第56回 遠き自己表現の道
2009年11月に『原型短歌会』に入会して、早くも1年6カ月となった。その間、毎月1度の「関西ぐるうぷ」例会には、休まずに出席している。例会は3個所が持ち回りで、京都の会場は目下工事中のため、大阪2個所神戸1個所とやや遠方ではあるものの、何とか途切れずに続いている。
例会当日までに、前以て提出した約25首程度の詠草一覧表が配られていて、出席者が会場で好みの5首を投票する。
その出席者は、自分の投票作品について順次コメントを発表する。投票の無い歌には、司会者が適宜名指しして意見を聞く。もちろん、どの作品にも自主的に発言して差し支えない。当日の欠席者にも、後日まとめた会報が配られる。
この例会での得票が多い詠草は、もちろん優秀作として評価されて然るべきなのだろう。私の歌は、精々毎回3票止まりでおおむね1票か2票である。今にして思えば、初回の6票が信じられないほどではある。
最高得票はいつも7票か8票で、たまに10票のこともある。これは、メンバーの3割程度が投票していることになる。ただ、ベテランの会員の作品が、必ずしも高得点とは限らない。私の好みから言えば、むしろ意外と思える歌が注目を集めている、と感じられることが多い。
この「関西ぐるうぷ」例会へ顔を出す園部高校関係者は、石川先生を始め私とSさんの3名である。注目を集めていたK君は、諸般の事情で最近はずっと欠席している。過去に2度ばかり顔を見せたM君は、毎回投稿だけの参加である。
月に1度の例会の日は、先生やSさんと高校時代の話が弾むこともあり、しばし昔の日へ還れる楽しい時間となっている。
月刊誌の『原型』への投稿では、母校の卒業生の会員が今では8名になった。総て第8回の卒業生である。もちろん石川先生は以前からの重要メンバーで、先生のお孫さんも会員である。大学生の彼は極めて優秀で、1年で1ランク昇級した。さすがは先生の血統である。
そんな折柄、6月半ば近くに全国大会が開催された。会場は新都ホテルで2日間に及ぶ、大がかりな歌会である。遠方からの参加者は泊まり掛けとなり、夜は懇親会が開かれる。
新米の私は当初は躊躇していたが、歌会のみに出席することにした。参加者は前以て1首を投稿し、46首の詠草一覧表が届いた。当日5首を選んで投票するのは、毎月の例会と同じである。園部高校関係は、石川先生以外に、3名の参加となっていた。
当日は全国から集まった46名の会員で、会場はかなりの熱気に包まれた。母校の同級生は、結局のところ私とIさんの2名に落ち着いた。
活発な意見が飛び交い、なかなか熱い雰囲気で終始盛り上がった。コメント発表は座席順のため、投票した作品とは限らない。ただ、これだけの数の作品となると1日では終わらず、2日目の最後に高得票者の表象があった。
この全国大会でも、私の好みからすると意外な作品が評価されていた。私の感覚が古いのか偏っているのか、私自身には分からない。いずれにしても、短歌は31文字の自己表現である。言葉や表現方法やテーマが何であっても、結局は多くの人に共感を与える作品が優秀なのだろう。
ちなみに、今回の全国歌会での優秀作を列挙する。
- 捲りつつラ・クンパルシータに迷いこむラ行の何をさがしてたっけ 14点
- はつなつの風に白茅(ちがや)の穂は揺れるかつて兵士を送りし峠 11点
- ポセイドン海よりあがる
幾波(いくは)にも異様(ことざま)なりし波ひきつれて 〃 - 策はあるどんな時にも策はある テレビに龍馬が呟きており 10点
- 放射性セシウム浴びし小女子(こうなご)が
澄みたる眼(まなこ)を天に瞠(みひら)く 〃 - 捨てる・捨てぬ迷う事なし捨てるなと叩き込まれし昭和一桁 9点
- 母ちやんの居ない子の今日入学式ランドセル服靴みな揃つてた 〃
- 被災地の窮状脳裏を去らぬ日日洗濯機に満たす水罪のごと 8点
- 消えてなくなるもの雪・氷・明けの夢・昨日ありたる人恕す心 〃
- 夫々に理由はあるらむ早朝の牛丼店に牛丼突つく 〃
以上の10詠草である。私は、2番目の「はつなつの〜」の作品に1票入れている。出席した会員では、私が1番キャリアが短い。このことは、冒頭の自己紹介で確認済みである。大勢の練達の士が選んだのだから、やはりどれもが優れた歌なのだろう、と思う。
大会が終わってから、石川先生とはまだ話しをしていない。さすがに合評会での先生のコメントは的確で表現力豊かなものだった。先生の講義もしっかり受けて、これからも精進あるのみである。私の提出した作品は
- 木漏れ日の陽光にさへ震へるか一人静の青白き花穗 4点
表彰作品以外に得票は発表されなかったので、司会者に特別に尋ねて知った点数である。恥を承知で挙げた。当日受けた種々のコメントは省略する。
更新日 平成23年6月22日
第57回 梅雨の間の同窓会
先月の下旬近くに、八木中学の同窓会が久し振りで開催された。前回から約2年半振りである。
