南丹生活

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第41回 迷いながらの短歌

 原型短歌会の「関西ぐるうぷ」例会が、2月の半ばに京都市内で開催された。1月は大阪でその前は神戸、と順番に3個所を開催地として回っているらしい。私は2度目の出席となった。今回は日程の都合でI先生とM君は欠席だったので、K君と二人で待ち合わせて出掛けた。

 毎回の出席者はそ15名前後で、いつも顔を出す人や開催地域によって出席するなど様々である。今回の半数は、2度めの私には初めて顔を見る人だった。リーダーで進行役のT氏は毎回出られるとのことだった。

 そのT氏を除くメンバーの男性は私達を含めて3名で、圧倒的に女性が多い。全員がそれぞれかなりのキャリアがあるらしく、作品に対するコメントも鋭い。会員は前以って作品を1首提出し、一覧表の中から参加者は5句を選ぶ。提出された作品はもちろん個性派揃いで、その世界へ引き込まれる秀作が多い。

 私やK君も氏名されて感想を述べるのだが、果たして正鵠を得ているかどうかは自信がない。ただ、感じた通り思った通りを、遠慮なく発言することにしている。

「寅年に吉兆願い鈴鳴らす大吉なれどマグロに銭貼る」。K君の作品に1票が投じられた。

 寅年・吉兆・大吉とたたみかけ、それでも足らずに〈えびすさん〉の供物のマグロに銭を貼ると物おじしないところは面白い。えびすさんの風景を知らない読者もいた。

 とのコメントがあった。K君は、律儀に近くの神社へ初詣に行ったらしい。

「バスを待つ園児とおはよう言いかわし霜のあしたを職場へ急ぐ」。これは欠席したM君の作品で、同じく1票が投じられた。

 霜の朝、職場へ急ぐに現実味があり、作者のやさしさがよく出ている。園児らではないかとの意見もあったが、おそらく幼稚園バスと思われるので、このままでも通る。

 とのコメントが付されていた。まさに、M君の人柄を彷彿とさせる作品ではある。

「さりさりと下鴨神社の砂利を踏みて四十二回の記念日迎ふ」。これは私の作品だが、残念ながら得票は無かった。

「さりさり」の擬音も清らかで、寒い朝も感じる。何の記念日かという疑問も出たが、これは結婚記念日。「迎ふ」を省いて結婚記念日にすればという意見もあったが、解るので「迎ふ」という感慨は残したい。

 とコメントにあった。

 十数名の会員はプロではない。ただ、作品集を何冊か出しているベテランから、私達の如き初心者が混交している。その感想や批評も千差万別で、それだからこそ、次への作歌の意欲に繋がるのだろう。

 そんな折りから、「原型」の3月号が届いた。高名な歌人の齋藤史創刊の短歌雑誌だが、毎月1回発行で通刊567号となっている。私達初心者は「作品U」の範疇に入る。10首提出して6首掲載されると聞いていた。ベテランのI先生らは、当然ながら上級クラスの「作品」欄である。

 初心者の「作品U」欄には、3名の投稿が掲載されている。I先生の門下生で投稿した者は、園部在住のTさんと亀岡に住むIさんと、それに私の3名である。2人はかなり以前から短歌を作っているらしい。「原型」には初めての入会であり、今回投稿した3名以外にも後3名の同級生が加入した、と先生から聞いている。

「作品U」の中から、6名の作品が「弥生集」と称するコーナーに掲載されている。その1人はTさんで、彼女はかなりベテランだから秀作揃いである。ただ、その中の1人に、私の作品があったので驚いた。出来栄えはまるで自信が無かったし、選考基準も全く知らない。I先生に報告すると、作品を読まれた先生の感想も私を力付ける意図からか、かなり好意的ではあった。

  • 五十五年過ぎし邂逅師とわれら母校の庭に公孫樹(いちょう)散り敷く
  • 教え子も教師も共に青春の惑いの中に生きしあの日は
  • 先生の歌読む声は涼やかに五十五年の昔のままに
  • この言葉教えたはずと先生の微笑む目見に秋陽やさしき
  • やわらかき師の語る声流れ来て五十五年の時は縮まる
  • 遠き子らの朝は清(さや)かに桃山の空に続きしこの初春の日よ
  • 元旦の暗き空より降る雪のその一片に古里思う

