南丹生活

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第36回 秋の日の校庭で

 前日の雨が上って、朝から清々しい秋の陽が照り輝いていた。空気が冴えて好い香りさえ漂って来る気配がする。以前から元国語のI先生と約束していた園部町散策は、気温も少し上がりこの秋一番の好天に恵まれた。

 先生は昨年の私達の同窓会である「八桜会」へ出席されて以来、「南丹生活」にご自身のコーナーを設けて、短歌と随想でかつての園部高校時代の回想を寄せられている。1カ月に2回の間隔で、今では既に17回を数えた。

 京都駅発9:33の列車の先頭車両に私が到着すると、奈良にお住まいの先生は先に乗っておられた。その一列前には級友の1人が座っており、私が紹介して忽ち話が弾み出した。もう1人の大阪方面から来る級友の姿が見えない内に、列車は発車した。山陰線は園部駅まで電化と複線が完了して、京都〜園部間は10:28着となっている。私が通学・通勤していた当時からすると、およそ20分間の短縮である。後で聞いたことだが、ダイヤは単線当時のままで運行しているとのことで、やがてもっと時間短縮が実現するのだろう。

 亀岡まで36分で到着した普通列車(電車と呼ぶのがふさわしいのか)に、2人の女性の級友が乗って来た。早速に先生と打ち解けて、車中が一挙に賑やかになった。ただ、残念なことに、亀岡に住んでおられる元数学のS先生が、体調を崩されて不参加となった。

 園部駅の改札口には地元の級友が出迎えてくれていて、彼と足の調子の悪い女性が「ぐるりんバス」で母校まで行くことになった。来るはずの地元の他の級友や遅れた1人の姿を見ないままに、暫らく待ってから私達4人は春日神社の脇から二本松峠へと入って行った。

 峠を登るに連れ、快晴の秋陽に周囲の緑が鮮やかに目に映えた。まだ紅葉には少し早く、ウルシやハゼが僅かに赤くなり始めている。途中にある専門学校の校庭で、サクラの葉がやはり紅く色づき出していた。道端には薄紫色のノギクやフジバカマが可憐な姿で咲いている。ヤマブドウの実は、未だ青い房のままである。朱色に輝いているのはウメモドキらしい。今も現役の華道の師匠が花や実の名前を教えてくれながら、私たちはのんびりと歩を進めた。

 道中に建つ住宅の庭には、焦げ茶色のワレモコウが微かに揺れていた。宝石の様に艶やかなムラサキシキブが、垣根の横から覗いている。眩しい秋陽が汗ばむほどである。何処からか甘い香りが流れて来た。9月の天候が不順だったせいか、今年は一度は散ってしまったキンモクセイが二度咲きしているのだった。

 遙か遠い日に、先生も生徒もこの「山」と呼ぶ峠道を歩いて通学した。学校へは15分ばかりで到着する。上り下りの汽車の時刻は限られていたので、朝の通学は生徒で細い峠道が一杯になった。

 放課後はクラブ活動や生徒会の所用や、居残りもあったかも知れない。買い物のために「町」や「川」のコースを選ぶ者も居ただろう。峠道を帰る生徒の姿はそれほど多くはなかったものだ。汽車の時間が迫っていて、時々走りながら10分足らずで駅へ駆け込むことも何度かあった。

 峠道を下りた頃に、笛や太鼓の音が風の間に間に聴こえて来た。生身(いきみ)天満宮の秋祭りらしい。峠の上から遅刻した1人が追い着いて来た。予定の列車に乗り遅れて、15分後の次発に乗って来たとのことである。私達は余りにもゆっくりと歩いていたらしい。

 聖カタリナ幼稚園を過ぎて少し行った所で、後ろから来たタクシーが停車して地元の2人が姿を現した。彼らは園部駅の東口で待ってくれていたらしい。私達はそうとは知らずに、西口で10分ばかり待機して出発したのだった。

 そこからは母校まで数分間の距離である。校門へ続く石段の所に先着の2人を含め、地元や日吉町の級友が待ってくれていた。全員11人が顔を揃えて、タクシーで来た女性のご機嫌も治まった。

 日曜日だが模擬試験が行われているとのことで、母校の正門は開いていた。私は記念誌編集委員として何度か訪れているが、卒業以来初めて校門を潜る者も居た。校舎は建て替えられ、グラウンドが移設されて広くなっている。校庭の佇まいは半世紀の間に完全に変貌した。

 そんな中で、城門を生かした正門とその脇に建つ巽櫓と櫓庵だけは、昔のままの面影を留めている。ただ、白壁は塗り替えられたのだろう。校門の古びた扉や柱に比べると際立つ美しさである。

