備忘録 |
■二十五日(金)左京区の中の丹波五月十七日から京都市左京区の広河原と花背の神社を掲載し始めてゐます。現在は左京区になつてゐる広河原と花背の二地域は、歴史はそれぞれ違ひますが、かつては丹波国でした。言ふならば、広河原と花背は左京区の中の丹波です。ここでは、広河原と花背について少し紹介したいと思ひます。 まづ広河原ですが、江戸以前は丹波山国庄の山地でした。寛永年中(一六二四〜四四)に山国庄が山番を置いて出入りを始め、徐々に住民が定着して、山国庄の出村になりました。江戸初期は船ヶ原と呼ばれ、寛永四年(一六二七)の検地の時に広河原村といふ名が付けられました。寛文年間(一六六一〜七三)頃までは山国庄の出村の状態が続きましたが、独立村の性格を強めて行き、延宝元年(一六七三)には八枡村などの近隣諸村と組んで境相論を起こしてゐます。そして元禄十一年(一六九八)に、山国庄から完全に独立しました。その後、広河原村は明治二十二年(一九八九)に近隣諸村と合併して北桑田郡黒田村になり、昭和三十年(一九五五)に京北町が発足した時にそのまま京北町に移行して京北町大字広河原になりましたが、昭和三十二年(一九五七)に北桑田郡京北町から京都市に編入されました(京北町のその他の地域は平成十七年四月一日に京都市右京区に編入)。広河原は行政区画は京都市ですが、村の歴史を通じて丹波国であり、現在も丹波地方と言へるので、当然ながら弊サイトで取り上げます。 次に花背ですが、古来賀茂郷に属してゐた南部の一部を除いて、豊臣秀吉の時代は丹波国桑田郡に属してゐましたが、正保二年(一六四五)までには山城国に帰属したやうです。明治二十二年(一八八九)に愛宕郡花背村になり、昭和二十四年(一九四九)に京都市に編入されました。花背は中世は丹波でしたが、江戸初期に山城国に移行してをり、今では山城地方と言へる地域ですが、丹波のボーダーにある地域として弊サイトで取り上げることにしました。 花背・広河原は、京都市の最奥部といふだけではなく、京都府全域から見ても最も山間部にある地域の一つで、道路が整備されるまでは秘境扱ひの地でした。現在、交通機関としては出町柳から京都バスが出てゐて、上賀茂神社・鞍馬を経由して、花背まで約一時間半、広河原まで約二時間ほどかかります。深い山の中に萱葺き民家が点在する地域ですが、隠れた観光地として人気があり、山菜や清流の川魚などを食べさせる山荘などがあります。豪雪地帯でもあり、広河原には京都市内唯一のスキー場があることでも知られます。 ■一日(月)謹賀新年皆様、明けましておめでたうございます。 昨年は口丹波に南丹市と京丹波町が誕生しましたが、それに伴ひ、神社一覧の分類を、旧船井郡の園部町・八木町・日吉町及び旧北桑田郡の美山町を南丹市のサブカテゴリーとする形式に改変し、また、旧船井郡の丹波町・瑞穂町・和知町を京丹波町のサブカテゴリーとする形式に改変してゐます。 平成の大合併は、口丹波の人々に、新しい行政単位の中で視野を広く持つて新しい仲間と新しい町づくりをして行かうといふ意識を生むとともに、もう一度郷土を見直さうといふ機運をもたらしました。これは全国的に言へることだと思ひますが、口丹波でも地域文化を大切に守り育てて行き、環境を守つて行くことが共通の価値観になりつつあります。 今年も丹波の神社を探訪しつつ、丹波の町や村や里山を歩くことを楽しみたいと思つてゐます。本年も『丹波の神社』をどうぞよろしくお願ひ申し上げます。 ■二十三日(土)冬ほたる京丹波町の名所の琴滝(京丹波町市森)が十二月十五日から二十五日までの間ライトアップしてゐるといふことで、二十二日の夜に行つてきました。 琴滝は観音峠の京丹波町側、京都縦貫道の丹波インターチェンジ近くの通りから東南に谷を入つて行つたところにあります。すくそばには曹洞宗の名刹玉雲寺があり、中世の須知城(市森城)の城址がある歴史エリアです。 琴滝のライトアップは「冬ほたる」と名づけられ、主催はNPO法人丹波みらい研究会で、昨年スタートし、好評だつたので今年は発光ダイオードの数を10万個と倍に増やしたさうです。 琴滝は高さ40メートルの一枚岩の上を流れ落ちる滝で、滝の姿を13弦の琴に喩へて琴滝と名づけられてゐます。丹波では昔から知られた景勝地で、時代劇のロケにもよく使はれる場所です(上流に小滝池と大滝池があり、農業用水利施設になつてゐるので、滝が流れてゐない時期もあるさうです)。 谷の入口の玉雲寺付近に駐車場があり、私が到着したのは7時半頃でしたが、すでに多くの車が停車してゐました。