最近は、京都駅から園部駅迄の山陰線(嵯峨野線)が電化になり複線化され、乗車時間は30分と蒸気・内燃・単線時代の約半分に短縮した。昔に比べると距離感はずいぶん縮まり、古里は感覚的にも実質的にもかなり近くなった。
ただ、私の家族はすでに八木町には居ないし、住んで居た借家も取り壊されて更地になってしまっている。
また、妻の実家も別の場所へ移転したり両親が逝去するなどして、逆に徐々に縁遠くなってしまっているのは否めない。
園部町へは、高校の行事などがたまに開催されることもあって、時々訪れる機会がある。しかし、そんな折でも八木町は素通りして車窓から眺めるばかりで、ついご無沙汰勝ちになってしまっている。
この春に京北町の桜を観に行って、その帰路に友人の車で寄り道してもらったことがあった。その日の大堰川畔の桜は満開だったのに、東日本大震災による自粛の影響で桜祭りは中止とのことだった。
私の記憶では、これまでで最高と思える程の爛漫と咲く桜の下に、私達4人以外に人影は全く見られなかった。
そんな淋しい、或る意味では、私達だけの贅沢な花見を堪能した、と言えないこともない。そして、今回の同窓会が、大堰川畔の八光館で開かれた。
そんな折柄、6月半ば近くに全国大会が開催された。会場は新都ホテルで2日間に及ぶ、大がかりな歌会である。遠方からの参加者は泊まり掛けとなり、夜は懇親会が開かれる。
その日は梅雨の最中で予報も雨とのことだったが、曇ってはいたものの雨の気配は見られなかった。
八木町には4個所の小学校があり、それぞれの出身校毎に幹事が決められている。私は中学3年生の2学期で八木中へ転校して来たので、小学校には縁がない。しかし、八木駅の近くに住んでいたため、八木小出身者の中に入れられている。
八木小関係の世話役はY君で、彼とは前回以来の邂逅となった。体調が思わしくないと言いながら、昔と変わらない温厚な表情で会計係も務めていた。
高校時代に彼の柴山の自宅へ2、3度訪れたことがある。自転車で八木島から山道へ入って行ったのだが、あの道は広くなって光景もすっかり変化しているとのことだった。
たまに、義父母の墓参りで菩提寺の龍興寺へ参詣することがある。裏山の墓地へ登る途中から別れ道があって、柴山への表示が出ている。
私はその横を通るたびに、その地名を懐かしく眺めている。思い切ってその横道へ入ろうかとも思うのだが、未だ果たせずにいる。
会場の窓から見渡せる大堰川は増水気味で、4月の桜の時期には何組か泳いでいた鴨の群れは見られなかった。桜はすっかり葉桜となって、濃く青い葉が重そうに繁っている。愛宕山は雲に隠れていて見えなかった。
出席者した同級生は53名で、出席予定だったY先生が体調の加減で欠席となった。私の担任だったK先生は3月に亡くなられた。
先生にお会いしたのは前々回の同窓会だから、5年以上も前のことになる。もう1人ご健在の先生が居られるが、晩年は奥様の看病もあるらしく、以前からも一度も出席されていない。
私達が古希を過ぎて、すでに3年から4年が経っている。大多数が亡くなられたが、ご健在の先生方は80才半ばから後半になられるはずだ。今後も、もう恐らく顔を合わせることはないのだろう。
同級生でさえ、毎年2人3人と鬼籍に入る者が増えている。昨年から今年に掛けて、私の知るだけでも、2名の女性が亡くなっている。
どちらも、ほとんど毎回の同窓会に顔を出していて元気だったのに、信じられない事態に残念がる級友の声が多かった。
開会に先立ち、世話役代表の挨拶と共に、今年は特に東日本震災の物故者への哀悼も込めて、故人となった級友と先生へ暫しの黙祷を捧げた。
私が八木中に在籍したのは、3年生の2学期と3学期の僅か6カ月間だけである。園部高校へ進学した者とはその後も交友関係が続いたものの、他校へ進学したり就職した者は、半世紀経った今では良く覚えていない同級生が多い。
それでも、抽選で座った座席で時間が経つに連れ、和やかな雰囲気に包まれて話が弾んだ。名前や顔を覚えていなくても、名札で確認しながらやはり共通の話題は幾らでもある。
盃のやり取りが増えるに連れて、お互いに座席の往き来も目立ち始めた。世話役の文字通りの世話によるビンゴゲームが始まる頃は、会場はずいぶん盛り上がった。
座席間の交流はっそう活発になり、私も他の級友の席を占領してしまったりしながら、盃やグラスのやり取りが大いに弾んだ。
やがて予定時間が来て、それぞれが次回の再会を約して別れを惜しんだ。私は最後に、同じクラスだったN君と握手をした。須知高校へ進学した彼は、吉富でずっと農業をしている。いつか、彼が栽培している最高級の椎茸を貰ったことがある。大振りの見事な出来栄えで、八木町の銘産品になっているらしい。
畑仕事をしているとは思えない色白の優しい表情の彼の手は、逞しくて分厚かった。そして温かだった。私達は再会を約して、しっかり手を握りあって別れた。
