平成十六年十二月

十三日(月)日吉町の神社

新たに「日吉町の神社」のコンテンツを作成し、殿田の天稚神社日吉神社の二社を掲載しました。京都府船井郡日吉町は、太平洋に注ぐ淀川と日本海に注ぐ由良川の水源になる分水嶺に位置し、林業・農業を主な産業としてきた自然の美しい町です。
併せて、サイト案内の参考文献に、日吉町誌編さん委員会編『日吉町誌』(全三巻)を追加しました。

十二日(日)生活環境のデザイン

AGUA』のardeaさんが、歴史資料館ではなく暮らしの中に残されてゐる古民家を紹介したエッセイの中で、次のやうに述べられてゐます。

 里山の麓に集落があり、小川が流れ、屋敷林が散在し、家のかたわらには畑。これらの風景が失われゆく速度は、人の心すさみゆく速度に比例するのではないか、そうした思いが、宝石の如く残された里や家を拝見して澎湃と起るのである。

 いま、わたしたちが持つ郊外の風景というのは全くもって情けないありさまで、丘を削って作った造成地にショートケーキのような家々が並んでいたりする。あるいは国道沿いに巨大商業施設が点在し、青い山なみの前景に原色の看板が置かれるなどして興を削がれること甚だしい。

 これもわたしたちの歴史や文化そのものであり、頭から否定できるものではない。しかしその昔巧まずして形作られていた里の風景は、これから先のデザインを考える際に参考とすべき貴重な財産であると思う。(「古民家」)

このやうな現代の郊外の風景の痛々しさと、それと対照的な伝統的な里の風景の美しさは、神社を訪ねて丹波の田舎を歩いてゐる私にも感じられます。
郊外社会学なる学問を提唱してゐる三浦展といふ学者さんによると、このやうな郊外の風景は、日本だけではなく世界的に見られる現象のやうです。三浦さんがフランス国立高等社会科学研究院に招かれた時に、フランス・ブルガリア・メキシコ・チリなど世界各国から来てゐるランドスケープデザインや建築を学ぶ博士課程の学生に、東京の歴史や戦後日本の郊外住宅地開発について話し、現代日本の郊外の風景を見せたところ、次のやうな反応があつたさうです。

 私が見せた写真は、田園地帯が徹底的に開発された無残な風景であり、巨大なショッピングセンターや、パチンコ屋や安売り店やカラオケボックスやゲームセンターがけばけばしさを競い合うかのように林立する風景である。

 日本の風景はもっと伝統的なものではないのか、こういう郊外の風景と伝統的な風景とどちらが多いのか、郊外には地域性や歴史を重視した建築はないのかという、もっともな質問が続いた。

 しかし私がさらに驚いたのは、メキシコでもチリでも郊外化は同じように進んでいるという学生の発言である。郊外化は全世界的な現象なのだ。そして、自国の言語と文化を守り、アメリカ化を「コカコラニザシオン」として拒否してきたフランスですら、郊外では似たような事態が進んでいるというのである。(「世界のファスト風土化」)

ardea さんが仰るやうに、非文化的な郊外の状況を私たちは頭から否定することはできません。里の風景の変化は、近代化や都市化や大衆化に付随したものであり、大衆レベルにまで豊かさが行き渡り、生活が便利になり、また都市とほとんど変らない消費や情報の環境を田舎にも提供できるやうになつたことと表裏の関係にあるからです。
しかし、ardea さんが指摘されてゐるやうに、デザインといふ観点から見れば、現代の郊外風景は、伝統的な里の風景に完敗です。これは都市でも同じで、たとへば京都市内を見れば、現代的な建築や町並は、デザイン的にいはゆる町屋(京都の人はこの言葉を使つてゐないやうに思ひます)には遠く及びません。
ヨーロッパ的な様式を取り入れた近代建築にはデザイン的に見るべきものがありましたが、現代の建築ではさうした美意識も見られなくなりました。東京をはじめとする大都市の高層ビル群にある種の美しさがあるのはたしかですが、大衆的な暮らしの風景に目を転じれば、現代人が自分たちのデザイン(文化)を確立してゐるとは言ひ難いでせう。
ヨーロッパなどにも言へることですが、どんな田舎でも生活の中にみやびな美意識を持つてゐた時代があつたといふこと、これは一つの驚異ではないでせうか。

六日(月)能満神社を訪ねて

先日、丹波町上野出身の高樹さんから、弊サイト掲示板に次のやうなご投稿がありました。

南上野と北上野の中間に「能満神社」があります。子供の頃から親しんだ神社なのでこのサイトで取り上げて下さるとうれしく思います。もっともっと丹波町の神社で知りたいところが有るのですが、まず一番知りたい所からお願いしました。

丹波町はこれまで弊サイトに二社掲載してゐますが、また訪ねたいと思つてゐましたので、この機会に早速行つて参りました。すでに「丹波町の神社」に能満神社は掲載しましたが、現在は遠くにお住まひになつてゐる高樹さんに郷里の神社を偲んで頂かうと思ひ、こちらにも何枚か能満神社の写真を掲載します。
「能満」は、高樹さんが教へて下さいましたやうに、「のうまん」と読みます。社名の由来はわかりませんでした。国道9号線を町の中心部から右折してすぐの美女山の山裾に鎮座します。下左の写真は参道の並木道です。

