南丹生活

これより本文

skip

第26回 年賀状今昔

 今年の正月3が日は晴れたり曇ったりの天候で、初日の出こそ予定の時刻に見られなかったものの比較的穏かな気温だった。北部には年末から雪が降り、スキー場も広河原で80センチ、大江山で60センチと初滑りも可能だったようである。私は元旦の朝も散歩に出掛け、途中の大善寺(京都六地蔵尊の一つ)に立ち寄り参詣客が2人だけの中で形ばかりの初詣を済ませた。

 義父が健在な頃は毎年2日に八木町を訪れて新年会に顔を出し、妻の姉弟夫婦らと揃って近くの春日神社へ参拝するのが恒例だった。3年前に義父が亡くなってから、今ではその習慣も終わってしまった。昨年は長女と次女が夫婦揃って我が家を訪れて来て賑やかだったのに、今年はそれもなく家内と2人だけの慎ましやかな正月となった。

 テレビのお笑い番組をつけたままで観るともなく、届いた年賀状に目を通す。私は小学校の2年生で宇津村(現京北町)へ疎開して、中学3年生の途中で八木町へ引っ越した。宇津村では7年間、八木町では15年間を暮らしたことになる。小学校から高校までの同級生の人数からいえば、宇津小〜周山中より、やはり八木中〜園部高校の期間の方が多いだろう。

 宇津小学校からは全員が周山中学へ進学するので、同級生の人数は当時の北桑6か町村の約250名である。八木中学も同学年で250名程度だったが、園部高校へ進学したのは何名位だったのだろうか。園部高校は他の町村からも入学して来たから、同級生は290名ばかりになる。他の高校へ行った者や就職した者も含めると、八木町時代の同級生は300名を軽く超えると思われる。八木中学での在籍は2学期からの6か月だけで短いから、園部高校へ進学しなかった者と親しい関係はそう多くはない。そうした者達を差し引いても、やはり八木〜園部時代の方が、宇津〜周山時代より級友の人数は多いと思われる。

 ただ、年賀状のやり取りの数からすれば、それぞれが70余枚でほぼ同数である。私は中学3年生の夏休みに突然転校して、級友達に別れの挨拶をする間もなかった。それに、2学期間を残しての転校だったから、周山中学の卒業生ではない。しかし、同窓会にはいつも呼んでもらっており大体は出席している。

 学校を卒業して半世紀が過ぎた。既に故人となった者も、それぞれの学区で30名ばかりある。年賀状のやり取りをする者は、50年前の昔から続いている者が多い。中には同窓会で再会して旧交が復活し、それを機会に交換を始めた者も何人かはいる。双方の地域の級友とのやりとりはほぼ同数であるが、ベースとなる人数からすれば周山中学時代の古い友人との割合の方が多いといえる。

 そうした諸々の状況の中で、やはり子供だった中学時代の頃が懐かしい想い出も多くて、級友との交流が深くなっているのだろうか。

 私が同級生から初めて年賀状をもらったのは、中学1年生の正月だった。親しくしていたS君や何人かの男生徒から年賀状が来た。私も少数ではあるが、仲の良かった者達へは正月に着くように出していた。しかし、思いも掛けず、同じクラスの女生徒から3枚の年賀状が来たのである。

 お年玉付きの年賀葉書が生まれたのは、戦後しばらく経った昭和24年で葉書1枚が2円だった。その当時の田舎の小学生に、年賀状を出す習慣などはなかった。私が中学生になった翌年の昭和26年には、葉書の料金は5円になっていた。お年玉付きの年賀状もようやく世間に知られ出した時期とはいえ、女生徒とやり取りするなど私は夢にも思わなかった。

 それが3枚、しかも私の名前が筆で「様」付けで書かれて届いたのだから驚いた。そのうえ、両親からも少々変な目で見られて恥ずかしかった。しかし、悲喜交々の複雑な気持ちながら、私は勇気を出して返信の年賀状を出すことにした。2日になれば郵便局が開いていたので、乏しい年玉から年賀葉書を追加で3枚買った。しかし、宛名に「様」と書くのが照れ臭くて、「さん」と平仮名で書いて出したのだった。無理をして筆で書いたものだから、散々な出来映えになった。受け取った彼女達はさぞ苦笑したことだろう。私の評価(そんなモノがあればだが)も下がった、と思われる程の仕上がりだったのである。男友達へ出したのと同じく、万年筆で書けばよかったと反省したが既に遅かった。

 その内の2名とは今でも年賀状の交換は続いている。後の1名はどうしたのだろう。同窓会でも顔を見たことはない。交換の続いている2人にしても、五十数年前の年賀状のことなど忘れているのに違いない。八木町へ引っ越した初めての正月は黒住教の社務所に住んで居て、雪の積もった堤防の上で寒さに顫えながら旧友から届く年賀状が配達されるのを待っていたものだ。

 私が暮らしたそれぞれの年代の古里である京北町と八木町(南丹市)を併せて、現在は150名弱の同級生との交換がある。1年を過ぎるともらった賀状は処分しているが、亡くなった級友の最後の1枚は残してある。途中で疎遠になり、やり取りの途絶えた者も何人かはある。そして、既に鬼籍に入った親しい同級生が10人程いる。23歳で事故死したN君。28歳で病死したU君……。S君は50歳で自ら生命を断った。そんな彼らの最後の年賀状が、引き出しの中で徐々に色が褪せつつある。

更新日 平成21年1月11日

skip

第27回 記念誌編集終わる

 この1月24日の第12回定例会を以て、園部高校の120周年記念誌の編集会議が終了した。正式には編集小委員会の修了である。思えば、平成19年6月8日に編集委員45名の委嘱があってから、1年8か月が過ぎたことになる。今回の記念誌編集が検討され、その情報収集がスタートしたのが平成18年12月だから、まる2年間に亘る作業だったといえる。桜ヶ丘同窓会の一大事業として取り組み、第10代垣村和男会長が総指揮を執られた。学校側では第19代中村俊孝校長から、昨年の4月に第20代森利夫校長へとバトンタッチされている。

