南丹生活

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第31回 園部高校120年記念誌完成

 園部高校の120年記念誌が完成した。その発行を祝う「創立120周年記念事業達成祝賀会」が5月2日に開催され、私は国際交流会館まで出向いた。「緑滴る」季節に相応(ふさわ)しく、歩いて越えた二本松峠は眩しいばかりの緑一色に溢れていた。開会までの時間を利用して15分ばかり母校へ立ち寄った。土曜日で休校なのか生徒の姿は余り見られず、校門脇のテニスコートで練習している元気な掛け声がよく響いていた。

 私が母校を訪問した目的は、公孫樹を見たかったからである。記念誌は『公孫樹』と命名された。永井教育振興会長の提案である。私は会議で「悠久」の誌名を提案したが、こちらが選ばれた。5月の陽光を一杯に浴びて、校庭の公孫樹はそのシンボル名に違(たが)わず堂々と力強く聳え立っていた。かつての城主小出侯の時代から在ると謂われる公孫樹は、樹齢数百年近くに及ぶことになる。まさに、悠久の歴史を生きて来た証(あかし)として、母校の、そして、記念誌に相応しいシンボルと言えるだろう。

 今回の120年記念事業がスタートしたのは、去る平成19(2007)年1月である。実際はその前から計画が提案され、校長らによる他校への実情調査の訪問も実施されている。記念誌発行は平成21(2009)年4月30日だから、実務としては2年3か月、実際は約3年近い年月を掛けて達成された一大事業となったことになる。

 こうした事業の基幹は資金問題である。勿論ゼロからのスタートだから、垣村同窓会長や山口実行委員長らを核とする諸委員の懸念は大きかったことと思われる。本部組織としてはそのラインに永井振興会長や板山・中川新旧PTA会長に森校長を加え、事務局として森・石山両副校長と西山事務長・高屋事務長補佐を配している。

 そして、募金委員会には竹中同窓会副会長を委員長として12名の委員を任命し、その下部組織として150名の協力委員が選出された。太田会計委員長の報告によれば、そうした人達の努力の結集として、実に1500万円を越える協力金が集まったのである。1口5000円以上で、1900名に及ぶ同窓生が賛同を寄せた。その結果として、2200部の記念誌の発行が可能となったのである。完成した記念誌は、基金協力者へ間も無く順次配布されることになっている。

 記念誌編集委員会は、竺沙編集長をチーフとして、宅間顧問・人羅事務局長以下、各卒業年度から約50名が任命された。その中から、私と33回生の薮本さんが文章担当となって作業を開始したのだった。

 祝賀会には約50名の委員が顔を揃え、山口実行委員長に次いで森校長の挨拶でスタートした。垣村会長の乾杯の音頭によって会食に移り、和気藹々の中で指名委員に次いで全員が一言ずつ感想を述べた。最後は、小栗式典委員長のややご機嫌の閉会の辞で無事に修了した。

 「公孫樹」は335ページに達する大冊である。濃緑の表紙に金色地で書かれた「公孫樹」の文字は力感に溢れている。題字は書道の鈴木教諭の筆になる。

 母校の歴史は、明治20(1887)年創立の船井郡高等小学校を以て始まる。その後、船井郡園部高等小学校・船井郡立高等女学校・京都府立園部高等女学校と変遷を重ね、大正15(1926)年には京都府立園部中学校が開校されるに至った。

 やがてあの太平洋戦争を経験した戦後の昭和23(1948)年に、新制の京都府立園部高等学校と姿を変えて、現在に至っている。その間には園部高等学校定時制として、本校・船南分校・南丹分校・世木分校が設立され、やがて昭和55(1980)年にその幕を閉じた。船南分校については、昭和58(1983)年に新しく設立された京都府立農芸高等学校へと引き継がれている。

 そして、高校の課程はその後も変化しつつ平成19(2007)年には「京都国際科」、普通科第T類に「人間福祉コース」が新設されて3コースとなり、今まさに新しい高校として生まれ変わった。また、平成18(2006)年には、附属中学校が併設され、府下唯一の中高一貫校としての体裁を整えている。