 これらの作品の出来栄えや、他の人たちとの比較したレベルは分からない。しかし、自分が感じた事柄を短い言葉で表現することは難しいが、こうした機会が得られたことは前向きの気持ちには繋がる。まだ、他人の評価を気にする段階ではないのだから。

 この年齢で始めた短歌作りが、いつまで続くかは分からない。それでも、これまで無感覚だつた毎日の視点が、少し違うものにも向かうようになったことは事実である。

更新日 平成22年3月12日

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第42回 嵯峨野線の変貌

 山陰線の京都〜園部間が嵯峨野線の愛称で呼ばれるようになったのは、1988(昭和63)年からとのことである。私が17年間住んでいた八木町を離れたのが、1960(昭和44)年だった。だから、この呼称に気が付いたのは、ずっと後になってからである。国鉄が民営化になったのは、その1年前で今から20年以上も昔のことになる。

 山陰線の高架工事や複線化工事が着工されたのも、ちょうどその頃かららしい。そして、嵯峨野観光鉄道が発足して、旧線にトロッコ列車が走り始めたのが1991(平成3)年とのことである。併せて嵯峨駅が嵯峨嵐山と改称されたが、私はそのことにしばらく気が付かなかった。

 昨年までの2年間ほどは、園部高校120周年記念誌の編集で嵯峨野線に乗る機会も増えた。その会合に出席するたびに、園部駅に「完全複線化完成」の看板があるのを横目で眺めていた。1990(平成2)年に電化が完成したものの、完全複線化にはなっていなかったらしい。

 そして、今年の3月13日に前線の複線化が終了して、記念式典が挙行されたことを新聞で知った。また、当日に試乗した友人のブログに記事が掲載されたのを読んで、私も何がしかの感慨に耽ったことだった。

 新しいダイヤによると、普通列車で京都駅〜八木駅間が35分となっている。園部駅までなら42分である。また、快速を利用すれば京都駅〜八木駅間が30分で、園部駅迄は38分で到着する。さらに、急行は残念ながら八木駅には止まらないながら、園部駅迄でも29分と、実に30分を切ることになった。本数も、普通車で1時間に2本が運行されている。

 余談ながら、亀岡駅までなら20分程度の所用時間で済み、本数は2倍もあることになっている。

 古い言葉ながら、隔世の感とはまさにこの事だろう。私が通学・通勤していた昭和30年時代は、京都駅〜八木駅間は60分掛かるのが通例だった。時間帯によって出会い待ちがあったため、70分も要することが何度かあった。園部駅迄はさらに+10分である。

 車両はディーゼル機関車が走り始めたとは言え、まだまだ蒸気機関車が主力だった。薄暗い車両にエアコンなどは設置されていない。真夏は天井に扇風機が回っていても、車内冷房には程遠かった。

 8箇所あるトンネルに差し掛かれば、窓から煙が遠慮なく侵入する。そのたびに車窓を開閉するのは、窓際に座った者の任務になっていた。煙に咽せ煤で薄黒く汚れながら、固い座席で板製の背凭れの60分(乃至は70分)は、まさしく労苦と忍耐の日々だった。

 運行本数は、通勤時間帯以外は1時間に1本だけで、もし乗り遅れると大変なことになった。通学ならまだしも(?)、通勤時間の列者に乗り遅れ、二条駅からタクシーを飛ばしたことも何度かある。朝は朝でそれなりに大変だったのだが、帰りの列車にも相当な苦労があった。

 京都駅では最終列車の発車時刻に合わないため、また、二条駅までタクシーを飛ばすのである。自業自得とは言え、最終列車が京都駅10:50分発では、いささか早過ぎるのではないか、と今も文句を付けたい気持ちである。最新のダイヤでは、京都駅0:06分となっている。これこそ、まさに隔世の感がある、と断言出来るのではないか。