 なだらかな石段と、その横のテニスコートも昔と変わらない。サクラの古木はどうなのだろう。あの頃より、少し身を細めた様に思えるのは気のせいかも知れない。

 校庭へ入った直ぐの所に、「方位盤上に立ちて」の記念碑が建てられている。私達の在学中には見られなかったものである。旧制中学第6回卒業生の手で復元されたとの掲示がある。

 総てが姿を変えた校庭にあって、入り口近くの老杉と校舎の奧にある公孫樹だけは、昔のままの変わらぬ姿で聳えていた。この半世紀の間に少し太くなったのだろうか。公孫樹の樹の回りには、足の踏み場も無いほど沢山の銀杏(ぎんなん)が落ちている。

 両側の二階建ての校舎を越えて立つ公孫樹は、未だ黄葉には少し早いようだった。瑞々しい緑色の葉が、晴れた秋空に向って盛り上がっている。私たちの在校時代より遙か昔から、数百年の歳月を生き延びているのだろう。その長い歴史に比べると、母校創立以来120年の期間は未だ浅いのかも知れない。まさに、校歌の一節にある如く、悠久にして清新の生命を称えている様に公孫樹は仰ぎ見られた。

 幾つかの教室では模擬試験が実施されているのか、校庭では生徒たちの姿を見掛けることは無かった。後方のグラウンドの向こうから、吹奏楽部の部員が練習しているのだろうか。トランペットを吹く音色が、途切れることなく聴こえていた。最近の後輩たちのレベルはかなり高い、と一時期に母校の教師をしていた同級生が教えてくれた。

 私たちはその近くにあるベンチに座って、先生から在校時代の思い出に纏(まつ)わる様々な出来事を語ってもらった。あの頃は、20歳代の先生が多かった。校長先生や副校長先生でさえ40歳代の若さだった。その当時の先生の殆んどが、今では故人となられた。私たちの同級生でさえ、30余人が既に亡くなっている。

「…君、どうしてそんなに早く死んでしまったの?」

 先生の哀しげで暖かな声が、清(すが)しい秋の風に載って流れて来る。10人の生徒がまるで授業を受けている様に、静かに熱心にその声に耳を傾ける。穏やかで和やかでそして眩しい陽光が、先生と生徒らを大きな懐に抱くように包み込む。

 そこには、五十数年前の教室の様子が再現されていた。遠い日を偲びながら話される先生の声は、昔の先生の声音(こわね)のままだった。固唾を飲んで話しを聞く教え子たちの目は、あの日の高校生に還った様に輝いていた。

「…さん、この個所はどう言う意味ですか?」

 暖かい風が流れた。そして、優しい時間が流れた。そこには、涙の滲む様な懐かしい光景があった。私たちは、いつまでもその時間を共有していたい思いで胸が一杯だった。

更新日 平成21年10月21日

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第37回 三たび長老ヶ岳

 この9月下旬に、和知と美山の境にある長老ヶ岳へ登った。3度目の登山になるのだが、1回目は昭和35(1960)年の7月半ばだから、もう50年近く昔のことになる。高校の同級生3人で上乙見から登ったのだった。晴れていれば、白山や若狭湾が眺望可能だと聞いていた。しかし、その日は生憎(あいにく)の曇り空で、残念ながら遠望は叶わなかった結果に終わっている。

 一緒に登った1人は和知の駅前で自営しているK君で、他の1人は大野ダムで仕事をしているY君だった。3人とも20歳代の前半で、917メートルの登山はまるで苦にならなかった。下山してから、帰路に建設中の大野ダムへ立ち寄った記憶がある。

 2度目はやはり同じメンバーが再会して、仏主のコースから登った。平成14(2002)年9月下旬のことである。その時は私が右膝を痛めていたこともあって、K君の車で頂上の直下まで林道を行った。そして、最後の数十メートルを杖を突きながら、私は這うようにして頂上へ辿り着いたのである。

 その時も空は雲っていて、遙か向こうまでの眺望はほとんど不可能だった。今から7年前で、私達はすでに60歳の半ばに達していた。だから、仮に足を痛めていなくても、麓から歩いて登るのはやや困難だったも知れない。

 その日の登山(?)から帰った直後に、私が京都新聞の「窓」に投稿して掲戴された文章がある。

「ほろ苦き登山」

 連休を利用して、旧友と山陰沿線の長老ケ岳へ登った。目的は、四十二年前の登山の再現である。標高九一六・九メートル。京都府下に九〇〇メートルを越す山は十山あるが、長老は九番目とか。和知町と美山町の境界に立つ丹波の名峰である。