 記念誌は、森編集委員が基礎を作成したこの120年間の詳しい校史と社会情勢の年表を骨格として、各年代の懐かしい写真も豊富に採用されている。さすがに高等小学校や高等女学校の生存者は皆無であり、その代筆をご子息達が継承し、或いは「100周年記念略誌」から転載して間隙を埋めるなどの努力が施されている。また、歴代校長も何人か祝辞を寄せられており、その中には次男が代筆され編集の途上に107歳で鬼籍に入られた、旧制中学第3代武田智校長の名もある。

 そして何よりも圧巻なのは、生存者の健在な旧制中学第3回生の中西鋼二氏から現役生徒会長の西村愛裕美さんまで、実に92歳から18歳迄の年代の同窓生が網羅されていることである。各年代から洩れなく寄稿文が寄せられたことだけでも、母校にとって大いなる財産として価値があると思われる。

 1世紀を軽く凌駕する歴史の過程で、社会の変動はそれこそ想像を絶するほど激しいものがある。その様々な時代の中では、いつが幸せであり、いつが不幸せだったのか、それを特定することは不可能である。それぞれの時代がどの様な社会情勢であったとしても、そこには同じ年代を過ごした青春の日々があったことだけは事実である。

 創立以来から現在も変わらない校門を潜った同窓生の人数は、20000人を優に超えている。校舎の教室の中で、校庭の広場で、或いは、背景の小向山の麓で、同じ世代の者達の同じ思いを抱く月日が、そこには存在したのだ。それらの中にあっては、歓びや哀しみ、希望や挫折、飛躍や逡巡など様々な若き日の思念や情念が交錯したことだろう。

 残念ながら故人となった同窓生も数多い。現在を矍鑠と過ごしている卒業生は更に多くある。そして、これから新しく同窓生の仲間に加わる若い者達は、まさに数知れず存在することになるだろう。その総ての者に共通する青春の日々が、私達の母校にある。

 現在、園部高校の掲げる教育コンセプトは、「Global & Aware」(世界へ、思いやりをもって)である。この高邁な精神を標榜する母校は、今後も永久に発展し続けることと確信する。校歌に謳われる「悠久 清新」の言葉が、いみじくも生きて存在しているのだ。

更新日 平成21年5月5日

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第32回 120年記念誌配布完了

 「園部高校創立120周年記念事業達成祝賀会」が5月2日に開催された。そして、5月下旬迄には募金協力者への配布が完了した。2〜3の訂正箇所はあったものの、同窓生からの感謝の声が数多く届いていると教えられた。私の所へも、同級生から直接に賞賛のメールが何通かあった。遠く東京に離れて暮らす者には、特に懐かしく感じられたようである。「半世紀以上の昔へタイムスリップして、胸がキュンとなった。深夜まで熱中して読んだ」と書いて来た同級生もある。

 思えば、120年の節目は珍しい区切りだと言える。本来こうした記念誌は100年とか150年等の節目に発行されるのが通例だろう。母校では100年目に、一応「略誌」として発行されてはいるが、文字通り36ページの簡略な冊子である。今回の初めてとも言える記念誌は、その10倍にも及ぶ335ページの堂々たる内容となった。そして、この不思議とも思える120年の節目に遭遇した我々は、やはり幸運だったと言えるのだろう。

 編集に携わった各年代の委員は50人にも達し。記念事業・会計・募金とその協力委員を加えると250人近い人達の力が結集されている。更に、募金協力者は予想を軽く越えて、実に2000人近くにも達している。これだけの卒業生が、「120年」の記念を謂わば協賛し得たのである。

 想像ではあるが、次回の記念誌発行は恐らく150年の節目になるのだろう。この先30年後は、どの様な世の中に変貌しているのか予想は不可能である。更に、今回に関与した人達の何人が生存していて、しかもまた、母校の記念事業に協賛が叶うかどうかは不明である。こうした事業には当然ながら賛否はある。だが、今を生きる私達は、今回の創立120年記念を素直に喜び合いたい。以下は、編集担当として関わった私の編集後記である。記念誌より転載した。