 その最終列車で乗り越して、終点の園部駅まで行ったことが何度かある。寝て(酔って) いても、知人が乗っていると八木駅で起してもらえることがある。しかし、そんな親切な人が居合わせない場合は悲劇に結び付くのだった。最終なので折り返し列車などは無い。深夜12時を過ぎた国道をトボトボと歩いて八木まで帰るのは、かなり辛いものである。

 ショックで酔いはかなり冷め始めたとは言え、深夜トラックが何台も走り去るので、ふらつく身にとっては危険この上ない。まして、冬場なら、寒さで凍え死にそうになったものだ(まだ生きているが)。

 ただ、乗車時間60分の長い道中は、まんざら苦労ばかりでもなかった。列車の本数が少ないため、自ずと往復で利用する時間帯が決まり、乗る車両も大体は同じ所になるのだ。したがって、毎日顔を合わせる人が、必然的(意識的に?)にそこに居ることになる。私にも、それなりに楽しい経験もあった。それを思えば、単線の山陰線には、感謝しなければいけないのだろう。

 悲喜交々の出来事の交錯する中で、忘れられない苦い経験もある。その日に乗った時間は、京都駅で7時台の列車だった。会社の帰りが多いのだろう。車両はかなり混雑していて、発車直前に飛び乗った私は座れずに立っていた。

 やがて、嵯峨駅で降りる人があって、ようやく座席が一つ空いた。降りた人の横に座っていた女性が奧へ詰めて、立っている私に座るように、「どうぞ」と身振りで促してくれた。

 その当時の私はまだ若くて元気があったから、それほど座ることには執着していなかった。他の人に座ってもらうようにと思い、また、勧めてくれたのが女性だったこともあって、私は遠慮してそのまま立ち続けた。

 しかし、そんな私の気持ちなど分かるはずはない。空席を勧めた彼女はバツが悪かったのだろう。立ったままの私から顔を背けて、窓の方を向いた横顔が硬直していた。やがて八木駅へ着いて、私は気まずさもあったので、そそくさと降りてしまった。

 今から思えば、彼女も八木駅で下車したはずだ。誰よりも早く逃げるように降りた私は、後ろを振り向かなかったのでそれを気付くはずもなかった。

 そして、その日のことを、いつの間にか私は忘れてしまっていた。それから何年かして、八木中の同窓会が開かれた。その時に出席した一人から、「Aさんが怒っていた」と教えられたのだった。

 あの時、私に座るように進言してくれたのは、同級生のAさんだったのだ、と私は初めて知った。やはり彼女は、あの日の私の態度に相当立腹していたのだ。当然と言えば当然だろう。彼女は同級生だと覚えていて、親切に座るように勧めてくれたのだ。

 それを無視した私に、怒りを覚えるのは当たり前のことだろう。ずいぶん失礼な人間だ、と私は思われたのに違いない。彼女がもし中学を出て働いていたとしたら、私は何とも傲慢な人間に見えたかも知れない。

 私は3年生の2学期に八木中へ転校したため、同級生にそれほど深い馴染みは無い。園部高校へ進学した者とはその後に親しくなったものの、別の方向へ進んだ級友とはそのまま疎遠になってしまっていた。

 成績もかなり優秀だったAさんは、卒業後はどうしていたのだろう。私が列車内で出会った時は、卒業からすでに十数年の歳月が流れていた。私は彼女と気付かず変に構えて、ついその好意を無にしてしまっていたのだ。

 同窓会で聞いて初めてそのことを知っても、本人が出席していないため謝罪をすることも叶わずに終わってしまった。あれからまた、半世紀近くが瞬く間に過ぎた。それからも同窓会は何度か開かれているが、Aさんに会うことは一度も無い。

 今年になって嵯峨野線が最新の姿に生まれ変わった。乗車時間が半減した今では、通学や通勤の状況も様変わりしたことだろう。私や妻の両親がすでに鬼籍に入った今では、嵯峨野線に乗って八木町へ出向く機会も滅多に無くなった。

 たまに乗ることがあれば、新しくなった駅舎や沿線の変化は、目を見張るものがある。かつての駅はすっかり様子が変っている。各駅での乗降客の人数にも、当然ながら著しい変貌があるのだろう。

