第46回 31文字の自己表現
私達の同窓会である「八桜会」で、国語の担任だったI先生に再会したのは平成20年11月半ばだった。今から、1年8カ月ばかり前になる。園部高校を卒業して52年振りの再会だった。本当は、卒業25周年の同窓会に、担任以外にも教えを受けた先生をご招待しているので、その時に一度は出会っているはずである。だが、先生のご記憶には無いため、実質的には今回が卒業以来の初めての再会と言えるだろう。
その日の出会いを契機として、翌年の初秋にI先生を囲んで、希望者十数名が母校の周辺へ散策に出掛けた。そして、国語を教えてもらった先生は短歌を続けておられ、現在は「原型」の同人だと知った。
私は全く知らなかったのだが、卒業して何年か経った頃とのことらしい。教え子の要請もあって、亀岡市で先生は文芸講座を開かれて、同級生も何人か参加したとのことだった。
そんなご縁があって、その時のメンバーだった級友が世話役を勤め、先生を「八桜会」へお招きしたのである。そして、今年になって「原型」への入会を希望する同級生が現われ、私も生まれて初めて短歌に挑戦することにした経緯がある。
「原型」は歌人の故齋藤史が創始した短歌の全国誌で、本部が長野県から姫路市へと移転した。機関誌の発行は月に1度であり、それ以外にも毎月1度は各地で例会が開かれている。大会も1年に1度はあるらしい。関西では、京都・大阪・神戸と持ち回りで集まりがある。それにはメンバーが1首を投稿して、およそ30首ばかりの中から出席者が各自で5首ずつを推薦する。
そしてお互いに講評をし合って、最後に作者が公表される。なかなか活発で鋭い批評が飛び交う。合評会の結果は、後日に一覧表にして手元へ送られて来る。例会へは自由参加で、いつも10名から15名程度の出席者がある。
私はこの2月から毎回出席しており、同時に始めたK君とM君も事情が赦す限り顔を出している。I先生もほとんど皆勤である。
K君は、12月に六甲であった会合から顔を出している。その時の彼の作品は3票を集めた。
- 貴族らも熊野のこの道登りしか野苺摘みつつ仏坂越ゆ K.Y
そして、1月の例会は大阪中之島で開催され、私とM君が初めて出席した。2時間ばかり前にI先生と食事をしながら、4人で歓談をした。その時の作品である。
- 雪の散る椿一輪に子を偲び菩提寺前で会食したり M.K (7票)
- 信楽の火鉢に水張り椿咲く春分の日に金魚を放つ K.Y (3票)
私の作品は以下の通りである。
- 五十五年過ぎし邂逅師とわれら母校の庭に公孫樹(いちょう)散り敷く (6票)
この例会は1人1首だけの投稿だが、機関誌の「原型」へは、毎月10首を投稿すれば、選考を経て5首から6首が掲載されることになっている。
私達は新人だから「作品U」のランクである。今年の3月号に、初めて作品が掲載された。25名ばかり「作品U」のメンバーがあって、その中から6人の作品がその月の旧暦月名を冠したページに掲載されることになっている。選考基準は私達には不明であり、他の作品との巧拙は余計に分からない。
ともあれ、3月号の「弥生集」に私の作品が載った。筆頭には同時期に入会したTさんの作品が掲載されている。彼女は、かなり以前から短歌には親しんでいるとのことである。いずれにしても、私の拙い短歌が初めて活字になった、私なりに記年すべき号ではある。
- 五十五年過ぎし邂逅師とわれら母校の庭に公孫樹(いちょう)散り敷く
- 教え子も教師も共に青春の惑いの中に生きしあの日は
- 先生の歌読む声は涼やかに五十五年の昔のままに
- この言葉教えたはずと先生の微笑む目見に秋陽やさしき
- やわらかき師の語る声流れ来て五十五年の時は縮まる