 園部高校の120年に及ぶ歴史の中にあって、昭和元(1936)年に前身の「園部中学十年史」が初めて制定されている。発行責任者は江村定憲先生で、既に故人となっておられる。教師時代は漢文を担当しておられ、卒業生の寄稿文の中でもその学識や人格が賞賛されている。私が入学した昭和28(1963)年にはもちろん退職しておられ、市内で書店を営んでおられた。私は母校の元教師だとは知る由もなく、たまに小説などを買いに寄って見掛けた記憶がある。かつて亡父が詠んだ歌に「古城下の園部本町ゆきづりの書舗の表札江村定憲」とあり、その名前だけは覚えていた。小柄だか矍鑠として厳格な感じの人だった。

 続いて昭和33(1956)年に、「園部高校創立十周年記念誌」が発行されている。発行責任者は世界史担当の吉田証先生となっている。私の卒業2年後に当たるが、どのように告知されたのか全くその発行を知らなかった。いずれもB5サイズの薄い冊子で、もう母校にも残されていない。

 次いで「園部高等学校創立百年記念略誌」の刊行となるものの、その題名の通り三十数ページの極めて簡略な記念誌である。発行責任者は宅間博先生である。今から20年前の発行だが、寄稿文を寄せておられる高等女学校の卒業生はこの間に鬼籍に入られた。

 今回の編集委員会は旧制中学第15回から高校37回までの卒業生が委員となって、各年代の同窓生に寄稿文を依頼した。また、第38回卒以降第59回差卒までは母校で教師をしていた佐井文雄編集委員(高18回卒)が人選し、寄稿依頼を担当している。そして、実際の編集作業は竺沙雅章編集委員長(旧中13回卒)をチーフとして、宅間博編集顧問(旧中13回)・人羅綾美事務局長(高11回卒)と学校側事務局の森敏之副校長を中心に、以下21名の編集小委員会メンバーが実務を担当した。その間、元校長で記念事業全体の山口博実行委員長(旧中18回卒)のリードにより、永井淳実行委員会顧問(旧中13回卒)のバックアップなどで毎回会議が進められた。

 記念誌は、幾つかの候補の中から『公孫樹』と決定された。やはり母校の最大のシンボルである公孫樹からの命名は、2万余名に及ぶ総ての同窓生にとって最もふさわしいとの意見からである。実際の樹齢は確定されないものの、大正10(1921)年に高等女学校を卒業した同窓生の寄稿文(百年記念)にも、瑞々しい枝を張った大木との記述がある。園部城は小出吉親が元和5(1619)年に築城したとされているから、その当時に植樹されたのであれば凡そ400年の寿命を永らえていることになる。いずれにしても、悠久の歴史を誇る母校の記念誌として最適の表題といえるだろう。

 『公孫樹』の内容は創立の高等小学校から現代までの沿革史を辿りながら、日本や世界の情勢を背景として、関係者の祝辞及び卒業生の寄稿文が180名近くに達する。各年代の行事や出来事の写真も豊富である。序章の「母校を想う」に始まり、第1章「発刊への想い」に続いて第2章各年代の「時を想う」以降、第3章「今を想う」第4章「未来を想う」と、実に豊富な中味となっている。そして、第5章の「資料編」を加えて336ページの大冊を誇る。

 今回の記念誌編集以外にも、記念事業委員会(小栗宏委員長・高7回卒)・募金委員会(竹中潔委員長・高16回卒)・会計委員会(太田明平委員長・高9回卒)が結成され、それぞれの担当で多大の成果を上げている。記念式典は昨年の11月に成功裡に終了し、募金は1900名近い寄付者があって当初の目標を大幅に超えた。寄付金を寄せた同窓生へは記念誌が進呈され、その後の剰余金は会計委員の管理によって母校へ寄付される予定になっている。

 最終の編集小委員会では、役員と事務局メンバーに加え、文章担当の薮本万希子委員(高33回卒)も入って6名で最終校正を完了した。記念誌『公孫樹』はこのあと2月14日の色校正を残すのみで、4月末日に2200部が刊行され上述の如く寄付金の協力者へ配布される。それ以外の同窓生からは、希望者の申し込みを受けることになっている。

 内容の抜粋は徐々に紹介予定であるが、まず最初に旧中11回卒の文集より転載した園部城に関する物語を紹介したい。執筆者は卒業生の小泉顕雄氏(高22回卒)のご尊父である。

『園部城物語』

小泉麟雄

 高屋治代先生から、

「お城の学校という愛称のあった旧園部中学の前身でもある園部城の歴史を、ムスコやムスメたちに読んで聞かせるようなお国自慢的−園部城物語を書いてくれ」とたのまれました。

 その器ではありませんが、私の知っていることを精一杯書いてみたいと思います。たりないところは、おとうさん方によって補足してください。

 昭和十五年当時の小学生の作文がありますのでそのまま書いてみます。

兄さんの中学校

「兄さん、兄さんの学校へつれて行って下さい」とたのむと、

「よし、つれて行ってあげよう。早く用意しなさい。」

 今日は日曜だ。これまでに中学校へ行ったことは数回あるが、案内してもらっては今日が最初だ。雨上りの快い公園の道を行くと、グラウンドの大杉が天を突きささんばかりに眞直に伸びている。校門前の坂を登る。広い庭球コート、新緑にかおるスミヤグラ。樓門の美しいこと、道にきれいな花壇も出来、仰ぐとすでに、さくらんぼが赤くみのっている。

「この庭球コートは先輩たちが汗を流してこしらえたのだ。府下でも珍らしく立派なもので自慢の一つだ。」

 白い史蹟の木標を見れば元和五年と書いてある。家康がなくなったのが元和二年だから、大体見当はつく。

 スミヤグラは今、郷土館といって郷土の古い書物や、いろいろなものが集めてあるのだ。校門をくぐると正面に青屋根の本館と立派な時計台が立っている。石にはものスゴイほど濃い杉の緑を後に、奉安殿の御紋章が輝いている。兄さんとうやうやしく最敬礼をして運動場にでた。

