平成十九年五月

二十五日(金)左京区の中の丹波

五月十七日から京都市左京区の広河原と花背の神社を掲載し始めてゐます。現在は左京区になつてゐる広河原と花背の二地域は、歴史はそれぞれ違ひますが、かつては丹波国でした。言ふならば、広河原と花背は左京区の中の丹波です。ここでは、広河原と花背について少し紹介したいと思ひます。

まづ広河原ですが、江戸以前は丹波山国庄の山地でした。寛永年中(一六二四〜四四)に山国庄が山番を置いて出入りを始め、徐々に住民が定着して、山国庄の出村になりました。江戸初期は船ヶ原と呼ばれ、寛永四年(一六二七)の検地の時に広河原村といふ名が付けられました。寛文年間(一六六一〜七三)頃までは山国庄の出村の状態が続きましたが、独立村の性格を強めて行き、延宝元年(一六七三)には八枡村などの近隣諸村と組んで境相論を起こしてゐます。そして元禄十一年(一六九八)に、山国庄から完全に独立しました。その後、広河原村は明治二十二年(一九八九)に近隣諸村と合併して北桑田郡黒田村になり、昭和三十年(一九五五)に京北町が発足した時にそのまま京北町に移行して京北町大字広河原になりましたが、昭和三十二年(一九五七)に北桑田郡京北町から京都市に編入されました(京北町のその他の地域は平成十七年四月一日に京都市右京区に編入)。広河原は行政区画は京都市ですが、村の歴史を通じて丹波国であり、現在も丹波地方と言へるので、当然ながら弊サイトで取り上げます。

次に花背ですが、古来賀茂郷に属してゐた南部の一部を除いて、豊臣秀吉の時代は丹波国桑田郡に属してゐましたが、正保二年(一六四五)までには山城国に帰属したやうです。明治二十二年(一八八九)に愛宕郡花背村になり、昭和二十四年(一九四九)に京都市に編入されました。花背は中世は丹波でしたが、江戸初期に山城国に移行してをり、今では山城地方と言へる地域ですが、丹波のボーダーにある地域として弊サイトで取り上げることにしました。

花背・広河原は、京都市の最奥部といふだけではなく、京都府全域から見ても最も山間部にある地域の一つで、道路が整備されるまでは秘境扱ひの地でした。現在、交通機関としては出町柳から京都バスが出てゐて、上賀茂神社・鞍馬を経由して、花背まで約一時間半、広河原まで約二時間ほどかかります。深い山の中に萱葺き民家が点在する地域ですが、隠れた観光地として人気があり、山菜や清流の川魚などを食べさせる山荘などがあります。豪雪地帯でもあり、広河原には京都市内唯一のスキー場があることでも知られます。

京都市左京区の神社

平成十九年一月

一日(月)謹賀新年

皆様、明けましておめでたうございます。

昨年は口丹波に南丹市と京丹波町が誕生しましたが、それに伴ひ、神社一覧の分類を、旧船井郡の園部町・八木町・日吉町及び旧北桑田郡の美山町を南丹市のサブカテゴリーとする形式に改変し、また、旧船井郡の丹波町・瑞穂町・和知町を京丹波町のサブカテゴリーとする形式に改変してゐます。

平成の大合併は、口丹波の人々に、新しい行政単位の中で視野を広く持つて新しい仲間と新しい町づくりをして行かうといふ意識を生むとともに、もう一度郷土を見直さうといふ機運をもたらしました。これは全国的に言へることだと思ひますが、口丹波でも地域文化を大切に守り育てて行き、環境を守つて行くことが共通の価値観になりつつあります。

今年も丹波の神社を探訪しつつ、丹波の町や村や里山を歩くことを楽しみたいと思つてゐます。本年も『丹波の神社』をどうぞよろしくお願ひ申し上げます。

平成十八年十二月

二十三日(土)冬ほたる

京丹波町の名所の琴滝(京丹波町市森)が十二月十五日から二十五日までの間ライトアップしてゐるといふことで、二十二日の夜に行つてきました。

入口売店付近

琴滝は観音峠の京丹波町側、京都縦貫道の丹波インターチェンジ近くの通りから東南に谷を入つて行つたところにあります。すくそばには曹洞宗の名刹玉雲寺があり、中世の須知城(市森城)の城址がある歴史エリアです。