八木町には4個所の小学校があり、それぞれの出身校毎に幹事が決められている。私は中学3年生の2学期で八木中へ転校して来たので、小学校には縁がない。しかし、八木駅の近くに住んでいたため、八木小出身者の中に入れられている。
宴会が済み級友達と別れた後、私は1人で大堰川畔の堤防を歩いた。そして、かつて私が住んでいた黒住教会の社務所跡や、眼下の町営住宅の家並みを歩いた。
教会はいつの頃にか取り壊されて、小さな遊園地になっている。「京都府の自然200選」に指定されている欅の大木が、岩盤に食い込んで悠然と聳えている。私の住んで居た頃より、更に太く大きくなっている様に思える。
建物の跡地には滑り台やブランコがあっても、今は遊ぶ幼児はいないのだろうか。堤防沿いに続いていた樫や楠の樹木は伐られ、護岸工事で整然とした堤防が続いている。
あの頃、私達が泳いだ渕や鮴(ゴリ)を掬った川瀬は姿を消して、まるで波の立たないプールかと見紛う、穏やかな水面が川下の寅天井関まで広がるばかりだった。
その足で訪れた町営住宅の家並みも、日曜日にも拘わらず静まり返っていた。子供達の歓声が住宅地に響き渡っていたのは、もう半世紀も昔のことになるのだろう。
最後に立ち寄った八木中学校は、私達の頃の木造校舎は鉄筋に建て替えられて立派になっている。
ただ、校門からは入れないので、表から眺めながら素通りするしかなかった。転校した私がK先生の授業を受けた教室は、もちろん跡形も無い。
毎朝のホームルームで、先生は朝日新聞の「天声人語」を読んで聞かされた。眼鏡の奥の優しい目が、その時は生き生きと輝いていたのが、昨日のことの様に思い出される。
最近の在校生の数はどうなのだろう。嵯峨野線が複線になる前後から、亀岡駅はもちろん並河駅や千代川駅は見違えるばかりに立派な駅になっている。駅前の開発も活発である。吉富駅や園部駅もずいぶん広く美しい駅になった。
しかし八木駅だけは、私が通学通勤していた頃と全く変わっていない。木製の階段はすり減って、跨線橋の所々には隙間さえ空いている。
その窓から見える南丹病院は、大きく立派になっているのに、八木駅の昔ながらの現状はいつも私には不思議に思えてならない。
駅前の商店街もほとんどがシャッターが下ろされたままで、人通りはまるで見られない。つい最近も、妻の同級生で乾物店を開いていた後輩が亡くなった。店舗は閉められてしまい、また一つ商店街が淋しくなった。
八木町は駅前周辺よりも、橋を越えた向こうが広がっている地形なのは確かである。それでも、同窓会に集まる級友達は何処から來るのだろう、とそんな気持ちが過(よ)ぎる程の淋しい思いが拭えなかった。
次回の八木中同窓会は、2年ばかり後になるのだろうか。宴会の最後には、新しい世話役が発表された。同窓生の加齢と共に、これからの参加者は減るばかりなのか。
それとも、卒業以来一度も顔を見せていない同級生の多くが、もし出席する気持ちになれば、私達の邂逅はかなり盛会になるだろう。
そんな事を願いつつ、私は嵯峨野線で帰路に就いた。梅雨の間の雲が晴れて、愛宕山が少しだけ覗いていた。
更新日 平成23年7月9日
第58回 少しは秋の気配が
今年は、と言うべきなのか。今年も、と称するのが正しいのか。いずれにしても、9月も半ばを過ぎたにも拘わらず、厳しい残暑が続いている。9月の過去最高を記録した地域もある。
温暖化現象は世界的な傾向で、至る所に気温の上昇による異変も見られる。確かに、地球規模の現象には違いない。
だが、先日テレビで気象学者が、寒冷化の進んでいる地域もあると説明していた。南極や北極では万年雪や氷河が溶け出しているのに、降雪の増えている地域もあるそうだ。
地球全体ではバランスが取れているのか。或いは、異常気象はやはり地球の断末魔の呻き声なのか。自然現象は人智を超えたものがあるのは、どうやら事実ではあるらしい。
そんな残暑の厳しい一日、山陰沿線を行く機会があった。かねてから計画していた、「落ち鮎の会」で和知まで出向いたのである。
複線になり電化されて嵯峨野線と愛称が付いてから、さすがに電車の進行は早い。私は二条駅から乗車したのだが、京都駅から乗った級友に声を掛けられ、久々の会話が弾んだ。
電車が嵯峨嵐山から亀岡へと進むに連れて、1人2人と知った顔が乗って来る。保津峡辺りでは山は青々としていて、まだまだ夏の様相を示している。
それが、トンネルを抜けて亀岡盆地へ入ると、田圃の稲穂が色づき出しているのが目についた。昔と比べると1カ月近くは早いのだろう。
未だ夏の気配の去らない周囲の風景の中で、稲穂の黄色が懸命に秋を引き寄せようとしているのか。
何となく違和感を覚えながら車窓から眺めていると、青々とした畦道の所々に、赤い彼岸花が咲いているのが目に入った。
車窓が移るに連れて目を凝らしていると、至る所に彼岸花は咲いていた。この花を見ると気持ちが落ち着く、と同乗の級友も心持ち目を細めて見入っていた。