 周囲は初夏の新緑にむせかえるようだ。すみの大いちょうの木が昔を物語るかのように、ひときわ高くそびえている。

「兄さん、今どのくらい生徒の数があるのですか」

「生徒の数か。そうだね、約五百人くらいだ。五百の健児がこの大杉のようにすくすく伸びているんだね。つねにマジメでしっかりしていて、どんな困難なことでもやりとうすことをめあてとしてはげんでいるのだ。ついでに本校の歴史を話そう。

 本校の誕生は大正十五年で、昭和十一年に創立十年目のお祝が行われたばかりだから丁度お前ぐらいの少年ともいえる。それより前は郡立高等小学校(明治二十年より)と、高等女学校(明治四十一年より)がここにあったのだそうだ。このように昔から学校があり尚文の神である天満宮がここにあったことを思うと、なにかしら不思議な気がする。

 本校の卒業生はまだ千人を越えてはいないが、この意気で各方面に重きをなしていると校長先生にきいている。国を動かすのは青年の教育だから。」

 兄さんの眼が常になく輝く、武道場・講堂を見せてもらってたのしくかえった。

 子どもの作文にある通り園部城は小出吉親が元和五年に建てたものです。二万九千七百十一石の領土でもありました。

 小出氏は信濃国に住んだ藤原氏の子孫で後に尾張国に移り、吉親の祖父小出秀政は早くから豊臣秀吉に仕え親戚の関係もあり、秀頼の養育係をつとめた程の間柄でした。関ヶ原の戦いには、秀政の長男吉政は石田方に、次男秀家は徳川方に属しましたが、これは秀政が豊臣氏を思う苦しい態度だったといわれています。戦すんで徳川の世になりましたが、家康の特別の計いで但馬国出石城を領するようになり、その后移封により園部にあたらしく築城するようになったといわれます。こんな関係から徳川時代には外様大名として冷飯しを喰わされたわけです。

 ところが幕末ともなると、園部藩は勤王藩としてうごきはじめ、坂本龍馬、桂小五郎などがひそかに園部を訪問し、京都の御所が危険な時には愛宕山をこえ、亀岡を迂回して園部城へ天皇をかくまう計画をたてました。そのため園部城は幕末に大規模な改築をして、城門城壁を更に堅くし濠も深く面目を一新しました。ところが鳥羽伏見の戦いは官軍の勝利になったため、せっかくの計画もオジャンになり園部遷都は実現しなかったわけです。

 もし、この戦いに官軍が破れていたら園部城は一躍歴史上に残り、全国的に知られるようになっていたわけです。

 本年になって明治維新の重要資料の建物として城門などは永久に保存されるよう指定になったと聞いています。

「膳所城はとりこわしにかかっているのに、園部城は修築にかかっている」とウワサされたそうですが、幕末に工事した城は全国的にも珍らしく、またそのおかげで城門など立派に残ったのです。

 この園部城門と小山の松並木はその昔、時代劇のはなやかなりし頃、絶好の撮影場所としてロケ隊がのりこんできたものです。とくに目玉の松ちゃんの主演する映画にはよくよく縁があったようにも聞いています。

 勤王軍が絶対優勢のうちに、慶応三年には徳川慶喜は大政奉還を決意しましたが、諸国大名の中には不穏な空気がながれていました。

 そこで十九歳の西園寺公望が大正となり山陰鎮撫使が組織され、亀岡→園部→篠山の各城の帰順を威圧的にススめに行くことになりました。各城は勿論、天下の形勢を察して帰順しましたが、園部城は、なかでもいちはやく帰順し本町にある合羽屋の本陣に一行を迎えました。

 西園寺公望は小柄であったためか、馬にまたがるのがちょっと不得手で、家来が必ずフミ台を持参し、公望はフミ台に足をのせ、尻をおしてもらって馬にまたがったと、一行を見送った宿の女中などがいつまでも思い出話しのひとつに語り伝えています。

 慶応三年正月九日、園部本陣から体伍を整え、福住に向かいましたが、そこに園部藩士百人もこの鎮撫使一行に従軍を許されました。その后、柏原、福知山を経て、遠く山陰道を西へ向い、その后役目をおえて帰園しましたが、家族がビックリしたのは園部藩士百名のこらずみんなシラミにとりつかれ、早速シラミ退治に大童になったといわれます。(上野盤山先生という有名な方も鎮撫使に従軍し、シラミを一杯わかせて帰園した一人でもあります。)

 旧藩士は多士サイサイでしたが、中でも田中弘太郎は陸軍大将になり、大砲の研究にかけては世界でも名高い人物でもあり、寺尾家の娘は東久通稔彦さんの実母として著名です。

 小出家が豊臣家と親戚関係にあるとかきましたが、始祖小出秀政の妻は豊臣秀吉の伯母にあたり、秀政の子、吉政は秀吉とイトコに当たるのです。

 小出秀政−吉政−吉英−吉重−英安−英益−英長−英及(幼少にして逝去、本家断絶)

 小出秀政−吉政−吉親−英知−英利−秀貞−秀持−秀常−秀節−秀発−秀教−秀尚

 小出家では秀・英の字をよくつかっていますが、秀政が秀吉より一字もらったことがはじまるのです。

 園部の名物に“からいた”という安ものせんべいがある。

 その由来がおもしろい。

 カライタ(唐板)は、文禄年間、大閣さんが朝鮮討伐の軍を起したとき、小出播磨守も大名としてその軍に従い諸処に斗い、いろいろ軍功はあったが、ときに道案内者の心得ちがいから、進軍の途中、韓国の山邑に迷い三日の間、行けども行けども道がなく用意の兵糧もたべつくし、今はただ、うえ死するより外はないとも思ったが、更に勇気を出してあるいたところ、やっと人家のある村までたどりついた。「やれうれしや」と思ったが、よくみると村の人たちは戦禍を恐れて離散し、人かげもないし、人の口にあうようなたべものもない。