 昨年度の乗降客人数は、園部駅6,242人・八木駅2,648人・千代川駅2,225人・並河駅5,044人・亀岡17,388人・馬堀駅8,449人となっている。ちなみに二条駅が24,322人・円町10,780人・花園6,182人・太秦7,912人・嵯峨嵐山15,863人・保津峡409人だから、亀岡駅とその周辺の発展には、驚くべきものがある。

 園部駅の消長はどうなのだろう。馬堀駅よりも少ない乗降数だが。隣接の船岡駅は14人と、まるで嘘のような数字である。

 私が乗り降りしていた八木駅は2,648人で、昔は小さな駅だった隣りの千代川駅と大差が無い。ちなみに、吉富駅は220人と、これも極めて閑散とした駅である。

 また、八木駅の駅舎だけが、未だに昔のままの古い建物である。跨線橋は磨り減って歩き難く、隙間さえ開いている。私はいつも八木駅で、50年も昔へタイムスリップした気持ちを味わうのだ。

 山陰線の園部駅迄の通勤区間は路線名が変わり、複線電化されて便利になった。その中でも、駅ごとの栄枯盛衰が歴然としている。古里を離れて暮らす私に、その理由や原因はよく分からない。

 たまに乗る時でも立つことはまず無い。だから、降りる客を待つ必要もない。それでも、もしAさんを見掛けたら空席を勧めて、あの時のお詫びをしよう、と私は思っている。

更新日 平成22年3月27日

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第43回 忘れ雪に逢う

 今年の冬の気候は実に不思議だった。最近は、異常気象の影響で暖冬が当たり前になっていた。それが、東北や北陸など地域によっては記録的な大雪が降った。また、通常は降らない九州や四国にも何度か積雪があった。ただ、なぜか京都は、やはり例年よりも雪の少ない冬だった。

 その京都にあっていつの間にか3月になり、そして19日に桜の開花が宣言された。例年より12日も早く、過去2番目(1番は02年の3月18日)の記録とのことである。2月の平均温度が、いつもより2°Cばかり高かったのが原因らしい。

 その暖冬の2月7日に、一度だけ我が家の周辺にほんの少しながら雪が降った。またその日は、古里の京北町一帯にも30センチばかりの積雪があったと聞いた。特に「口雪」と称して、地元でも比較的少ない宇津の里に多く積もったとのことだった。ただ当日は、始めたばかりの短歌の例会があって雪見に出掛けられず、私は切歯扼腕したのである。

 そんな気持ちが昂じたせいか、雪に関する文章も何度か書いたようだ。雪を呼ぶ名称は相当に多い。そしてまた、実に美しい呼称ばかりである。その一つに、「忘れ雪」と称する表現がある。冬の初めに降る雪は「初雪」であることは誰でも知っている。そして、その冬の最後に降る雪を「忘れ雪」と呼ぶ。この最後に降る雪は、また「雪の果」「雪の別れ」などとも呼ばれる。

 冬の間に降った古里の雪に逢えなかった私に、3月にも必ず一度は降るから、とブロ友が確約(!)してくれたのだった。そして、見事に彼の予測が当たり、3月9日に雪は降ったのである。寒の戻りとかで、その前の日から気温はかなり低くなっていた。雪マークの予報も出ていたが、降っても丹後方面だろうとそれほど期待はしていなかった。

 ところが朝の10時前に、友人から雪の電話が入った。それを聞いて、私は直ちに家を飛び出したのだ。迎えに来てくれた彼の車で周山街道を走った。高雄を過ぎて中川辺りまで来ると、気温は市内の中心部より1°C下がった。周囲を取り囲む北山杉が、薄く雪を被っている。それからは、トンネルを抜け峠を越える毎に、気温はまた1°Cずつ低くなっていった。笠峠を越えた辺りから、杉木立に積もる雪の量は少しずつ増え始めた。

 この雪がもし今冬最後の雪だとすれば、やはり忘れ雪と呼べばいいのか。やや水分が多いらしく、北山杉の細い枝が重そうに垂れている。剪定を繰り返し真っ直ぐに細く育てられた北山杉は、最近の重い雪でよく折れると聞いている。現に、山肌のあちこちにその残骸が目につく。ただ、整然と立ち並ぶ北山杉が雪を被った姿は、やはり絵に描いた様に美しい。