琴滝のライトアップは「冬ほたる」と名づけられ、主催はNPO法人丹波みらい研究会で、昨年スタートし、好評だつたので今年は発光ダイオードの数を10万個と倍に増やしたさうです。

光の通路谷川

琴滝は高さ40メートルの一枚岩の上を流れ落ちる滝で、滝の姿を13弦の琴に喩へて琴滝と名づけられてゐます。丹波では昔から知られた景勝地で、時代劇のロケにもよく使はれる場所です(上流に小滝池と大滝池があり、農業用水利施設になつてゐるので、滝が流れてゐない時期もあるさうです)。

琴滝

谷の入口の玉雲寺付近に駐車場があり、私が到着したのは7時半頃でしたが、すでに多くの車が停車してゐました。駐車場には丹波みらい研究会のスタッフと思はれる人たちがゐて、来訪者を誘導し、遊歩道の途中にある売店や滝のそばのカフェでもスタッフが働いてゐました。

谷川沿ひの遊歩道は光のアーケードになつてゐて、それを潜つて滝の方へと歩いて行きます。滝までの遊歩道沿ひの樹木にも青と白の電灯を飾り付け、幻想的な雰囲気を醸し出してゐました。滝までは数分ですが、途中から空気がひんやりとして冷気が厳しくなります。

滝に到着すると、滝に寄り添ふやうに琴の弦にちなんだ13本の光るチューブが飾られてゐました。滝壺にその光が映り、とても美しい情景でした。琴滝は行つたことがありましたが、昼間に見る風景とは全く違ふ世界が広がつてゐました。滝の中ほど右側にが鎮座し、こちらもライトアップされてゐました。

琴滝琴滝社

私は冬ほたるは初めて訪れましたが、山間の滝に出現したイルミネーションの幻想世界は一見の価値があると思ひます。イベントは25日まで行なはれてゐて、時間は午後5時から10時までです。24・25の両日は6時半からオカリナとボーカルのライブがあります。皆さんも訪ねてみられてはいかがでせうか。

※入場無料。駐車場も無料で用意されてゐます。谷に入るとかなり寒いので、防寒にはくれぐれもご注意下さい。

平成十八年十一月

二十三日(木)紅葉の寺

先日、南丹市園部町仁江の曹洞宗玉寶山龍穏寺を訪ねました。摩気神社の御旅所である船阪の八幡神社のすぐ近くです。

龍穏寺龍穏寺

龍穏寺は園部の名刹の一つです。曹洞宗では丹波随一の名刹である玉雲寺(京丹波町)直系の禅寺で、玉雲寺・徳雲寺(園部町)と共に「三うん寺」と呼ばれてゐるさうです。寺伝によれば、永正六年(一五〇九)、仁江の足立一族の金幡宗全を開祖とする足立一族の氏寺で、玉雲寺十九世の月山禅宗和尚を開山(初代住持)とします。園部藩家老の太田氏の菩提寺でもあります(園部藩主の菩提寺は徳雲寺)。龍穏寺の末寺は園部町内を中心に三十二ヶ寺を数へます。

龍穏寺龍穏寺

龍穏寺は、地元では紅葉の寺として知られてゐます。都会なら観光スポットの一つになるところでせうが、落ち葉を踏む人の姿もなく、ひつそりとしてゐるのが魅力です。見頃は数日前だつたさうで、私が訪ねた時は雨が降れば散りさうな状態でしたが、それもまた風情がありました。

龍穏寺龍穏寺

今回はお寺の探訪記になりましたが、丹波の隠れた名所としてご紹介しました。

平成十八年一月

一日(日)謹賀新年

皆様、明けましておめでたうございます。本年も『丹波の神社』をどうぞよろしくお願ひ申し上げます。
口丹波では、本日、南丹市が誕生しました。船井郡の園部町・八木町・日吉町と北桑田郡の美山町が合併して新市になつたもので、大阪・兵庫・滋賀・福井に境を接し、京都市に次いで京都府第二の面積を有する自治体になります。すでに昨年四月一日に北桑田郡京北町が京都市へ編入合併し、十月十一日には船井郡の丹波町・瑞穂町・和知町が合併して京丹波町が発足してゐますので、口丹波は亀岡市・南丹市・京丹波町及び京都市に再編されたことになります(昭和三十三年に口丹波の一部が大阪府に編入されてゐます)。
本日平成十八年一月一日は、丹波の天田郡三和町・夜久野町と、丹後の加佐郡大江町が、福知山市へ編入合併する日でもあります。このやうに、平成の大合併の結果、京都丹波の行政区画は大きく変貌しました(兵庫丹波の行政区画も大きく変つてゐます)。