残暑は厳しくても秋の彼岸が近い。彼岸花が咲くのも当然かも知れない。私の記憶からすれば、重く実った黄色の稲穂と真紅の彼岸花は、かなり秋の深い頃のものである。
やはり、最近は温暖化で気温は高めなのだろう。そんな中で、彼岸花は敏感に秋の気配を感じて咲き始めているのかも知れない。
- 舂(うすづ)ける彼岸秋陽に狐ばな赤々そまれりここはどこのみち
- (木下利玄)
彼岸花を見ると、私はいつもこの歌を思い浮かべる。子供の頃は、彼岸花の咲き乱れる細い道を辿りながら、いつの間にか知らない場所を歩いていた。
短い秋の陽が傾き始め、頬を撫でる風が涼しい。彼岸花は狐花とも呼ぶ。ふと、狐に騙されているのでは、とそんな心細い思いになって、慌てて元来た道へ引き返したものだった。
まだ少し秋には早い、やっと咲き始めた彼岸花の丹波路を車窓から眺めながら、そんな遠い昔の事を想い出していた。
その日は、和知の道の駅へ十数名が集まって、落ち鮎を楽しむ予定だった。“うっかり忘れていた”者が2名いて、顔を揃えた者は12名になった。
由良川畔のテント張りの席は暑くて、冷房の効いた室内でテーブルを囲んだ。平日のせいか、昼食時間ながら私達の他に1組か2組しか客は見なかった。
「落ち鮎の会」は今回で2回目だったが、初めて顔を見せた者もあって、お互いに数十年振りの出逢いになる級友もいた。
そんな中で、改めて自己紹介などをしながら、和気藹々と話は弾んだ。期待の鮎の塩焼きは、1人に4匹ずつ出た。3匹で満腹した者の分を貰うなど、5匹食べた者も存在した。
私達は全員が鮎に堪能して、アルコールにも満足して(これは一部の者だが)、食事の後は地元のK君宅の別宅で寛いだ。
恐らく100年を超える古い建屋は、昔のままの状態が保たれていて、太い梁の下で休んでいると、いつも心が落ち着く。
園部から和知までの列車の本数は少なく、乗車時間は1時間を要する。それでも、多くの級友が和知へ行くのを楽しみにしているのは、このK君の古い別宅で寛げるからである。
昔のままの佇まいの家の中で、昔の級友達が顔を会わせて歓談する。そこには、まるで時間の止まった如き空間がある。
私達が高校を出てから、今はもう55年が過ぎている。この半世紀もの間に、級友達の様々な時が流れた。
既に故人となった者もおれば、同窓会などには一度も出席していない級友もいる。少人数の集まりなら余計に顔を出さない者もいるだろう。
瞬く間に過ぎた、ささやかなひと時ではあった。それでも、こうして懐旧の場を持てることを、出席した級友の誰もが心から感じていたようだった。
やがて夕刻が近付いた。お互いにしばしの名残りを惜しみながら、私達はそれぞれの帰路に就いた。
いつの間にか空には雲が出て、気温も少し低くなった様である。もう薄暗くなった車窓からは、彼岸花はよく見えなかった。
最寄りの駅に着くと雨になっていた。久々の雨だった。私は少しふらつく足で、気持ちの好い小雨の中を濡れながら歩いて我が家へ向かった。
更新日 平成23年9月17日
第59回 再びの「小短会」
今年は猛暑の余韻を引き摺っているかの様に、10月に入っても夏日が何度かあり、地域によっては30℃を超える真夏日さえ記録した。
10月21日は朝からよく晴れた眩しいばかりの好天気の日だった。日向を歩くと汗ばむばかりである。
園部高校の国語教師だったI先生を囲んで、園部町の「陽だまり」で同級生有志の「小短会」を開催した。第1回を亀岡市の「玉川楼」で開いて、丁度1年目である。
今回も、亀岡市に住むIさんが準備に奔走してくれた。場所の設定や詠草者の勧誘を初め、寄せられた作品の一覧表作成と事前の発送など、多大な労力を注いでくれた。
送られて来た詠草集には、合計28首もの短歌が達筆で書かれてあった。目が悪くなったと言う彼女に代わって、ご主人が清書されたらしい。
元音楽の教師で小学校の校長の経験もあると言うご主人には、第1回の会合の後で、「ガレリア亀岡」でピアノ演奏を聴かせてもらった。今回も、「陽だまり」にはピアノも置いてあって、演奏を披露してもらえる計画になっていた。
快晴の亀岡盆地を過ぎた園部駅へは、Iさんとお嬢さんが車で迎えに来てくれていた。茨木市から来たN君ら4人が便乗して先に行き、私達は、城陽市のSさんと西京区のKさんの3人で会場まで歩いた。
Kさんは八木町に実家があり、園部町が故郷のSさんにしても旧町内を通ることはなく、昔の面影を残す町並みに2人は懐かしさに歓声を上げ通しだった。
本町の中央部辺りにある会場の「陽だまり」は、元は自転車店だった所である。私達が高校生の頃の商店街は隆盛期だったのだろう。様々な種類の商店が軒を連ねて賑わっていた。
高校へは山・川・町の3つのコースがあって、八木町から汽車通の私は大抵は山コースから登校した。たまには川コースを行くことがあっても、町コースは帰路に本屋へ寄ったりする時に通る程度だった。
かなり大きい自転車店の店頭に、八木中の同級生のHさんが立っていて、私達が通ると恥ずかしそうに顔を伏せていた姿が目に浮かぶ。