 ただ、今回は登山とは名ばかりだった。仏主から頂上の直下まで車で行き、最後の数十メートルを這うようにして歩いた。昔は、上乙見から二時間ばかり掛けて歩いて登ったものだ。あのとき、途中の在所には、かやぶき屋根の家が点在していたが。

 山頂の気温は肌寒いほどだった。あいにくの曇り空でも、はるかに若狭湾が望めた。空気が澄んでいれば、遠く白山が見えると前にも聞いていた。その望みは今回もはずれた。それでも、三六十度のパノラマ展望は、昔と変わらず雄大だった。

 だが、現在は山頂付近まで車道が開通している。関電やDDIの鉄塔を設置した際の工事道らしい。私たちは、その道路を利用して簡単に登ってしまった。昔は歩くよりほかに手段はなかった。安易に目的がかなう今は、その喜びも少しほろ苦い。

(2002年9月24日、京都新聞「窓」/原文は縦書き)

 歳月が流れ70歳を過ぎた今となっては、もう登山などすることはないと思っていた。ところが、ブログで交流している知人の奨めもあって、もう一度長老ヶ岳へ挑戦する機会が到来した。第一線の仕事を辞めた今は毎朝の散歩は続けているものの、高い山へ登る自信は余りなかった。ただ、前回の時と違って膝はとっくに回復しているので、思い切って挑戦することにしたのである。

 メンバーはブロ友のF君とH君の2名と、H君の高校時代の恩師であるM氏も参加された。今回のコースは、美山の大野からのルートをF君が推奨してくれた。園部駅でこれもブログ仲間のTさんからお結びの差し入れを受けて、4人はF君の車で出発点の川谷へ向かった。

 9月下旬の川谷のは、秋桜の咲き乱れる静かな集落だった。高校の後輩のMさんが、かつてはこの在所に疎開していたと話していたことがある。彼女が住んでいた家は今でもあるのかどうか。以前は萱葺き屋根だったのだろうか、現在の民家はいずれもトタンが被せられて新しい様相になっている。

 私達は変電所前の空き地で車を降りて1キロほど歩き、やがて林道から山道へ入った。頂上までは約4キロのコースである。距離的には短いものの、樹齢60年から70年と言われている杉木立ちの山道はかなりの急坂だった。

 途中の標識が不備だったのを、先に下見してくれたF君が修正してくれていたらしい。迷いながら苦労した彼のお陰で、私達は余計な心配をする必要はなく薄暗い木立ちの中をひたすら歩くだけだった。

 杉林の中に橡(トチ)の老木が何本か聳えていて、地面には茶色の硬い実が落ちていた。私はその実を幾つか拾ってポケットに入れた。帰宅してから自室の本棚に橡の実を置いて、時々は眺めてながら、長老ヶ岳のあの急坂を思い浮かべている。

 やがて、大きな岩を越えると丈の低い雑木林に変わった。時々は、長老ヶ岳の頂上が目前に迫って見通せる。急激な坂道もあれば平坦な尾根道もあって、かなり変化に富んだコースである。同行者は50歳が1人と60歳が2人で、最高齢の私の足に併せてくれるのが有り難かった。F君の提案で私は枯木を2本拾って杖にした。「ノルディック登山」と彼が命名してくれた。

 平坦な稜線を歩くのは中々に快適だった。日本海側の木々は普通に立っているのに、美山側の木々は斜めに傾いて根元が地面に盛り上がって這っている。これは、西の日本海側からの強風が積雪を東の美山側へ吹き寄せる影響だろう、とガイド役のF君が解説してくれた。

 仏主方面からの林道へ出た所に休憩所があり、大きな石の記念碑らしい物も建っている。“らしい”と言うのは、その石碑には何も書かれていないからである。誰が何のために建てたのか、不思議な建立物ではある。

 そこから最後の急坂になった。岩鏡(イワカガミ)は、もう最盛期を過ぎたのだろうか。小さくなってあちこちの岩に蜜着している。群生している狐の尻尾(キツネノシッポ)は、花の時期は9月の初めで終わったとのことだった。

 歩き始めてから頂上まで、私達は約2時間を要しただろうか。いずれにしても、私も無事に到着したのである。2本杖のお陰も多分にあった、と思える。ただ、頂上は薄く曇っていて、今回もやはり、遠くの若狭湾や白山を望むことは出来なかったのだった。

 天候ばかりは、人智では(それ以外の力でも)どうしようもないからと諦めざるを得なかった。それでも、何十年振りかで歩いて高山へ登った気分は爽快で、山頂で広げた弁当が特別な味に思えた。長老ヶ岳の標高は、四捨五入すると917メートルになる。その語呂合わせから、9月17日を登山の記念日として団体で登る試みが、3年ばかり前から始まっているらしい。今年は60人が登った記録の標識があった。昨年より10人増とのことである。第1回目は30人なので倍増である。

