南丹生活

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第51回 31文字の自己表現

 昨今の異常気象の影響を受けたのかどうか、師走に入ってからも小春日和の暖かい日が続いていた。それが、7日に暦便覧の二十四節気「大雪(たいせつ)」を迎えて、一挙に寒くなった。「雪いよいよ降り重ねる折からなれば也」とあり、自然はやはり時には正直なのか、とも思われる。

 この現象は、別に特定の地域を指すのではなくて、この時期になれば高い山々ではすでに積雪が見られるため、「大雪」と呼ぶとのことである。

 いずれにしても、「大雪」の日には、北日本や山陰や九州でも日本海側の各地に雪か降った。そして、京都の美山町でも、1センチばかりの初雪があった。また、10日には、愛宕山も薄っすらと白く染まった、と同級生からの便りがあった。

 ただ、我が家の周辺では、雪の気配はまるで見られない。子供たちが小さい頃は、1年に3度や4度は10センチ近くの雪が積もったこともあった。そんな日、学校へ出かける子供を急き立てて、庭先で記念撮影≠したものだ。

 私が少年時代を過ごした、昭和20年代の京北町(当時は北桑田郡)では、冬の間はずっと雪が解けずにあった。そんな時代が懐かしいから、雪が積もればつい嬉しくなったのだろう。子供らにすれば、甚だ迷惑だったかも知れないが。それでも、記念の写真には、2人の娘らが嬉しそうに肩を並べて写っている。

 最近の如く雪も降らず照りもせず薄く曇った日は、外出するのもつい億劫になるのは人情と言うものだろう。所在なさに窓から庭を見遣ると、庭石の横で一固まりの姫芒の穂が白くなって風に揺れている。か細い茎や葉が、薄茶色に枯れつつあって、それなりに風情は感じられるものではある。

 軒下では、鉢植の山査子(さんざし)や梅擬(うめもどき)の実が、曇り空の下でも目に赤い。それに、垣根の白い山茶花が、特に大きな花を付けて眩しいばかりである。今年は、各地の紅葉が色鮮やかで、かなり長持ちしたそうである。これなども、夏の猛暑と秋口の急冷の影響らしい。異常気象も、たまには粋な計らいもするものだ。

 そんな取り留めもない日々の折ながら、年末が近付くに連れて毎年のように喪中葉書が届き始める。早くも11月下旬になれば、毎日1枚2枚とポストに入っている。

 そんな報せが、12月15日現在で28枚になった。毎年交換している年賀状の9%に相当するから、かなり多いのではないかとも思われる。たいていは本人の両親や兄弟姉妹が多い。それに少数ではあるものの、配偶者の訃報の場合もある。

 また、時には、同級生や友人自身の逝去を伝える、残念な報せが届く。毎年の如く、1人2人と鬼籍に入る同級生がある。今年は高校の同級生2名と、随筆と俳句の同人仲間の各1名が亡くなった。それに、中学校の先生が1名逝去された。私達の年代ともなれば、これは仕方のない現実かも知れない。

 そんな一日、嵯峨野線に乗って園部町まで出向く機会があった。前日まで降り続いた雨は止んで、時折り薄日が射す暖かい朝となった。それでも、北山の天候は変わり易いのか、亀岡駅辺りの車窓からは、愛宕山が雲で覆われていた。

 もちろん、10日に積もった雪はもう残っていないだろう。それとも、昨夜の雨が、もしかして山頂では雪になっているかも知れない。そんな事を想像しながら、見るともなく窓の外へ目を向ける。

 稲刈りの終わった後の亀岡盆地の光景は、土色の目立つ田圃が広がるばかりで淋しい眺めである。そう言えば、今年亡くなった2人の同級生は、この沿線に住んでいたのだった。

 その1人は生花の宗匠で、晩年まで活躍していた。他の1人は、高校時代はソフトボールの名選手で、男性徒と遜色のないほどの活躍が印象に残っている。どちらも溌溂として元気だった。卒業してからの同窓会へもよく顔を出していたのに、どうして早く逝ってしまったのだろう。

 そんな事をぼんやり考えていると、電車は早々と園部駅へ着いた。かつて私が通学通勤していた時代より、所要時間は半分に短縮している。便利になったことは間違いはないのたが、物思いに耽る時間が余りにも短い……などと、私は贅沢にも勝手な事を考えていた。

 所要を済ませて、園部の町並みを歩いて見た。新国道が完成してからは、町の様相は一変している。私たちの高校生の頃は、店舗の軒先を掠めるばかりに町内バスが通っていた。そして、そんな町全体が活気に溢れていた。

 その後の町並みの様相が変貌した事は、重々知ってはいる。だが、12月の半ばともなれば、歳末商戦で1年の内で最も忙しい時期のはずである。事実、年末売り出しのオレンジ色の幟が、各店舗の前に立っている。