 必死になってたべものを探したところ、ある家の穴倉の中からやけのこりの小麦粉と朝鮮アメの壺を発見した。

 一同は、

「よいものが手に入った。さっそくうどんにしてたべよう。そしてのこりの粉とアメの壺は今后の行手の兵糧にしよう」

 と言うことにした。

 ところが、うどんにしてもっていくわけにもいかず、なんとかいい工夫はないものか考えたところ、買い兵士の一人が、

「その小麦粉に朝鮮アメを入れてこね、瓦をやいて、その上でのばしてもちはこびが出来てながくもつようにしよう」

 と具申して、さっそくけい帯出来るたべものにした。

 このおかげでその後、飢をしのぎ無事本軍と合することが出来たが、この品は韓国で偶然発明したものであるからカライタ(韓板)と呼ぶようにし、ガイセンしたあとも、そのときの苦労を思い出すため、藩主が菓子司に命じてつくらせたという……。

 園部城の昔話を息子に語ろうとするお父さんは、是非おみやげにカライタを百円ほど買ってかえられるよう、おススめする次第である。

 カライタ(唐板)には、かざりけのないボクトツな丹波の味がする。

更新日 平成21年2月1日

skip

第28回 もう一つの八木中学

 今年は2月13日に各地で春一番が吹き荒れた。本来なら、九州や四国などの早い地域でも20日頃に吹くそうなので、今年の「春一」が如何に早かったかと驚かされる。立春の日から文字通り春めいた気候が続いていて、丹後の大江山スキー場では、遂に積雪がゼロとなった。丹波の広河原でも一時は50センチと半減して、辛うじてスキーの可能な状態を維持している。

 京都の春一番は未だ吹いていないものの、それでも13日は暖かく、その翌日からもずっと3月中旬の陽気が続いた。地域によっては4月や5月並みの気温で、静岡では6月半ばと同じ温度を示したとのことである。暖かいのは結構なのだが、これだけ異常気象が続けば、農作物をはじめ自然界全体に悪影響を及ぼすことは間違いない。まさに、他人事ではない気味の悪さを感じさせられると言うものである。

 15日の日曜日に、八木中学校の同窓会が大堰川畔の八光館で開かれた。前回は次女の結婚式のため欠席したので、5年振りくらいの出席となる。私は、予定時間より1時間ばかり早い列車で出掛けた。そして、久し振りに町内のあちこちを散策してみた。

 日曜日のせいか駅前通りの商店街はシャッターが下りていて、人通りはほとんど無かった。まず、信号を渡って直ぐに右へ折れて、栄町3丁目の細い通りへ入った。旧国道までのおよそ250メートル程の町並み自体は、私が住んでいた頃と余り変わらない。角の食堂が廃業していたり、石材店やブリキ店に指物屋が改装したり、歯科医の建物が広がっていたりと部分的に変化はある。それでも、3メートルばかりの道幅は昔のままで、町内を歩く人影を見掛けることは無かった。通りの中間辺りに住宅3軒分の空地がある。その一番奥に私の住んで居た借家があった。

 高校3年の頃から結婚して所帯を持つまでの15年間を、その場所で私は暮らしていた。2階建ての左右の民家の間の狭い通路を通り抜け、突き当たりにある傾きかけた平屋だった。その当時は表通りからは見通せなかったし、小学生の頃の妻は住人が居ることもよく知らなかったと言う。

 入り口に建っていた住宅も同時に取り壊されたため、今は100坪ばかりの空地が白日の下に曝されている。一昨年の秋の彼岸に義父母の墓参りで訪れた折に、私はかつての借家が消滅したことを知った。予想外の事態に遭遇して、同行していた妻や長女も呆然と立ち尽くしたのだった。

 それ以来、空地は未だに放置されたままで雑草が繁っている。春の陽光が明るく照らしているのが余計に淋しく見えた。そこから50メートルばかり行くと、妻の生まれた家がある。現在は建替えられて別の人が住んで居る。そういえば、京都市内の野球名門校で投手として甲子園にも出場したA君の家も、いつからか取り壊されて別人の宅地になっている。

 時計の修理屋や燃料店も今は廃業してしまった。狭い通りは変わらない様に見えても、町並みを歩いてみると佇まいは少しずつ変化しているのだろう。妻の生家の前は産科医の広大な屋敷だった。駅前通りに接して立てられていた医院は取り壊されて、いつからか駐車場になっている。

 あの頃、小学生だった妻や大勢の子供達が、道路で段跳びや石蹴りをして遊んでいたのだ。賑やかな歓声が家々の屋根に響き、夕方には食事の支度の煙が立ち昇って町内には活気が満ちていたのだが。

 旧国道の本町5丁目から1丁目まで歩き、続いて堤防の上にある黒住教跡へも立ち寄った。葉の落ちた大楠が箒の様な枝を空に向けて聳えている。かつての社務所は既に壊されて、小さなブランコと滑り台のある幼児公園になって久しい。休日の昼前という時間帯がそうなのか、公園で遊ぶ親子連れの姿は誰も見られなかった。

 大堰川の上流には新しい橋が架かっていて、堤防の突端の岩場から眺める光景は一変していた。昔は渡し舟のあった場所である。目の覚める様な青い橋の名称は、南広瀬と北広瀬を結ぶ「夢の架け橋」と呼ぶらしい。

 高校生の頃だったか、あの渡し場で同級生のH君が当番で舟の番をしていたので遊びに行ったことがあった。彼は舟番をしながら参考書を読んでいた。私が2時間ほど彼と喋っている間に、渡し舟を利用した人は一人もいなかった。もう五十数年も昔のことになる。

 その足で私は八木中学校まで歩いた。休日で校門は閉まっていて、内部の状況は分からなかった。私達は八木中学校の6回生に当たる。歴史を辿れば、終戦直後の1947(昭和22)年に、八木町・富本村・吉富村・新庄村の4町村の組合立南丹中学として設立されている。それが、私達の入学した1951(昭和26)年4月に合併して八木中学校となった。