 最近は中高年の登山ブームらしく、長老ヶ岳も人気があるのかも知れない。その上、林道まで完成している。私達の登った日は、頂上の真横にブルドザーが置いてあった。平日は工事をしているらしい。通信用の鉄塔設営などは、現在の生活様式上から必要なのだろう。

 しかし、丹波地区唯一の高山がこの有り様では、やはり釈然としないのが正直な気持ちである。登山者の観点からすれば、長老ヶ岳の頂上は死んでしまったと言わざるを得ない。

 その日は祝日だったにも拘わらず、私達4人以外の登山者の姿を1人も見ることはなかった。極端な変貌を遂げてしまった長老ヶ岳の人気は、実際のところはどうなのだろう。

 私達は無事に下山して、Tさんも合流した亀岡の飲み屋で慰労会を持った。酒豪揃いで話題が弾み和やかな雰囲気が流れた。これを機会に、私はまた山へ出掛けることになるかも知れない。長老ヶ岳へはどうだろう。頂上に建つ鉄塔や建物や、山肌を削るブルドーザを見たくない気持ちは否めない。

 しかし、山歩きの再開を切っ掛けとして新しい交友が生まれれば、人生の晩年にあってはそれだけでも価値があるとも言えるだろう。

 登山は下り道の方が足には堪(こた)える。お陰で帰宅して3日ばかり私の足は痛んだが、それも心地好い痛みだった。

更新日 平成21年11月21日

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第38回 短歌に挑戦

 年明けから短歌に挑戦しようと決心した。三十一文字による表現は、生まれて初めての経験である。

 この10月半ば過ぎに、元国語の教師だった石川先生とその教え子10余人ばかりで、母校の園部高校を訪れる機会があった。黄葉には未だ少し早い校庭の公孫樹の近くのベンチに座って、先生から昔の思いで話などを聞いた。

 その後、私達は文化博物館の垣内古墳の展示を見学に行った。かつて園部町内林に前方後円墳があったらしい。発掘を開始したのは1972(昭和47)年とのことだから、私達が卒業して十数年後のことになる。

 私自身はこうした遺跡の存在を知ったのは最近のことで、博物館へ訪れたのは初めてのことだった。母校の後輩に当たる職員の案内により、古代の遺跡から出た遺物や戦前の生活用品などを見学した。

 その場所へは、先生の教え子で私達より2年後輩のMさんが合流した。私達が館内を見学中に先生との歓談のひと時を持つなど、先生は和やかな時間を過ごされた。彼女はご主人と町内でスポーツ店を経営しており、趣味の絵画展へ私は鑑賞に行ったことがある。会館を辞する際に、全員で記念写真を撮った。

 Mさんと別れた後、市内の料理屋で昼食を摂りながら歓談の場を持った。そこでも話題は尽きなかったが、午後も遅くなって一部は生身天満宮を訪問するなど、三々五々に別れたのだった。

 その日の邂逅を契機として、石川先生との交流はいっそう深くなった。そして、先生が所属しておられる短歌同人会の「原型」の存在を知ったのである。この同人会は斉藤史の創設で、歌人の亡き後は長野市の後継者に引き継がれていた。そして、その後継者が病没されたため、本部が姫路市に移されることになったそうである。

 そうした状況を先生からお聞きして、私に短歌創作の気持ちが点火した。以前に先生から贈られた歌集が2冊ある。また、「南丹生活」に連載中の「石川路子短歌放浪」の影響も大きいと言えるかも知れない。

 私達の同級生の女性で、高校生の頃から短歌に親しんでいる者は何人か居る。校内誌の「公孫樹」にも、数多くの作品が発表されている。しかし、当時は余り関心を持たずに私は過ぎてしまったいた。

 卒業後も独自に種々の同人会に所属して歌作りに親しんだり、作品集を出版した者もある。それらの総てが女性で、私は男性の同級生で短歌に縁のある者を、寡聞にして全く知らない。

 ただ、今回の先生との出会いを機会に、尼崎に住むK君が2年ばかり前から歌作りを始めていることを知った。彼は自分史の積りで短歌に挑戦したとのことである。そして、もう1人の同級生のM君を交えて、3人が石川先生の説明を聞くために、11月末に西大寺へ出向いたのである。

 西陣で暮らして居られた先生は、現在のお住まいは大和郡山市である。古事記の編纂者の一人とされている稗田阿礼の出生地で、紫陽花で有名な矢田寺など名所旧跡の多い古い町と聞く。私達4人は、近鉄の駅前にある百貨店の喫茶店で会談した。