選考者はもちろん大ベテランの歌人で、若干の修正などが加わることもあるらしい。その号に掲載された級友の作品で、私が感銘したものを挙げてみる。
- なだらかな乳房と胸の間がうすれ嫁でも母でもなきひととなる T.K
- 窓の下の屋根よりひびく寺の鐘 明日の検査の無事祈りおり I.C
次の4月号から同級生の同人が2名増えて、I先生の教え子グループは一段と賑やかになった。その号の私の作品の一部である。
- 雪玉を額に受けて泣きし君今は孫子と雪玉投げる
- 雪解けて顔を出すとふ蕗の薹雪無き里で如何に目覚むや
- 雪丸め氷柱(つらら)を折りて食べし日の手の冷たさを今も忘れじ
「作品U」欄には他の同級生の作品も掲載されていて、私なりに選んでみた。
- 我が師よりの歌の勧めに背を押され指折る日々の多くなりけり I.C (卯月集)
- 寅年に吉兆願い鈴鳴らす大吉なれどマグロに銭貼る K.Y
- つくばいに山茶花一輪はまりたりしばし見とれるその浮き沈み K.T
- 孫達のみな帰りたる円卓にむきかけのみかんひとつ残れる K.H
- ふつふつと大根煮ゆる音聴きつ心臓検診予約のとき待つ T.K
「原型」へは、それ以降にI先生の大学生のお孫さんが入会した。おそらく、最若手だろう。また、亀岡在住のかつての講座仲間の1名が、先月から加わっている。そして、城陽市に住む同級生のSさんが入会した、と先生から嬉しそうな声で連絡があった。
短歌は31文字の自己表現である。私達の年代から始めて、出来栄えの巧拙を問題にするのは間違っているだろう。日々感じる事や思う事を、決められた文字数で現わす。自分だけの、一つの新しい生き方の選択でもある。
更新日 平成22年7月18日
第47回 夏去らぬ丹波高原
今年の夏の暑さは異常と言うしかない。日本が亜熱帯に変貌しつつある、との見解もある。夏に入る前のことである。さすがに8月31日ともなれば、まして、丹波高原なら秋の気配が忍び寄っているだろうから、との見通しで「落ち鮎の会」を計画した。
2年前の冬に和知のK君宅で、「牡丹鍋の会」を開催した。そのメンバーを中心に、今回は道の駅「なごみ」で鮎の塩焼き賞味しながら歓談することにした。しかし今夏の猛暑は衰えることを知らず、京田辺市で、2日間に亘り38.9度を記録した。また、日吉ダムの貯水率は78.7%にまで減少している。当日も朝から、何もしないのに汗の滲む苛酷なまでの快晴振りだった。
私は二条駅から嵯峨野線の列車に乗ったが、すでに京都駅から尼崎のK君と草津のF君が座席に座っていた。夏休み最後の日のためか、珍しくほとんどの座席が塞がっている。嵯峨駅のホームでは、H君ら3名が後ろの車両に乗るのが見えた。
列車が亀岡盆地に入ると、田圃の稲穂が早くもやや黄色くなり始めている。それでも、愛宕山の上空に浮ぶ雲は、力強い夏の姿のままである。さすがに丹波太郎と呼ばれるほどの猛々しさは見られないものの、丹波次郎か三郎と呼びたくなるほどの逞しい雲である。
亀岡駅から乗るはずの、U君の姿が見当たらなかった。後で分かったことだが、彼は私が最初に連絡した1台先の列車で園部駅へ行ったらしい。後で送信した訂正メールを見ていなくて、誰の姿も見ないので5人ほどに電話を架けまくった、とご機嫌斜めだった。もちろん、無事に顔触れの揃っているのを見て、直ぐに機嫌は収まったが。
八木駅からSさんが乗り込み、園部駅で山陰線に乗り継いだ。ここから、Kさんら2名が同乗した。私は園部から先へ行くことは滅多にない。日吉駅からTさんが乗り、10分ほど出会い待ちした胡麻駅からはN君、と次々に出席者の顔触れが揃い出した。