駐車場には丹波みらい研究会のスタッフと思はれる人たちがゐて、来訪者を誘導し、遊歩道の途中にある売店や滝のそばのカフェでもスタッフが働いてゐました。 谷川沿ひの遊歩道は光のアーケードになつてゐて、それを潜つて滝の方へと歩いて行きます。滝までの遊歩道沿ひの樹木にも青と白の電灯を飾り付け、幻想的な雰囲気を醸し出してゐました。滝までは数分ですが、途中から空気がひんやりとして冷気が厳しくなります。 滝に到着すると、滝に寄り添ふやうに琴の弦にちなんだ13本の光るチューブが飾られてゐました。滝壺にその光が映り、とても美しい情景でした。琴滝は行つたことがありましたが、昼間に見る風景とは全く違ふ世界が広がつてゐました。滝の中ほど右側に祠が鎮座し、こちらもライトアップされてゐました。 私は冬ほたるは初めて訪れましたが、山間の滝に出現したイルミネーションの幻想世界は一見の価値があると思ひます。イベントは25日まで行なはれてゐて、時間は午後5時から10時までです。24・25の両日は6時半からオカリナとボーカルのライブがあります。皆さんも訪ねてみられてはいかがでせうか。 ※入場無料。駐車場も無料で用意されてゐます。谷に入るとかなり寒いので、防寒にはくれぐれもご注意下さい。 ■二十三日(木)紅葉の寺先日、南丹市園部町仁江の曹洞宗玉寶山龍穏寺を訪ねました。摩気神社の御旅所である船阪の八幡神社のすぐ近くです。 龍穏寺は園部の名刹の一つです。曹洞宗では丹波随一の名刹である玉雲寺(京丹波町)直系の禅寺で、玉雲寺・徳雲寺(園部町)と共に「三うん寺」と呼ばれてゐるさうです。寺伝によれば、永正六年(一五〇九)、仁江の足立一族の金幡宗全を開祖とする足立一族の氏寺で、玉雲寺十九世の月山禅宗和尚を開山(初代住持)とします。園部藩家老の太田氏の菩提寺でもあります(園部藩主の菩提寺は徳雲寺)。龍穏寺の末寺は園部町内を中心に三十二ヶ寺を数へます。 龍穏寺は、地元では紅葉の寺として知られてゐます。都会なら観光スポットの一つになるところでせうが、落ち葉を踏む人の姿もなく、ひつそりとしてゐるのが魅力です。見頃は数日前だつたさうで、私が訪ねた時は雨が降れば散りさうな状態でしたが、それもまた風情がありました。 今回はお寺の探訪記になりましたが、丹波の隠れた名所としてご紹介しました。 ■一日(日)謹賀新年皆様、明けましておめでたうございます。本年も『丹波の神社』をどうぞよろしくお願ひ申し上げます。 市町村合併に伴ひ、『丹波の神社』の神社一覧の区分も再編しました。南丹市については、郡の部分が南丹市に変つただけで旧町の名称はそのまま残つてゐるといふこともあり、過渡的処置として、南丹市園部町、南丹市八木町〜といふ表記にします。その他の市町村の神社一覧の区分も、過渡的なものになることが少なくないと思ひますが、いづれ落ち着いた段階で整理します。 ※元旦に合はせて、四季バナーを作りました。ふだんは「サイト案内」に設置してゐます。 ■十一日(月)犬飼天満宮の桜先日、亀岡市曽我部町犬飼の犬飼天満宮を訪ねました。亀岡の桜の名所と言へば第一に挙げられるのは七谷川で、他にも何箇所かありますが、犬飼天満宮は知る人ぞ知る桜の名所です。天満宮は犬飼の集落から少し離れた丁塚山の山麓に、神仏習合時代には一つの宮寺であつた山王寺と並んで鎮座します。 その日は好天に恵まれ、少数の花見客がゐました。天神橋の袂にはお弁当を広げてゐる地元の人たちもゐました。観光客向けに整備されてゐるわけではありませんが、山々と清流と田んぼだけがある風景に桜並木が霞むやうに咲き誇つてゐる情景は、大変美しいものでした。 ■七日(木)バナー四季四部作完結四季バナーシリーズの最後を飾る春バナーを作りました。これで『丹波の神社』のバナー四季四部作が完結しました。 ■七日(月)八幡神社の大椋園部町天引の八幡神社に参拝した時、境内の樹の大きさに驚きました。欅と聞いてゐたのですが、調べてみたところ椋であることがわかりました。しかも確認されたのはごく最近のことです。樹木愛好家のグループによれば、欅ならばこのクラスのものは珍しくないが、これが椋であるなら一躍全国屈指の巨樹といふことになるさうです。 八幡神社の大椋に関しては、ウェブサイト『東京の樹』のManoJuhskeさんのレポート「天引八幡神社の大ムク」と、弊サイトでもリンクしてゐる高橋弘さんのウェブサイト『日本の巨樹・巨木』に掲載されてゐる「関西オフにて日本2位相当のムクノキ確認」、及び山東智紀さんによるレポート「天引八幡神社の大椋(仮称)」をご覧下さい。 ■二十四日(木)大河内の鹿先日、園部町の瑠璃渓温泉に行く人に便乗して、園部町の山奥を訪ねる機会がありました。谷間の道を登つて行くのですが、その途中の大河内区の田んぼの中に鹿が防獣ネットに引つ掛かつてゐるのを見つけました。ネットを外してやれば山に帰れるのでせうが、暴れてゐて近づけさうにありませんでした。 帰りに同じところを通つた時に見ると、人が集まつてゐました。あの鹿はどのやうな処遇をされたのでせうか。 ■十一日(金)休日の學問この度、新サイト『休日の學問』を開設しました。 ■七日(月)丹波国府跡京都府埋蔵文化財調査研究センターによると、亀岡市馬路町の池尻遺跡で奈良時代中後期(八世紀半頃から後半)の掘立柱建物跡が確認され、丹波国府跡の可能性が高まつたと発表されたことが、二月二日の京都新聞に大きく報じられてゐました。今回、池尻小字高戸・久保前の同遺跡中央部分約二千平方メートルを発掘した結果、南北に並ぶ三基の掘立柱建物跡が確認され、建物群の周囲には役所跡から出土する板塀跡が見つかりました。最大の建物跡は瓦葺きと見られ、中央官庁などに相当する建物と推測されてゐます。同遺跡は山陰道近くに位置し、広大で平坦な土地であることなどから、丹波国府跡に比定されてゐました。郡役所である桑田郡衙の可能性もあるといふことですが、今回の調査から規模的に国府跡の可能性が高まつたやうです。京都新聞には、「建物群の大きさや配置などから当時の役所である官衙に間違いなく、国府の可能性も考えられる。山陰道の入り口であり、都の文化と北ツ海(日本海)の接点に位置する丹波国の歴史と文化を知る上で貴重な発見」と、上田正昭京都大名誉教授(古代日本・東アジア史、小幡神社宮司)の談話が載つてゐました。 ■三日(木)雪の生身天満宮二月二日から三日にかけて、全国的に大雪が降りました。昨日、新潟では積雪が三メートルを越えたと報じてゐました。京都丹波地方も二十センチほど積もりました。丹波の中でも、美山町の山間部では一メートル積もつたところもあつたさうです。 参道の石段では、神主の武部さんが一人で雪掻きをされてゐました。 境内の羊です(笑)。 ■二十八日(金)市町村合併、京都丹波篇京都丹波でも市町村合併が推進されてゐます。数日前にも、船井郡の六町が二つに分かれて合併し、京丹波町と南丹市として発足することが正式に決定しました(南丹市には北桑田郡から美山町が合流します)。今後、京都丹波がどのやうな形になるのか、京都丹波の市町村合併を整理しておかうと思ひます。 ※補足しておきますと、兵庫丹波は、新たに丹波市が誕生したことによつて、従来の篠山市と併せて二市に整理されることになつたやうです。丹波市は昨年十一月一日に氷上郡六町(氷上町・柏原町・青垣町・春日町・山南町・市島町)が合併して誕生した市です。私は兵庫丹波については詳しくありませんので、兵庫丹波の境界には篠山市・丹波市以外に兵庫丹波と言へる地域が残つてゐるのか、残つてゐるとすればどのやうな形になつてゐるのかなど、ご存じの方がいらつしやいましたらご教示下さい。 ■十一日(火)四老に会ふ昨日、「特殊な神社・広義の神社」に亀岡市馬路町の祖霊社を紹介しました。馬路町では人見・中川・河原・中澤の四姓が同姓ごとに独自の祭祀施設である祖霊社を祀り、同姓祭を行なつてゐます。その中から人見・中川・中澤の祖霊社を紹介したのですが(河原姓の祖霊社はまだ取材できてゐません)、ここでは祖霊社の話ではなく、馬路町を訪ねた時(昨年末)に出会つた中澤姓の「四老」について書きたいと思ひます。 ※馬路町の祭祀については、人見・中川・中澤の祖霊社と、併せて八幡宮をご参照下さい。 ■五日(水)ごくせん神社一月十五日(土)夜九時、日本テレビ系において『ごくせん〜ヤンクミ、リターンズ』が始まります。原作はレディースコミック誌『YOU』(集英社)に連載されてゐる森本梢子の漫画です。私は漫画・ドラマとも好きで、『ごくせん〜ヤンクミ、リターンズ』も楽しみにしてゐるのですが、今回、備忘録で話題にしたいのは、テレビ放映に先駆けて昨年十二月二十七日に創祀された、ごくせん神社のことです。 ■一日(土)謹賀新年平成十七年の元旦を迎へました。皆様、明けましておめでたうございます。 元旦に合はせて、冬バナーを作りました。夏バナー・秋バナーと同様、ふだんは「サイト案内」に設置してゐます。 なほ、昨年度の備忘録は「過去の備忘録」としてコンテンツを設けました。左のメニューから飛ぶことができます。 |
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