達は第8回の卒業であり、母校の所在地小桜を採って同窓会を「八桜会」と名付けている。会長のN君は固定していて、毎回の世話役は各組から男女1名ずつ選任し、その中から代表や会計係りを決める。開催は概ね1年6か月毎で、部屋の空いている仏滅の日曜日が充てられている。
この方法を始めたのはいつ頃からだろうか。卒業してしばらくはクラス毎に会ったり、出席しそうな顔触れに連絡するだけなどこじんまりした会合だった。既に私達は古希を迎え、前回は卒業50周年の「八桜会」となっている。節目の集まりだったためか105人の出席者があり、今回は85名だった。更に前の還暦記念の時は150人程の出席者があったが、いつもは大体35%前後となっている。卒業以来初めて出席したという者が毎年1〜2名居るのが、同窓会の楽しみでもある。今年はM君とY君がそれに該当した。どちらも名札を見てやっと分かるのだが、M君は大分県からの参加だった。
開催に先立って物故者への黙祷を捧げる。亡くなった同級生は31人になった。共に学んだ295名の10%強が先立ったことになる。卒業して間も無く20歳代で事故死や病死した者も居る。この1年半の間に2名が新たに故人の欄に加わった。男性が合計21名と遙かに多い。「八桜会」もやがては女性ばかりになるだろう、と予測される。
「みどり濃き古城のほとり…」荘重なメロディの校歌が、私達を遠い昔へ誘う。「悠久清新」この個所が特に胸に響く。「…わかき日を心豊かに」ここでは、なぜか焦燥感が込み上げてくる。2番の最後「わかき日を思ひ気高く」で、更に慚愧の念に駆られるのである。演壇の上で指揮を執るNさんの美声が、私達の合唱を超えて会場いっぱいに流れて行った。
会合には担任の先生をお招きしている。ご健在は3名となり、その1名はもうかなり前から出て来られなくなった。今年はS先生だけが顔を見せられ、それも他の学年と重なったため、双方を往き来しておられた。そんな中で、N先生が出席された。先生は国語の担当で25周年記念の折りに、教科の先生もお招きして以来である。2組の副担任をしておられたことが判明したらしい。結婚されたので姓も変わっている。
予想外のN先生との出会いに私は嬉しくなった。3年生で国語を習ったのだが、先生はいつもにこやかな笑顔が絶えなかった。先輩が命名したのだろう。「サザエさん」のニックネームで親しみの溢れる先生だった。年齢も私達と大差は無い。大勢の教え子を先生は覚えておられるはずもないが、私には忘れられない思い出がある。
昭和30(1955)年は、NHK第1放送のラジオドラマで「君の名は」が大ヒットしていた。8時台だったか、放送時間中は銭湯の女湯がカラになる、と言われた伝説的な人気番組である。私も毎週ずっと聴いていた。その頃に、曜日は異なるが同じ第2放送で「ここに花降る」と言う学園ドラマが連続で放送されていた。今では記録は全く無く、同級生に尋ねても誰も知らない。ある日の授業中にN先生が、「君の名はより、ここに花降るの方がずっと面白い」と言われた。私が同調して頷いたのを見て、先生は静かに微笑んでおられた。
確か伊馬春部・土井行夫らの共作だった。ヒロインの名は折鶴啓子(啓子の文字は類推である。何しろラジオ放送なのだ)。男子学生は山口紋太(この文字も類推だが)。「帽子に巻いた白線に、輝く紺のセーターに、つぶやくような青春の、夢よ、ポプラの並木道。ここに花降る、花が降る、ああ七色の花が降る。…」という主題歌の歌詞と旋律が、今も耳に残っている。
先生の国語の時間は楽しかった。ハムレットとドン・キホーテに比した性格の授業の後で、「自分の性格について」原稿用紙1枚にまとめよとの宿題が出された。私はハム・ドンそれぞれ4分6分か、とのレポートを2枚に書いて提出した。ルール違反だったのだが、先生に「5」を貰ったのである。また、山口誓子の「匙なめて童たのもし夏氷」の感想を記せとの夏休みの宿題だった。私は「たのしも」ではないかと糺した上で感想を書いた。幼子が「匙の味が出るほども必死で舐めている」云々とも書いて、高得点を頂戴したのだった。双方ともレポート用紙が残っている訳でもないのに、なぜか忘れられず今でも消えることなく胸にある。
ある年代に達すれば同窓会は盛んになるようである。ただ、出席率は故人を除いて30%から40%以内で定着している。当日がたまたま体調不良や所用で欠席の者も居るだろうが、出席しない者の人数の方が多いのが事情である。彼らの中には出席したくない、と言う者もいる。事実、案内状の返事を寄越さない者、案内状は不要だとさえする者がかなりある。
かつて、同じ場所で同じ青春の日々を過ごした同級生である。しかし、その時代を思い出したくない、むしろ、忘れたい、とする者が存在するのだ。卒業後の半世紀に及ぶ人生も様々だろう。
最も再会したかったN先生への願いが実現して私は満足だった。この後どのくらいの生を永らえるかは分からない。可能ならば同級生全員に再会したい。これが、次の私の最大の願いである。
更新日 平成20年11月24日
第25回 日吉町郷土資料館へ行く
日吉町郷土資料館でダムに沈んだ村の写真展が開かれている、と知って出掛けた。義兄の運転する車で予定していたその朝になって、義姉から資料館へ問い合わせたら休館だとの連絡があった。ただ、出掛ける準備をしていたので、そのまま両家の4人で取り敢えず出発することにした。南丹市のホームページによれば最近は胡麻に新しいパン屋が出来ているそうだ、と提案したがそこも定休日とのことだった。それなら須知高校の前のレストランで昼食を、と行って見るとまたもや本日定休の札が下がっていた。どうも南丹市は(?)水曜日は休みの所が多いらしい、と初めて気付いたのだった。