 60年振りで旧宇津村の雪景色に出逢って、私はしばし昔の世界に遊んだのだった。そして、その後私達は深見峠を越えて南丹市の美山町へ向かった。京北町との境にある標高538メートルの峠を越えると、周囲の山の様相がかなり変化する。京北町は杉や檜の木立ちが多くて四季を通じて薄暗い山道が続く。美山町へ入れば落葉樹の自然林が多く、四季折々に変化する風景が一帯に広がっている。

 深見峠のトンネルを抜けると、一段と霙混じりの雪が激しく車の窓を叩いた。友人の操作するワイパーの動きが激しくなる。山蔭に積もる雪も、今までよりやや深いように見える。美山町の萱葺きの里は、完全に吹雪の中に霞んでいた。平日のせいもあるのか、観光客の姿はまるで見られなかった。おまけに、出歩く地元の人も居ない全くの無人に思える里だった。いつもは多くの観光客で賑わう里に、こんな静かな日もあるのを知ったのは意外だった。

 中心部の北村地区には約50戸の民家があり、その内の38戸が昔のままの萱葺き屋根である。その集落の入り口に、丸型の赤いポストがある。遠い時代に村の郵便局で見たあの朱色が、降りしきる雪に覆われて遠く薄く見えていた。

 私達の乗った車は知見へと入り、かつてスキー場のあった八ケ峰登山口まで走ってから引き返した。その後は、江和から田歌を通り、さらに唐戸渓谷から出合橋を経て、やがて佐々里へと向かった。唐戸渓谷の周辺は深い谷間で、春秋には絶景の場所である。吹雪に煙る雪の景色にも、深い谷底へ引き込まれる様な魅力があった。

 やがて到着した佐々里へは、昨年の桜の季節にも一度訪れている。あの時は、峠道の所々に残雪の固まりがあった。ほとんど人通りの無いあの晩春の日も静かだった佐々里は、雪の降る日はさらに深閑として静まり返っていた。その日の積雪は10センチばかりだった。京都府下有数の豪雪地帯である佐々里は、1メートル以上の雪に埋もれることが常にあると聞く。そんな状態に比べれば、今年はずっと雪が少ないのだろう。

 昨年の桜の頃でも、佐々里分校には人の気配は全くなかった。校舎や校庭の周りの桜が、人知れずひっそりと咲いていた。その桜の木が、3月の忘れ雪を載せてさらに淋しく立っていた。校舎の裏の小さな池の端にある二宮金次郎の石造は、雪を被って泣いていたのかも知れない。私の母校である宇津小学校と同じように、この分校も永遠の眠りに就いたのだろうか。

 昨年の春に写した桜の写真を持って、私は入院している同級生のNさんを級友と一緒に見舞った。運動機能を損傷した彼女は、視力や聴覚は正常でも動くことも口を利くことも出来ない。涙さえ流すことが不可能なのだと言う。

 Nさんが新任教師として赴任した学校は、すでに遠い過去の中で深い眠りについている。そして、もう二度と目を覚ますことはないのだろう。近くの喫茶兼食堂の壁に架けてある、昔の佐々里分校の看板だけが、わずかな名残りを留めているに過ぎない。

 しかし、彼女の意識が正常である限り、そして、治療方法や薬品の開発に期待が持てる限り、佐々里分校は彼女の心の中で生きているはずだ。見たり聞いたり出来る正常な意識を、外へ向かって意志表示し得ないことはどれだけ辛いことなのか。私には想像することさえ不可能である。

 かつて、青春の日の情熱を燃やした場所。あの日、その桜に囲まれた学校の写真をじっと見ていて、やがて彼女は深く深く目を閉じた。きっと心の中で泣いていたのだと思う。目蓋から外へは流れ出ることのない涙は、彼女の胸の奥底へと流れ込んだのだろう。

 この次は、雪景色の写真を持ってNさんを見舞いに行こう、と私は思っている。不治の病気で、思い出の土地へさえ自由に出掛けられない。そんな彼女に、私が懐かしい思い出を届けよう。その一つが、忘れ雪の中に佇む佐々里分校の写真なのだ。