市町村合併に伴ひ、『丹波の神社』の神社一覧の区分も再編しました。南丹市については、郡の部分が南丹市に変つただけで旧町の名称はそのまま残つてゐるといふこともあり、過渡的処置として、南丹市園部町、南丹市八木町〜といふ表記にします。その他の市町村の神社一覧の区分も、過渡的なものになることが少なくないと思ひますが、いづれ落ち着いた段階で整理します。

※元旦に合はせて、四季バナーを作りました。ふだんは「サイト案内」に設置してゐます。
同人サイズの四季バナー 国際標準サイズの四季バナー

平成十七年四月

十一日(月)犬飼天満宮の桜

先日、亀岡市曽我部町犬飼の犬飼天満宮を訪ねました。亀岡の桜の名所と言へば第一に挙げられるのは七谷川で、他にも何箇所かありますが、犬飼天満宮は知る人ぞ知る桜の名所です。天満宮は犬飼の集落から少し離れた丁塚山の山麓に、神仏習合時代には一つの宮寺であつた山王寺と並んで鎮座します。
天満宮と山王寺の前には犬飼川が流れ、天神橋といふ赤い橋が架かつてゐます。天神橋付近から犬飼川の堤に沿つて上流の方へ延々と桜並木が続いてゐます。

桜桜

その日は好天に恵まれ、少数の花見客がゐました。天神橋の袂にはお弁当を広げてゐる地元の人たちもゐました。観光客向けに整備されてゐるわけではありませんが、山々と清流と田んぼだけがある風景に桜並木が霞むやうに咲き誇つてゐる情景は、大変美しいものでした。

七日(木)バナー四季四部作完結

四季バナーシリーズの最後を飾る春バナーを作りました。これで『丹波の神社』のバナー四季四部作が完結しました。
夏バナー・秋バナー・冬バナーと同様、ふだんは「サイト案内」に設置してゐます。
同人サイズの春バナー 国際標準サイズの春バナー

平成十七年三月

七日(月)八幡神社の大椋

園部町天引の八幡神社に参拝した時、境内の樹の大きさに驚きました。欅と聞いてゐたのですが、調べてみたところ椋であることがわかりました。しかも確認されたのはごく最近のことです。樹木愛好家のグループによれば、欅ならばこのクラスのものは珍しくないが、これが椋であるなら一躍全国屈指の巨樹といふことになるさうです。

天引八幡神社・大椋天引八幡神社・大椋

八幡神社の大椋に関しては、ウェブサイト『東京の樹』のManoJuhskeさんのレポート「天引八幡神社の大ムク」と、弊サイトでもリンクしてゐる高橋弘さんのウェブサイト『日本の巨樹・巨木』に掲載されてゐる「関西オフにて日本2位相当のムクノキ確認」、及び山東智紀さんによるレポート「天引八幡神社の大椋(仮称)」をご覧下さい。

平成十七年二月

二十四日(木)大河内の鹿

先日、園部町の瑠璃渓温泉に行く人に便乗して、園部町の山奥を訪ねる機会がありました。谷間の道を登つて行くのですが、その途中の大河内区の田んぼの中に鹿が防獣ネットに引つ掛かつてゐるのを見つけました。ネットを外してやれば山に帰れるのでせうが、暴れてゐて近づけさうにありませんでした。

鹿鹿

帰りに同じところを通つた時に見ると、人が集まつてゐました。あの鹿はどのやうな処遇をされたのでせうか。
丹波は鹿や猪が多く、人里近くにも出没します。農家にとつては鹿や猪や猿は作物を食ひ荒らす害獣で、生活のかかつた死活問題なので、防獣柵やネットを張るなどして対策を取つてゐます。
鹿・猪・猿の他、狐・狸・テンなどが餌を求めて人里に出没します。山の生活圏が破壊されてきてゐるのでせう。ハクビシン・アライグマ・ヌートリアなどの外来獣も増えてゐます。