彼女は、家庭の事情で高校へは進学せずに就職したらしい。その就職先が、高校のある町だったのは、本人にはさぞ辛かったことと思う。
私達が60歳近くになった頃に、八木中の同窓会があって彼女と再会した。たまたま席が同じになり、私は昔話をするのが懐かしかった。だが、彼女は3年の2学期からの転校生だった私の事を、よく覚えていなかった。中学時代の写真を持って来ていて、私が昔の彼女を即座に当てると、驚きながらも昔と変わらない大きな目を輝かせていた。
自転車店勤務の後、数奇な運命を辿ったらしい彼女は、大堰川の堤防近くにある居酒屋で働いているとのことだった。その日、十数名がその店で2次会を持ち、夕方遅くまで賑やかに過ごした。
Hさんが亡くなったと聞いたのは、それから何年も経っていなかった。まさに佳人薄命の人生だった彼女が、最初に働いた自転車店の跡で今回の会合を持ち、私だけの感慨を込めて会場へ入って行った。
「小短会」には28首の詠草があり、当日の出席者は先生を入れて23名となった。前回から続いて顔を見せている者や初めて参加した同級生も含めて、亀岡在の方が2名と、Iさんの姉妹2名も参加された。
男性は私を含めて6名で、尼崎からK君が来てくれた。彼は原型を中休みしているが、かなりの多趣味で、額縁に入れた自作の写真を持参して全員に進呈してくれた。
100円ショップで買ったのだから気にしないでほしい、と彼の笑顔を私は久し振りで見た。K君は、合評の対象には間に合わなかったが、自分の詠草も添えていた。
原型の会員でもある地元のK君とTさんが、初めて顔を見せた。山科からのM君は腰痛を堪えての出席である。
また、「みその老人会」の会長を長年勤め、最近短歌の冊子を纏めたN君と、現在の短歌指導をしているKさんも初参加である。その反対に、作品は提出しているものの、所用で欠席の男性が3名あった。
10時過ぎから私が司会役を勤めて、事前に投票した歌の感想を当該者に発表してもらった。私も若干の感想を述べることもあり、最後はI先生に1首毎に講評を添えてもらった。
歌作りにかなりの年季が入った者も居るが、殆どは初心者ばかりである。出来栄えの巧拙は問題ではなく、何を表現している(しようとしている)のか、が読む側に伝わればそれで十分である。
I先生の優しく温かい視点で感想を交えた添削の言葉には、全員が深く納得しながら和気藹々と会合は進んだ。
この施設は身障者の人達が働ける制度になっていて、隣の三亀楼から取り寄せた昼食の弁当を1個ずつ配るなど、精一杯の誠意に溢れる勤務振りだった。
食後も残り半数の作品の合評に入り、3時過ぎに全首が終了した。7票で最高得点はSさんと、将棋の会合で欠席のM君だった。Sさんには、Iさん寄贈の色紙と手製による千代紙の小函が進呈された。
次点は6票のK君とNさんで、所用で欠席のH君も同票だった。2人にはやはり小函を進呈した。そして、これもIさん手製の千代紙細工の人形を、地元で短歌に活躍しているKさんが出席者全員に配ってくれた。因みに、私の作品は5票だった。
「小短会」は、ささやかな歌の会との意味である。何年も前から短歌に親しんでいる者も居れば、最近になって始めた級友も居る。私も、やっと1年半が過ぎたばかりである。
だから、作品の巧拙を問うことは論外である。様々な境遇を暮らして古希を過ぎた者達が、過去の人生振り返り、現在を反芻し、そして、未来にも思いを馳せる。そんな気持ちを31文字で表現する。そうした気楽な集まりとして、これからも続けて行きたい。それが全員の願いである。
今回、詠草はしなかったが興味を持って、西京区からKさんが参加している。彼女も自分の感想を述べるなど、短歌を詠む希望が湧いたとのことだった。
- 〈詠草各首〉
- (1)水張田(みはりだ)に囲まれ浮巣のごとき日々和鋏落とし鈴鳴りにけり
- I.MI 6票
- (2)場内に流れる校歌に胸を張り帽子をとりて深々と礼 I.C 2票
- (3)夏バテをしまいさせまい朝餉からレシピに腕をふるい奮闘す
- K.T 1票
- (4)蜩の朝から鳴きて涼やかに思う間もなく猛暑となりて 〃
- (5)所帯持つ記念にもらいし百日紅義父亡き今も満開に咲く U.M 5票
- (6)奧琵琶湖知らぬ同志でグランドゴルフ近くの人の名出て驚きぬ
- A.M
- (7)雪深き故に芝生がかたくなる球打ち追うも腕はあがらず 〃
- (8)るり渓で友と遊びし若きときボートに興じた日は遙かなり
- T.A 2票
- (9)たまさかの鈍雲(にびぐも)嬉し蝉たちも今朝は静かに萩咲き初める
- S.H 7票
- (10)我が身体(からだ)カナリヤの歌住みついて柳のむちの力借りたし
- M.N 2票
- (11)嵯峨菊の手入れ誇れる妻の声聞き流しつゝ吾駒いじり M.K 7票
- (12)朝光(あさかげ)を受けて真白き衣(きぬ)を干す
- 七十路生きるよろこび感謝 I.T 1票