ひっそりと佇む下山駅は、K君が高校生の頃に利用していた駅とのことである。もう1人相棒のM君が居たが、彼はもう10年以上も前に亡くなっている。ここでも、特急の出会い待ちで10分ばかり停車した。
和知駅へは、やっと11時30分に到着した。園部駅から44分も掛かっている。京都駅から園部駅までが快速で36分なのに、それよりも10分以上も多くの時間を要したことになる。駅前には、地元のK君ら3人が待ってくれていた。
「なごみ」は清流の由良川畔にあり、周囲は樹木に囲まれて文字通り和やかな雰囲気だった。水槽には鮎が泳いでいる。長老ガ岳の方角に浮ぶ雲は、やはり夏の姿をしていた。野外のレストランは、暑くてやはり汗が出るばかりである。
私達15名は、室内の冷房の効いたレストランで会食をすることにした。鮎の塩焼きは1人に3匹ずつで、金額はそれほど高くはない。もちろん、頭から齧り付くのが正式な食べ方なのだろう。
それにも拘わらず(?)骨を残す者もあって冷やかされるなど、テーブルは賑やかに沸いた。他のメニューを加え、ビールや冷酒が弾んでかなりの長時間を和気藹々と過ごした。日本酒は、やはり「長老」の銘柄である。私達一行はとうに古希を過ぎていても、同窓生同士となると全員が素直に遥かな昔へと還れる。
私達は高校を卒業して55年が過ぎた。同窓会は、会長のN君を中心に1年半に一度の間隔で続いている。クラス毎の担当は交代制ではあるが、毎年会場のホテルも決まっている。この当たりで別の企画でとの声があるものの、実際にはまだ実現はしていない。
こうした少人数の集りは、時にはあちこちで有志によって開かれているのだろう。参加者は適当な範囲内ではあっても、集れば話も弾んで時間の過ぎるのを忘れてしまう。
宴会の終わった後で、K君の別宅へ移動して全員がしばらく寛いだ。以前に牡丹鍋会を開いた場所で、天井の高い昔の田舎家はエアコンが無くても、開け放たれた縁側からかなり涼しい風が通る。
ここでも、ご家族の方にお世話になって、列車の時間までのんびり寛ぐことが出来た。帰りの和知駅はすでに日影になっていて、空に浮ぶ雲は心なしか姿が優しく感じられた。
今年は、いつまでも暑い夏ではある。その最後の日をゆったりと過ごした私達は再会を約して、全員が心地好い満足感を覚えて帰路に就いた。
更新日 平成22年9月2日
第48回 彼岸花なき秋彼岸
秋の彼岸の入りに、義母の13回忌法要で八木町の龍興寺へ夫婦で出向いた。記録的な猛暑続きの今夏は、この時期になっても30℃を超える暑さだった。やや雲の多い空の下を行く嵯峨野線の車窓から、愛宕山の山頂は重苦しく隠れていた。
亀岡盆地ではもう稲穂は黄色く実り、所々すでに刈り取りの終った田圃もある。ただ、駅の東側に広がっていたはずの秋桜畑は、まだ緑一色のままである。秋桜畑を移転したとも聞くが、果たして実態はどうなのか。
電化と複線が完成してからは、京都駅から八木駅まで普通車で40分の乗車時間となった。8時43分発の電車は9時23分に着く。かつて、私が通学・通勤していた60分から70分も掛かった頃に比べると、まさに隔世の感がある。ただ、長時間の道中なればこそ、のメリットもあったことはあったのだが……。
八木駅の近くにある義弟の家に、姉夫婦と私達夫婦の4人が合流した。そして、義弟夫婦とその長男夫婦を含む8人が仏壇の前に並んで、菩提寺の僧侶の読経が始まったのは10時30分だった。壁に掛けてある義父母の写真が微笑む仏壇前の法要は、およそ30分程度で終わった。しばらく和尚の法話を聞いてから、私達8人は本郷にある龍興寺へ向かった。
菩提寺である龍興寺は山裾にある古い寺で、龍安寺・龍潭寺と共に京都3龍の1つと呼ばれている。1452年(亨徳元年)の建立とのことだから、550年を超える歴史を有する古寺である。