 そして、1955(昭和30)年に北桑田郡神吉村が八木町と合併することになり、周山中学神吉分校が、八木中学神吉分校となっている。私はその周山中学から、3年生の2学期に八木中学へ転校したのだった。現在の八木中学の在校生は、全校8クラスで約240名とのことである。私達は1学年で6クラスあり同級生は230名である。母校は、今ではかつての1学年と同じ規模になってしまった。

 木造だった校舎は鉄筋コンクリートに建替えられ、スイングベルの時計搭がシンボルとなっている。1995(平成7)年の改築で、太陽光発電設備(ソーラーシステム)が校舎の上に設置された。公立中学としては全国初であり、国内外からの視察が多いと聞く。

 また、母校は2001(平成13)年から文部科学省の「健康教育総合推進モデル」に、その3年後には「地域ふれあい推進活動」の地域指定を受け、地域と家庭を結んだ活発な実践を推進しているとのことである。たとえ生徒数が減少しても、学校は脈々と生きているのだ。

 久し振りの同窓会は古稀を過ぎた同級生が52名で、80歳を越えてなお矍鑠としたY先生が顔を見せられた。現在は3名の先生がご存命だが、私のクラスの担任だったK先生は体調があまり優れないと聞いている。当日は地元出身の代議士の講演会があって、そこへ顔を出さざるを得なかった仲間もあり、出席人数としてはやや淋しいものがあった。

 私は八木中学での在籍が3年生の2学期と3学期だけの短期間なので、同級生の顔と名前の結び付かない者がかなりある。それでも、会合の和気藹々の雰囲気の中で話していると、少しずつ昔の面影が甦る。宴会に先立って斉唱した校歌も、演奏を聴けば思い出すことが可能だった。

 八木中学の同窓会は今回で7回目になる。私は前回の欠席以外は皆勤しており、その度に顔を合わせる級友がいる。そんな彼らからも親しく話し掛けられて、和やかな一日が過ぎて行った。以前に私の作品集を差し上げたこともあって、Y先生から自家栽培の黒豆を頂戴した。また、同じクラスだったN君が高級椎茸を持参してくれるなど、思い掛けない交誼に接することが出来たのである。

 世話役のHさんの縁で、2次会のカラオケ大会には15名ほどが参加した。それぞれ喉自慢ばかりの中で、私は「渡り鳥いつ帰る」をリクエストすると、珍しく曲がセットされていた。大抵の飲み屋では見当たらないので、言い逃れに利用しているのに。その日は名手のNさんのリードにより、何とかデュエットで唄ったのである。宴会から引き続いて、アルコールが進んだのは言うまでもない。

 私には母校と呼べる中学校が2個所あり、同窓会は双方に出席している。やはり、長く在校していた周山中学に馴染みは深い。だが、八木町は私にとっては青春ともいえる時代を過ごした第3の古里である。山陰沿線の町にある学校は、山里の学校とはやはり異なる一面がある。歴史や風習などの環境が違うのだから、それは当然のことだろう。

 同級生との交流の仕方や内容にも、それぞれに異質なものがあると言える。しかし、同じ少年時代を過ごした中学校であることには変わりはない。私にとっては、どちらも大切な母校である。たとえ住んで居た家が消失してしまっても、懐かしく大切な古里としていつまでも心の中に存在する。

 同窓会の終わった翌日から、また寒さが少し戻った。八木町の家々の屋根に、雪が薄く積もったと旧友が知らせてくれた。この冬の名残り雪となるのかも知れない。

更新日 平成21年2月21日

skip

第29回 旧友と牡丹鍋を

 2月の最後の日曜日だった。京丹波町の和知に住む旧友の家に、園部高校の同級生が10人ばかりで集った。昨夏の同窓会の別れ際に、冬になれば牡丹鍋を囲もうと約束していたからである。その冬になってからの温暖化も甚だしく、市内南西部にある我が家の周辺では一度も雪が積もっていない。ほんの一ひら二ひら(!)ちらついた日が、僅か3度ばかりあっただけである。現に、昨年12月から今年2月迄3か月間の市内における積雪は14センチなのに、今年は2センチとの報道があった。平均気温も1.1度高いらしい。

 山陰沿線の和知は丹波高原に位置するため、さすがに年明けから何度か雪が積もったとのことだった。久々の雪を見ながらの鍋料理を、私は秘かに期待していた。その日に顔を揃えたのは、3年ばかり前に亀岡市で同級生の女性が開いていた小料理で一献傾けた連中が中心である。遠くは尼崎からの友人も居り、大阪近郊や市内周辺に亀岡や園部在住の者などが列車を乗り継いで集合した。

 いつの頃からそうなったのか。園部駅で乗り換えた列車は、無人の和知駅では切符を車内の車掌に渡してから降りるシステムになっていた。改札とは言えない出入り口へ迎えに来てくれたK君に、歩いて5分ばかりの彼の別宅まで案内された。彼は駅前で古くから「七福堂」という菓子店兼万屋を経営しているが、今は息子に譲って晴耕雨読の日々とのことである。

 日曜日のせいもあって、商店街はシャッターが下りて人通りは全く見られなかった。休日のせいばかりでなく、最近は店を締める所が続出しているらしい。高校時代に購買部で一緒だった1年後輩のHさんの店も、昨年に閉店したと教えられた。かつての和知町は、材木の集積地として栄えたと聞く。地元の人達には他人事ではないだろうが、南丹市へは編入せずに京丹波町となったのは、やはりそれなりの理由があるのだろう。

 積もったはずの雪は、すっかり消えてしまっていた。周囲を取り巻く遠くの山の上方が、僅かに白いだけである。その一つに、美山町と境を接する長老ガ岳があった。長老ガ岳は標高916.9メートルで、京都府下では9番目に高い丹波の名峰である。私が宇津村から八木町へ引っ越したのは中学の3年生だった。その頃からこの山の名を冠した酒の看板をよく目にしたことがあり、その名称だけは以前から知っていた。