私達は適当なドライブインで食事を済ませ、そのまま車を走らせて舞鶴の五老岳へ向った。快晴の秋晴れの下の標高325メートルの展望台からは、複雑に入り組んだ舞鶴湾が一望出来た。波の無い穏やかな日本海が何処までも続いていて、初めて見る私に思い掛けないプレゼントをくれたように思えた。日吉町郷土資料館が休館でなければ、おそらく訪れることもなかったと思われる五老岳へのドライブだった。
それから暫らく経ってから、日を改めて私は山陰線で日吉まで出掛けた。義兄夫婦はあれから別の日に写真展を観に行ったとのことだったので、私は一人で行くことにした。日吉駅からダムまでのバスは午前中に2便しかない。帰路はさらに不便で午後に1便だけとなっている。取り敢えず二条駅を9時前の列車に乗った。火曜日のその時間帯はかなり空いている。
ムシが知らせたのか、八木駅を過ぎた頃に念のためインターネットで検索した案内表を見ると、11月からは火・水・木が休みになると書いてあるではないか。私は水曜日のみが休みだと思い込んでいたのだ。慌てて電話を架けてみると、やはり本日は休館日ですとの案内テープが回っていた。仕方なく園部駅から引き返したのだが、二条駅で片道切符のまま出られたのがまだしも幸いだった(!?)。私は急用が出来たからと説明して、改札口を出してもらったのである。あまりにも早く帰宅したため、妻に呆れて笑われたのは言うまでもない。
そんなドタバタを繰り返した挙句に11月末の木曜日(案内表に相異して開いていた)に、気の毒だからと車で送ってくれることになった義兄夫婦と3人で、今度は無事に目的地へ到着したのである。ダムからは車で5分ばかりだが、私には初めての資料館だった。義姉が2度目にも拘わらず館内まで付き合ってくれた。義兄は車の中で待っているとのことだった。
「地図にない村」と題する写真展で、撮影家は中嶋政樹とあった。日吉ダムが完成して今年で10年になるという。ダムの計画が持ち上がったのは昭和36(1961)年だから実に47年前のことになる。住民の移転が完了したのは昭和63(1988)年とのことで、それからでも20年の歳月が過ぎている。今は、かつての地域の名称を取って「天若湖」と名付けられているダムの底には、およそ150戸の民家が水没していると聞く。小茅・上世木・沢田・楽河・世木林・宮村・中村の在所が該当する、と購入したパンフレットの地図にあった。
天若地区の村に活気のあった頃に、私は山を一つ越えた北桑田郡宇津村に住んでいた。宇津小学校の秋の遠足で、天若分校へ二度ばかり行った記憶がある。当時の唯一の交通路であった村境の貞任峠を歩いて越える、文字通りの遠足だった。分校の講堂で弁当を広げて、運動場で少し遊んで帰路に就いた。4年生の時は国鉄殿田駅(現JR日吉駅)まで汽車の見学に出掛けたが、その時も歩いて貞任峠越えで天若地区を往復している。直接に住んだことはなくても、私には遠い昔の懐かしい村だった。
会場には昭和55(1980)年から62(1987)年迄の、約40点の写真が展示されていた。春夏秋冬四季折々の村の風景の他に、離村の記念撮影の写真が多くあった。「さよならふるさと大踊り」では、浴衣姿で踊る人達が古里の最後の夏を惜しんでいる。最後の便の運転手に、バス停で記念の貼り絵を渡す場面がある。宇津村にも同じ「丹バス」が通っていた。その後は「京バス」と名称は変わったが、運転手も感慨深いものがあるだろう。記念品を受け取る顔が泣いている様に見えた。
20年後の現在では、保育園児や小学生達も成人して、かつての古里を遠く離れて暮らしていることだろう。年配者の中には、もしかして知っていた人が写っているかも知れない。中には亡くなられた方もあると思われる。
これらの写真の中の人達が、展示会場を訪れたなら、その懐かしさは言葉では現わせないと思われる。ただ通り過ぎただけの私には、それでも分校前(写真では保育園)の銀杏(イチョウ)の大木や吊り橋が遙かな記憶を呼び起こしてくれた。
それ以上に、館内に展示してあるイシミ・モジ・イドコなどの竹製品や農具、それに材木を運ぶ木馬の模型が私には懐かしく思えた。そして、資料館裏の広場に萱葺き屋根の民家が移転されていた。昔のままの造作が残されていて、囲炉裏・唐臼・竃・流し台・箪笥など、在りし日の生活がそのまま生きているようで興味深かった。牛小屋(うまや)も昔のままの造作で残っていて、子供の頃は近寄るのが苦手だった牛が模型にして置いてあった。
ダムの水位が下がれば、銀杏の木や吊り橋の残骸が覗けることがあると聞く。もし、以前の村人がそれを見れば、どの様な感慨を抱くのだろうか。あの日の貯水率は45.9%となっていた。どれくらい水位が下がれば、そんな現象が起こるのか。もし、そんな昔の物が見えることがあるのなら、私には残酷過ぎる眺めに思えるのだが。
資料館の入り口に、周辺部の鳥瞰図から作った模型が展示されていた。天若地区一帯は水色で塗り潰されている。そして、宇津村との間を結んでたいたあの山からは、貞任峠の名前は消されていて、ただ細い道筋が白く描かれているだけだった。
更新日 平成20年12月19日