 これは、後から訪れた八木町でも、同じ形式の幟が立っていた。昔は各町ごとの歳暮商戦が繰り広げられていたのだが、今は南丹市共同の展開となっているらしい。

 しかし、双方の商店街とも、人通りはほとんど見られなかった。むしろ、車の通行の方が多いと思われるほどだった。店内で買い物をしている人の姿も、余り見掛けられなかった。やはり、大型店舗に客足が集中しているのだろうか。

 地元に住む同級生たちからも、最近の買い物は自家用車を利用するので、駐車場のある所へ行くと聞いている。昔ながらの商店街に満足な駐車場を作るのは無理だろうから、仕方のない現象なのかも知れないが。

 かつては賑わった商店街が、シャッター街と化すのは全国的な現実だとはよく聞く。しかし、様々な工夫を凝らしアイデアを出し合って、昔の盛況を取り戻している所があることも事実である。

 私の住んで居た八木町では、年末になると駅前通りは買い物客で賑わい、2個所あった福引きの場所は人だかりで溢れていたものだ。特等で温泉旅行の当たる年もあり、町全体が盛り上がっていた。

 最近は、そんなイベントも中止しているらしい。福引きの場所などどこにも見当たらなかった。私が中学3年生の歳末に店員のアルバイトをした老舗の菓子店は、廃業して扉が閉まっている。

 今の季節は年賀状の印刷で多忙のはずの印刷店が、これもカーテンが下ろされて人の気配がしない。その他にも、締め切ったままの店舗がかなりある。

 そんな淋しい商店街を抜けて、私は大堰川畔へ出た。大堰橋の下流は、夏になれば花火大会で賑わう。両岸とも護岸工事で川幅は広がり、まるで広い池かプールの様に、水の流れは静止して見える。

 橋の上流に、沢山の鴨が浮いていた。いつから、こんなに鴨が来るようになったのか。まさに無数とも言えるほど、黒住教会所のあった辺りにまで群れは広がっている。

 鴨たちの全身は褐色で、首が白色や緑色の種類が混ざっている。頭頂部が橙色の鳥もいる。鴨には、真鴨・小鴨・尾長鴨・鈴鴨などの種類があると聞いたことがある。八木町の川で群れているのは何と言う種類なのか。雌雄によっても色合いは異なるのだろう。やや甲高い可愛い声で鳴いている。

 いまにも時雨が来そうだった雲が晴れて、川面の鴨を穏やかに照らした。年輩の夫婦が水際に車を止めて、パン屑なのか餌を投げていた。大堰橋の上から見ていると、それでも水は流れるともなく流れているのだろう。

 緩やかな水面の上に悠然と浮いている、数え切れないほどの鴨の群れ。背景の山々が、そんな姿を優しく見下ろしている。長閑で時間を忘れてしまいそうな、まるで1枚の絵を見ている様な初冬の光景だった。

 商店街の淋しい歳末の佇まいが、水鳥の泳ぐ和やかな大堰川の風景で救われた気分だった。やはり、わざわざ電車から途中下車して、古里の町に立ち寄って良かった、と私の心は慰められたのだった。

更新日 平成22年12月17日

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第52回 新しい年の新しい出会い

 今年の正月は大晦日に降った雪で、我が家の周辺でも3センチばかりの雪が見られた。南丹市ではかなりの積雪があったとのことで、京都の各地は久々の雪の正月となった模様である。

 3が日は瞬く間に過ぎた。私の年令になれば、友人知人で親族の喪中となる者もかなり多くなる。その訃報が本人自身の場合もあって、昨年は4人の同級生が鬼籍に入った。そのため、年末には喪中葉書が30通にも達した。

 年賀状は、たとえ印刷でも年に一度の交流と言える。だから、新年にそれが来ないのは、やはり心淋しいものではある。特に、本人が亡くなった場合は他人事とは思えず、痛く身に詰まされるものがある。

 昨今はそんな日々ではあるものの、この5日に我が家に珍しい3人の来客があった。いずれも妻の同級生であり、2人の男性は園部高校の出身だから、私の後輩に当たる。女性の1人は他校の出身だが、卒業後のサークルの仲間で或る時期4人は一緒だったらしい。妻とは同じ会社に勤めていた親友でもある。

 私と彼らの学年は6年違いだから、これまでも面識は無かった。ただ、2人とも中々の活動家で、その名前は以前から聞いて知っていた。1人からは著作も送ってもらっている。

 その初対面の2人を我が家へ招待したのには、ちょっとした経緯がある。昨年末に、大学も同じの彼ら2人が40年振りで会うことになり、その席上へ妻も呼ばれたことが契機となった。私も以前から、一度彼らの話しを聞いてみたいと思っていたから、この正月に実現させたのだった。