「編集後記」

 120年間の歴史を有する母校の卒業生は、2万人を優に超えるという。1世紀を遙かに凌駕するこの間の変遷の大きさを、言葉で簡単に表現することは不可能である。最初の高等小学校が設立された明治20(1887)年は、どんな時代だったのだろうか。生き証人の存在しない現在からは、遠く昔日の彼方へ胸中で思いを馳せるしか方法はない。

 今回のこの節目にあって、乏しい記録の中から苦心して編集された年表を辿れば、凡その学校史の流れを識(し)ることは可能である。日本の社会情勢の中にあっては、第1次伊藤博文内閣により前年度(明治19年)に公布された「小学校令・中学令・師範学校令」に拠って、我が母校の前身である船井郡高等小学校が設立されたと考えられる。

 その最初の学校では、如何なる生徒達が如何なる教師の下で学んだのか。勉学以外にも、運動し遊び鍛え情操を磨き、そこにはやはり、青春の日々があったことだろう。笑いや涙や希望や挫折があったことだろう。

 そして、瞬く間に120年の歳月が流れた。想像を絶するばかりに激変した時代の中ではあるが、どの時代にあっても、私達は同じ年頃を同じ場所で過ごしたのである。いつの時代が幸せであって、また、いつの時代が不幸だったのか。そのことを問うのは、困難でもあり特定することは不可能である。

 今回の記念誌の寄稿者にあっては、卒業生の最高齢者は99歳の高等女学校の出身者である。また、歴代校長には107歳の旧制中学時代の方がおられる。この方達は希なる長寿者であるが残念ながら寄稿後(代筆)に永眠され、ご冥福をお祈りするばかりである。旧制中学出身者は大勢が今も矍鑠(かくしゃく)としておられ、生き生きとした当時の思い出を寄せられている。そして最若年は、平成18(2006)年の卒業生へと及ぶ。卑近な言葉を借りれば、まさに祖父母から孫・曾孫までの年代の記憶が集約されているといえる。そのいずれもが、青春の日の逡巡や感動に溢れている。そこには、時代を超えた共通の思念や情念が溢れている。

 紙数の制限から寄稿文を寄せているのは卒業生の一部ではあるが、その一人一人にその年代の仲間がいる。すでに逝去された人も、今を生きている人も、決してその人だけの記録ではない。そして、これからを生きる人へと、同窓生達の若き日の時間が引き継がれて行くことだろう。

更新日 平成21年6月2日

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第33回 遙か長老ケ岳

 つい最近のことである。偶然に、長老ケ岳の名を耳にする機会があった。園部高校の後輩が出品している絵画展へ出向いた日である。2学年下になるSさんとは、今回の『120年記念誌』の発行を機会に、その記念会の帰路にたまたま数十年振りで再開した。

 案内状をもらっていた会場には、7年前から始めたと言う彼女の作品が出展されていた。黄色い山吹の花の風景画は優しく暖かくて、画面には昔の彼女の面影が緩やかに流れている様だった。その折りに交わした昔話で、彼女がかつては北桑田郡の北部に属する村で長老ケ岳の麓近くに疎開していた、と聞かされた。私は南部に位置する宇津村に疎開した経験があり、当時は双方とも北桑田郡の行政区にあった。

 現在は、南丹市と京都市へそれぞれ分かれて統合されたものの、私の住んで居た時期は、北桑の南部・北部として運動会の対抗試合なども活発に開催されていた。今では北桑の名称が残っているのは、府立の「北桑田高校」と郷土誌の『北桑時報』の僅か2つだけになってしまっている。

 長老ケ岳は標高919.6mで、京都府下では9番目に高い山である。丹波町の和知地区と南丹市の美山地区に接している丹波の名峰として、長老山とも呼ばれ登山の愛好家が多いと聞く。ただ、登山の趣味をやめた今は、市内の伏見区に住む私に長老ケ岳は余り縁が無い。しかし偶然ながら、Sさんも北桑田郡に疎開していたと知り、しかもその話から長老ケ岳の名を聞かされて、私にある夏の今頃の思い出が甦った。