参道舞殿

上右写真は鳥居をくぐつてすぐにある舞殿。その左側には社務所か神主さんの御宅と思はれる建物、右側にはかつては神宮寺があつたのではないかと思はれる空間があります。「丹波町の神社」にも書きましたが、本殿周囲は回廊になつてゐて、これはこの辺りでは園部町の生身天満宮ぐらゐにしかない形式です。また、六十年ごとに甲子歳に鳥居の建て替へを行なひ、この祭式は今も続いてゐます。ちなみに次の建て替へは、西暦二〇四四年です。
高樹さんは次のやうに言はれてゐます。

能満神社で僕が一番記憶に残っているのは、本殿の回りに合祀されている分社の存在です。なにかもっと古い神社信仰が、幾重にも深い所で重なるように交差しているようで、人間の「生きる営み」の凄みを感じます。

摂社の写真を撮つてきました。摂社は本殿左右に鎮座し、下の写真左が左側の摂社群、写真右は右側の摂社群です。

左摂社群右摂社群

左摂社群の四社は左から春日神社・天満宮・八坂神社・熊野神社です。右摂社群の二社は左から大神宮・神武天皇遥拝所です。春日神社は御祭神になつた後も摂社としても残されたものでせう。神社信仰の重層性といふ点では、御祭神の事代主命が最も古いのではないかと思はれます。大国主命の御子である事代主命は賀茂氏や出雲族と関係のある神で、蛭子神や恵比須さんとも習合してゐた神です。いづれにせよ、創祀年代から見て、能満神社は中世の豪族須智氏との関係が深かつたことが推測されます。
神仏習合時代のことを少し書いておきます。明治五年の神仏分離までは虚空蔵菩薩も祀られてゐましたから、神宮寺の本堂もあつたことと思ひます。神池には弁財天の祠もあつたさうです。弁天さんは神仏分離後も境内に残ることが多いのですが、こちらも神仏分離の時に虚空蔵菩薩と共に撤去されたさうです。私の見たところでは神池そのものも見当たりませんでしたが、どうなのでせうか。
右摂社群の脇に澤田吉次郎翁を顕彰した石碑があります。能満神社の神主であつた方で、丹波町に寄与した人物であるといふことです。
能満神社の周辺について少し紹介しませう。
上野の南側、氏子地である市森には須智氏の居城須智城跡があります。須智氏は能満神社も崇敬してゐた国人大名ですが、明智光秀に騙し討ちに遭ひ、須智城は落城、須智氏も滅亡しました。また、同じく氏子地の須知は江戸時代には宿場として栄えた町で、国道から一筋入つた旧山陰街道沿ひに今も古い町並みが残つてゐます。須知の町並みについては、七ちょめさんのサイト『古い町並みを歩く』の「丹波町須知の町並み」をご覧下さい。七ちょめさんは「町並みを歩き出して気になったことは、古い町並みが相当数残っているにも関わらず、地元も行政も全く関心が無いのか、保存や保護に気を使ってない様である」と苦言を呈してをられますが、丹波町のサイトを見ますと、今は多少は保存や保護にも配慮してゐるやうです。
能満神社は古くより上野・須知・市森・蒲生といふ丹波町の中心部を氏子圏とする、大変勢力のあつた神社ですが、豪族の須智氏滅亡後も地元民が護持してきました。現社殿は延享二年(一七四五)から氏子一人につき毎月一文の積み立てをし、明和四年(一七六七)に銀八貫七二〇匁を費やして完成したといふ歴史を持ち、地域の人々がいかに氏神様を大切に守つてきたかがわかる逸話です。この本殿は京都府登録文化財になつてゐます。現在も五区五百戸近い氏子を擁してゐるといふことなので、丹波でも大きな氏子数を有する神社と言へるでせう。祭礼も盛大に行なはれてゐるやうです。氏子さんに伺つたところ、高齢の神主さんがお元気でいらつしやるといふことです。

三日(金)秋の名残り〜保津から河原林へ〜

先月十一月の終りに、亀岡市の保津町から千歳町を経て河原林町へ、といふコースで、丹波の秋の名残りを楽しんできましたので、ご紹介しませう。
亀岡駅東側の踏切りを越えると、新保津大橋があります。まだ新しい大きな橋です。橋の上から保津川下りの乗船場が見えます(下写真)。

保津川下り

大堰川(保津川・桂川)の亀岡市の外れから京都市の嵐山までの間に保津峡があります。この十六キロに亙る峡谷を、四季折々の景色や急流などを楽しみながら舟で下るのが、保津川下りです。平安時代以前、長岡京の昔から木材を始めとする水運を担つた保津峡ですが、観光の遊船が始まつたのは明治二十八年からであるさうです。保津峡にはトロッコ列車も走つてゐて、JR嵯峨嵐山駅からトロッコ列車で亀岡に来て湯の花温泉に一泊し、翌日保津川下りで嵐山に下るといふのが、京都観光の一つのコースになつてゐます。