十一日(金)休日の學問

この度、新サイト『休日の學問』を開設しました。
『丹波の神社』に神社・神道についての研究に関するコンテンツを作らうと考へてゐたのですが、これはと思ふ本は神社・神道に限らず色々ありますので、ジャンルを限定せず、広く人文社会科学系の学問を楽しむサイトとして独立させました。更新ペースはゆつくりになると思ひます。興味を持たれた方がいらつしやいましたら、たまに覗いて頂ければ幸ひです。
神社・神道及び地域探訪に関するサイトではありませんので、リンク集には加へません。ふだんはサイト案内から行けるやうにしておきます。
休日の學問』<http://tanbarakuichi.sakura.ne.jp/gakumon/>

七日(月)丹波国府跡

京都府埋蔵文化財調査研究センターによると、亀岡市馬路町の池尻遺跡で奈良時代中後期(八世紀半頃から後半)の掘立柱建物跡が確認され、丹波国府跡の可能性が高まつたと発表されたことが、二月二日の京都新聞に大きく報じられてゐました。今回、池尻小字高戸・久保前の同遺跡中央部分約二千平方メートルを発掘した結果、南北に並ぶ三基の掘立柱建物跡が確認され、建物群の周囲には役所跡から出土する板塀跡が見つかりました。最大の建物跡は瓦葺きと見られ、中央官庁などに相当する建物と推測されてゐます。同遺跡は山陰道近くに位置し、広大で平坦な土地であることなどから、丹波国府跡に比定されてゐました。郡役所である桑田郡衙の可能性もあるといふことですが、今回の調査から規模的に国府跡の可能性が高まつたやうです。京都新聞には、「建物群の大きさや配置などから当時の役所である官衙に間違いなく、国府の可能性も考えられる。山陰道の入り口であり、都の文化と北ツ海(日本海)の接点に位置する丹波国の歴史と文化を知る上で貴重な発見」と、上田正昭京都大名誉教授(古代日本・東アジア史、小幡神社宮司)の談話が載つてゐました。
同日京都新聞の丹波ワイド版(丹波地域版)にもこの調査のニュースは報じられてゐました。それによれば、丹波国府の候補地としては奈良時代中期から平安時代の千代川遺跡(亀岡市千代川町)や平安時代末の八木町屋賀付近も挙げられてゐますが、同センターの石崎善久調査員は、「遺跡の位置や時代などから、国府が池尻遺跡から千代川遺跡、八木町屋賀付近へと移っていったとも考えられる」と推定してゐます。
ところで、国府に関連した神社と言へば、総社があります。千代川国府においては、千代川町湯井に鎮座する松尾神社の境内社の国主神社が、総社の論社です。屋賀国府では、屋賀の宗神社が有力な総社の論社です(宗神社は式内社の三県神社に比定されてゐます)。今回の調査で一番古い国府である可能性が高まつた池尻国府の総社は不明ですが、付近にあつたに違ひありません。すぐ付近の呉弥山山麓には延喜十八年(九一八)創祀の池尻天満宮がありますが、創祀年代が時代的に下ります。神社は古代祭祀跡に建てられることが多いので、それ以前に呉弥山辺りに祭祀場があつたのかもしれません。池尻国府時代の総社は不詳ですが、この付近には八世紀初期創祀の神社が数多くあり、小川月神社のやうに創祀年代がさらに遡る古社もあります。遠くない場所に国分寺・国分尼寺もありましたので、いづれにせよ、大堰川を挟んだこの一体に古代の丹波国の中心があつたことは間違ひありません。

三日(木)雪の生身天満宮

二月二日から三日にかけて、全国的に大雪が降りました。昨日、新潟では積雪が三メートルを越えたと報じてゐました。京都丹波地方も二十センチほど積もりました。丹波の中でも、美山町の山間部では一メートル積もつたところもあつたさうです。
昨日二日の昼前のこと、所用で近くを通つたので、少し回り道をして園部町の生身天満宮を訪ねました。境内は真白でした。写真を撮つてきましたので、何枚か掲載しませう。

鳥居境内社

参道の石段では、神主の武部さんが一人で雪掻きをされてゐました。
天神さんの鳥居の前の道は凍結してゐて人通りが少なく、参拝客の姿も私以外に見当たりませんでした。本殿裏の境内社の周辺は雪の上に足跡もなく、贅沢な気分になりました。