 「原型」の同人にも段階があって、もちろん最初は初心者グループの所属になる。それでも、月に一度の例会では、かなり厳しい批評が飛び交うらしい。作者名は伏せてあるので、出席者にはまるで遠慮が無いからだとのことでだった。

 先生でも立腹されることがあるので、私達がそれに耐えられるかどうか、と非常に懸念して戴いた。それも、他の2人は温厚なので心配だが、君は強(したた)かな処があるので大丈夫、との仰せだった。私は恥じながらひすら俯くしかなかったのである。

 そうしたことはともかくとして、私達は丑年と寅年のため、今年と来年が6回目の周り年になる。昔は「60の手習い」と称したが、昨今は「70の手習い」と言われている(言われてないか)。

 慣れない頭の作業に勤しむことは、少しでも老化予防に繋がるだろう。そう念じて、微かな期待を寄せながら、恥を忍んで短歌に挑戦することにした。

 K君はこれまでに作った歌が何首かあるため、12月から入会を決めた。私とM君は来年の1月からのスタートとなる。石川先生と別れて帰宅してから、何人かの級友にも入会を勧めて3人ばかりの賛同者を得た。

 かくして、遙か昔に国語を教えて戴いた石川先生に、半世紀以上を経過して再びご指導を仰ぐことになった。すでに故人となられた恩師は多い。また、同級生も30人以上が亡くなっている。私達が今になってから、かつての先生の元で新しい勉学にチャレンジ出来ることは、望外の幸せと言えるだろう。

 慣れない歌作りがいつまで続くか。それより果たして、三十一文字の短歌など作れるのだろうか。寅年の私の新しい新年が始まる。

 水たまり跳んで忘れた二十五歳(にじゅうご)の服の模様を誰か教へよ

 石川先生の作品である。その内に、55年前の先生の洋服の模様を思い出せるかも知れない。

更新日 平成21年12月16日

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番外編 夢の桑の実(平成21年度「随筆きょうと賞」受賞作)

 数年前から育てている植木鉢の中で、毎年桑の実が生る。二十センチ前後の矮性で実はマッチの頭ほどの大きさでも、濃い紫色に熟してくれる。ただ、舌の上に載せれば酸っぱくて少しカスが残る。

 だが、実は食べられなくても、この桑の木は私には大切な宝物なのだ。庭木として育てるのは無理なため、植木鉢用にかなり探し回ったものである。

 間借りしている八幡宮の社務所から五百メートルほどの所に、「洗濯岩」と呼ぶ雑魚釣り場があった。北桑田郡宇津村の真中を東から西へ、幅が約三十メートルの大堰川が流れていた。在所には五箇所ばかり釣り場があった。

 鉛の錘(おもり)で釣る子供専用の、トッポンと呼ぶ釣り用の渕である。私達は、その日の気分によって好きな場所を選んだ。その中で、「洗濯岩」が私の最大のお気に入りだった。深さが約三メートルの緑の渕に平らな板状の岩礁が層になって沈殿していて、それが名称の由来になったようだ。

 川と田圃の間に、小学校の教室の半分ほどの空き地があった。我が家は隣の在所のYさんから、その場所を借りて畑として耕していた。栽培していたのは、小麦・馬鈴薯・大根・薩摩芋など大して手間の掛からない作物ばかりである。痩せた砂地に疎開者のまるで素人の父が作るのだから、満足に収穫など出来る訳がない。

 私も草引きや芋掘りをたまに手伝うことがあった。麦踏みも手伝った。だがそんな情けない畑ではあっても、我が家が自家製の野菜などを作っている場所である。その畑から続いている「洗濯岩」は、私にとって特別に親しみのある場所だったのだ。

 そしてもうひとつ、「洗濯岩」を好きな理由が私にはあった。そこから上流へ五十メートルほどの岸辺に、数本の桑の木が繁っていた。昭和二十年代の村では、養蚕を副業とする農家があった。川岸の桑の木は野生だったが、借りている土地に続いてその辺りもY家の所有になっていた。

 背後の田圃では、Yさんがいつも野良仕事をしている。五月も半ばになると桑の実が鈴生りに実った。川風に乗って、「洗濯岩」まで甘い匂いが漂って来る。昼食にYさんが帰宅 するのを待ち兼ねて、私は桑の木の下へ走る。

 その日は、私一人で雑魚釣りをしていた。黒紫色に熟れた実が、青い葉陰からこぼれるように輝いている。絵本で見た宝石より遥かに綺麗だ。田圃の下の川辺に生えている桑の木は、畦道からだと簡単に枝まで手が届く。私は手当たり次第に実をむしって口へ放り込む。