 そして、私は学生時代に長老ガ岳に初めて登ったのである。もう50年も昔になるが、その日も和知に居住しているK君と、同町出身で大野ダムの仕事をしていたY君との3人だった。私が和知町を訪れたのはその時が初めてである。K君の家に集合した私達は、山葵(わさび)の名所という仏主から上乙見を経由して2時間ばかり歩いて登ったのだった。その頃は途中の村落では、藁屋根の農家があちこちに見られたものだ。

 それから後に、もう一度私は長老ガ岳に登っている。かつての登山を偲んで同じ3人が再会したのだ。平成14年の秋だったから、今から7年前のことになる。その時の登山は頂上の直下までK君の車で行って、最後の50メートル程だけを歩いて登ったのだった。それでも、頂上からの展望は昔と変わらず、遠く白山の方まで360度のパノラマ展望が爽快だった。

 今回の3度目の和知訪問は、遙か遠くに名峰の頂きを望んだだけで宴会に移った。K君宅の裏庭に、一塊りの雪が残っていた。私がこの冬に見た初めての積雪である。私はそれを、持参のデジカメで記念撮影したのだった。

 暖冬の影響か、地元では今冬で40頭の猪が捕獲されたと言う。K君宅では暖炉に薪が燃えていて、天井には黒く光る太い梁が覗いていた。住人の途絶えた旧家を買い取って、古いままの佇まいを苦心して維持しているらしい。奥様のお世話で、すき焼きと水炊きの2種類の鍋が準備された。懐かしい昔の雰囲気が横溢する中で、既に古稀を過ぎた旧友10人が、遠慮なく酒を飲み鍋をつついた。自家製の野菜や椎茸がたっぷりあった。猪肉はやや歯応えがあって淡白な味がした。ビールに日本はもちろん焼酎だとかウイスキーなどと、それぞれが好き勝手に気炎を上げた。

 暖かい部屋の中では、笑い声が絶えず遠慮のない会話が尽きない。まだ仕事で現役の者も居るが、ほとんどはアルバイトかボランティアで時間を潰している。U君が高校卒業直後に北海道を放浪した話を披露してくれた。糖尿や腰痛など、話題はやはり健康面の問題が中心になる。伴侶と死別してかなりの年月が経つ者もある。

 そんな中で、高校時代に好きだった女性徒の名前を発表することになり、酔いに任せて順番に告白した(させられた)のだった。大体が、「なるほど」と思える氏名が挙がった。バッティングする者同士があったが、どちらも当時は胸に秘めたまま過ぎてしまったことになる。中には、「う〜ん」と意外な女性徒の名前もあった。しかし、今にして思えばそれも何となく納得が出来る。どうして名前が出ないのだろうと言う女性徒もあったが、やはり若い(幼い?)なりに生意気にも私達にも一応の好みがあったのだ、といっそう話題が賑わったのだった。

 私達の年代では、高校時代に男女交際をしていた者などは、ほとんど存在しなかった。あったとしても極めて数は少ない。むしろそんな関係にあった者は、同級生間で公認となっていた。だから、同窓会で当事者達が顔を揃えたとなれば、二人を囲んで大いに話が盛り上がる。同級生同士で結婚をした者は2組ある。だが、この10人のメンバーはそうではないので、残念ながら(?)いずれもが片思いか失恋に終わったことになる。

 冬の一日は暮れるのが早い。暖炉に薪が弾ける暖かい部屋で、53年前の遠い日の青春も暖かく弾けたのだった。

更新日 平成21年3月14日

skip

第30回 残雪の佐々里峠

 4月に入って一週間ばかり経つと連日のように晴天が続き、桜の名所は一気に花盛りとなった。そんな一日、以前から約束のブログ仲間と丹波方面へ桜見物に出掛けた。新車を買ったからと案内を引き受けてくれたF君は、周山中学校の同級生の弟で10年ばかり後輩になる。

 彼は大阪の船場にある会社に勤務していて、定年を機会に古里へ帰り地元で再就職したとのことである。京北地区を中心に風土や歴史のブログを公開している。私の本を読んでくれたのを契機にお互いのブログを往来するようになり、次第に懇意になった。

 そして、もう一人同級生で神吉出身のSさんもブログの仲間で、今回の桜巡行に加わった。亀岡駅から、初日はお互いの古里である京北地区の桜を見物して回った。八木町の大堰河畔は見慣れた場所である。昔からある右岸の桜並木も美事ながら、最近は左岸の桜園が華々しく賑わっている。そこには、義父が植樹に協力した八重桜もある。

 それらを遠目に眺めながら、車は氷所から紅葉峠を越えて神吉へ向かった。神吉神社や長池周辺は、私が小学生の頃に遠足で訪れた遙か遠い所である。あの頃の神吉村は宇津村と同じ北桑田郡で、周山中学の分校があった。Sさんはそこの卒業生で、小学校は宇津村と同規模程度の生徒数を擁していた。

 神吉村は、昭和30(1955)年に八木町へ編入して行政区が別になった。そして、京北町となった宇津村も4年前から京都市右京区に編入されている。様々な変遷があるものの、昔は隣村同士で学校や青年団の交流がかなり盛んだった。神吉の上神社には当時にも架かっていたK先生の額絵が、やや色褪せながら今もそのままにあった。先生は神吉出身で宇津小学校の校長をしておられた。絵の得意な先生に、私達が遊んでいる姿をスケッチしてもらったこともある。その実家は既に消失していて草地になっていると聞く。

 遠足で八木町へ行く時に通った渋坂峠は、現在は閉鎖されてしまっていた。長池と呼んだ回り池は一杯に水を湛え、昔と同じ様にひっそりとしている。池畔に紅色の桜が咲き、対岸の山肌には白い辛夷が点在していた。

 まるで眠っている神吉を後にして、私達は狭い小細峠を越え宇津の里へ向かった。人の姿をほとんど見ない山里は、桜が爛漫と独り咲いていて、そこも同じ様に眠っていた。行政区がどうなろうと、双方の在所の佇まいに殆んど差異は無い。どちらも人口が減少して、昔よりいっそう静かな里になったことは同じである。今年の神吉小学校の新入生は一人だとか。宇津小学校はもう廃校になって久しい。