私には、儀父母の法要以外には余り訪れる機会もなく、それほどの馴染みはない。それでも最近は、盆か春秋いずれかの彼岸の日を選んで、1年に一度は訪れるようになっている。石段脇に建つ鐘楼が、南丹市の文化財に指定されているとの標識がある。
寺の前面は80本ばかりある梅園になっていて、開花の季節には訪れる人も多いらしい。この時期には、葉が繁って青いばかりである。境内の奥には蓮池があって、今も薄桃色の蓮で池は一面に埋まっていた。
門前の石段脇には、「牡丹寺」の看板が立てられている。近年は和尚の丹精の牡丹が、石段から境内に掛けておよそ150本あると聞いている。
2年前の5月の連休の頃に、義父の法要で訪問したことがある。その折りは、濃紫・薄紅・真紅・白色など様々に艶やかな色で溢れ、周囲一帯には微かな甘い香が漂っていた。庭の奥に咲いている元祖の親株は、150年も昔から生き続けている古株だそうだ。
その年は、3月の蕾の膨らむ時期に急激に寒くなった。そのため、花が内側にエネルギーを一杯に蓄えて一段と色が鮮やかだ、と和尚の説明があったことを記憶している。そしてまた、花は随分と長く咲いていて、前年より遙かに楽しめる期間が持続しているとのことだった。
今年は、その牡丹の葉のほとんどが枯れていた。やはり雨の降らない猛暑の影響で、強烈な日照の被害が全面的に及んだらしい。葉ばかりでなく、茎まで枯れている小さな牡丹もある。中には、葉の縁だけが茶色くなって、辛うじて緑色を保っている牡丹もあるが、薄汚く枯れた葉や茎の目立つ牡丹群は、異様な光景でさえあった。
これほど無残な姿を曝している牡丹は、このまま枯死するのかと思われた。だが、驚くことに、枯れた葉の根元から小さな新芽が顔を出している。開花の時期が早い、寒牡丹の種類らしい。和尚も、牡丹は大丈夫生きている、と自信を持って説明してくれた。
龍興寺としても新しい牡丹の名所と銘打っている限り、このまま絶滅させることは出来ないのだろう。広い境内に咲き広がる牡丹である。総てに十分な手当ては不可能でも、時折り撒水して養生に努めている、と和尚は苦笑していた。
本堂で読経と焼香を済ませた後、私達は近くの山腹にある墓地へ向かった。まだ暑さが残っているせいか、樹々に囲まれた墓標の下では薮蚊が襲って来た。墓前の読経と焼香が終って帰路に着く途中で、頭上でいきなりミンミン蝉が鳴いた。
足元の草叢では蟋蟀(コオロギ)か轡虫(クツワムシカ)か、それとも他の種類なのか、秋の虫がしきりに涼しい声で鳴いている。頭上の蝉は、ほんの束の間の鳴き声を残して静かになった。
彼岸の時期ではあっても、夏日の暑い日が続いている。蝉は遅くに孵化して、まだ夏の日だと思い込んで鳴いたのだろう。恐らく、私達がこの夏に聞く、最後の蝉となったのかも知れない。
そして、寺の前に広がる田圃を眺めて、私達は異変に気付いた。黄色く実った稲穂が広がり、刈り取りの済んだ場所も散見される。遠くでは、コンバインに乗って稲を刈っている姿も見える。
例年なら、黄色く広がる絨毯を色取る深紅の彼岸花が、私達の目を楽しませてくれるはずだ。その彼岸花が1本も咲いていない。そして、畦道や土手の斜面には、ただ緑色の雑草が伸びているばかりだった。
帰宅後のテレビニュースで知ったのだが、この状況は全国的な異変であり、いつもの年より10日ばかり開花日が遅れているとのことである。秋桜も同様だとの解説だった。
墓参りを済ませて私達は義弟宅へ戻り、全員で会食をした。そして、帰路の電車の時間までを利用して、私は八木駅前の通りへ出てみた。祝日の商店街はほとんどの店のシャッターが下りて、人影は全く見られなかった。