 この早春の日に、私は思い掛けなくも忘れ雪に出逢えた。それも、遙かに遠い古里の忘れ雪である。そして、行きたくても動くことの不可能な、級友の思い出の土地の雪景色にも逢うことが実現した。

 それからしばらくして、周山中学校でNさんの担任だったT先生から、お見舞いには一緒に連れて行ってほしいと電話があった。先生はもう88歳になられる。それでも、教え子に対する優しい心を今も持ち続けておられることを知って、私は必ず先生とご一緒にお見舞いに行こうと思っている。

更新日 平成22年4月12日

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第44回 比翼句碑まつり

 4月の半ばに私が同人になっている「金曜句会」が、毎年の恒例としている『比翼句碑まつり』が開催された。私が入会したのは昨年の6月だから、初めての経験となる。

 当日は、二条駅8時4分のJRバスで周山へ向かった。そのためには、自宅を7時に出て地下鉄で二条駅まで行くことになるので、6時には起床する必要がある。

 この路線バスはいつもなら高雄辺りまでは乗客があるが、朝の早いバスは立命館大前でほとんどが下車してしまう。そのために、1時間ばかりの道中は、2〜3人の閑散とした車中となった。

 周山駅到着は9時16分で、そこからは京北ふるさとバスに乗り換えなければならない。国鉄バスの昔は、美山町の鶴岡まで通っていたバスが、今は総べて周山迄となった。その代償としてふるさと公社がバスを走らせているのだが、本数が少なくて実に不便極まりない。

「金曜句会」は京北ゼミナールハウスで開かれるため、そこからはゼミハウスのマイクロバスで美山町の大野ダムまで行くことになっていた。

 大野ダム一帯には、およそ1000本の桜が植えられていると聞く。毎年の桜祭りは4月の初めから10日間ばかり開催される。今年は前日の12日に修了して、観光客の姿はまるで見られなかった。

 それに、今年は交通安全を建前として、沿道の桜の枝をかなり伐採した。それが論外と思える程の処置だったので、地元の住民が当局へ抗議したことが新聞に掲載されていた。それに対して、担当行政の弁明が載っていたが、抗議を受けるくらいだからやはり非常識な措置だったのだろう。

 その日の天候は曇り空で、染井吉野は散り始めていた。休みなく花吹雪が舞い、ダムの水面には花筏が漂う光景が眺められた。岸辺の句碑は、横が2メートル縦が1.5メートルばかりのおむすび方の自然石で、2句が並べて刻まれている。

  • 水ありて花のかがやく夕ごころ    丸山海道
  • いわしぐも地に生くものは水に恩   丸山佳子

 2人の俳人は夫婦なので、「比翼句碑」の謂れはそこからきている。金曜句会は、鈴鹿野風呂宗匠が創立した俳句結社「京鹿子」の北桑田支部である。海道師はその結社の宗匠の1人で、「金曜句会」が指導を受けていたらしい。海道師の亡くなられた現在は、野風呂宗匠の次男に当たる鈴鹿仁師が、支部の指導に顔を見せておられる。

 新参者の私は、奥様の佳子師の名は機関誌で拝見するものの、海道師のことはまるで知らない。作品の刻まれた大野ダムの句碑を見るのも、今回が初めてである。句碑の前には、椿などの花が生けられ果物が供えてあった。当日の句会に備えて、同人の有志が前日に句碑を洗ったそうである。

 30名近い参加者が句碑の周囲を散策しながら、それぞれに俳句を捻った。背景の山並みに霧が掛かり、無数の花びらが舞っていた。「比翼句碑」の傍にある紅枝垂れの濃紅色が、曇り空の下でも華やだった。

 30分ばかりの後に、ゼミナールハウスへ戻った一同が1句ずつ投句した。そして、美山町在の小畑翠光氏の司会により、参加者1人が3句ずつ推薦して選考が始まった。投句作品は28句あり、2句を除いて1票以上の選考票が入った。

 その結果の、最高得票の1位から3位までは次の句である。

  • ふりかかる花の天使が句碑洗ふ      IK 15票(内、一押4票)
  • 句碑浄(きよ)め耀きを垂る花万朶    IS 14票(内、一押5票)
  • ひとときの吐息にとどめ余花の湖     OH 11票(内、一押3票)
  • さざ波の風が棹さす花筏         KJ 11票(内、一押1票)