- (13)大河の江に魅せられ長浜へ凛と生きる戦国の女 M.K 1票
- (14)贈られし友の遺作は花の額その花に似し面影消えず N.F 3票
- (15)限りなき原子の力の代償は 今、わだつみの声ともなりて 〃 5票
- (16)武道館仲間と共に晴舞台大正琴の妙なる調べ U.A 1票
- (17)悠々の活計(たつき)となり早や五年遅々として進まず身辺整理
- N.S 1票
- (18)兄弟をつづき送りし我が胸も満ちかけのあり月の如くに K.M 3票
- (19)震災も台風被害も少なくて感謝を込めてコシヒカリ刈る M.H 6票
- (20)公園の真青に澄める空を切る一直線のポプラ並木は N.H 1票
- (21)仲秋のまんまる月夜にすすむ酒またも見上げるなごみの里曲(さとわ)
- K.C 2票
- (22)ケータイに孫にもらいしストラップ付けてうれしやババにんまりと
- N.K 1票
- (23)温泉へ息子家族と娘夫婦お湯にひたりて想いひとしお 〃 2票
- (24)鹿よけの柵にからまる仙人草刈り残したは白きゆえにか H.F 6票
- (25)湿地(しるむ)田にトンボ羽根すり低く群れ残暑射すいま命燃やして
- O.M 4票
- (26)これほどの月と星とが輝けど九月の夜の趣(おもむき)おぼえず
- T.K 1票
- (27)七夕に生まれし万悠夏(まゆか)すこやかに大きくなれと星にねがいを
- I.M 2票
- (28)秋風にさそわれ出でし庭の虫我等の歌と相和しており I.H 2票
- (29)鍵閉めた鍵閉めない忘れ引き返す白きコスモス揺れて微笑む
- K.Y 合評外
短歌会が終わって、元音楽教師だったIさんのご主人の解説付きのピアノ演奏を聴かせてもらった。「童謡や唱歌を歌う会」を推進され、老人ホームなどでも演奏をしておられるらしく、的確で親切な説明だった。
選曲は童謡や唱歌から歌謡曲にまでと巾が広い。「赤とんぼ」「故郷」は、日本人の郷愁をそそる曲の第1位と2位とのことである。「星の界(よ)」「月の沙漠」を含め、全員で合唱した。I先生などは、懐かしさに涙が出た、と後で述懐しておられた。
そして、さらに「あざみの歌」「白い花の咲く頃」「古城」「知床旅情」など、かつて大ヒツトした歌謡曲にも演奏と合唱は広がった。
最後に、イギリスの民謡でベイリー作曲の「思い出」を、全員が心を込めて歌った。古関吉雄作詞の“かき(垣)に赤い花さく いつかのあの家”の歌詞で始まる、戦後間も無くに6年生で習った唱歌である。
「思い出」 作詞:古関吉雄/作曲:ベイリー
(昭和22年「6年生の音楽」)
1.
かきに赤い花さく いつかのあの家
ゆめに帰るその庭 はるかなむかし
鳥のうた木々めぐり そよかぜに花ゆらぐ
なつかしい思い出よ はるかなむかし
2.
白い雲うかんでた いつかのあの丘
かけおりた草のみち はるかなむかし
あの日の歌うたえば 思い出す青い空
なつかしいあの丘よ はるかなむかし
さらに古くは、明治21年に大和田健樹作詞「旅の暮」と題して掲載されていると聞いた。この紹介はなかったので帰宅して調べると、下記の歌詞が見付かった。その前に、作詞者不明の歌詞がある。
「むかしの昔」 作詞:不明/作曲:ベイリー
(明治20年3月「幼稚唱歌歌集(全)」)
1.
むかしの昔 いにし昔
おもかげ浮かぶ 世々の夢
きよみが關に たまつしま
遊びし昔 夢に見ゆ
2.
過にし昔 いにし昔
おもかげ浮かぶ 胸のうち
をばすての月 みかのはら
をばすての月 みかのはら
寝覚めの床に 浮かぶよな
「旅の暮」 作詞:大和田健樹/作曲:ベイリー
(明治21年5月「明治唱第一集」)
1.
落ち葉さそふ 森のしぐれ
なみだと散りて 顔をうつ
ふるさと遠き 旅の空
ゆきがた知らぬ 野辺の路
一夜をたれに 宿からん
2.
すすきにむせぶ 谷の嵐
夕ぐれさむく 身にぞしむ
木(こ)の間を漏るる 火の光
山邊にひびく 鐘のこゑ
うれしや あれに 宿からん
3.
夢にも見ゆる こひしわがや
そなたの空は 霧こめて
月影ほそく けむるなり
なきゆく雁も あときえぬ
あけなばいそぎ 文やらん
これらに続いて、明治40年以降には2曲が下記の歌詞で発表されている。
「思い出」 作詞:伊藤武雄/作曲:ベイリー (明治40年)
1.
よく訪ねてくれたる よくまあ ねえ君
よく訪ねてくれたね まあまあ 掛けたまえ
今日までの出来事 みな話そう お互いに
よくた訪ねてくれたね まあまあ 掛けたまえ
2.
あの頃はお互いに まだまだ幼くて
よく喧嘩をやったね ほんと懐かしい
あの角のお菓子やの 牧野君はどうしたろ
あの頃はお互いに ずいぶん暴れたね
3.
よくここを忘れずに よくまあねえ君
よく訪ねてくれたね 僕は嬉しいよ
この次は君の家(うち) 僕がきっと訪ねるよ
そうだ次の日曜に ではさようなら
「久しき昔」 作詞:近藤朔風/作曲:ベイリー (明治40年)
1.