愛宕神社

新保津大橋を渡ると、保津町です。保津の古社、請田神社はすでに「亀岡の神社」に掲載しました。請田神社の境内の紅葉は、少し葉が落ち始めたところでした。
左の写真は、保津町の隣りの千歳町国分に鎮座する愛宕神社の参道の紅葉です。こちらも丹波有数の古社です。ご覧のやうに落葉が参道に絨毯のやうに敷きつめられてゐました。枯れかけの紅葉の葉は光沢が失はれてきてゐるために、けぶるが如く朦朧としてゐて、一種頽廃的な美しさがありました。

日吉神社

三枚目の写真は、河原林町の河原尻地区に鎮座する日吉神社の境内です。河原尻は、平地にあるにも関はらず、鬱蒼と樹々に囲まれた独特の村です。
森に囲まれた村の中に、日吉神社の鎮守の杜があり、境内には瘤だらけの大欅などの古木が聳えてゐます。薄暗い境内に色づく紅葉黄葉は、幽玄と呼ぶに相応しい雰囲気でした。
日吉神社は観光コースでも紅葉の名所として知られてゐるわけでもありませんが、ひつそりとした鎮守の社に晩秋の美を堪能することができました。

丹波国分寺跡

千歳から河原林に向かふ途中、愛宕神社や出雲大神宮にもほど近い史跡、丹波国分寺跡を訪ねました。左の写真はその境内です。ここも溢れるばかりに紅葉が見られる場所です。
田んぼの中にある国分寺跡は、遠くからは神社の社叢のやうに見えます。その杜が紅と黄に染まつてゐる姿は、大変可愛らしいものでした。
国分寺跡には山門、薬師堂、礎石などが残つてゐますが、かつては境内に八幡神社も鎮座してゐました。この日は落葉掃除の人が来てゐたやうです。
晩秋の亀岡の風景を何枚かご紹介しましたが、身近にある四季の美しさを味はつて頂けたでせうか。紅葉は盛りを過ぎてゐましたが、それが却つて奥床しく妖艶な風情を漂はせてゐました。葉が落ちると、丹波の冬の訪れはもう間近です。

平成十六年十一月

二十六日(金)晩秋の園部

今年の口丹波は秋の冷え込みが遅く、例年に比べて紅葉が全開とは行かなかつたのですが、先日、園部の紅葉を撮つてきましたので、ご紹介します。

園部城城門

まづは園部城址の紅葉。園部城は元和五年(一六一九)に但馬出石から入封した小出吉親が小麦山の山麓に築城したもので、天守閣はなく、園部陣屋とも呼ばれます。十代英尚の時に明治維新を迎へますが、朝廷方に帰順する旗幟を早くから鮮明にし、戊辰戦争の時には幕府方に敗れた場合には天皇を迎へて立て籠もるために、明治元年(一八六八)から二年かけて新たに城を改築しましたが、これは明治五年に取り壊しになり、幻の城になりました。

園部城土塀

現在は城門・土塀・巽櫓のみが残り、城門の中には府立園部高校が建つてゐます。時代劇のロケにも使はれる史跡の城門は、生徒たちが毎日通る園部高校の校門でもあります。
藩主のご子孫・小出英忠氏は、園部高校の先生をされてゐましたが、のちに宮内庁に転出し、秋篠宮様と紀子様の御成婚の時には掌典長を務められました。その時の様子はテレビでご覧になつた方も多いと思ひます。以前は城門の前にご自宅がありました。
園部城址公園には沢山の紅葉が見られるのですが、特に園部城の土塀のところの紅葉が綺麗でした。

春日神社本殿

もう一箇所、園部町高屋に鎮座する春日神社の紅葉をご紹介しませう。
室町初期建立の檜皮葺の屋根に朱塗りの本殿は、重要文化財に指定されてゐるものです。
地元の旧家のご婦人にお話を伺つたのですが、やはり今年は暖かくて紅葉の色が出ず、いつもなら境内の紅葉はもつと素晴らしいといふことでした。それでも美しく可愛らしい本殿が紅葉や銀杏の黄葉に囲まれて佇む姿は、大変見事なものでした。

越方八幡

春日神社の鎮座する川辺地区は、丹波の景勝地・瑠璃渓のある西本梅地区と並んで、園部で最も風光明媚な地域の一つです。この日も、大堰川の両岸に晩秋の景色が広がつてゐました。
左の写真は、高屋集落から対岸の越方集落の方を撮影したものです。中央に見えるのは若宮八幡宮の杜。「園部町の神社」に紹介してゐるのは新緑の季節に訪ねた時の写真ですが、その時とは山の色合ひが全然違ひます。山々は淡く秋に染まり、川はゆるやかに流れ、空気の澄み切つた、穏やかな小春日和の午後でした。