 私が長老ケ岳に登ったのは昭和35(1960)年だから、もう50年近くも昔のことになる。その頃の私は、一度勤めた会社を辞めて大学へ通っていた。そして、時間を見つけては、北アルプスをはじめ比良山や京都の北山周辺の山々へ登っていた。かねてから名前を知っていた長老ケ岳へも、一度は登りたいと思っていた。そんな折りに、たまたま山陰線の車中で、和知の駅前で商店を営む同級生のT君に出会った。私が比良山へ出掛けるために始発の列車に乗ったところ、彼も鮮魚の仕入れで同じ車両に乗り合わせたのだった。

 下関発の夜行列車で八木駅では4時50分頃の早朝になり、私は登山の時くらいにしかその列車に乗ることはなかった。T君とは卒業以来3年振りの再会で、その後日の話が弾んだものだ。そして、私が山登りの格好をしていたところから、長老ケ岳へ登る約束になった。それから何カ月かして、当時は建設中だった大野ダムで仕事をしているK君を加えて、3人の同級生で長老ケ岳行きを決行することになった。

 7月に入ったばかりの日曜日に、私達3人は和知の駅前にあるT君の家から、途中迄を車で行くことになった。長老ケ岳の登山コースは2つのルートがあり、その内の1つは山葵(わさび)の名産地である仏主からのコースがあった。

 私達はもう1つのコースを選んだ。大迫か篠原の地名の所迄、T君の車を利用した。そこから細い道へ入り、下乙見から上乙見を経由して登山路へと進んで行った。その辺りも仏主と同じ水源なのか、透き通る様な冷たい水が足元を流れていた。上乙見には藁葺き屋根の農家が点在していて、田植えの終わった棚田が続く山麓の静かな村だった。山肌には霧が掛かって、そこからは長老ケ岳の頂上はよく望めなかった。

 登り口の丸木橋を渡ると、杉林の中に転々と碇草(いかりそう)が咲いていた。石垣のある所を右岸へ渡ると、一輪草(いちりんそう)の白い花が可憐な姿で迎えてくれた。それらの花の他にも、長老ケ岳は石楠花(しゃくなげ)の自生地として有名だ、とT君が教えてくれた。ただ、石楠花の開花は5月中には終わるらしい。石楠花に代わって馬酔木(あしび)や猩々袴(しょうじょうばかま)が木の間隠れに揺れていた。岩鏡(いわかがみ)の群生地を抜けると、頂上付近は熊笹が一面に繁っていて樹々の姿は見られない。

 頂上までどの位の時間が掛かったのだろう。重い荷物など持たない軽装の私達はゆっくり歩きながら、凡そ2時間ばかりで標識の建つ長老ケ岳の頂上へ辿り着いた筈だ。梅雨はまだ明けていないものの、既に7月である。それでも肌寒いばかりの気温だった。

 頂上には一等三角点があって、十畳敷程度の平坦地になっている。周辺には高い山が無いため、360度のパノラマが展望可能だ、と聞いていた。パノラマ絵図には、青葉山・弥仙山・大江山・三岳山・多紀蓮山・愛宕山・北山・蓬莱山・武奈岳等々が描かれている。曇り空の下に、それらの山々の展望が広がって雄大な眺望だった。

 若丹国境の周辺も目の当たりに見えた。更に、手前には亀の背中の様な地蔵杉があり、絵図には無い三国岳・養老山・由良ケ岳・赤岩山等の山々をT君が教えてくれた。鈍く光っているのは舞鶴湾である。晴れていれば石川県の白山が望めるとのことだが、その日は生憎の薄曇りの下に霧が少し掛かっていて、遠くその辺り迄は見通せなかった。

 長老ケ岳には平安時代の修験道場として、山頂付近に密教寺院が約100寺もあったと謂われている。今はそれらの形跡も無い空き地の雑草の上で、私達は持参の弁当を広げた。その後暫らくはその上に寝転んで、取りとめもなく来し方行く末を語り合ったのだった。