 その1人は、園部町に住む奥村正男君である。専門は日本史で、京都府下の高校教師の経歴があり、最終は須知高校とのことだ。最近は新聞や雑誌の投稿を続けており、京都新聞の「窓」欄では、よく名前を見掛ける。政治問題に関心があり、いつも正攻法の論調で様々な問題提起をしている。

 私もたまに投稿することがあるものの、情緒派の私とはまるで性格や興味の対象が異なる。その彼が、目下『大逆事件』に興味を持って研究している、と聞いた。「園部9条の会」の企画で、この3月には園部町で『大逆事件と岩崎革也』と題した講演会を開くとのことである。

 この政治的大事件については、高校の日本史で少し習った程度で、私などはまるで門外漢に過ぎない。そんな複雑な問題を、6年後輩とは言え、今も興味を持って研究続けていることは驚嘆に価(あたい)する。

 概要を記したプリントを貰っているが、その内容の一端にここで触れることは本意ではない。興味のある人は、彼の講演会を是非とも拝聴に行ってほしいものである。

 他の1人は、登尾明彦君である。彼は兵庫県の湊川高校で、30年間一筋に教鞭を執って来たそうだ。数冊の著書もあるが、差別や人種問題に真っ向から取り組んだ熱血漢である。

 彼からは毎月、『パンの木』と題するプリントが妻宛に送られて来るので、私も拝読としている。真摯で凄まじい体験が生々しく、今もその方面に関係した日々を送っているとのことである。現在は西宮市に住んで居るが、日吉町胡麻の出身と聞く。

 我が家へ招待したのは、そんな彼らの真面目で熱意のある人間性の一端にでも触れたい、との思いからだった。ただ、松の内の事でもあるし、鍋を囲みながら一杯機嫌の雰囲気が多いに盛り上がった。

 妻と親友も上機嫌であり、余り難しい話を突っ込んでする時間も無かった。だが、会話の端々から、私の未知の、或いは、無関心だった世界の一端が、僅かでも伺い知れて興味が尽きなかった。

 登尾君の著作は、園部高校の「同窓生コーナー」にも納められているから、是非、訪問して読んでほしいものである。

 今冬は特に寒い日が続いている。そんな冬の日の、短い時間ではあったが、私には極めて熱いひと時を過ごすことが出来た。

 『パンの木』の最新号(第257号/2011.1.1)に掲戴されている彼の詩である。

  「決意」

 店を辞めたあとの私は

 これからが

 正念場だ

 勤務先もなくなって

 私一人の私になった

 むろん

 肩書きもなくなったが

 それでよい

 私は

 ありのままを生きる

 今生のいっさいを捨て

 もう一人の私を生きる

更新日 平成23年1月8日

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第53回 雪の山里久しく

 今年は全国的に雪が多く、京都もその例外ではない。京都府内全域の観測データが残っているとされる、1978(昭和53)年以降の最高記録だとの記事が新聞に出ていた。

 過去の府内で最も多かったのは、1980(昭和55)年に宮津市の上世屋地区で観測された248センチである。それが今年は259センチを記録して、30年ぶりの記録的な大雪になったそうだ。

 今冬の稀な大雪は、大江山スキー場の昨冬は8日間しか営業出来なかったのに、今年は連日に渡って可能だ、と大雪を喜んでいる。

 地域によっては被害があり、こうした天候は悲喜交々ではある。傍観者の私などは、そんな雪を無責任に期待している1人かも知れないが。

 かつては、京都府北桑田郡として北部と南部の姉妹だった美山町と京北町でも、そんな現象が見られる。北部の美山町の茅葺きの里ではその景観もさりながら、雪を活性化したイベントを企画して、大雪大歓迎である。一方の南部の京北町では、雪を活用した企画は皆無で、大雪は大敬遠されている。

 両地区とも、在所によって積雪量に差はある。美山町は茅葺きの里として年間を通じての観光ポイントがあるから、雪大歓迎なのは言うまでもない。それでも、過疎傾向の山里の行政の取り組む姿勢に、双方で大差があることは間違いないようだ。

 南丹市美山町の「雪灯廊」は、この6日の日曜日が最終日だった。私の訪れたその1週間前には十分な積雪があって、茅葺きの里の雪景色が満喫出来たものである。

 それほど1月は大雪だったのに、2月に入ってからは春の様な季候が続いていた。5日の土曜日に義姉が娘の車で「雪灯廊」見物に出掛けると聞いて、積雪はどうなのかと思っていた。それでも、あれから降ることは無かったものの、周辺は白一色で久々に山里の雪を味わった、と満足していた。