 それから後、私達は魚ケ渕を始め周山・山国・弓削と、かつての北桑南部の桜の名所を訪ねて回った。廃校になった小学校は、如何に桜が咲き競っていても、それだけに淋しさは余計に募るばかりである。

 周山中学校と北桑高校へも桜の様子を見に訪れた。どちらの学校でも私達の姿を見つけると、生徒達は「こんにちは」と声を掛けてくれる。少年や少女が健在で礼節のある若々しい声を聞けば、校庭の桜は一段と輝いて見える様に思えた。

 翌朝は美山方面へ回ることになっていて、先ず大野ダムの桜見物からスタートした。土曜日でもあり、由良川沿いは朝から大勢の人々で溢れ返っていた。ダムの周辺には、およそ1000本の桜があると言う。地元名産品の売店が出て賑わうのは当然だろう。その次に訪れた美山の萱葺きの里周辺の桜も、今が一番の見頃だった。

 訪れたと言うより、私達は次の目的地へ向かって観光客で混雑するその辺りは早々と通過したのである。蓮如の滝の前にある蕎麦屋では、囲炉裏に薪が燃やしてあった。丁度、屋根を葺き替えている最中で、昔ながらの佇まいはやはり人気があるのだろう。初夏を思わせる日に、燃える囲炉裏の回りは暑いばかりの感じがしたものだが。

 私は佐々里へ訪れるのは初めてである。知井という地名は、昔から耳にしていた。しかし、宇津村に住んでいる頃からさえ、ずい分遠い山の中に思っていた。昔は北桑田郡知井村字佐々里と称したが、現在は南丹市美山町になり道路も整備されていて、ツーリングの愛好家などがかなり訪れるらしい。時たま単車に乗って走る人に出会うことがある。

 知井村にあると聞いていた佐々里の地名は、父が施療で出張していたため子供の頃から聞いていた地名である。だが、北桑田郡南部の宇津村からは、自家用車など無い時代では遙かに遠かった。たまたま休憩した喫茶店の壁に、板に書かれた「知井小学校佐々里分校」の看板がそのまま残されていた。

 佐々里分校は、昭和55(1980)年に廃校になったらしい。その後は、私立美山高校の名称で、インターネット通信制の高校として施設を再利用していると聞いた。ただ、それも現在は廃校となっている。校舎や附属施設は放置されていて、人の気配はまるで無い。窓から見える教室の中には、机や教材が放置されたままだった。荒れ放題の校庭の裏に枯れた池があって、その脇に二宮尊徳の像があった。50センチばかりの石像は直接地面に立っていて、昔はそれでも讃える先生や生徒達が居たのだろうか。今はただ風化するばかりの佇まいで、その上に桜の花片が舞い落ちていた。

 私が佐々里に拘わっているのは、父の仕事関係以外にも理由がある。佐々里分校は、周山中学の同級生のNさんが教師になって初めて赴任した学校だった。同級生の中でも、彼女は誰よりも勝気で活発な生徒だった。私は3年生の夏休みに転校したため、その後は年賀状やたまさかの手紙のやり取り程度に終わっていた。一度だけ、女子大生になった彼女の下宿先へ、友人と一緒に訪問したことがあった。私は一度就職した会社を辞めて、大学へ進学した時期だった。

 彼女が新任教師として佐々里分校へ赴任したのは、昭和35(1960)年頃になる。時々、山の中の小さな学校の様子を、彼女は手紙で教えてくれていた。その少し前に映画の『二十四の瞳』が評判になった。新任先生の彼女もそれに触発されたかの様に、溌溂として教え子達に接する様子が伝わって来たものだ。

 私は学業の合間に、高槻市の電器会社でアルバイトをしていた。会社が真空管型の万年筆を景品として作り、それが倉庫に沢山残っていた。私はその景品を30個ばかり貰って、佐々里分校の彼女へ送った。インクを入れても洩れそうな玩具の様な万年筆を、山の子供達は大喜びしたらしい。それから何日かして、彼女の教え子達の手紙が届いた。作文の時間を利用して、彼女が生徒達に書かせたのだった。

 当時の分校の生徒は30人前後と聞いていた。N先生は3年生と4年生の複式学級の担任で、その教え子の10人ばかりの手紙が封筒に入っていた。「おにいさんありがとうございます」。手紙は鉛筆で一生懸命に書いたのだろう。所々に消し跡のある手紙から、山の子供達の気持ちが熱く伝わって来たことを今でも覚えている。当時の知井小学校は、分校を含め330人の生徒数と聞いていた。幾つかあった分校が統合された今は、全校で60人を割っているらしい。

 Nさんは何年かして他校へ移り、晩年は副校長まで勤めて退職した。そして、十年ばかり前に運動神経を阻害する難病に罹り、何度か入退院を繰り返しながら闘病生活を続けていた。現在は介護に頼る日々だと言う。手が動かせないので年賀状も書けなくなったから、と数年前のご主人からの連絡を最後に音信が途絶えた。

 N先生の佐々里分校の教え子達も、今では50歳にはなっているのだろう。私には父や彼女を通じて名称だけを知っていて、それ以外には縁の無い土地である。それでも、忘れられずに一度は訪れてみたいと思いながら、半世紀近い歳月が流れた。分校の校舎は、これからも朽ち果てるしかない。かつての校門の横では桜が秘かに咲いていた。見る人もほとんどいない桜は、間もなく散るのだろう。

 私達は分校を後にして、広河原へ抜けるために佐々里峠を越えた。急峻な曲がり角を登った頂上近くの道端に、積雪の層が残っていた。4月2日に京都の北部では少し雪が積もった、と聞いている。薄く埃を被ってはいるが、1メートル程もある厚さで30メートルばかりの積層を見せる残雪は、この冬の間に降った雪なのだろう。

 佐々里の周辺は、京都府でも有数の豪雪地帯である。5月の初め頃まで雪壁の残ることがある、とF君が教えてくれた。暖冬の今年でもこれだけの雪があるのだ。50年近くも昔に、Nさんはもっと深い雪の峠を歩いて越えたのだろうか。親元を離れて深い雪里で暮らす日々は、如何に元気者であっても、若い女性には随分と淋しかったと思われる。