 あの日は日曜日にも拘わらず、私達は帰路に1人の登山者に出会っただけである。最近は、観光気分で登る登山客も多いのかも知れない。私達は下山してから、T君の車で工事中の大野ダムを見学した。K君の説明によればダムはほぼ完成に近いとのことだったが、コンクリートが剥き出しのままで雑然とした光景だった。由良川流域にある大野ダムは翌年に完成して虹の湖と名付けられ、現在では桜の季節は大勢の観光客で賑わっているようである。

 それから瞬く間に40年の歳月が流れた。そして、平成14(2002)年に、再び私達3人は同じ顔触れで長老ガ岳へ登ったのだった。時折り開かれる同窓会で顔を合わせた私達は、かつて登った長老ケ岳へ再度挑戦する約束を交わしていた。T君は店主として地元で店を切り盛りしており、後継ぎも育ちつつあるとのことだった。大野ダムの仕事を終えたK君は、神戸で行政書士の事務所を持っている。私も勤務を変わって別会社を運営していた。

 還暦をとうに過ぎて60歳の半ばに達した3人には、昔流の登山は不可能である。しかも私は、膝を痛めて治療中のため杖をつきながら通勤していた。そんな私達にとって幸か不幸か、仏主から長老ケ岳へはDDIの鉄塔工事のための道路が開通していた。

 登山口へ入る直前の権現谷に「七色の木」と称する銘木があった。1本の桂の木に杉・欅・藤・榧・紅葉・楓の6種類の木が共生していて、樹高約18メートルで幹の周囲は7メートルとのことである。樹齢は80年を超え、京都の自然200選にも入っていると聞かされた。

 その登山(工事?)道路をT君の車で進み、頂上直下迄20分ばかりで簡単に到着したのである。昔は無かった鉄塔を横目で睨みながら、そこからは僅か数十メートルの距離を、私は杖をつきながら這うようにして「歩いて」登ったのだった。他の2人は悠々と登っていたが。実態はどうであれ、私達3人の念願は果たされたのである。

 2度目の登山の日も、天候は残念ながら曇り空だった。ただ、周辺部のパノラマの光景は、初回の登山時と全く変化は無かった。しかしまたしても、白山迄は見渡すことが不首尾に終わった。暫らく頂上付近で昔を偲びながら、私達は最初と同じようにとりとめない雑談で時間を過ごしたのだった。

 その2度目の登山の日からも、早くも7年間が過ぎ去った。私の記憶から長老ケ岳の名が薄れつつある頃に、偶然のことからその懐かしい名前を耳にしたのである。Sさんが私と同じ小学生低学年の頃に、長老ケ岳の麓近くに疎開していたと知って、私はまた親近感を抱くようになった。その内に3度目の挑戦をしよう。この次は美山町大野の登山路から長老ケ岳へ登ろう、と思っている。しかし、無事に頂上まで辿り着けるかどうか。ただ、何とかして頂上から白山を眺めて見たい、との思いは強くある。

更新日 平成21年7月4日

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第34回 逝く夏の日

 今年で64回目の終戦記念日を迎えた。正午には粛々と礼拝する天皇と皇后の映像がテレビに流れた。熱戦を繰り広げる甲子園では、試合を中断して選手や観客が黙祷を奉げる光景が映る。最近は、核兵器保有国の侵害を防ぐ為には核兵器を保持する必要がある、と堂々と述べる者も出現している。この発言は、憲法第9条の更改問題にまで抵触する。

 今日の日を、終戦記念日と呼ぶのが相応(ふさわ)しいのかどうか。盂蘭盆の送り火の日であり、先祖の霊が彼岸へ還る日でもあるが。

 その前日の14日には、「南丹市やぎの花火大会」が毎年開催される。今年で63回目に当たるとのことだから、終戦の翌年から始まった長い歴史を有する。戦後の人々の生活に夢と希望を与える意図で計画された、と聞いたことがある。私が、この花火大会を初めて見たのは、中学3年生の夏休みに上流に位置する宇津村(現京都市右京区)から引っ越した年だから、7回目の大会だったのだろうか。