 ただ、最終日の1日前のため、大勢の観光客が押し掛たようだ。駐車場が満杯で車が置けず、そのまま帰宅したとのことだった。大混雑のために、夜の灯篭の点火見物は断念したらしい。

 茅葺きの里の雪景色見物だけに終わったのは、やはり物足りないのではないか、と私は内心では同情していた。それでも、深い雪の中は、母子とも久し振りの経験だったようである。それにしても、こうしたイベントを企画するなら、受け入れ体制には万全を期すのは当然ではないのか、と思われる。

 1月最後の土曜日に京都駅からの送迎バスで、「雪灯廊」を見に出掛けた。国道9号線から園部インターチェンジを経て、美山町へ行くおよそ2時間の道中である。

 私達は、妻の友人を含む4名が同行した。同じ南丹市の八木町や園部町には、雪の気配はまるで見られない。日吉町へ入りダムに近づく辺りから日蔭に残雪が見え始めた。

 そして、境界の神楽坂トンネルを越えて美山町へ入ると、雪は一段と深くなった。除雪された雪が、道路脇沿いに子供の背丈程の壁になって長々と続いている。

 地元の世話役のO氏がガイドを務めていて、川端康成の「雪国」などを引き合いに出して説明しながらバスは和やかに行く。ただ、その辺りで北山杉の雪折が多く、至る所で倒木が見られた。一時は、通行止めになったこともあるそうだ。また、送電線が切断されて、一部の地域では正月の3日から暫く停電になる被害を受けたとのことである。

 「雪灯廊」のイベントは、今年で7回目らしい。昨年は雪が少なく、あろうことか初日に大雨になったとのことである。そしてやむなく「花灯廊」に変更したとの記事を読んだ記憶がある。

 会場の北地区は、茅葺き屋根の民家が37戸集まっている日本有数の集落で、「重要伝統的建造物群保存地区」とされている。ただ、こんな長い名称は地元の人でも覚えられないらしく、64歳と自称していた初老のガイドも言葉に詰まっていた。

 茅葺きの里は数十センチの雪に埋もれ、折からの冬陽を受けて、集落全体が白く眩しく浮き上がっていた。日当たりの良い側面の屋根の雪は、溶けてずり落ちた跡が見られる。

 それでも、日蔭の部分には1メートルを軽く超える雪が、屋根全体に覆い被さる様に載っていた。軒端からは雪が垂れていて、30センチはある氷柱(つらら)が下がっていた。

 美山町は、私の古里の京北町から峠を一つ越した所にある。福井県との県境に位置するために、積雪ははるかに多い。芦生や佐々里は、京都府下で有数の豪雪地帯と聞く。

 地域全体を平均すれば、およそ2倍の差はあると思われる。ただ、天気予報は「京都府北部」には該当せず、むしろ滋賀県の北部や関ヶ原地域の天候に近い、とガイド氏の説明だった。

 長い氷柱を見るのも、私には久し振りである。雪を丸めて食べたり氷柱を折って噛(かじ)ったりして、私は同行者に笑われた。それでも、彼女らも真似をして雪を食べ、美味しいと童心に還っていたので私は安心したのだった。

 鎌倉を作っている地元の人もあるなど、そんな集落を交錯する細い道路には、約300基の灯篭が設置されていると言う。これらには電線が張り巡らされているので、夜には一斉に点灯されることになっていた。

 それ以外にも、観光客にはバケツが貸し出され、雪を入れて固めて灯篭を作ることが可能になっていた。兎や熊や達磨や円筒やハート型などもあって、様々な形の灯篭を子供達が作っていた。

 土曜日で学校が休のためか、学童の姿が目立つ。地元の小学生に加え、京都市内や他府県からの児童も来ているようである。この灯篭の中には、固形燃料型の蝋燭で灯りを点けるらしい。

 3時30分頃に到着してから時間はたっぷりあったので、その間に集落の中を私達はゆっくり散策した。私は何度か茅葺きの里ほ訪れているが、これだけの積雪のある光景は初めての経験である。所々には、綿帽子を被った祠などもある。名所の赤いポストも、雪の帽子を載せていた。

 京北町(旧北桑田郡)でも、私が暮らしていた子供の頃は、こんな雪の世界はいつも経験していた。それが、いつからか暖冬傾向で雪が余り降らなくなった。それが、気象の変化で今年の京北町の大雪も25年振りと聞いている。

 久々に私は深い雪の世界に遊んだ。大勢の観光客も、三々五々に歩き回っている。駐車場の横には売店が出ていて、地元の名物が売られていた。おやきやおでんやなめこ汁など、どれも大勢の人だかりがしていた。