語れ愛(め)でし真心 久しき昔の
歌え床し調べを 過ぎし昔の
汝(なれ)帰りぬ ああ嬉し
永き別れ ああ夢か
愛(め)ずる思い変わらず 久しき今も
2.
逢いし小径忘れじ 久しき昔の
げにもかたき誓いよ 過ぎし昔の
汝(な)が笑(え)まい 人にほめ
汝(な)が語る 愛に酔う
やさし言葉のこれり 久しき今も
3.
いよよ燃ゆる情(こころ)や 久しき昔の
語る面(おも)は床しや すぎし昔の
永く汝(なれ)と 別れて
いよよ知りぬ 真心
ともにあらば楽しや 久しき今も
私達は、Iさんの解説を聞き演奏に合わせて「思い出(古関作詞)」「久しき昔(近藤作詞)」「思い出(伊藤作詞)」の3曲を合唱して閉会とした。
短歌を詠み懐かしい唱歌を合唱して、心の安らぐ秋の一日を過ごし、全員が胸熱くなるばかりに、そして、ほのぼのと和やかな気持ちになっていた。
更新日 平成23年10月27日
第60回 秋の「八桜会」
この11月8日に、園部高校第8期生の同窓会である「八桜会」が、京都駅に隣接するグランヴィアホテルで開催された。
今年は気温の上下変動が激しく、10月に入ってからも冬日や夏日が入り乱れて、日々の季節感が翻弄され放しだった。
8日は暦の上では立冬である。「冬の気立ち初めていよいよ冷ゆれば也」との事だが、同窓会の日は朝から穏やかな秋晴れに恵まれた。
心地好い風と青空に、少し散策して見たい思いに駆られた程である。会場が駅舎に連結しているのが残念だ、とそんな贅沢な気分にさせられたものだ。
「八桜会」は、ほぼ1年半毎に定期的に開催されており、今年で正式には11回目になるのか。出席者は3名の先生と、同級生が85名だった。参加人員は大体この当たりで推移している。
開会に先立って、会長のN君から東日本大震災の衝撃を跳ね返す意味で元気を出そう、との挨拶があった。
「八桜会」からも、義援金を寄付したとのことである。金額の説明はなかったが、園部高校の同窓会では先端を切ったとのことだった。
ご招待したS先生のご挨拶の中で、何組か担任した学年では最も人数が多いとの話が出た。先生は88歳で矍鑠とされており、配られた名簿の中に「私の徒然草」と称する数学の問題が挟んであった。
要するに掛け算の例題を、0から9迄の全ての数字を使用して計算する遊びである。数学の担当だったS先生には遊びかも知れないが、果たして教え子達の中に完成させられる者が居るのだろうか。
数学の得意な生徒も存在したから、当然ながら正解を出せる者も居るはずである。ただ、宴会の席場だから考えるのを後回しにしただけだ、と思いたい。「徒然草」以外に「7問題」と称する割り算の例題が提出されていた。
除数と解答数と計算過程の4個所の合計6個所に1個ずつ7が入っていて、その他は7を使用しないで計算せよ、との数式である。私は、もちろん時間が無いので挑戦するのは止めた。今も止めたままであるが……。
英語の担当だったM先生は、83歳で地元にお住まいである。「憲法第9条を守る会」のリーダーとしても元気に活躍されている。今年は歴史の担当だったY先生が亡くなられて、担任は2名になってしまった。
国語の担当だったI先生は81歳と一番の“若手”で、最近は毎回出席して戴いている。同窓会以外でも、10月には有志で「小短会」を開催してご指導を仰いだ。
I先生が、ご挨拶の最後に先日の「小短会」での詠草を5首朗読された。その見事な朗詠に、作品の巧拙を超えて歌の内容がしみじみと伝わり、列席者の全員に感動の波が広がった。朗読された作品は、次の5首である。
- 鹿よけの柵にからまる仙人草刈り残したは白きゆえにか H.F
- 嵯峨菊の手入れ誇れる妻の声聞き流しつゝ吾駒いじり M.K
- たまさかの鈍雲(にびぐも)嬉し蝉たちも今朝は静かに萩咲き初める S.H
- 限りなき原子の力の代償は 今、わだつみの声ともなりて N.F
- 震災も台風被害も少なくて感謝を込めてコシヒカリ刈る K.H
- 所帯持つ記念にもらいし百日紅義父亡き今も満開に咲く U.M
前回の開催から後に5名の級友が亡くなって、物故者は38名となった。司会のK君の相図で、長い黙祷を捧げた。私達の同級生は295名だから、1割を軽く超えることになる。この数字が多い少ないかは分からないが、彼ら彼女らが早過ぎる死であることは間違いない。担任の先生は、半数を超える4名が鬼籍に入られた。
世話役の1人であるMさんの指揮で、私達は校歌を斉唱した。彼女は音楽の専門家で、世話役かどうかに関係なく、毎回美声を聴かせてくれる。
「緑濃き古城のほとり うるわしきわが学び舎に……」
校歌を唄うことなど、同窓会の時くらいしか機会が無い。私達は、そろそろ後期高齢者の部類に達する。それでも、母校の校歌を合唱する時は、いつも心は遠く少年少女の昔へ還っているのだろう。
同窓会は、この瞬間が最も熱くなるのではないか、とそんな気がする。校歌の後半にある「悠久 清新」の言葉が一番好きだ、と挨拶で述懐されたのはM先生だったか。