 当時の我が家は、大堰橋の200メートルばかり上流にある黒住教の会所に間借りしていた。状況がよく分からない私の頭上で、「パパパパ…」と軽やかに空気の弾ける音がしたと思うと、いきなり「ド〜ン」と腹に響く大音響が轟いた。驚いて外へ飛び出すと、まだ少し明るさの残っている薄青い夏空に小さな白煙が弾けて散って直ぐに消えた。

 その日が花火大会だと知ってはいたが、何しろ初めての経験である。その大爆発音が、大会が始まる合図だと気がつくまでに暫らく時間が掛かった。大音響の炸裂はそれ1回切りで、やがてまた元の静けさが戻った。日が落ちてから打ち上げの始まる迄には、まだかなりの間があったのだった。

 会所に3年ばかり住んだ後、我が家はJR駅近くの一軒家へ引っ越した。それからの17年間を私は八木町に住んだが、毎年の間近かでの花火は欠かさずに鑑賞していた。当時の堤防は自然の状態のままで、草原に寝転びながら夜空に開く佳麗な夏の花火を堪能したものである。相継ぐ水害でいつか堤防は護岸され、川の流れも変化した。会所の直下は深い渕になっていて年長の子供の水泳場になっていたのに、今ではその渕も均(なら)されて全体に水流が明確で無い川になっている。

 今年は東京に住む長女夫婦が訪れたので、4人で花火を見物に出掛けることにした。先ず、妻の実家に寄って仏壇に焼香した。家業の後継ぎをしている妻の甥と、長女の婿は初対面である。それぞれに挨拶を交わして、まだ開始まではかなり間があったとは言え、場所の確保のため6時半頃に私達は大橋の下流の堤防へ出向いた。8時の開始迄に1時間半も間があるので早過ぎるのでは、と内心では思っていた。しかし、既に堤防や河川敷のコンクリートの部分まで人で溢れていたのには驚きだった。

 山陰沿線の口丹波地区では、八木町の他に園部町や亀岡市でも花火祭りは開催されている。ただ、大堰橋から寅天井関に至る数百メートルが、ゆっくりした川の流れとゆったりと広い堤防や河川敷が人気を呼ぶのか、毎年の観光客は8万人前後もあると聞く。

 河川の西側は桜の大木が茂り西日が遮られるのか、川向こうにはまだ明るい陽が当たっていても観客の詰め掛けている一帯は既に陰になっている。川原では「八木よさこい」と称する団体の他に各種のサークルや個人を含め、舞踊や歌謡や演奏など賑やかなアトラクションが繰り広げられている。次々と押し掛ける観客は後を絶たず、駅前通りや横町に並ぶ屋台へ買い物に行くのが一苦労だった。

 その日の夜は、昼間の暑気がまるで嘘の様に、涼しい川風が頬に心地快かった。私が八木町の花火を最後に見たのは数年前になる。それまでも義父の健在な間は親族一同が集まって、バーベキューを囲んだ後に三々五々花火を見物したものである。ただ、私は不精をして、ビールなど飲みながら義父の家の2階から眺めていたに過ぎないが。

 こうして、川原に座って目の前で見るのは、何十年振りと言えるだろう。打ち上がる花火は頭上間近かに炸裂して迫力があった。仕掛け花火もその全貌を見物出来た。それぞれの花火の華麗さは言うまでもない。川の向こう岸の辺りを、ゆっくり流れる灯籠が幻想的である。私が八木町に住んでいる頃は、我が家の先祖の供養の灯路を供えたものだ。母が一人で住み娘が生まれてからは、お盆に訪れた娘が灯路に絵を描いて、祖母と孫が手をつないで灯篭を納めに行った。

 素肌の腕の辺りが寒く感じる程の涼風に、大勢の観客の熱気はまるで感じない。花火が開くたびに上がる若い女性の嬌声も、活気のある雰囲気を盛り上げてくれた。東京に住む娘婿は、噂に聞く(長女がいつも話しているらしい)初めての花火見物に感動していた。長女も久し振りで感懐に浸れて懐かしそうだった。周囲のギャルに負けない喚声を上げていた妻が、最も喜んでいたかも知れない。