 私一人がカップの熱燗で暖まっている内に、やがて日が落ちて灯篭に灯が入った。遠く近く、白い雪が幽然と滲んだ朱色に染まる。

 暖かそうで柔らかな灯りが点々と長く連なって、目前に雪灯廊と呼ぶ光景が出現した。その頃になると、急激に気温が下がって、小雪が舞い始めた。まさに、雪暮れと呼ぶのに相応しい情景だった。

 やがて、家々にライトアップが施されて、古色蒼然とした茅葺き屋根が、まるで夢幻の世界の様に浮かび上がった。

 ただ、これは全ての家屋ではない。人の住んでいない家もあるのかも知れない。道路を隔てた離れた場所から見ると、ライトアップされている家は3分の1ばかりに見えた。重なって隠れている家もあるのか、集落全体としては闇に沈んだ場所の方が多い様に思えた。

 完全に暗くなった6時30分に、川向こうから花火が打ち上げられた。周囲の山々に囲まれて、区画した黒いカンバスに描く様に花火が炸裂する。音響が周囲に大きく谺(こだま)して、打ち上げ数は余り多くいものの雰囲気は最大に盛り上がった。

 1週間続いた催しは、最後まで雪があって、盛会裡に終わったようである。私は、「雪灯廊」という人工的なイベントに便乗した感はあったものの、待望の雪の中で長時間を過ごせた。

 2月も半ば近くなって、また寒さが戻ってきた。今年はまだ雪の降る可能性はある。この次は、どんな雪を楽しもうか、と私の興味は尽きない。

更新日 平成23年2月13日

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第54回 また吹雪の日に

 3月の声を聞いても気温は行きつ戻りつしている。暖かい日もあれば、冬に戻って雪のちらつく日もある。今年の冬は全国的に豪雪に見舞われて、京都府下でも記録的な大雪の地域があった。

 ただ、我が家の周辺に限れば、昨年よりは少し多かったものの“記録的”とまではいかない。雪もさまざまで、多大な被害をもたらした地方もあれば、それこそ雪様々と歓迎している所もある。個人的な気持ちを言えば、私もそれなりに雪を楽しんだ方である。

 先月の半ば近くだった。山陰沿線の和知にある園部高校の同級生宅で、十数名ばかりが集まって牡丹鍋を囲んだ。山陰線は園部まで複線・電化が完成して、今は京都駅から約35分の距離となっている。

 かつて私が通学・通勤していた八木まで1時間はたっぷり要した時代からすると、まさに隔世の感がある。現在の通勤通学者はその恩恵に浴しているが、車で帰省したり往来している人は、果たしてそんな事実を知っているのだろうか。

 そんなに便利になった一方、園部から向こうへ行くためには、園部発の列車に乗り換える必要がある。そこからは単線で電化もされていないので、逆に不便になったのではないか、と思いたくもなる。

 それに、列車はワンマンカーで、降り口は最前のドアの1個所に指定されている。降車客は、運転席から立ち上がって待機している運転手に切符を渡す。市バスと同じシステムである。

 単線なので出会いの待ち合わせ停車が多く、園部から和知までが約45分も掛かった。距離的には、京都―園部間が34.2キロに対し、園部―和知間は24.4キロとおよそ10キロも短いにも拘わらずに、である。

 京都駅から乗車した者や亀岡と八木から乗った者達も、車中でそんな話題で退屈を紛らわせていた。もちろん、園部から乗って来た同級生もある。ここまでの住人は、列車ではその先へ行くことは余りないのだろう。

 気楽に陰口を叩きながらも窓の外を見ると、船岡辺りから山蔭や川岸の所々に残雪があった。沿線途中の日吉や胡麻からも級友が乗って来て、そしてやっと昼前に和知へ到着したのだった。京都駅発10時7分で和知駅着11時30分だから、1時間23分を要している。

 和知駅の周辺にこそ雪はなかったものの、遠く長老ヶ岳が白く染まっていた。駅から5分と掛からないK君の別宅は古い旧家で、地元の名士だった持ち主が亡くなった後は後継者が途絶えたらしい。その民家を彼が保存のために譲り受けて、たまに使用しているとのことである。

 昔は茅葺きだったのか、屋根はトタンで覆われていても悠然とした外観の風格はそのまま残っている。植え込みの多いかなり広い庭も、K君がまめに手入れしていると聞く。

 家屋の横手になる勝手口付近に、屋根から落ちた雪が1メートルばかり残っていた。昨年の同じ時期に訪れた時は、ほんの消え残りの薄い雪が見られたに過ぎない。それからすると、やはり今年は和知でも雪が多い。その雪の中に、鍋料理の総菜にする葱や白菜が埋めてあった。

 私が持参した伏見の銘酒を渡すと、K君がその酒瓶を雪に差し込んだ。大屋根から落ちた残雪に迎えられて、私達は黒くて太い梁の見える居間に落ち着いた。奥には和室があるが、高齢者揃いの我々の足腰を懸念してテープルを設営した洋間には、ストーブで薪が赤々と燃えていた。薪はK君が山の櫟(せんば)を切って拵えたらしく、裏口にどっさり積んだ割木を見せてくれた。