 ちなみに私の句は、散る桜咲く桜見て句碑静か/5票(内、一押1票)だった。かくして、初参加の句碑まつりは花曇りの下で修了した。作品の出来栄えの良否は、私にはまだ分からない。

 今頃、大野ダムの桜はすっかり葉桜になっていることだろう。来年の句碑まつりまでに、私の力量は何処まで伸びるか、それとも伸び悩むか……。人生の終盤になって始めた俳句である。作品の出来栄えより、脳味噌の活性化のつもりで取り組むのが賢明なのだろうと思っている。

更新日 平成22年5月1日

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第45回 五月晴の八桜会

 今年は異常気象の影響なのか、沖縄以外では梅雨入りがかなり遅かった。京都は、13日の日曜日にやっと入梅が宣告された。昨年より3日遅く、さらに通年平均より6日も遅い。これは全国的な傾向ながら、京都ではその日から一日置きに降ったり止んだりの日が続いた。降ればかなりの豪雨で、南部地区では鉄道にも影響が出ている。

 この時期の長雨を、「五月雨(さみだれ)」または「皐月雨(さつきあめ)」と呼ぶのは、陰暦では梅雨の季節が5月だったからである。

 元来は、「さみだれ」の「さ」は「五月(さつき)」の「さ」、或いは、「早乙女」などと同じく田植えに関する「さ」で、「みだれ」は「水垂れ」からきているとの説がある。

 そしてまた、「五月闇」は梅雨の頃の夜が暗いことで、「五月晴」は梅雨の晴れ間を表現する言葉である。現在では、新暦の5月は旧暦時代より1カ月以上も早い時期になり、5月に降る雨や晴れ間を呼ぶ言葉として使われることがある。また、その方が現代人の感覚には合っているのだろうとも思われる。

 この17日(木)は、そんな梅雨の晴れ間の一日となった。旧暦の言葉で言えば「五月晴」である。眩しいばかりに晴れ上がった青空で、朝から夏日を思わせる暑い天候となった。

 私達第8回卒業生の「八桜会」が、京都駅に隣接するホテルグランヴィア京都で1年半ぶりに開催された。私達は丑年と寅年生まれなので、去年から今年に掛けて6度目の干支回りを迎えたことになる。昭和31(1956)年3月の卒業以来、すでに54年の歳月が流れた。

 およそ1年半に1度の間隔で同窓(級)会を開催しており、今回で10度目くらいになるのだろうか。会長のN君だけは固定していた、その都度各組から男女1名ずつの世話役を任命している。

 その世話役の中から2名の会計担当も選ぶ。クラスは全部で6組あるから、12名が準備段階から当日の世話や終了後の事務処理を取り仕切る制度になっている。今回も、本番の日までに2度ばかり打ち合わせ会を開いた。会長も何かと気苦労が多いようだが、もちろん世話役代表が最も大変な任務となる。

 今回の世話役代表は1組のH君で、私はAさんと共に5組の世話役となった。これまでにも、2度ばかり世話役を務め代表も1度担当している。今回の私は案内状の印刷を引き受けた。

 3組のU君が名簿の作成を担当した。この双方の作業が一番の厄介ではある。彼は直前になって泡状帯疹に罹り、残念ながら当日は欠席せざるを得なくなった。

「八桜会」の使用する会場はほとんど一定していて、後輩のK君が勤務するSホテルがこれまでの場所であり、数年前に彼の転職に伴い現在の所に落ち着いている。

 私達「八桜会」の同級生は全員で293名である。その内、すでに34名が亡くなっている。この1年半の間に3名が故人となり、今回の開催の1週間前に1組のY君の訃報があった。

 6名おられた担任の先生は、半数の3名が鬼籍に入られた。また、2名は介護を要する病気に臥せっておられて、もう出席は不可能な状態にある。

 そんな事情にあって、ただ1人だけお元気なM先生と、国語の担当だったI先生が顔を見せられた。M先生は83歳で、I先生は6月に80歳を迎えられた。私達が教えを受けた頃は、20歳代前半の若さだったのだ。両先生共、今もとてもお元気で若々しい。級友の出席は最終的に84名となり、最近の会合もほぼこの程度の参加者となっている。