牛国際交流会館

境内の羊です(笑)。
一の鳥居から園部城址のある小麦山の方に目をやると、雪の中に天守閣が見えました。これは本物のお城ではなく、新しく建てられた園部国際交流会館です。
昨日の雪は夕方まで断続的に降り続き、丹波は今日もまた雪でした。

平成十七年一月

二十八日(金)市町村合併、京都丹波篇

京都丹波でも市町村合併が推進されてゐます。数日前にも、船井郡の六町が二つに分かれて合併し、京丹波町と南丹市として発足することが正式に決定しました(南丹市には北桑田郡から美山町が合流します)。今後、京都丹波がどのやうな形になるのか、京都丹波の市町村合併を整理しておかうと思ひます。
まづ、北桑田郡の京北町ですが、ここは京都市に編入されることが決定してゐます。合併の期日は平成十七年四月一日ですから、間近に迫つてゐます。編入される行政区は京都市右京区です。これで、京都市に丹波の京北町が町単位で編入されることになります。ちなみに、これまでにも京都市には丹波の一部が編入されてゐて、北桑田郡広河原村がそれです。ここは一時、北桑田郡黒田村になり、そのまま京北町に移行して京北町大字広河原でしたが、その後、左京区に編入されてゐます。つまり、京北町は左京区と右京区に分かれて合併されることになるわけです。(広河原に隣接する左京区の花背も中世には丹波国北桑田郡山国庄に位置してゐましたが、古く一六四五年以降は山城国愛宕郡に移されてゐますので、丹波とも山城とも言へる地域です。)
船井郡は二つのブロックに分かれます。まづ丹波町・瑞穂町・和知町が京丹波町として合併することが決定してゐて、合併期日は平成十七年十月十一日です。もう一つのブロックは、園部町・八木町・日吉町、それに北桑田郡の美山町が加はり、平成十八年一月一日に南丹市として発足する予定です。これによつて、北桑田郡は京都市と南丹市になります。ただし、美山町の住民の一部に反対があり、美山町は南丹市に参加しないかもしれません。美山町が参加しない場合でも、残り三町で南丹市になることはほぼ間違ひないでせう。
天田郡の三和町・夜久野町、それに丹後国加佐郡から大江町が加はり、福知山市へ編入する形で合併することが決定してゐて、期日を平成十七年三月中としてゐますので、この合併も間近に迫つてゐます。
以上のやうな合併の結果として、京都丹波は亀岡市・南丹市・京丹波町・福知山市・綾部市・京都市、及び大阪府高槻市と豊能町に分かれることになります(南丹市に参加しない場合、美山町はそのまま残ります)。

※補足しておきますと、兵庫丹波は、新たに丹波市が誕生したことによつて、従来の篠山市と併せて二市に整理されることになつたやうです。丹波市は昨年十一月一日に氷上郡六町(氷上町・柏原町・青垣町・春日町・山南町・市島町)が合併して誕生した市です。私は兵庫丹波については詳しくありませんので、兵庫丹波の境界には篠山市・丹波市以外に兵庫丹波と言へる地域が残つてゐるのか、残つてゐるとすればどのやうな形になつてゐるのかなど、ご存じの方がいらつしやいましたらご教示下さい。

