第61回 喪中と年賀
年賀状を出す風習は、いつ頃から始まったのだろうか。それに、日本以外でこうした習慣を持つ国があるのかどうか。儀礼だとか選挙戦術に利用されているなど、いろいろの批判もある。ただ、一年に一度、離れている友人や知人、あるいは親族の者達と消息を交換し合う効用があることも、やはり否定は出来ない。
私が初めて年賀状をやり取りしたのは、中学校の一年生だった。中学校は、北桑田郡(現京都市右京区)の南部の中心に位置する周山町にあった。周辺部8カ町村から生徒が集まり、1年生だけで244名の生徒がいた。分校を含むと274名になる。入学が昭和25年だから、60年余り昔のことである。
その正月に、私は生まれて初めて年賀状を書いた。先生や級友、それに祖父や叔父なども含めて20枚ばかりだったと思う。葉書代は2円で、+1円の寄付が付いていた。そして、切手部分の図案は、赤い羽子板だった。
私がそんな昔の事を覚えているのには理由がある。元旦の朝に何枚か配達された賀状の中に、同じクラスの女性からの年賀状が3枚交(ま)ざっていたのだ。しかも、宛名が筆で書いてあった。
たとえ正月の挨拶に過ぎない賀状とはいえ、女性からそんなものを貰ったのは生まれて始めての経験である。しかも、宛名の氏名が「様」付けなのだ。一瞬、私は人違いかと思った。しかし、私の名前が墨黒々と書いてあり、決して間違いなどではなかった。
田舎の借家に郵便受けなどは無かった。障子戸に開けた穴から土間に投げ入れられた固まりの中から、私宛の賀状を素早く抜き取った。そして、両親に見られるのが恥ずかしいので、机の引き出しへそっと隠した。
ただ、“男”として返礼はしなければならない。胸の鼓動を抑えながらうまく誤魔化して、父から3枚の年賀葉書をせしめた。そして、隠す様にして3人への年賀を書いた。
学校で書道は習っているとはいえ、慣れない筆で見るも無残な文字になった。しかも、同級生に「様」と書くのが照れくさくて、私は「さん」と書いて出したのである。受け取った彼女達は、さぞ驚いたことだろう。あるいは、呆れ返ったかも知れない。
あれから、60年以上の歳月が過ぎた。同窓会でたまに顔を合わすことはあっても、彼女達はそんな遠い日の事は忘れているのだろう。中学1年生の日の正月の年賀状が、話題になることは一度もない。
今年も賀状を書きながら、ぼんやりとそんな事を思い出していた。この半世紀以上の間に、交換する枚数は毎年多くなっていた。そして、仕事を辞めてからはそんな事もなくなり、むしろ減りつつあるのが実情である。
その原因は、当然ながら交流が薄れ、疎遠になって行く相手が増えるからである。そして鬼籍に入る者が、毎年の様に2人3人とあるのが、大きな理由である。新しい趣味の会の同人が増えてはいるものの、差し引きすればやはり減る数の方が多い。
12月になる少し前から届き始める喪中葉書が、毎年の如く増えつつある。その主なものは、両親や兄弟など親族の逝去が最も多い。伴侶の場合もたまにある。そして、中には当人が故人となった知らせが、必ず何枚か含まれている。
私がこの年末に受け取った喪中葉書は、全部で36枚だった。1年前に出した賀状の1割強に当たる。その中に、同級生本人の死亡が3人あった。不思議な事に、その2人が同級生結婚で、いずれも女性の方が亡くなっている。
また、葉書は受け取っていないが、同じく別の学校の同級生の奥さんに亡くなられた級友が1人ある。なぜ、同い年の奥さんに先立たれた級友が、3人(実数は4人だが)も重なったのか。偶然とはいえ、言葉では表現不可能な出来事ではある。
そんな喪中葉書の中に、園部高校のU君の訃報があった。彼は捕手で野球部の主将だった。私は、元々はバレーボール部に入っていた。そこへ、人数が不足したので野球部に助っ人(と)として招かれ、しばらく所属したことがある。
草野球仲間のA君に誘われたのだが、硬式野球など経験の無い私は、1カ月ばかり練習に参加しただけで、結局は続ける自身がなく退部してしまった。そんな中途半端な行為を取った私である。当時の野球部員とは、特別に親交が深かったわけでもない。
だ、主将のU君が、部費の請求をしようかどうか迷っているのを知りながら、結局は納めることもなく、私は退部してしまったのだ。
主将で捕手がポジションのU君は、統率力のある男性的な性格だった。臨時部員の私に部費の請求をするのを、責任上からずいぶん悩んだことだろう、と今にして思う。