十日(水)くすのき瓦版

亀岡市三宅町にある楠新聞舗が、毎月十五日に配達エリアのみで新聞に折り込んで配布してゐる『くすのき瓦版』といふミニコミ新聞を発行してゐます。
先日、楠新聞舗から新聞を購読してゐる下矢田町の知り合ひの方が、私が神社めぐりをしてゐることを知り、『くすのき瓦版』に「ふるさとに祭られる神々」といふ神社紹介が連載されてゐることを教へて下さり、一部持つてきて下さいました。読んでみると資料的価値が高いものなので、直接楠新聞舗を訪ねてバックナンバーを分けてもらへないかと頼んだところ、後日、郵送料のみでコピー版を送つて下さいました。町の新聞屋さんがこのやうな地域に密着した文化事業を行なつてをられる志は、大変素晴らしいと思ひます。楠新聞舗さんにはここに改めて御礼を申し上げます。
「ふるさとに祭られる神々」の連載が始まつたのは平成十三年四月十五日で(最初は「亀岡に祭られる神社」といふタイトルでした)、平成十六年十月で四十三回を数へます。二十五回までは郷土史家の永光尚氏、以後現在に到るまで亀岡市教育委員会の樋口隆久氏が執筆してをられます。
すでに『丹波の神社』でも、「ふるさとに祭られる神々」に基づいて、紺屋町の元秋葉とそこから遷移した下矢田町の秋葉神社の由緒を一部補足してゐます。今後も必要に応じてこの連載の資料から補足・訂正します。
神社関連資料としてサイト案内の参考文献に追加しました。

四日(木)秋バナー作成

秋も深まり、朝晩は肌寒くなつてきました。丹波特有の濃霧「丹波霧」も出始めてゐます。
秋といふことで、秋バージョンのバナーを作成しました。 200×40ピクセルの同人サイズと88×31ピクセルのマイクロバナーの二種類です。最初に作つた二種類のバナーは、夏バージョンのバナーとして残しておきます。リンクを貼つて下さる際にバナーをお使ひの方は、どれでも使ひやすいものをご利用下さい。ふだんは「サイト案内」に設置してあります。
同人サイズの秋バナー 国際標準サイズの秋バナー

平成十六年十月

二十八日(木)紅葉と熊のことなど

十一日に亀岡市上矢田町の天満宮を訪ねた時のことは、十二日(火)の備忘録で書きました。その時は境内の樹々が少し色づき始めたところでしたが、先週の金曜日(二十日)に前を通りかかつたところ、紅葉がかなり濃くなつてゐました。十二日の備忘録に掲載した写真と比較してみて下さい。冷え込みが厳しくなつてきてゐますので、今はさらに深く色づいてゐることと思ひます。

天満宮

口丹波各地の神社では秋の例祭もほぼ終り、いよいよ晩秋の気配が漂つてきました。今年は夏が長かつた分、短い秋になりさうです。紅葉も全開する前に葉が落ちるかもしれません。
これからは山の神社めぐりに適した季節です。夏の間は草木が生ひ茂つて入れなかつた山の神社も、秋祭のあとは参道の草刈りや境内の清掃がされてゐるので、晩秋からまだ草木が繁茂しない春先までは山に入りやすい時期なのです。
ところが、今年は台風23号の影響で山間部の道のあちこちで崖崩れが起こつてをり、そのうへ口丹波の里山にも食べ物を求めて熊が降りてきてゐますので、山の神社にも気軽には入れない状態です。人家の近くに住みつくことも多くなつてゐる狸や狐だけではなく、人間の開発によつて熊も住む場所がなくなつてきてゐるやうです。熊が冬眠する真冬になつてしまふと、雪や寒さで山歩きは大変になりますから、本格的に山の神社を回るのは春先になつてからかなあとも思つてゐます(様子を見て、行けさうなところは行きたいと思つてゐますが)。