 牡丹鍋の肉は地元で獲れた猪である。山の餌が減って、このところ豊猟らしい。K君が、谷川の水に晒して臭味を抜いてくれていた。葱や白菜などはほとんどが自家製らしく、事前に奥様の調理のお世話になっている。私も伏見の酒を持参したが、安栖里在のK君が地元の銘酒である「長老」の生酒を下げて来たので、それで先ず乾杯をした。

 昨年は男性ばかり10人で鍋を囲んだが、今年は男性10人に女性5人に増えた。同級生は、全員がすでに古希を幾つか過ぎている。全体の同窓会も定期的に開催しているが、近くに住む者が何となく集まって、気楽に食べて喋る(もちろん飲む)集まりを持ったのだった。

 ストーブの薪が勢いよく燃えていた。その燃え上がる炎を見ているだけでも、全員の気持ちは暖かくなって自然に和む様だった。燃え尽きた薪の灰が、時折り微かな音を立てて崩れる。遠い日の小学校や中学校の、懐かしい光景が誰の目にも甦っている様だった。

 暖かく懐かしい時間が緩やかに流れた。食べて飲んで(飲むのは一部の者だけだが)取り留めもない話ばかりでも、賑やかな時間が瞬く間に過ぎて行く。

 そして、午後遅くから吹雪になった。予報では京都北部が大雪とのことだった。和知は、地理的には北部に近くなる。湯気で曇った窓の外は、降りしきる細かい雪でたちまち真冬の景色となった。遠くに霞んでいた長老ヶ岳はもう見えない。

 鍋料理の後に、火鉢で餅を焼いて善哉(ぜんざい)を作った。餅を焼くのは自信がるからと、絵師のH君が引き受けてくれた。彼が描いた童画を、全員にプレゼントした。

 カラオケの設備があって、皆が思い思いにマイクを握った。「湖畔の宿」「港の見える丘」「シャンハイ帰りのリル」「帰り船」「白い花の咲く頃」等々当然ながら(!)懐メロが主流を占める。私のお気に入りの「渡り鳥いつ帰る」は残念ながら入っていなかったが……。

 窓の外は激しい吹雪が続いている。部屋の中は、ストーブだけではない暖かくて和気藹々とした時間がゆっくりと流れた。

 やがて夕方になり、帰る頃には吹雪はもう止んでいた。外へ出ると、古色蒼然とした佇まいの屋根や庭が白く染まっていた。あの雪の塊の上にも、細かい雪が散らばっていた。

 桜の咲く頃に雪が降ることもある。今年は三寒四温の巡りがかなり激しい。まだ一度や二度は雪が舞うことがあるかも知れない。もしかして、和知のK君宅の屋根や庭を白く染めることもあるだろう。私は、そんな光景をもう一度見てみたいと思っている。

更新日 平成23年3月9日

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番外編 「美咲町アート震災募金」ご案内

 今回の東北関東大震災で、園部高校の同窓生やその関係者の被害状況はどうなのか。そんな状況がまるで伝わって来ないのは、私だけの情報不足なのかもしれないが。

 第8回卒業生に限れば、茨城県那珂郡舟石川駅東にO君が住んでいる。東海村原研の近くでもある。地震の発生直後に電話をすると、その時点では直ちに通じて通話が可能だった。

 聞き慣れたO君の声で、食器などは少し破損したものの、家族の人達は怪我もなく全員が無事とのことだった。その後、電話が輻輳して通じなくなったが、時間が早い内なら通話が可能なことは、阪神淡路大震災の折に経験済みだった。

 今回の災害地に居住している母校の卒業生は、極めて少ないことは想像出来る。O君は卒業後は大阪の会社に勤務して、結婚と同時に両親の里へ移転したのだった。奥さんは地元の人である。

 私は学生時代に北海道へ旅行して、その帰路に彼の家へ寄ったことがある。卒業して数年は経つ10月の終わり近くだった。アルバイトで稼いだ僅かな旅費で、北海道を3週間ばかり放浪したその帰りである。路銀は殆ど底を突いて、1週間ばかり前から朝食抜きの毎日が続いていた。切符は乗り放題の周遊券を利用していたので、移動だけは問題がなかった。

 欲張って十和田湖まで回ったものだから、彼の家へ寄った時は完全に所持金がゼロになっていた。朝早く多賀駅で出迎えてくれたO君の人懐っこい笑顔を見た時は、心底ほっとしたものである。