その足で、私はかつて住んで居た家の場所へ回った。駅前通りを脇へ入った細い道の途中に、我が家は十数年間を住んでいた。私が結婚と同時に家を出て、母がしばらく暮らして居た後は、別の人が入居していた小さな平屋である。
我が家の周辺にあった3軒ばかりを含め、2年ほど前に取り壊されたのは知っている。その跡地は、今だに更地のままになっていた。初秋の秋陽が射して、白く乾いた地面は明るくて眩しい。だが、周囲に住宅が建ち並ぶ中で、その一画だけ取り残された様な淋しい眺めだった。
義母が亡くなって、すでに13年の歳月が流れた。その法要の秋の彼岸に、彼岸花の姿を見ないのは始めての経験である。義母が長く住み、妻が生まれた土地である。私も青春の時期を過ごした、謂わば第3の古里とも言える懐かしい場所だ。
私の暮らして居た借家は跡形も無く消滅し、今も空き地のままである。あの当時は賑っていた商店街は寂れて人の姿をまるで見掛けない。そして今年は、彼岸花が咲かないままに初秋の一日は過ぎて行った。
言葉では表現の仕様のない、侘しい秋の彼岸だった。だが、菩提寺の枯れた牡丹が、新しい芽を吹いている様に、彼岸花も芽を出して、今頃は田圃の畦道を赤く染めていることだろう。
閑古鳥の鳴く商店街でも、懸命に活性化に取り組んでいる地域がある。自然の摂理で、来年のこの季節に彼岸花は咲いてくれるだろう。それなら、古里の町の商店街は、人々の叡智を集めてまた昔の様に華を咲かせてほしい。
更新日 平成22年9月27日
第49回 「小短会」発足
「南丹生活」に『石川路子短歌放浪』を掲載しておられる石川先生とご縁が復活して、2年近くが経過した。その後、先生や同級生の有志で母校の園部高校を訪問したのが、昨年の初秋の頃だった。
そして、先生がメンバーになっておられる、短歌の同人会「原型」へ入会した級友が7名になった。他に亀岡市在住の人が1名入り、それ以外にも、短歌に興味を示す同級生が何人か現れた。そんな流れの中で、一度、仲間内で短歌会を開こうとの話が持ち上がった。
以前、先生が指導しておられた「翌檜」のメンバーだったTさんが世話役になり、その計画が進められた。名称を『小短会』と名付けて、原型会員や元翌檜会員などへ詠草を依頼した。「小短会(こたんかい)」とは、文字通り、小さなささやかな短歌の会の意味である。
それからの2カ月間、世話役のTさんの熱心な努力により、寄せられた短歌は21首に達した。10月24日の当日は、他に予定がある者や、急用が出来た者、それにやや尻込みをして欠席する者があったものの、出席者は16名に達した。先生を含むと17名と、初めての試みにしては中々の盛会である。
有史以来の今夏の猛暑は、全国的に異常としか表現出来ない状態だった。丹波路の秋の彼岸に、咲いている彼岸花を見なかったのは、記憶に無い稀有の経験である。
当日は亀岡祭りの前祭の日で、駅前に山鉾が並ぶなど観客で賑わっていた。駅のプラットフォームからは、薄曇りではあったが満開の秋桜畑が見渡せた。丹波盆地は、やっと本格的な秋の気配が漂い出していた。
会場の玉川楼で、11時過ぎから「小短会」がスタートした。参加者には地元の方が5名ばかり居られて、先生のご挨拶に続いで自己紹介から口火を切った。参加者には、前以って各自3首ずつの選考投票を依頼してある。
私が進行役になって、詠草の1番からそれぞれにコメントを披露してもらった。得票数の少ない作品には他の人にも感想を頼み、締め括りとして、石川先生に添削を含む総括をお願いした。活発な意見が続出して、中には遠慮がちな感想もあったが、21首総てに亘って全員が味わい深く堪能した。