 参加率は32%強となる。この数字が高いか低いかは不明なものの、大体はこんなものではないかと推測される。これまでの会合では、還暦記念の150名と、次いで50周年記念の105名が出席の多い記録となっている。

 座席割りは従来は組別にしていたところ、参加人員にバラつきがあるため、今回は籤引で決めた。男女の人数が、満遍なく座れるように配慮してある。料理はテーブルバイキングと呼ぶ方式らしく、私達の年代からすればボリュームは十二分にある。

 もちろん、アルコール類は飲み放題なのは言うまでもない。ただ、水割り(焼酎も)などの特別品は、今回はその都度サービス係に注文しないといけなくなっていたのが、やや不満ではあったが。

 会合は世話役のKさんの司会で、冒頭に亡き級友への黙祷を奉げた。この時は、20歳代で亡くなった仲の良かったN君とU君をいつも思い出す。特に、N君が卒業して一番先に23歳で死んでから、半世紀の歳月が過ぎている。F君やM君などの腕白仲間も、早くに逝ってしまった。

 続いて会長のN君と世話役代表のH君の挨拶に始まり、M先生とI先生のご挨拶へと続いた。校歌斉唱は、音楽を本格的に学んだNさんの指揮で、全員がしばし母校を偲ぶことが定例となっている。

「悠久清新」と「雄大敬虔」。私達は、いつまでもかくの如くあるのが理想だろう。少なくとも、そうありたいと願う気持ちは誰しも持っているだろう。在学時代はそんな思いを抱きながら、校歌を歌っていたのかも知れない。

 だが、卒業して幾星霜も過ぎた現在ではどうなのか。やはり、私達はそんな精神とは程遠い存在になってしまったのか。校歌を合唱するたびに、却って煩悶の心に呻吟するばかりなのは私だけかも知れないが。

 そして、乾杯は最遠路の大分県から参加したI君の音頭で、直前に逝去したY君への献杯を奉げ、続いて全員の再会と健康を祝した。今回も、卒業以来2度目の出席となった珍しい顔触れが3名ばかりあり、こうした出会いがあるのも毎回の同窓会の醍醐味となっている。

 食事が終盤に差し掛かった頃に、全員参加のビンゴゲームが始まった。1等は3千円のギフトカードで、3等1千円まで30人ばかりが賞金獲得となる。世話役のK君らの進行で、この時間になると会場は和気藹々とした雰囲気になる。

 次いで2次会に移り、カラオケ大会となった。以前のホテルでは小部屋を借りて移動していたものだが、最近ではテーブルのセットをやや変更して、その場所で引き続く形式となっている。

 各テーブル1名ずつ程度で10名ばかりが舞台に立って歌った。さすがに自ら進んで出るだけあって、古い歌新しい歌が交ざり合い、全員が実に見事なまでに達者である。中にはプロ級も居るらしい。司会は私が務めた。

 その後で会長のN君から次回の世話役を紹介し、最後は世話役のSさんの挨拶で締め括った。約4時間の熱い「八桜会」であった。

 I先生が前回の「八桜会」へ出席されたのを機会に、先生が所属しておられる短歌の同人会「原型」へ同級生の7名が入会した。同人誌へ投稿する者が4名と、「関西ぐるうぷ」の例会へ出席する者が3名である。

 同窓会が終わった昨年の初秋に、I先生を囲んで母校を訪れたことが契機となったのだった。加入者は、これからも増える可能性が大いにある。

 同級生には、以前から短歌を嗜んでいるベテランも何人か居る。私は今年の1月から、生まれて初めて短歌を詠むことになった。そして、同人誌投稿と例会の双方に関係としている。この日の挨拶で、I先生が私の作った短歌を披露された。

  • 五十五年過ぎし邂逅師とわれら母校の庭に公孫樹(いちょう)散り敷く
  • 教え子も教師も共に青春の惑いの中に生きしあの日は

更新日 平成22年6月19日

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