 終戦から64年が経過し、戦争の事実を記憶している世代は徐々に少なくなっている。昭和20(1945)年に国民学校の2年生だった私達の年齢前後が、戦争を覚えている最後の世代かも知れない。娘夫婦はもちろん知らないし、6歳下の妻もその年は2歳だったので覚えている筈もない。

 八木町の花火大会は毎年14日で、盂蘭盆の送り火を兼ねているのだろうが、偶然ながら日本が戦争に敗れた一日前でもある。この花火大会が今後も同じ日に開催される限り、たとえ観光であっても見物に来る人達は、少しは戦争のことにも思い遣る気持ちを失わないでほしい、と願わざるを得ない。

 今年も7500発の花火が打ち上げられる、と宣伝されていた。実際にはどうだったのか。絢爛と夜空に炸裂する華麗な夏の花は、脳裏からいつまでも消えることはないだろう。そして、その日が、戦争の終結した一日前の日であることも、久し振りで古里の逝く夏を偲んだ私達は忘れない。

更新日 平成21年8月16日

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第35回 水無し川沿いに

 いつだったか知人の車で神吉を通り、京北町へ行く機会があった。八木町の青戸から旭を経て氷所へ抜けた。街道沿いには細い川が流れていて、八木大橋の畔で大堰川へ注いでいる。その川を、正式には三俣川と呼ぶらしい。

 私が宇津小学校の5年生の春に、渋坂峠を越えて八木町へ遠足に行ったことがあった。その時に初めて出会った川である。まるで水が流れていなくて、石ころが露出した川底に草が生えている個所もあった。誰かが、「水無し川」と呼ぶのだと教えてくれた。その後も、時々バスで八木町まで行くことがあり、その水の無い川を横目で眺めながら私はいつも不思議な思いだった。

 かなり後になってから知ったのだが、水無し川は、神吉の「長池」(廻リ田池が正式名称らしい)を水源としているらしい。白い蛇が棲んでいた伝説がある大きく静かな池で、農作業の終わる冬場に池の水が抜かれるまでの期間は、枯れたままなのだと教えられた。

 我が家が八木町へ引っ越したのは、私が中学3年生の夏だった。そして、仲好くなった青戸のO君の家へ、同じクラスのF君と遊びに行ったことがある。私達は、つい傍にある水無し川の川底を走り回って、追い駆けっこなどをして遊んだ。竹を削って弓を作り、向こう岸を行く人に矢を射る悪戯もした。矢は届く筈がなかったものの、農婦らしい年を取った人からきつく睨まれた記憶がある。

 あれから55年が過ぎた。今では状況が変わったのか、三俣川には少ないながらも水が流れている。昔の水無し川の名称は返上したのだろうか。O君の家は、川の近くのどの辺りにあったのか、私は忘れてしまっているが。

 病院の宿舎に住んでいたF君は、結婚して神戸に住居を構えた。勤務先を退職して旅行会社を営んでいたが、10年ほど前に病気で亡くなった。O君は、遠く千葉市に移り住んで居る。一度は就職した後で弁護士になった彼は、ずっと同窓生とは交流を絶ったままだ。それでも、私には年賀状やたまに便りもくれて健在である。先日は母校の120年記念誌を受け取り、創立以来初めて発行された記念誌は、何処へ出しても恥ずかしく無い出来栄えだ、と感想を寄せてくれた。

 そんな諸々の事柄を思い浮べている内に、知人の運転する車は氷所を経由して、そこから紅葉峠を越える道へ入って行った。その寸前に、見覚えのある瑞雲寺の前を通った。そして、近くで空地になっている一画を見付けたのである。

 そこには、同級生のN君の家があった筈だ。彼とは高校の2年生から同じクラスで、卒業後も交友関係が続いていた。N君は大阪の電気系の大学に席を置き、阪急神戸線の沿線に下宿していた。映画のパンフレット蒐集の同じ趣味もあって、時々手紙のやり取りをしていた。一度、その下宿先へ泊まりに行ったことがある。