二十一日(木)台風23号の被害

昨日から今日にかけて猛威を振るつた台風23号は全国的に甚大な被害をもたらしました。京都府でも各地で土砂崩れや河川の氾濫などが発生し、特に由良川が氾濫した丹後地方では多数の死傷者も出るなど大きな被害を蒙りました。さうした中で、舞鶴市で濁水に没したバスに取り残されたお年寄たちがバスの屋根に逃れて一夜を明かし、翌朝に全員救出されたのは奇跡的なことでした。お年寄たちが冷静に対処されたのには頭が下がります。
京都府の口丹波地域では、風よりも雨がひどく、大雨や土砂崩れや浸水などで京都縦貫道や国道9号線をはじめとして各地で道路が通行止めになり、山陰線も不通になつて、交通が遮断されました。大堰川や園部川なども水位が堤防を越えて溢れ出し、亀岡市や船井郡では浸水や土砂崩れの危険性のために公民館などに避難する人たちも出ました。幼稚園や小中学校では午後から授業を休校するところも相次ぎました。
私の近所の川でも、最も雨が降つてゐた午後六時頃には、橋の下すれすれにまで水位が上がつて来てゐて、私が通りかかつた府道では河川から溢れた濁流が道路に流れ出してゐる箇所もあり、車で通行する時に恐怖を感じました。対岸の川岸は土手の土が濁流に削り取られてをり、溢れた濁流が田んぼにどんどん流れ込んでゐました。別の場所では黄色い泥水に浸かつた数軒の家も見ました。そこの裏山は土砂崩れを起こしさうな状態でしたから、そのあと避難したのではないかと思ひます。その後、さらに水位が上がり、浸水した家も多かつたやうです。腰まで水が来たといふ話も聞きました。山水も各地で出てをり、口丹波地方でもあと一時間豪雨が続いてゐれば堤防も決壊するなどして危ない状態だつたでせう。
京都府の神社では、宮津市の元伊勢籠神社では社殿が全壊し、八幡市の男山八幡宮の檜皮葺きの屋根が損傷するなど、被害を受けた神社も多かつたやうです。口丹波では亀岡市の請田神社の保津の火祭が延期になりましたが、鍬山神社の神幸祭は挙行されたらしく、御旅所の形原神社には台風の中二輦の神輿が遷座されたさうです。
今回の台風は被害状況の全容がまだつかめてゐない状態です。京都府や兵庫県では土砂崩れで通行止めになつた道路が多数に上りますが、その多くがまだ復旧してゐません。上水道が断水してゐるところも多いやうです。町全体が水没した兵庫県北部の豊岡市では今でも水没したままになつてゐる地域が残つてゐるやうです。田畑が冠水し、農作物の被害も深刻だと思ひます。一刻も早い復旧を願ふとともに、被災された方には心よりお見舞ひ申し上げます。

十九日(火)園部の秋祭

十七日(日)の午後、園部町の生身天満宮の秋の例祭に行つて来ました。到着した時にはすでに祭礼は終つてをり、神輿渡御の行事がちやうど終つたところで、神輿は神社に還御されてゐました。

生身天満宮一の鳥居

生身天満宮は、従者の武部源蔵が菅原道真公を生前からお祀りしてゐたといふことで、日本最古の天神さんとして知られてゐる神社です。旧府社で氏子数も多く、丹波を代表する神社の一つと言へるでせう。
当日は秋晴れの爽やかな天気で、境内周辺にはたくさんの参拝者が来てゐました。
前の通りと石段の左右と境内の公園に二十軒ほどの露店が出てゐて、ソースの匂ひや林檎飴の甘い匂ひなどが漂ひ、秋祭らしい懐かしい雰囲気を醸し出してゐました。遊び場として開放されてゐる公園では、大勢の子供たちが喧しく遊んでゐました。

生身天満宮石段

露店の並ぶ本殿に向かふ石段を昇つて行くと、祭礼を終へた女性神職の武部さんが降りて行かれるところでした。お話をしたことがありますが、大変気さくで感じの良い方です。「ようこそお参り頂きました」とすれ違ふ参拝者すべてに声をかけながら、境内のあちらこちらを回つてをられました。
石段の途中からは露店もなくなり、上の方を見上げると祭礼の終つた本殿付近は参拝者の姿も少なくなり始めてゐるやうでした。

写生をする子供たち

石段を昇り切ると、二の鳥居の前に座つて二の鳥居と拝殿を写生をしてゐる子供たちがゐました。秋の神社の雰囲気を非常に巧く描いてゐて、感心しました。横で覗き込むやうにご覧になつてゐたお年寄りも、「上手やなあ」と褒めてゐました。
神輿庫の前では神事のお勤めを終へた氏子さんたちが一段落着いて寛れてゐるところでした。武部宮司もどこかにいらつしやつたのだと思ひます。
参拝に行かうとすると、拝殿のところで知り合ひに会ひました。少し言葉を交はしてから、私も参拝を済ませて、生身天満宮を後にしました。
そのあと、同じ園部町の上木崎町に鎮座する春日神社の秋祭に遭遇しました。園部町の中心部の神社では、十六日・十七日に例祭が行なはれたところが多かつたやうです。

春日神社鳥居

スーパーマツモト新園部店の前を通りかかつた時に、横の細い道に神輿が入つて行くのが見えたので、後を追ひかけて行つてみると、こちらも渡御を終へて還御されるところでした。裃を着けた宮役の人たちに先導されながら、神輿は春日神社の鎮座する谷に入つて行きました。
神輿が鳥居をくぐる辺りで、春日神社の氏子の知り合ひに声をかけられました。祭装束でしたが、神輿から少し離れて歩いてゐました。国道の交通を止めて練り歩いて来たさうで、「腰が痛うてもう担げへんわ」と笑つてゐました。

春日神社神輿

神社前の石段のところで神輿に追ひつき、真横まで行くと、今度は別の知り合ひが神輿を担いでゐるのを発見。さう言へば、今年は上木崎町の役員をやつてゐるとか言つてゐたのを思ひ出しました。足首を骨折して治つたところだつたので「大丈夫かいな」と思ひましたが、あとで聞いたところ、最初は元気よく出発した神輿も神社に帰つてきた頃にはみんなもうへろへろになつてしまひ、最後の部分だけ交代して神輿担ぎに加はつたといふことでした。