十一日(火)四老に会ふ

昨日、「特殊な神社・広義の神社」に亀岡市馬路町の祖霊社を紹介しました。馬路町では人見・中川・河原・中澤の四姓が同姓ごとに独自の祭祀施設である祖霊社を祀り、同姓祭を行なつてゐます。その中から人見・中川・中澤の祖霊社を紹介したのですが(河原姓の祖霊社はまだ取材できてゐません)、ここでは祖霊社の話ではなく、馬路町を訪ねた時(昨年末)に出会つた中澤姓の「四老」について書きたいと思ひます。
中澤姓の同姓祭は経ノ頭と言ひ、祭祀組織は六老・総代・頭花役といふ役職によつて構成されてゐます。中澤姓の祖霊社は往古仏と呼ばれ、八幡宮の鎮座する導養寺観音堂の裏側、長林寺の門前に鎮座し、一月九日に経ノ頭が行なはれます。私が馬路町を訪ねた日に出会つたのは、中澤姓の長老組織である六老の四番目に当たる四老でした。勿論、四老も中澤さんです。
馬路町の長宮さんの由緒がわからなかつたので、たまたま近くで畑仕事をされてゐた地元のご婦人に尋ねてみたところ、「さういふことでしたらうちの主人に」とわざわざ呼んで頂いたのが四老の中澤さんでした。旧家らしい立派なお屋敷に招き入れて頂き、四老がいらつしやつた広い庭のテーブルと椅子が設けられてゐる一角で、色々なお話を伺ひました。長宮さんのことをちよつとお伺ひするつもりが、『鶴瓶の家族に乾杯』のやうな展開になつて、中澤姓の祭祀に止まらず、馬路町全体の祭祀形態や組織についてもお話を伺ふことができました。
全国的に見てもユニークな祭祀伝統を有する馬路町の祭祀の当事者のお話は大変面白く、貴重なものでした(ここではその詳細は書きません)。六老は年齢順に就任します。四老はそれほどご高齢とは見えませんでしたが、「上が長生きしとるさかい、なかなか一老になれへんわい」と笑つてをられました。半時間ほどもお邪魔してゐたでせうか、途中から話が弾んで、四老は「茶を入れるからゆつくりして行け」と仰つて頂きましたが、あまり長居するのも厚かましく、また暗くなる前に行つておきたい場所もありましたので、御礼を言つて失礼しました。
この日は中澤さんとご縁があり、四老に会ふ前にも別の中澤さんにお話を伺つてゐました。中澤姓には往古仏とは別に阿弥陀堂(小堂)を祀る小堂派と呼ばれる同姓内集団があるのですが、こちらの中澤さんはその小堂派の方でした。色々お伺ひしたあと、この方から小堂派の本家の長老を訪ねればよいと教へて頂きました。長老のお宅は堂々とした門構への古いお屋敷でしたが、留守だつたやうで生憎お会ひすることはできませんでした。

※馬路町の祭祀については、人見・中川・中澤の祖霊社と、併せて八幡宮をご参照下さい。

五日(水)ごくせん神社

一月十五日(土)夜九時、日本テレビ系において『ごくせん〜ヤンクミ、リターンズ』が始まります。原作はレディースコミック誌『YOU』(集英社)に連載されてゐる森本梢子の漫画です。私は漫画・ドラマとも好きで、『ごくせん〜ヤンクミ、リターンズ』も楽しみにしてゐるのですが、今回、備忘録で話題にしたいのは、テレビ放映に先駆けて昨年十二月二十七日に創祀された、ごくせん神社のことです。
ごくせん神社は虫歯封じで知られる新橋の日比谷神社の分社として建てられ、東京・汐留の日本テレビ内に鎮座します。日本テレビのウェブサイトに掲載されてゐる写真を見ますと、これがなかなか本格的な神社で、開運全般を祈願してくれるさうです。巫女さんの姿も見えます。
三月末までの期間限定の神社で、一般参拝もできるやうです。神社史には決して残ることのない、かういふ神社の記録も貴重です。どなたか東京方面の方で、ごくせん神社をレポート・紹介して頂けないものかなあと思つてゐます。

一日(土)謹賀新年

平成十七年の元旦を迎へました。皆様、明けましておめでたうございます。
昨年八月十五日に弊サイトを開設してから、早くも四箇月半を経過しました。日頃より弊サイトをご覧頂いてゐる皆様には厚く御礼申し上げますとともに、この一年が皆様にとりまして幸多き年となりますやう、お祈り致します。
『丹波の神社』としての今年の抱負ですが、社格にこだはらずに庶民の暮らしとともにある丹波の神社を紹介して行くといふ基本姿勢に変りはありませんが、不勉強を痛感することがしばしばですので、今年はもう少し神道信仰や神社の歴史を勉強したいといふことと、丹波の祭祀を伝承されてゐる地元の方々、神職や郷土史家の方々のお話を伺ひ、そして神社や歴史のサイトを運営されてゐる皆様や弊サイトをご覧頂いてゐる皆様とも何かの形で交流を深められれば、と思つてをります。どうぞよろしくお願ひ致します。

元旦に合はせて、冬バナーを作りました。夏バナー・秋バナーと同様、ふだんは「サイト案内」に設置してゐます。
同人サイズの冬バナー 国際標準サイズの冬バナー

なほ、昨年度の備忘録は「過去の備忘録」としてコンテンツを設けました。左のメニューから飛ぶことができます。