 夢の様に甘い香りが口中をいっぱいに満たす。熟れ過ぎて半分は潰れた実もある。虫が食べたのかもしれない。大黒蟻も幹や枝の上を右往左往している。実が噛られている原因など、そんなもの考察している暇はない。完成品でも欠陥品でも、甘い桑の実は天国の味覚である。

 指先やシャツの袖が赤紫色に染まる。恐らく口の周りも真っ赤だろう。食べても食べても桑の実は減らない。しかし、昼飯を済ませたYさんが田圃へ出て来るまでに、桑の実採りの作業は終了しなければならない。

 私は被っていた麦藁帽子を脱いで、その中へ桑の実を集める作業に切り替える。帽子の中に半分近く蓄まった頃、Yさんの姿が目に入った。意外に近くまで来ていたのに、採るのに夢中で気がつかなかったのだ。

 私は仕方なく諦め慌てて麦藁帽子を被った。中には桑の実が半分ほど詰まっている。採(盗)っているところを、Yさんに見つかっているかもしれない。振り返りもせず急ぎ足で私は釣り場へ戻った。頭の天辺(てっぺん)が少し冷たい。桑の実が押し潰されたようだ。Yさんは、どうやらそのまま田圃の仕事に取り掛かった気配である。

 私の顔は、自然に安堵と勝利の快感でほころびる。まだ桑の実は麦藁帽子の中にたっぷりある。幾つあるか数え切れない。そんなもの数えても無意味だ。一年中で最高に豪勢な、食べ放題のオヤツの日なのだ。

「洗濯岩」で私は夕方まで雑魚釣りを続けた。釣果は三十匹ばかりで、その年四度目の雑魚釣りにしては上出来である。麦藁帽子の中で押し潰された桑の実は、全て食べ尽くした。そして向かいの碁石山に陽が落ちる頃、桑の実の色が染みた麦藁帽子を被って私は帰路に就いた。

 母が私の坊主頭が紫色になっているのを見て、早く風呂へ入るようにと叱る。Yさんは私が桑の実を採っていたことを、恐らく知っていただろう。空地を貸している非農家子だから、桑の実を大量に採っても大目に見てくれていたのだろうか。

 それとも蚕の餌の葉以外に用は無く、自然に生っている桑の実を採ることなど最初から許していたのかもしれない。

 中学三年の夏休みまでの七年間を、私は宇津村で過ごした。中学へ進んでからは雑魚釣りをすることも少なくなり、やがて桑の実を採って食べることもなくなった。あの紫色に染まった麦藁帽子も、いつの間にか何処かへ失くしてしまった。

 あれから、大堰川は台風や大水の被害に何度も遭遇している。「洗濯岩」の砂地は、今では跡形もなく削られてしまっているだろう。村は過疎が進み養蚕など既に廃れてしまっている。

※「随筆きょうと」第91号(2009年春号)掲戴。京都随筆人クラブが年3回発行する同人誌「随筆きょうと」では、毎年1回約150作品の中から最優秀作品を表彰している(朝日新聞社後援)。当同人会の会員数は約50名で、種々の公募にも入賞者を多数輩出している。2010年9月に創立30周年を迎える、我が国有数の歴史を誇る随筆同人会である。

「随筆きょうと」第91号

更新日 平成22年1月1日

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第39回 短歌新年

 昨年の石川先生を囲んだ母校訪問以来、先生の所属しておられる短歌同人会「原型」が話題に上るようになった。この同人誌は齋藤史の創刊になるもので、今年で574号を数える。創始者は著名な歌人で、平成14年に93歳で亡くなっている。

 私は石川先生から名前を聞くまで、この歌人のことはよく知らなかった。いつだったか、朝日新聞の天声人語で「深雪に雨ふりしみてさ夜ふかし別るる時となりにけるかも」の歌が引き合いに出されたことがあった。歌人が初期の頃に詠んだものらしい。

 いずれにしても、この歌人の死後に編集・発行人も亡くなり、「原型」本部が長野市から姫路市に移された。本部が身近になったことで、石川先生もより熱意が入るようになられたのだろう。そんな気配の感じられる話を聞く内に、私も短歌に興味を曳かれ出したのだった。

 先生は、『南丹生活』にも「石川路子短歌放浪」のコーナーを持っておられる。また、かつては亀岡市のガレリオの生涯講座で、園部高校の卒業生を中心に短歌講座を開いておられた。その当時のことを私は全く知らなかったものの、最近になって短歌がより身近なものになったのである。母校で先生に国語を習ってから、すでに55年の歳月が過ぎている。