舞台の最終に、千葉から来たH君が、力強く乾杯の音頭を執った。今年は東日本の大震災を始め、台風禍などで各地が甚大な被害を蒙っている。
私達の乾杯に捧げる祈念の気持ちが、少しでも前向きに働く様にとの彼の気迫が全員に伝わって、大きな拍手が湧き上がった。
会食に入り、場所は籤引きで決めることになっている。私は偶然にH君の奥さんと同席になった。彼女は童話作家で、既に21冊の作品と2冊の評論を出版している。
児童文芸新人賞を皮切りに、日本児童文芸家協会賞・赤い鳥文学賞・産経児童出版文化大賞などを総なめにしている有望作家である。
最新作の「ゆらゆら橋からおんみょうじ」に、晴明神社が登場する。私はその近くで生まれており、一条戻り橋や堀川に話題が集中した。彼女は翌日にその周辺を散策する予定らしく、詳細な地図を持参していた。
旦那のH君はゴルフに参加するらしく、これも東京から来ているN君の発案で毎年10名近くが愉しんでいるとのことである。これも千葉から来ているK君や広島のU君など、熱心な愛好家が居て、丹波町のゴルフ場で技を競うらしい。
「八桜会」には同級同志で結婚した者が2組あって、H君夫妻が揃って参加するのはどちらかと言えば珍しい。
静岡のN君は、いつも必ず夫婦で出席していた。その奥さんがこの夏に交通事故で亡くなられて、今回はK君が1人で顔を見せた。
案内状の返信に「妻と2人で参加する」と書いてあったことを、私は聞いていた。奥さんが事故に遭われる直前の元気な写真を、彼は持参していた。
自分の不孝な運命などまるで予知していない笑顔の写真を見て、私は思わず涙が零れそうになった。N君は、その写真を遺影にしたそうである。
「八桜会」の出席者が、他の学年と比べて最も多いとのことではある。だが、それでも40%程度に過ぎず、顔を見せていない者達の方が遙かに多い。
私は事前に茨城県に住むO君に電話をした。彼は脚が悪くて、杖を突かないと歩行が困難とのことだった。在来線から新幹線への乗り換えや、長時間の車中が耐え切れない状態らしい。
これまでに彼は2度ばかり我が家に泊まって、同窓会へ出席している。2人の娘達がまだ小さい頃で、彼は彼女らに小遣いをくれたものだ。O君が同窓会に顔を出すことは、もう二度と再び不可能となった。彼に会うためには、私から出向くしか方法はない。
欠席者の中には、予定が重なった者もあり、最近は体調不良で出歩けない級友の数が増えた。また、案内状は不要と明言する者が64名を数える。中には返事の来ない者も何名かある。
住所不明が6名居るので、物故者と併せた70名を差し引くと、140名が何らかの事情で欠席していることになる。
案内状が不要とすることは一つの意思表示だろう。しかし、返信も出さずに無視する者は、高校時代に対してどんな気持ちを持っているのだろう。
小学校にしろ中学校や高校にしろ、その他いずれの年代の学友達と旧交を温めることは、人生の一つの歓びであり愉しみでもあるのは、誰しも共通の思いである筈だ。
だが、そんな事をしたくない、古い学校友達や先生に逢いたくないとするのも、それはそれで一つの人生である。むしろ、その人数の方が多いのだ。これは、どの学年でも共通している。
諸般の事情で已むを得ず欠席した者を除いても、参加したくない意志を持っている者は、出席者の人数を上回っている。
級友達は、卒業後はどんな人生を歩んだのか。それこそ人様々である。かつて、同じ学校で机を並べた頃は、誰しもそれ程の差のない日々を過ごしていた筈である。そして、同窓会はまた、誰もが平等の「俺、お前」の世界である。
あれから幾星霜が過ぎた。生きて来た過程の何が、同級生達の気持ちを隔ててしまったのか。同窓会へ出たいと思う者、そして出席出来る者は、やはり幸せなのだろう。少なくとも、人間としてのささやかな当たり前の感情には恵まれている、と言えるのだろう。
同窓会など、人生のさしたる重大事項などではないかも知れない。出席したくない同級生にも、確たる信念や理由を持っている者は居るだろう。
ただ、人生の晩年にあって、昔の仲間と語り合う、そんな一日がたまにあっても好い。私にはそう思える。
テーブルの上には、いつの間にか出された料理が残るようになった。テーブルバイキングと呼ぶ方式らしく、次々と出て来る料理は、自分の判断で手前の皿に取る。1テーブルに男女数名ずつ座っているものの、トシのせいか料理は余りがちである。
男性は、ビールより焼酎の水割りに人気がある。私もそうなのだが、同席の女性はアルコールに殆ど手を出さない。他人の前だから我慢しているのか……。
宴会が進むに連れて、ビンゴゲームから最後にはカラオケとなった。毎回のことながら、壇上でマイクを握る顔触れは決まっている。1人で2曲3曲と唄う者もいる。
宴会の最後に、次回の世話役が任命されて、壇上で紹介された。1組のF君が代表幹事である。
1年半後には、どんな顔触れが揃うのだろう。「八桜会」が存続する限り、1人でも多くの出席者があることを、身勝手ながら私は願うのみである。
更新日 平成23年11月14日