運動部や文化部から生徒会の執行委員が選出されていて、その演説の応援弁士として、彼が演説したことがあった。聴衆の誰かが、きつい野次を飛ばした。日焼けした精悍な容貌の彼が、鋭い目でその生徒を睨み付けたのが、今でも深く印象に残っている。
U君の逝去は11月6日とのことだった。ただ、奥さんは気持ちが動転していて、仕事の関者だけに報せて、同級生には誰も連絡していなかったそうだ。それでも葬儀には、100名ばかりの関係者の参列者があったそうだ。
12月の半ばに、元野球部員のF君と住居が近いY君との3人で、仏前にお参りした時に聞いた話である。 U君とは数年前に同窓会の世話役を一緒に担当してから、交流が復活した。今年の正月の年賀状には、「まだ現役で頑張っている」と元気な筆致で書いてあった。
彼の死因は、大動脈破裂との事である。サラリーマン時代も自営業になってからも相当な酒豪で、数々の武勇伝があったらしい。
かなり前から腹部に激痛があったにも拘わらず、彼は一言も口に出すことがなかったそうだ。そんな性格が、結局は取り返しの付かない結果を招いてしまった、と奥さんがしんみり話された。
10年近く前に腸癌を患った経験があるU君だが、自分の体調や痛みなどを、ほとんど口にすることは無かったらしい。家族に心配を掛けないとの配慮もあったのだろうか。全く愚痴をこぼすことのなかった男っぽい性格が、結局は命取りとなってしまった。
48日間も集中治療室に居た彼の最後の言葉が、「済まんかった」の一言だった、と奥さんが涙ぐまれた。その姿を見て、私も思わず貰い泣きしてしまった。
仏壇に飾ってある遺影のU君は、穏やかな笑顔を見せている。高校の野球部時代の精悍さは影を潜めて、穏やかで優しい表情をしていた。
彼の命日の2日後に、私達の同窓会の「八桜会」があった。彼の顔が見られず、私は仕事で忙しいのだろうと思っていた。だが、既にその時彼は、永遠(とわ)の眠りに就いていたのだ。
U君の机の上には、同窓会の案内葉書がずっと置いてあったそうだ。元気ならどんなに出席したかったことか。帰り際に目を伏せて呟かれた奥さんの最後の言葉が、ずっと耳から離れない。
正月は、当然ながら必ず巡って来る。そして、生きている限り、友人や知人とは年賀状の交換は続くだろう。しかし、それも年々少しずつ減っていく。やがては、1枚も来なくなる日があるのかも知れない。
更新日 平成23年12月28日
第62回 雨水近き丹波路
この19日は、暦の上では「雨水」(うすい)である。降る雪は雨に変わり、積もった雪は解けて水となる。二十四節気の一つとされている。
今年の日本は、日本海側では記録的な豪雪に襲われている。京都府の丹後地方もかなりの大雪に見舞われ、美山町の奥地も深い雪の下にある。
ボランティアの学生が、雪下ろしに協力したとの報道もあった。その反面、山を一つ越えた丹波地区では、雪は例年よりもむしろ少ない。
複雑な気象の変化や変動は、人智では測り知れないものがある。その異常の原因がたとえ人間にあっても、一般的には理由は不可思議としか思えない。
今年の園部町では、−10℃と観測史上の新記録も達成(?)している。そんな、目まぐるしい日々の移ろいの中の半ば頃だった。旧友15名が、丹波町和知に顔を揃えた。そして、道の駅「和」で牡丹鍋を囲んだ。
寒さもやや緩んだ薄曇りの嵯峨野線と称する区間の沿線には、雪の欠けらも見られなかった。この沿線は園部駅までは複線電化されて、格段に便利になった。私達が通学通勤していた時代とは、まさに雲泥の差である。
ただ、嵯峨野線の名称が途切れる土地へ行くのには、園部駅で乗り換えねばならず、相当に不便である。どの駅も総て無人らしく、下車は最前列の出入り口以外は不可となっている。
運転手が切符を徴収するので、ICカードでは下車させてもらえない。昨年にその事実を知った者は切符を買って乗車したが、今年が初めての者はやはり往生していた。
列車が胡麻駅を過ぎて下山駅へ差し掛かる辺りから、線路際や川辺りの所々に残雪があるのを車窓から見られた。
胡麻高原は大堰川と由良川の分水嶺と聞く。そこを過ぎて丹後方面へ向かう辺りからは、やはり雪が多いのだろう。窓からの展望が急に白くなった。
和知の長老ガ岳は霧か靄で隠れてしまって、その姿を望むことは出来なかった。道の駅の周囲にも雪が残っていて、眼下を流れる由良川の水量は豊かだった。
さすがに「雨水」が近づいて、沿川の雪が解け初めているのかも知れない。鍋を囲む前に、飲み物は各自で自由にと説明すると、胡麻のN君が「川の水が飲みたい」と発言した。