 今年の干支が寅年で、私には6度目の周り年に当たる。奇しくもその年から私の70歳の手習いが始まったのだ。

 年が明けたこの17日に、「原型関西グループ」の例会が大阪中央公会堂で開かれた。その日の為に年末に1首投稿してあり、それらをまとめた一覧表がすでに手元に届いている。

 全部で29首が載っていて、当日は出席者が各自5首を選んでコメントを述べるらしい。歌の掲戴はもちろん無記名である。石川先生からは、かなり激しい批評が飛び交い、先生ご自身も気分を害したり気落ちしたりすることがある、と聞いていた。

 その日は日曜日で朝から好く晴れて、暖かい一日となりそうだった。会場の前には先に着いた先生が待っておられ、奈良から来たという女性の同人とK君を交えて、昼食を摂りながら色々とアドバイスを戴いた。やがてM君も合流して、私達はやや緊張しながら定例会の会場へと赴いたのである。

 会場には司会を務める年輩の男性以外は、女性ばかりが10人程集まっていた。新人の私達3人を加えた15名で、合評会が始まった。K君は既に12月に神戸で開かれた例会に出席しているので、かなり堂々としたものである。

 自己紹介の後に、司会者の丁寧なリードにより各自が推薦する歌を投票し、一首ずつコメントを発表していった。午後1時から5時までたっぷり時間を掛けて、会合は和やかに時には辛辣な批評も出るなど、かなり熱気のある合評会が展開された。

 その結果M君の作品が7票を獲得して、新参加ながら見事に1位となったのである。

 雪の散る梅一輪に子を偲び菩提寺前で会食したり

 若くして病気で亡くなった我が子を詠んだ歌である。私も作者が不明のまま一票を投じた。しんとした雪の日の、静かな悲しみが胸を打つ。最後の語句を、「会食をする」と表現する方が良いのでは、と意見を述べた。

 K君の作品は4票を獲得した。1回目は3票だったそうだから一歩前進である。ゼロ票の歌もある中で、最初からかなりの健闘といえる。

 信楽の火鉢に水張り椿咲く春分の日に金魚を放つ

 穏やかな冬の一日を淡々と詠って、中々の出来栄えである。何とも彼の優しい眼差しと穏やかな人柄が彷彿とされる。

 石川先生の1首は5票を獲得している。先生の作品でも、ゼロ票の日があるとのことだ。公平で遠慮のない合評会の証明だろう。

 全盲の十指は星屑かきまぜて鍵盤もろとも宙(そら)へ攫った

 第13回バン・クライバーン国際ピアノコンクールで、日本人として初めて優勝した全盲のピアニスト辻井伸行のことである。如何にも石川先生らしい感覚の鋭い1首といえよう。

 そして私の歌は、予想外の6票を獲得したのだった。正真正銘の生まれて初めて詠んだ三十一文字の短歌である。

 五十五年過ぎし邂逅(かいこう)師とわれら母校の庭に公孫樹(いちょう)散りしく

 昨年の秋に先生と教え子ら十人余で、母校を訪れた日の歌である。懐かしくも和やかな一日だった。なお、6票獲得は他に3人があった。

 かくして我々新人は、最初の合評会をひとまず乗り切った。多分にビギナーズラックの恩恵もあったのだろう。それでも、予想外の高得点を獲得して、気分好く帰路に就いたのだった。

 こうして、私の寅年の1歩はスタートした。これからも心して精進を続け、少しでも老化防止に励みたいと思う年頭ではある。

更新日 平成22年1月23日

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第40回 美山牡丹鍋句会

 瞬く間に1月も終わってしまった。その最後に近い30日に美山町で開催された「牡丹鍋句会」へ出席した。私にとっては初めての句会である。以前から所属している「随筆京都」の同人の1人が京北町に住んで居て、地元で開かれている「金曜句会」へ誘われた。生まれて初めて俳句に手を染めて、それから約6カ月が過ぎた。

 今は右京区に統合されているものの、かつての北桑田郡京北町は俳句作りが盛んで、現在もその伝統が生きている。南丹市へと別れた北部の美山町も含めて、何組かの俳句や短歌の同人会があり今も活動が盛んらしい。両町統合の『北桑時報』にも、各グループの作品が毎号に掲戴されている。

 私が入会を誘われたのは、『京鹿子』の京北支部である。この同人会は京都出身の俳人鈴鹿野風呂の子息の鈴鹿仁師が発行人となり、現在で1026号を数えている。会員は全国に散らばっていて、京都市内はもちろん旧北桑地区や南丹市や亀岡市などにも広く及んでいる。

 京都市内にも支部があるのだが、京北町の知人に薦められたので私は京北支部へ入会した。昨年の6月のことで、それ以来毎月1回はバスに乗って京北ゼミの会場まで出向いている。「金曜句会」の命名は金曜日に開催されるからとのことながら、最近は指導者の鈴鹿師の都合もあって必ずしも一定していない。