春日神社秋祭

裃姿の宮役の見守る中、渡御を終へた神輿がひとまづ拝殿に還御。ちなみに宮役の先頭にゐる菅笠の人は、神輿を担いでゐた知り合ひのお兄さんといふことでした。
上木崎町の人家が途切れたところにある春日神社の境内は、三方を山に挟まれた谷間ですが、上方は天に開けてゐて、晴れた日には陽光が降り注ぎ、その光に樹々が映えて大変明るく美しい場所です。本殿の周辺には祭礼を終へた氏子さんたちが集まつて談笑されてゐたので、私は参拝するのは遠慮して、帰ることにしました。
再びマツモト新園部店の前まで出て、春日神社の裏山に続く山腹に鎮座する同じく上木崎町の天満宮を見上げると、ここも例祭らしく、提灯などが見えました。

十七日(日)マイクロバナー作成

先月の二十三日の備忘録でバナーを作成した話をしましたが、その時は日本のローカルスタンダードとも言へる 200×40ピクセルのいはゆる同人サイズのバナーを作りました。しかし同人サイズではリンク集のデザインとして統一性がない場合が生じますので、この度、新たに88×31ピクセルのマイクロバナーも作成することにしました。マイクロバナーは国際標準サイズのバナーの中でも一番使はれてゐるものです。リンクを貼つて下さる際にバナーをお使ひの方は、どちらでも使ひやすい方をご利用下さい。ふだんは「サイト案内」に設置してあります。
国際標準サイズの夏バナー

十二日(火)秋の気配

昨日、十一日の祭日に亀岡市上矢田町の天満宮を訪ねたのですが、境内の樹々はやうやく少しだけ色づき始めたといふところでした(写真)。

天満宮

今年の夏は猛暑でしたが、十月に入つてからも温度の高い日が続き、なかなか秋らしくなりません。一箇月ほど季節がずれてゐるやうな感じです。
紅葉も少し遅れてゐるやうです。虫の声も例年より静かな気がします。それでも朝夕はさすがにひんやりしてきました。
秋の丹波と言へば、松茸、丹波栗、丹波黒豆などの美味しいもので有名ですが、赤く染まつた丹波路の秋景色も良いものです。『丹波の神社』でも紅葉に照り映える神社風景をご紹介できればと思つてゐます。

平成十六年九月

三十日(木)ヒエダノのヒエは草冠に稗

相互リンクして頂いてゐる方から、
「貴HPの中で、亀岡市『稗田野町』の『稗』には草冠がつきます。ご確認下さい。以前、亀岡に住んでいたこともあり、気になりました。」
といふメールを頂きました。私は、
「実は草冠のヒエは表示できませんので、ネットでは慣例的に『稗』が使はれてゐることが多く、あのやうにしてゐましたが、注釈はしておくべきでした。ご指摘有難うございました。亀岡にお住まひだつたのですね。また機会がありましたら色々ご教示頂ければ幸ひです。」
と返信しました。
メールで述べましたやうに、JISの第二水準までにない草冠のヒエはネット上では表示できないため、亀岡市の公式ウェブサイトをはじめ、慣例的に「稗」が使はれてゐるのですが、たしかに由緒のある地名や神社名は正しい文字を知つておくべきです。そこで、サイト案内の凡例に以下の注記を付しました。
「冠と脚の場合は、冠を左に脚を右にして間にスラッシュを入れて表示します。たとへば亀岡市稗田野町稗田野神社の稗(ヒエ)は、町名も神社名も正しくは草冠に稗ですから[艸/稗]と表示することになります。ただし稗田野については、原則としては[艸/稗]田野といふ形で表示すべきところを、頻出するためにこれに限つては[艸/稗]ではなく便宜的に『稗』を使ひ、稗田野と表示してゐます。亀岡市の公式ウェブサイトをはじめ、ネット上では慣例的に『稗』が使はれてゐますが、これはあくまでも借字であることにご留意下さい。」
弊サイトの神社紹介では、稗田野町から代表して稗田野神社の地名の下に、
「稗田野のヒエは神社名・町名ともに正しくは草冠に稗です。」
と注記しておきました。あとの稗田野町のところには、煩瑣になるので注記は付けませんでした。
『亀岡神社誌』その他の活字媒体では、正しく草冠のヒエが使はれてゐます。また、一般の文書ソフトでも表示・印刷は可能なのですが、ネット上では表示できません。このやうな状態は非常に不便ですので、ネットでも自由に使ひたい漢字が使へるやうに早く改良してもらひたいものです。

二十九日(水)『図説 京都府の歴史』

森谷尅久責任編集『図説 京都府の歴史』(河出書房新社)を読みました。「図説 日本の歴史」の第二十六巻で、平成六年に刊行されたものです。
図説と銘打たれてゐるだけに画像資料の豊富さは言ふまでもありませんが、近年の新しい歴史学の成果も取り入れ、丹波・丹後の歴史に大きく紙数が割かれてゐるのも私にとつては魅力的でした。
高校生以上ぐらゐの読者を想定して編集・執筆されたものですが、この一冊で京都府の歴史の概要を把握することができます。歴史観も郷土の視点に立脚した地に足のついたものですし、高度な内容が平易かつ面白く纏められてゐる京都府の通史として、お薦めです。
サイト案内の参考文献に追加しました。