当日の会合までに、私は友人知人の何人かにも投票を依頼していた。そんな結果を含めて、得票の多かったのは下記の作品である。実際は同得点の歌が多くなったので、6首を挙げてみる。
<出席者投票10票>
- 少女へと変わりゆく孫のまぶしさに少し間をおく語る言葉を N.F
<出席者投票4票>
- 門とざす主なき家のさるすべり道に溢れる花びらの紅(こう) S.H
- 畠仕事猛暑のさ中氷水口にふくみてもうひと仕事(ふんばり) K.T
- ゆく秋を移ろい見せて山なみは夕映えの中宙(そら)に溶けゆく N.H
- 暮れゆける山峡(やまかい)の村にわたる風稲穂ゆらぎて神渡りゆく K.M
- とび乗れば女性ばかりの環状線吹き出る汗を映す夕窓 K.Y
<非出席者投票6票>
- 少女へと変わりゆく孫のまぶしさに少し間をおく語る言葉を N.F
- 炎昼の熱(ほて)りのこれる月の夜のほのかに白きくちなしの花 N.N
- とび乗れば女性ばかりの環状線吹き出る汗を映す夕窓 K.Y
<非出席者投票5票>
- 門とざす主なき家のさるすべり道に溢れる花びらの紅(こう) S.H
- 曼珠沙華挿頭(かざ)して母に叱られし少女は孫に如何に語らふ U.M
- 農業に荒れし手のまま病臥する母は息子の我を遠き目でみる H.F
これらの歌の作者にはベテランもあれば、今回が初めての者も居る。私自身はこの1月から始めたばかりだから、まだ10ヶ月にも満たない。
また、僅少差でここに掲載しなかった作品も、出来栄えに全く遜色はない。当然ながら、選ぶ人の好みも左右する。ちなみに、私が依頼した同級生が推挙した歌がある。彼女は短歌の達人である。
- 迫りくる夕闇の中樒とる白くひかりおり落葉ひとひら K.T
その他、出席者の詠草は次の通りである。
- 赤子抱く温もりに生(せい)感じつつ共に笑顔で心安らぐ M.N
- 亡き夫(つま)の化身なりしや法師蝉元気を出せと啼いて飛びたつ I.T
- じりじりと日照りが常の敗戦日はじめて眼にせし母の涙は I.C
- 鷺は友と並びて今日も広沢に秋の風受け安らぎしばし M.K
- 新米に心おどらせ間引き菜を洗いてをりぬやさしき午後よ S.S
- 夢に見し東照宮は前にあり彫刻五彩に見ほれる真昼 M.M
- 稲刈りもスピード時代三日後(のち)埴生(はぶ)の山里一気に秋めくT.K
当日は所用で出席の出来なかった級友が、短冊に書いて届けてくれた歌がある。
- 歩を出せば余命誇示せし如くして羽音ふるわせいなご跳び交う U.K
いずれにしても、短歌は31文字の限られた字数の中で、自分の思いや感情を表現する自己表現の手段なのである。私達はそれを楽しめばいいのであって、作品の出来栄えの巧拙など問題外だろう。参加者の増えることを期待して、次回が大いに愉しみである。当日の石川先生の作品は下記の通りである。
- 満月を待つわが脳(なづき)は合歓の花 触手けぶらふごとく開きて
更新日 平成22年10月27日
第50回 山里の今は紅葉
記録的な今夏の猛暑の影響を受けたのか、今年の紅葉は各地とも例年より遅れ気味だった。それでも、11月に入ると朝の冷え込みが強くなり、色づくのはかなり進んだ様だった。その半ば近く、私は予ねてからの計画通りに、美山町佐々里の紅葉を撮りに出掛けた。
美山町はかつては京北町と同じ北桑田郡に属していたが、2005年の合併で南丹市となった。一方の京北町は京都市右京区に統合され、行政区は別々に別れた。私が住んでいた小学校から中学校時代は、北桑田郡の北部と南部で青年団の運動競技を競うなど親密な関係にあったものだ。