 周山行きのバスは1時間に1本しか無くて私は二条駅から乗るのだが、京都駅から乗ってこられる師と一緒になる。終点の周山駅へは、同人の誰かが車で迎えに来てくれている。「金曜句会」の会員は25名程度で、各自が5句ずつを投句した一覧表により推薦句を投票する。男性同人は私を含めて3〜4名で、圧倒的に女性が多い。投句の兼題は、いつも前月の会合の終わりに伝えられることになっている。

 私は俳句など生まれて初めて作るので、全く素人同然と言うより、素人そのものである。それでも、私の句にも何票かの投票が集ることもあり、最後に鈴鹿師の批評があって添削などの指導を受けることになっている。やがて4月号から、冊子の『京鹿子』にも最初は2句ずつが掲戴されるらしい。

 その「金曜句会」の新年の行事として、毎年の今頃に「牡丹鍋句会」が美山町で開催されているとのことである。吉田神社の近くにある「鈴鹿野風呂記念館」前を8時に出るバスに乗るため、当日は朝早くから自宅を出た。料亭差し回しのバスには副主催の鈴鹿師を始め、主催の豊田都峰師や市内の支部の同人が10名ばかり同乗して、一路周山街道を会場の枕川楼へ向かった。

 今年は予想外の寒波襲来で、北海道や北陸地方は記録的な大雪となっている。1月14日には、園部町で京都府の今冬の最低温度−7.6℃を記録した。しかし、風向きの影響か、内陸部の京都中部や南部には、全く雪の気配は見られない。

 南丹市はもとより旧北桑田地区の美山町や京北町には今年になって2度ばかり積雪があっただけで、今は完全に消えてしまって周辺の山は緑一色の光景が広がっている。車窓から見る冬景色としては、何とも味気ない眺めだった。

 会合に出席していた地元の老人からも、今の季節にこんな情景は生まれて初めてだと聞いた。美山萱葺の里では、当日から1週間の予定で「雪灯廊」のイベントが開催されていた。しかし、雪が無いので「花灯廊」に変更されたらしく、周辺を散策する観光客の姿も少なくて盛り上がりはほとんど見られなかった。

「牡丹鍋句会」の会場では、当日句の兼題に「春を待つ」が提示されていた。その場で1句作って提出する仕組みである。作句に費やせる時間は30分程しか無い。約50名ばかりの出席者は、ロビーや和室など思い思いの場所で頭を捻っている。私も何苦心しながら、何とか1句を作って投稿した。

 当日句以外にも、参加者からは事前に3句ずつ提出してあった。各自の句が一覧表にしてあって、全員がそれぞれ選定して投票することになっていた。主催の師匠や各同人会のリーダーらも、全員の句が横並びで対象になっている。

 事前に指定された題句は「当期雑詠」とのことだったので、私は下記の3句を投句した。

  • 寒椿紅より白のいじらしき
  • 初雪を手で受けてみる遠き日も
  • 屠蘇苦し友の喪中の葉書かな

 そして当日句の兼題目「春を待つ」に関しては、下記の1句を提出した。

  • 春待ちし友の訃報に声もなく

 事前の兼第句は合計160句が出されていて、当日兼句は40句ばかりが投句された。出席者の推薦の多い句から数句が表彰され、最後に主催者である豊田都峰師から合評があった。

 私の投句は、残念ながらいずれも票を獲得することは適わなかった。俳句には形容詞や感情を現わす言葉はなるべく避けて、客観的な表現で仕上げる様に、と師のコメントがあった。ちなみに師範達の兼題句はこんな調子である。

  • 雑木山霜しづくして明日を待つ      豊田都峰
  • まらうどや春待つ杉のたかぶりに     鈴鹿 仁
  • 矍鑠の老なればこそ春を待つ       小畑翠光

 同人達の句で得点の多かった作品は下記の通りである。

  • 春を待つ午後の光を予約して       I.T
  • 祖田を守(も)ることを途に春を待つ   I.S
  • 春を待つ遠嶺へ小窓開きをり       N.K
  • 春を待つほどよき瀬音句碑の宿      T.I
  • 春を待つ土のぬくもりある人と      H.M

 私の句に対する師匠のコメントは、初心者の私にとって明確な意識付けとなる言葉だった。そして、これまで漠然と捉えていた句作の方向性が、はっきり掴めた気がした。

 雪の無い小春日和の山里で、牡丹鍋をつつきながら終日を過ごした。俳句新人の私には、得るもののかなり大きな一日だった。

更新日 平成22年2月1日

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