二十八日(火)全国熊野神社参詣記

昨日、熊野地方の歴史や文化や観光名所などを紹介されてゐるウェブサイト『み熊野ねっと』の「全国熊野神社参詣記」のコーナーに、私が投稿した文章と写真を掲載して頂きました。『丹波の神社』に掲載してゐる京都府園部町黒田の熊野神社を投稿したのですが、弊サイトより多少詳しく紹介してゐますので、よろしければご覧下さい。「全国熊野神社参詣記〜京都府園部町の熊野神社
「全国熊野神社参詣記」には多くの投稿が寄せられてゐるやうで、編集作業が大変なやうです。この度は管理人のてつ様には洵にお世話になりました。改めて御礼を申し上げます。
『み熊野ねっと』をリンク集に追加しました。すでにご存じの方が多いと思ひますが、熊野の情報を網羅的に発信されてゐる素晴らしいサイトですので、ご存じなかつたといふ方はぜひ訪問なさつてみて下さい。

二十三日(木)バナー作成

先日、リンクして下さるといふ方から「バナーがあればご案内下さい」とのご連絡が来ました。弊サイトのリンク集ではバナーを使つてゐませんので、『丹波の神社』のバナーも作つてゐませんでした。その旨を返信しましたが、リンクして下さつたリンク集を訪ねてみると、バナーを使つてゐるリンク集ではデザイン的にバナーがあつた方が良いこともあると気づき、『丹波の神社』でもバナーを作成することにしました。リンクを貼つて下さる際にバナーをお使ひの方はよろしければご利用下さい。ふだんは「サイト案内」に設置してあります。
同人サイズの夏バナー

十七日(金)東本梅町周辺の風景(リンク集より)

先日、亀岡市と園部町を通る篠山街道沿ひの東本梅町周辺の神社に参拝してきたことは前回述べましたが、リンクさせて頂いてゐるサイトの皆さんの中にもこの界隈を探訪してゐる方がいらつしやいますので、紹介します。
まづ『みつばち総本舗』の街道Walkerさん。街道Walkerさんは京都府亀岡市馬堀から兵庫県篠山市京口橋までの「山陰街道(篠山街道)馬堀〜篠山」を徒歩で行かれてゐます。馬堀から亀岡の中心部を通つて、稗田野神社が鎮座する亀岡市稗田野から湯の花温泉郷の峠を越えて本梅谷に入り、宮前町宮川の富家稲荷神社と東本梅町赤熊の日慈谷神社を参拝して、園部町埴生に入り、天引峠を越えて篠山に入るといふコースです。
また、『丹波霧の里』の天々宇知栗さんが宮川神社の鎮座する神尾山の「神尾山城址」を訪ねてゐて、野々口西蔵坊など戦国時代の丹波の土豪についても紹介されてゐます。
このところ備忘録で紹介させてもらふことが多い『AGUA』の ardeaさんも、時代劇のロケ地を探訪した「丹波点景」において、丹波一宮の出雲大神宮などとともに亀岡市本梅町中野の廣峯神社や園部町若森の普済寺を紹介されてゐます(サイトの他の部分では本梅川やその支流も取材されてゐます)。
なほ、東本梅町周辺(東本梅町・宮前町・本梅町及び園部町の一部)の神社は弊サイトでもいくつかアップしてゐますので、そちらもご覧下さい。

付記
拙宅の大屋根の修理は十五日に無事終りました。十五日の午前中に拙宅を建てた大工の棟梁がたまたま下の道を車で通りがかり、屋根の傷みに気づいて瓦屋さんに電話を入れて下さつたところ、その日のうちに修理が済みました。バスの運転手さんと言ひ、棟梁と言ひ、田舎ならではのネットワークです。

十四日(火)籔田神社

台風18号の後に、亀岡市と園部町を通る篠山街道沿ひの東本梅町周辺の神社に参拝してきました。神社を歩いてゐると、境内の樹が折れるなどやはり台風の爪痕はあちこちに残つてゐました。修理をする職人さんや地元の老人グループの人たちが出て後片づけをしてゐる姿もしばしば見かけました。
南北朝時代に建立された重文の仏殿の屋根の棟瓦が三分の一ほど剥がれ落ちたと報道されてゐた園部町若森の普済寺も訪ねました。まだ職人さんの姿はありましたが、仏殿の修復はほぼ済んでゐるやうでした。
また、普済寺のすぐそばの園部町南大谷の籔田神社の境内でも、数多くの枝が折れて落ちてゐました。中には直径20センチほどの枝もありました(写真)。