 たまに彼が帰省することがあれば、八木駅前の私の家へ必ず立ち寄ってくれた。車の窓から更地を見て呆然としながら、私はそんな日の一駒を思い出していた。

 当時の我が家は、路地の奥に住んでいた。3間だけしか無い平屋建てで、周りを2階家に囲まれた小さな家である。その頃の度重なる水害で、軒先が少し傾いていた。狭い庭には、母が手慰みに作ったささやかな花壇があるだけだった。周囲の溝の臭気が鼻を突き、目の前に他家の洗濯物が干されるなど、住み心地は極めて悪かった。

 いつだったか、N君が我が家へ来ていた。狭い庭の細い黄菊にも、すでに晩秋の気配が濃く漂う季節である。何気なく頭上を仰ぐと、空一面に鰯雲が広がっていた。周囲の民家の屋根に囲まれた長方形の青い空間に、無数の白い雲が敷き詰めている。路地裏の小さく区切ったカンバスに描いた様に、鰯雲が浮かぶ空。予期しない時と場所で見ると、いっそう印象的な場面だった。私達2人は、まるで声もなく立ち尽くしていた。

 ほんの3分足らずの短い時間だった。雲は、やがて形が崩れて消えていった。その鮮烈な光景は、今でも心の映像から消えることはない。N君の最後の記憶でもある。

 N君は、卒業して専攻を生かした電気関係の会社へ就職した。そして、その年の秋に亡くなった。工場で仕事中に感電死したのである。大量の電流が流れる電源は、常に2人組で扱う規則になっていた。たまたま相棒が休んでおり、彼は1人でその電源を扱ったらしい。葬儀の日に、会社の参列者から聞いた話である。N君が23歳の初秋のことだった。

 私は、通夜の日に初めて彼の自宅を訪問した。父親を戦争で失くした彼の家は、母親が1人で食品店を切り盛りしておられた。かなり高齢の祖父の姿を見掛けたが、火鉢の前に座ったままだった。煙管(キセル)に詰めた刻み煙草に、火鉢の炭で火を点けようと苦心されていた。だが、上手く火が点かなかった。火の点いていない煙管を吹かしながら、それでもお祖父さんは、煙草を吸ったと思われたのだろう。満足そうに煙管を筒に仕舞われる姿を、私は正視することが出来なかった。

 通夜が済んで遅くなり、私の家までは距離があるのでその夜は泊めてもらうことになった。布団の中で眠れないままに、私はN君との交友の様々な出来事を思い浮かべていた。物音の静まった深夜に、時折り母親の悲痛な泣声が聞こえて来た。来客の居る間は必死で耐えて居られた悲しみが、一人になれば堰を切った様に噴出するのだろうか。夜陰を突き破る鋭い絶叫は直ぐに止んだ。だが、また暫らく時間が経つと、前にも増して悲痛な叫びが私の鼓膜を強烈に刺した。

 そんな状況を何度か繰り返している内に、私はいつの間にか眠っていた。そして、翌朝早くに自転車で自宅へ帰り、午後からまた葬儀にN君の家へ出向いたのだった。

 彼は、同級生の中で最も早くに逝去している。あれから50年近くの歳月が過ぎた。1人あった妹は何処かへ嫁ぎ、そして母親もいつの間にか鬼籍に入られた。N君の住んで居た家は、今では痕跡を留めることなく白々とした空地になってしまった。そして、その家に住んで居た彼らの総ての記憶も、同級生達やまた近所の人々の脳裡からも消え去ってしまうのだろうか。

 彼は在所の瑞雲寺の墓地に眠っている。寺には同級生のY君が居た。当時の彼は修行中の身分だったらしく、葬儀の日は父親らしい年配の住職の後に着いて経を上げていた。彼に訊けば、私が無沙汰をしているN君の墓は分かる筈だ。この秋の間に、私は一度訪れよう。

更新日 平成21年9月24日

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