 1泊して水戸の偕楽園や西山荘を案内してもらった。原子力発電所へも連れてもらった。茨城弁の奥様にも歓待を受けて、帰りの駅まで送ってくれたO君が、そっと500円札を握らせてくれた。アルバイトが1日700円の時代である。500円はかなりの大金だった。私はそれで駅弁を買って、まだ12時間以上は要した帰路の道中を、飢え死にしなくて済んだのだった。

 私たちの同窓会は1年半事に京都市内で開催されていて、O君もこれまでに度ばかり出席している。その時は我が家に泊まるのだが、長女が小学校の低学年で次女が幼児だったから、もう25年も昔のことになる。

 随分と間隔が空いてしまったのは、O君が足と腰が悪くて杖を突かないと歩けないからである。そんな体調だから、つい遠出が億劫になるらしい。今年は11月に「八桜会」を予定しているので、その時は是非出て来るように、と先日の見舞いの電話の際に伝えてある。

 O君が来宅した折に可愛がってくれた娘らも、既に成人して2人とも家を出ている。その娘たちが協力して、今回の震災の募金をする計画を立てた。私の友人知人に送信した案内状を掲載させて頂いて、少しでも多くの協賛があれば嬉しく思う。

「美咲町アート震災募金」ご案内です。

 新企画として、岡山県那珂郡美咲町中にある「アーツ&クラフトビレッジ」で開催。

 東北関東大地震から20日近くが経ちました。世界中からの支援に被災地は少しずつ復旧し始めていますが、前途は未だ遠いものがあります。

 このたび、娘らが、アート仲間と共に募金活動をすることにしました。

 次女のアート&ヨガ道場「喫茶去(きっさこ)が、この春もアート作品展&ヨガ合宿を開催し、絵葉書の売上の全額と絵画作品の売上の一部を、被災地への義援金として寄付します。

 長女も、そこで絵葉書の売上の全額を被災地への義援金とするために、アーティストとして参画します。

 皆様ご本人やご家族、そして友人・知人の方々もご協力戴けましたら嬉しく存じます。詳細は以下をご覧の上、主催者までお問い合わせ下さい。

<アート&ヨガ合宿 in 岡山美咲町2011>

会 場:アーツ&クラフツビレッジ(岡山県久米郡美咲町中3090)

TEL:0867-27-3733

主催者:アート&ヨガ道場「喫茶去」

メール:dojokissako@gmail.com

ブログ:http://kissako99.exblog.jp/

◆美咲町&パリ・アートプロジェクト◆

 アーティストの楽画鬼とスカット☆リンダ、パリで活躍中の多国籍芸術団59Rivoli、+ヴィオレのアート作品展。入場無料。

 4月10日〜5月29日の金土日、10:00〜12:00/14:00〜16:00

◆オープニング・パーティー◆

 パリの香り漂う絵画展・パリジャンによるマジックショー・ソウルフルなライブコンサート などなど、入場無料。

 館内のカフェでランチタイム(石焼き窯で焼く手作りピッツァ・サラダ・ドリンク・デザート)1500円。要予約(TEL.0867-27-3733)。

 4月16日(土)、12:00〜17:00

◆ヨガ合宿◆

 ヨガ講師のスカット☆リンダがDayaPutih(ダヤプティ)ヨガを指導します。地元の新鮮な食材をふんだんに使った食事付き。

合宿コース:毎週金曜日スタート(要予約、送迎あり、TEL.0867-27-3733)

2泊3日コース(5食付):20000円

3泊4日コース(8食付):30000円

4泊5日コース(11食付き):38000円

※6日以上のコースも可

日帰りコース(16:00〜17:30):1000円(要予約、送迎なし)

※「ダヤプティ(DayaPutih) 」とは

 約700年前にインドからインドネシアに渡ったヨガのスタイルで、その後インドネシア独自のスタイルにアレンジされ伝えられています。インドネシア語で、Daya(ダヤ)=エネルギー、Putih(プティ)=白、を意味し、純粋なエネルギー、人間が本来持つ内なる自然のエネルギー、と言った意味が含まれます。

 様々な呼吸法やエクササイズ、瞑想によって心身のバランス・自然治癒力・免疫力を活性化させ、内なる美や強さを引き出します。ゆったりとした動きで、初心者やご年配の方も安心して行えます。日々花のように自然体で美しくなることを目指しています。

◆山奥の豊かな自然に包まれて◆

 美咲町の春は染井吉野や山桜、八重桜など様々な種類の桜や藤の花、美味しくて珍しい山菜でいっぱい。初夏は蛍にラベンダー、夏至には「蛍とキャンドルナイト」というイベントがあります。夏は桃やブドウに花火大会に川遊び。秋はお祭りや紅葉など盛り沢山です。