合併で袂を分かった今も、「北桑田高校」と郷土誌の「北桑時報」にはその名称が残されていて、双方の交流も続いている。また、弓削地区にある郷土文化の交誼に務める「京北ゼミナールハウス」でも、双方から役員を任命するなどして協力し合っている。
そんな状況にあることを認識していると、美山町が南丹市の一部であることは、つい失念しがちになる。行政区が分かれても、山里の佇まいは何も変わることは無い。同級生の車で茅葺の里を通過し、私達は更に奥地に位置する佐々里へ向かった。
美山地区の山々は、薄い緑の肌を点々と赤や黄の彩りで染められていた。楓よりも漆・櫨・ブナ・楢・欅・櫟などの雑木が多いらしく、柔かい毛筆で刷いた様な淡い紅葉だった。
私が、佐々里まで紅葉の写真を撮りに行ったのには理由がある。これまでに私は雪と桜の季節に訪れて、佐々里分校の写真をカメラに納めた。そして、入院中の同級生のお見舞いに、その写真を持参した。その時の記録がある。
昨年の春は何度か寒波に見舞われ、4月の終わりでも冬のような寒い日があった。そのせいか、一度咲いた桜がしばし我慢したのか、満開の期間が例年よりも長かった。また、種類によって花の開花が遅くなり、山桜や八重桜は4月の末まで満開に咲いていた。
そんな晩春に近い一日、数名の周山中学の同級生が顔を揃えて、入院している級友のNさんを見舞いに行った。前回に彼女を見舞ったのは一昨年の10月末だったから、もう6カ月が過ぎていた。
あの時は、介護を受けている重病の入院患者を見舞うことは、本人の気持ちを配慮すれば安易に実行は出来ないとの懸念があった。そのために長いこと躊躇していたところ、妹さんやご主人などご家族の方から、「本人が喜ぶので是非会いに行ってやってほしい」との言葉を聞いたので踏ん切りがついたのだった。
そんな経緯があって、私は3月の初めに写した雪の佐々里分校の写真を持参した。同校は廃校になっているものの、Nさんが教師として初めて赴任した場所である。昨年の桜の時期にも案内してくれた中学の後輩が、今年の雪の日に車で連れて行ってくれた。その日のお見舞いには、彼の姉も同行していた。
当日の丹波方面は、細かい雨が時おり降る肌寒い一日だった。周山街道の染井吉野はすでに葉桜となっていた。しかし、薄紅色の山桜は散り始めたばかりだった。そして、濃紅色の八重桜が満開に咲き誇っていた。いつか、植樹した地域もあるのだろうか。子供の頃の私の記憶より、八重桜の数はずいぶん多くなっているように思われた。途中からも級友が合流して、6人が2台の車で一路綾部市へと向かった。
病室へ入った途端に、私達6人に気付いたNさんの目が強く輝くのを見た。6カ月前より、はるかに目には力があった。目蓋の開閉も一段としっかり出来るようになっていた。そして、何よりも驚いたことに、口と顎がわずかながらも動かせるようになっていたのである。
運動機能を束ねる小脳が萎縮して、身動きはおろか食事も口を利くことも不可能な病気である。涙さえ流すことが出来ない。しかし、視力と聴力は正常で、記憶力や判断力など大脳の働きはまともである。そんな病状の中にあって、彼女は明らかに半年前より回復していたのだ。
女性の級友達が、自分の名前を告げながら交互にNさんに呼び掛けると、彼女は目蓋を強く開閉させて、その呼び掛けに応えた。そして、級友の姿を懸命に目で追っていた。前回は、辛うじて眼球を動かせる程度だった。それが、格段に快方に向かっているのがはっきりと分かった。そして、口元と顎を必死に動かして、彼女からも喋り掛けるような気配を見せたのだ。
彼女の病状を気遣いながら見舞った全員に、たちまち明るい雰囲気が溢れた。それぞれが、顔を寄せて様々な事柄を語り掛ける。おそらくNさんには理解出来るのだろう。眼球を動かしたり目蓋を閉じたり、口元を動かしたり、しきりに応答を繰り返していた。