 それでも、教員としての彼女の人生をスタートした土地である。病床に横たわりながら彼女の胸に去来するのは、薄紅色の桜の咲く校舎の光景だろうか。それとも深い雪に埋もれた里の風景だろうか。濃緑の夏のせせらぎも見ただろう。山々が紅葉し木枯が吹き始める頃は、いっそう望郷の念に駆られたかも知れない。

 涙が滲むばかりに静かな春の佐々里で、桜の咲く校庭の写真と、雪の残る峠道の写真を撮影した。この写真をNさんに送ろうかどうか、私は迷っている。

更新日 平成21年4月15日

skip

番外編 桜ケ丘同窓会懇親会〜東京〜

 桜前線は北上を重ね、25日は秋田か青森辺りか。桜ケ丘同窓会関東支部懇親会の案内をもらっていたので朝から東京へ出向いた。その日は全国的に雨模様で、私は読み掛けの推理小説と使い捨て傘だけの軽装である。列車の窓の外は遠望が効かず、却って終始読書に専念が可能だった。

 懇親会の会場は例年のパレスホテルが改装中のため、霞が関の「霞山会館ビル」に変更されていた。高層ビルの立ち並ぶ官庁街も、土曜日のため人通りは殆んど見られない。それでも、各所にはガードマンが立って警戒している。

 会場は37階にあって、眼下に国会議事堂が見下ろせた。写真やテレビでは地上の正面からの画像が多くて中々の威風を感じさせるのに、真上から見下ろすと意外にこじんまりした建物に見える。少し先には堀に囲まれた皇居が望めた。雨で霞んでいるのか緑一色の森の中に、青銅色の屋根が溶け込んで静かな佇まいに映った。

 このビルは4階から18階までは金融庁が占め、その上の34階までは民間企業が入居している。35階以上は会議室やレストランになっていて、2年前に完成した新しいビルとのことである。

 立食形式の会場は、旧中8回卒の市原俊弥氏を最高齢として、高校55回卒芦田沙知さんまでの約60名の出席とのことだった。上野厚氏(高校11回卒)の司会で会合はスタートした。最初に西田支部長の挨拶があり、彼は私と同期の高校第8回卒である。15年間勤めた任務を、後任の馬淵氏(高校16回卒)へバトンタッチとなった。

 創立120周年式典の映像が流れるスクリーンを背景にして、森校長・永井教育振興会長(旧中13回卒)の挨拶があった。続いて、佐々木南丹市市長・宮本京都府東京事務所長の祝辞があり、垣村同窓会長(高校4回卒)の乾杯で宴会に移った。森校長は母校の第24回卒業生である。

 旧制中学の卒業生は7人とさすがに数は少ないが、全員が今なお矍鑠として居られる。永井振興会長も旧中13回卒で、膝痛で杖が必要なものの至ってお元気である。教育振興会の次期会長は、高校22回卒の小泉顕雄氏へ移管予定との報告があった。

 母校の校外役員も若返りの時期なのか、馬淵氏はウクライナ大使を辞任した現在は防衛大の国際関係の教授で現役である。小泉氏も元参議院議員で、次回を期して捲土重来中なのだろう。因みに、馬淵氏の父上は国語乙の先生で、私は3年生の時に授業を受けている。小野篁の和歌を解釈する宿題で、篁君などとふざけて書いて叱られた記憶がある。

 宴会の半ばで板山PTA会長(高校28回卒)・太田同窓会副会長(高校9回卒)と事務職の高屋さん(高校26回卒)らの挨拶があった。私も京都支部長として、10月2日の京都支部懇親会開催について簡単に概要を述べた。今回の出席者60名はこれまでの会合に比べて多いのか少ないのかは分からないが、私の同期生は西田支部長を含んで7名は多い方だった。

 亀岡から参加した江村彩子さんが壇上でメタポ体操を披露された。彼女は高校4回卒で私より4年も先輩に当たるが、元気そのものである。園部の古い町並みで、彼女の父上が経営しておられた江村書店が懐かしく思い浮ぶ。

 支部の懇親会は年代が縦割りのため、様々な時代の卒業生が顔を会わせる。初対面の人が多いとはいえ、宴が酣(たけなわ)になるに連れ馴染みになって話題が弾む。私も何人かの先輩や後輩と懇談して親密になった。ホームページの「南丹生活」を知らない人が意外に多く、そのPRにも精出したことだった。

 終わりの時間が近くなり、今西茂子さん(高校4回卒)の指揮で校歌を斉唱した。まず旧中卒業生6人が壇上に勢揃いして歌い、次いで高校の校歌を全員が合唱した。最後は、最年長の市原俊弥氏(旧中8回卒)の音頭で万歳を3唱して終宴となった。

 今年は120周年の記念誌が発行され、今回の懇親会に一部間に合ったようである。正式には、5月に入って配布となる予定になっている。この120年間に母校の卒業生は2万人を超えると聞く。生存者の正確な人数は不明であるが、こうした記念行事への賛同者や同窓会への出席者は、比率からすれば決して多くはない。他の学校の傾向も同じなのか。

 いずれにしても、高校時代が楽しかったと思える人は幸せだろう。その時代が辛くて苦痛だった者の方が、むしろ多いのかも知れない。しかし、どんな時代であったにせよ、自分史の一画を占める時代であることは事実である。たとえ辛く哀しい時期だったとしても、私達の人生の青春の時だったのだ。どんな思いの時代であっても、人生の貴重な時間を過ごした期間である。やはりそれだけに、大切にすべき時代なのではないかと思う。

 そんな思いを抱きながら、雨の上がった東京を後に私は帰路に就いた。

更新日 平成21年4月28日

← 前のページ目次に戻る | 次のページ →

このページの上へ▲

Copyright(c) H19〜 TANBA RAKUICHI. All rights reserved.

アクセスカウンタ