更新日 平成23年3月29日

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第55回 葉桜のころ母校へ

 今年の桜の開花は例年より3日早く、観測史上2番めだと報道されていた。ただ、その後に気温が下がって、満開になる時期がいつもより1週間は遅れた。京都新聞に「さくら便り」が掲戴されるものの、南丹市の桜どころは約1000本あるとされる美山町の大野ダムだけである。

 その大野ダムの桜祭りが、今年は東日本大震災に呼応して中止となった。尤も、予定の4月3日にはまだ蕾が膨らみ始めたばかりだったから、中止になって結果オーライだったのかも知れない。

 しかし、東北各地では、毎年の計画通り桜祭りは何個所かで実施されていた。美山町の中止決定は、桜の開花もさりながら時期尚早だったのではないか、とそんな思いが拭えない。また同じ美山町で、200本の桜があると言う長谷里の花まつりも中止されている。

 たまたま私は、4月の半ば過ぎに、八木町へ行く機会があった。やはり、そこでも花祭りは中止とのことだった。大堰川畔の桜が、今年は殊に美事に咲き誇っていた。大堰橋の少し上流から川下の寅天井堰迄のおよそ300メートルの堤防に、太く節くれ立った染井吉野が並んでいる。数えてはいないが、20本はあるのだろうか。

 比較的新しく植えられた数本の濃い紅枝垂れ桜も混ざっている。妻やその友人など5名で散策したのだが、まさに、桜が豪奢な着物を纏っている様に思えた。

 川向こうの緑地公園を含めると、約100本の桜があると聞く。ただ、人影はまるで見られなかった。折からの花曇りの下で、それらの桜が日本画の世界の様に静かに且つ艶然と映えていた。

 広くなって流れが静止している如き川面には、鴨の群れが泳いでいるばかりである。1年でも最も華やぐ花の季節であるにも拘わらず、物音一つしない静寂の世界が広がるばかりだった。

 染井吉野は、俗説では寿命が60年などと言われている。明治政府の奨励で植樹が奨励されたそうだが、60年寿命説が真実なら日本全国で一斉に枯れ始めるはずである。

 しかしそんな話は聞かないし、少なくとも八木町の大堰川畔の桜は、今年は例年に増して艶やかに咲いていた。私も、中学3年生から八木町に住んで以来、何度もこの桜を見ている。妻は、更に子供の頃から親しんでいる。半世紀に及ぶその間でも、今年ほど感動的に咲いたのを見たのは、2人とも初めてと言っても過言ではない。

 八木町の桜の樹齢は何年になるのか。恐らく100年近くに及ぶのではないか。私や妻の子供の頃より、桜の木は太く大きくなっているのは確かである。しかし、節くれ立ち曲がりくねった幹は逞しく、これからもずっと美事な花を咲かせてくれそうに思える。

 私達だけの贅沢な花見を楽しんだ今年の春だったが、花は既に散って葉桜の季節となった。5月の10日過ぎに、母校の園部高校へ行く機会があった。車窓から見る大堰川の桜並木は、もう青々と葉が繁っていた。

 前日からの雨で増水した川面には、鴨の群れも見られない。背後の愛宕も雨雲に隠れている。やはり、静かな晩春の朝ではあった。

 園部駅で下車した私は、小雨模様の二本松峠を越えて母校を訪れた。この峠にも桜の木はあるだろう。だが、今は青葉が繁るかりで、見分けることは不可能である。薄紫色の藤の花が咲いていた。もう、そんな時期になったのである。

 母校の正門前にも、苔蒸した数本の桜の木がある。雨水を含んだ若葉が、石段に覆い被さる様に垂れていた。やはり、半世紀以上昔にの私が通学していた頃と、同じ光景がそこにはあった。

 昨年の9月末から、図書室に同窓生コーナーが設けられた。卒業生や元先生達の出版物を並べるコーナーである。「南丹生活」でも記事にしてもらっている。

 森校長や新任の池田副校長にご挨拶し、事務局の高屋さんの案内で図書係の小泉さんに紹介された。

 本館3階にある図書室の同窓生コーナーには、約40冊の書籍が並んでいた。旅行記・研究書・評論。随筆・童話……など、様々な内容と体裁の本である。私の同級生や、名前の知っている同窓生の本も何冊かあった。

 まだ、スタートしたばかりだから、更に周知徹底されれば、もっと多くの出版物が集まるだろう。短歌集や画集などを自費出版している者は、かなり多いと聞いている。在校生が読んでくれることを期待しながら、これからの楽しみとしたい。

 つい時間の経つのを忘れて、正午のベルと共に私は退室した。帰りには雨の中に立つ公孫樹にも挨拶をして、校門の葉桜に別れを告げたのだった。降り続く小雨に頭を垂れる青葉を眺めながら、来年は桜の咲く頃に訪れてみよう、とそんなことを思っていた。

更新日 平成23年5月14日

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