私が佐々里分校の写真を見せると、彼女は食い入るように見詰めた。前回持参したのは桜の咲く学校の写真だったが、その日の雪の写真も彼女には思い出深い光景だったはずである。今でこそ、積もる雪はそれほど多くはない。だが、彼女が赴任していた時代は、1メートルを超える積雪があったと聞く。もう、そんな雪の中へ行くことは出来なくなったNさんの胸中には、どんな感慨が駆け巡っていたのだろう。
やがて帰る頃になって、誰かが中学校の校歌を歌い出した。他の者も、それに続いて歌った。
「緑も深き杉木立、めぐれる山を窓に見て……」
病室の中のため大声は出せなかったが、皆の歌声に合わせてNさんが懸命に口を動かし始めた。彼女も、校歌を唱和しているのだった。
あれは平成4(1992)年の11月だったから、すでに16年前になる。ロイヤルホテルで開かれた周山中学校の同窓会で、マイクの前に立った彼女の指揮で参加者全員が校歌を斉唱した。今からすれば、それがNさんの出席した最後の同窓会となった。元気溌溂としていたその日の情景を、彼女は思い出していたのかも知れない。
そして、遙かな遠い昔の、緑の山々に囲まれた母校の光景を、心にしっかりと浮かべていたのだろう。窓辺で共に学んだ級友や先生とのあの懐かしい日々に、熱い思いを馳せていたのだろう。
また、生徒会役員としての活動や、ダンスクラブのメンバー達と舞台で踊ったことを、熱い気持ちで思い出していたかも知れない。そう言えば、見舞った4人の内、3人までがダンスクラブの所属だった。
「大堰の川の水清く、瀬々に輝よう朝日かげ……」
声こそ出ないものの、Nさんは一生懸命に校歌を歌っていた。もう一度、古里の川で遊びたいだろう。叶うことなら、木造校舎の教室に机を並べて皆と一緒に勉強したい……。
ベッドの横に立って歌う級友達の目から涙が流れた。合唱しながら全員が泣いていた。私の目からも涙がこぼれた。
以前は不治の病気とされていた難病でも、最近の医学の進歩で治癒されるケースが多々ある。Nさんの病気も、画期的な治療法や薬品が開発される可能性があるかも知れない。そうした医学的な期待の他に、かつての級友の暖かい心が、Nさんの病状を快方に向かわせる可能性も必ずある、と私達は信じたい。
今は残念ながら、声を出し涙を流すことの出来ないNさんである。しかしあの日は、級友達と一緒に、懐かしい校歌を心の中で大声で歌っていたと思う。そして、胸の中は涙で一杯だったことだろう。自らの涙と6人の暖かい涙が、彼女の心の中へも流れ込んだはずだから。
帰りの丹波路は雨が上り、萌え始めた若葉が山肌を黄緑色に染め始めていた。やがて若葉が濃い緑色になる頃には、Nさんは病室の窓から古里の山並みを思いやるに違いない。そして、その山々の光景を見ながら、目蓋から本当の涙を彼女は流すかも知れない。
午前中の時雨が上り、かなり強く吹いていた風も止んだ。晩秋の佐々里分校は、相変わらず静まり返っていた。かつての校門の横には銀杏(いちょう)の大木があって、黄色い葉が古くなった校舎に覆いかぶさる様に映えていた。
校舎の横や運動場の隅の桜の木が、僅かながら赤く染まりつつあった。分校の前の山は薄く濃く様々な雑木が紅葉している。その下を流れる細い川辺には芒が一面に生い茂り、白くなった穂がゆらゆらと揺れていた。
秋の今頃は、Nさんが赴任して半年は過ぎた頃である。学校にも慣れて授業にも張り合いが出て来た時期だろう。そんな日の遠い秋をせめて写真にして届けよう、と私は帰路に就いた。四方を山に囲まれた佐々里の里は、まだ3時前なのにもう太陽が翳り薄暗くなりつつあった。
更新日 平成22年11月14日