やはり、滔々とした豊かな流れ;に魅了されたのか。「どうぞ好きなだけ、川に漬かって飲んでもらっても結構」と言えば、仲間の雰囲気が一気に和んだ。尤も、彼は由良川の水ではなくて、麦や米の水をかなり飲んでご機嫌だったが。
牡丹鍋の肉はなかなか柔らかくて、味付けも辛くないように配慮がされていた。近くの安栖里に住むK君が顔を見せなかったので、彼を知悉している道の駅の従業員が電話を架けたり、自宅まで呼びに出向いてくれた。しかし、K君の行方は知れず、14名で鍋会は和気藹々と進んだ。
そう言えば、昨年も予定の2名が、「忘れていた」との理由(?)で顔を見せなかった。和知在のK君は、「日を間違えていた」と、後で分かった。その代わりと言うのも当たらないが、今回は広島に住むY君が参加した。
たまたま、彼は須知の実家に帰っていたとのことだったが、やはり旧友との邂逅の念が強く無ければ、予定を延期してまで参加はしないだろう。遠来のYの音頭で乾杯をした。
今回は、所用や体調の理由で、前回の仲間が4人ばかり顔を見せなかった。しかし、初めて顔を見せた旧友も3人あって、いつもの賑やかな集まりとなったのである。
ビールはもちろん、熱燗に冷酒に、ワインを好む女性も居て、会話は大いに弾んだ。中東の秘境旅行に出掛けて来た∪君の体験談が、座に華を添えたものだ。
2時頃に鍋の食事が終り、引き続いて駅の近くのK君の別宅へと、場所を移した。日を間違えていたK君とは同姓である。
梁の見える天井の下に、暖炉風の薪ストーブが赤い炎を上げていた。K君が道の駅の鍋会には出ずに、朝から部屋を暖めてくれていたのだ。
部屋に到着すると、炭火で餅を焼いて善哉を振る舞ってくれた。参加した女性が手際よく手伝ってくれて、男性はただお相伴に預かるばかりである。
鍋会の日を間違えていたK君も顔を見せた。庭の隅や軒下には、残雪が山の様に積み上げられていた。
家主のK君が準備してくれていたのか、それとも日を失念したK君が持参したのか、地元の銘酒「長老」の冷酒があった。
道の駅でかなり飲んでいるにも拘わらず、それからも杯は大いにあちこちを交差した。上り列車は1時間に1本である。4時半の列車かそれとも5時半だったのか、やがてほとんどの仲間が引き上げた。
私は何時の列車に乗ったのか。胡麻のN君に誘われて、私とH君が途中下車した。私と彼は市内組だが、殿田と園部に住む女性も2名が同道した。
胡麻を訪れたのは中学3年生だったから、今回は60年振りとなる。おそらく駅やその周辺は大きく変貌しているのだろうが、暗い夜の上にすでにかなりの酩酊状態で、そんな状況はまるで把握出来なかった。
駅から数分歩いた所に、園部高校の後輩が経営しているレストランバーがあって、N君がそこへ案内してくれた。店の名称は記憶にないのが、今では申し訳ない思いである。
そこの奥さんも後輩らしい。私達5人はカウンターで引き続いて杯を傾けた。7時前には、2人の女性が夕食の準備との理由で帰って行った。
男性組の私達3人が引き続き飲んでいるカウンターへ、これも高校の後輩との男性が奥さんを連れてやって来た。
南丹市役所の勤務らしい。私は何をどれだけ飲んだのか、後輩達と何を喋ったのかは定かではない。「南丹生活」の宣伝は忘れなかったはずだ。
それでも、座は賑やかに湧いて、やがてアルコールを飲んでいない奥さんの運転で園部駅まで送ってもらった。ちょうど発車の近い列車が止まっていて、もし胡麻駅からだったら、駅で長時間待っていたかも知れない。
H君が太秦で下車して、私は二条駅から地下鉄に乗り換えて帰路に着いた。終点から自宅までは10分足らずの距離だが、深夜のため気温はかなり下がっていたのだろう。
寒さに顫えふらつく足許ながら、可能な限りの早足で私はやっと家へ辿り着いたのだった。久々の午前様だなどとふざけて、妻に呆れられ叱られた一日だった。胡麻で飲んでいる時にメールをくれたらしいが、私は見ていなかったのだった。
「雨水」の一日前の18日に、我が家の周辺にも3センチばかり雪が積もった。この冬初めての積雪である。丹波路は、さぞ大雪だったことだろう。
今年初めてのその雪は淡い雪で、折からの春を思わす陽射しを受けて、昼前にはすっかり解けて消えた。
あの日、山里に積もった雪はどうなのか。今ではもうかなり解けて、川の水は随分と多くなっていることだろう。もう、今は「雨水」も3日目となった。
更新日 平成24年2月23日