籔田神社の境内

この籔田神社は、現在は道端の小さな神社ですが、かつては船井・桑田・多紀三郡にまたがる三十九箇村の総氏神として、末社三十二社を有する神社でした。王子(大路=山陰道の意)大権現とも呼ばれ、中央官僚の宿舎としての機能も果たしてゐたさうです。今では想像できませんが、籔田神社を氏神としてゐた村がそれぞれ祭祀的に自立して祭祀圏が縮小して行き、さらに明治になつてから大堰川沿ひに鉄道が通つて街道の宿場であつたこの地が寂びれるに伴ひ、いつしか籔田神社も現在見るやうな村の鎮守様の姿に落ち着いたといふことでせう。
ちなみに、籔田神社は『AGUA』の ardeaさんも藪田川の取材の折りに訪ねられてゐます。

付記
台風18号の被害は我が家にも及び、大屋根の瓦が何枚かめくれ上がつてゐました。実は数日間気が付かなかつたのですが、下の道を通る知り合ひのバスの運転手さんが乗務中に発見し、勤務後に電話で知らせて下さつたのです。調べてみるとその部分は家の近くからは気付きにくく、たしかに少し離れたバス道からの方がよく見える箇所でした。めくれた瓦は落ちずに屋根の上に残つてゐる状態です(台風18号の後始末の仕事が多いらしく、修理待ちの状態なのです)。

八日(水)台風18号の爪痕

この備忘録では自然災害の話題が多くなつてゐます。実際、この夏から秋は、猛暑・豪雨・台風・地震と、自然が猛威を振るつてゐます。中でも昨日から今日にかけて日本列島を縦断した台風18号は、多くの死傷者をはじめとする被害を各地にもたらしました。被災された方には心よりお見舞ひを申し上げます。
一週間に一度台風が来てゐるやうな気がするほどですが、現実に七つ目の上陸は観測史上最高ださうです。広島では最大瞬間風速60.2メートルを記録するなど、全国的に50メートルクラスの暴風が吹き荒れた記録的な風台風でした。数時間に亘つて暴風雨圏に入つてゐた口丹波地方でも、かなりの被害があつたやうです。我が家もみしみし言ふほどでした。
文化財にも大きな被害が出ました。世界遺産の厳島神社は大破し、境内の国宝や重文の建物に甚大な被害が出ました。同じく世界遺産で国宝の姫路城でも、壁の一部が剥がれ落ちたやうです。恐らく日本各地の多くの社寺や歴史的建造物で被害があつたことと思はれます。
口丹波では、和知町下粟野の室町後期に建てられた重文の観音堂で、茅葺きを保護するための覆屋のトタン板が吹き飛ばされました。また、園部町若森でも、南北朝時代に建立された重文の普済寺仏殿の屋根の棟瓦が三分の一ほど剥がれ落ちました(京都新聞による)。恐らく神社にも被害があつたことでせう。丹波だけではなく、報道されない鎮守様や崇敬社の被害は、日本各地に無数にあつたに違ひありません。
以前から思つてゐるのですが、文化財が破損することは残念なことですし、古いままに保存することも勿論大切なのですが、形あるものは壊れるものですから、災害や戦乱などで損壊すれば修繕し再建する、その繰り返しが伝統的建造物の維持であると、今回改めて思ひました。

六日(月)生身天満宮の御神籤は「吉」

国立博物館で開かれてゐる特別展覧会「神々の美の世界〜京都の神道美術〜」の入館券の半券を手に、園部町の生身天満宮に参拝してきました。
まづ参拝を済ませてから、隣接する神主さんのお宅に声をかけると、神主さんは不在でご母堂と思しき上品な老婦人が応対して下さいました。半券を提示して趣旨をお話しすると、「まあそれはよくお出で下さいました。あちらにある御神籤を引いてこちらにお持ち下さい」とのこと。本殿の庇のところにある御神籤を引いて持つて行くと、御神籤と「合格梅」を下さいました。特別展覧会のことをしばらくお話をしてから、お礼を言つて辞去し、石段を降りながら御神籤を見ると「吉」。心願成就祈願「合格梅」の方は梅干が二つ入つてゐました。添へられてゐた説明によると、「境内梅園の梅を自家製で漬込み、真夏の土用に天日に干して、心願成就を祈願し、お祓いをした『合格梅』です。梅をこよなく愛された御祭神菅公に想いをお馳せ下さいませ」とありました。

六日(月)紀伊半島・東海道沖地震

昨日の夜、紀伊半島と東海道沖でマグニチュード7クラスの地震が二回ありました。大きいところでは震度5弱の揺れがありましたが、口丹波の震度はいづれも3でした。
今回の地震は近い将来発生が予測されてゐるマグニチュード8クラスの東南海地震の想定震源域付近で起きたのですが、東南海地震とは異なる仕組みで発生した全く別のもので、例のないことに専門家も戸惑つてゐるやうです。ただ、直接東南海地震につながるものではないといふことです。
和歌山・三重両県では津波に備へて避難勧告が出され、また広範囲に亘つて怪我人や漁船の転覆などの被害も出ました。地震予知によつて想定されてゐるもの以外に、想定外の大きな地震も起こるといふことに、自然の脅威を感じさせられました。

四日(土)神々の美の世界〜京都の神道美術〜

東山七条の京都国立博物館本館で開かれてゐる特別展覧会「神々の美の世界〜京都の神道美術〜」(京都府神道青年会など主催)に行つて来ました。詳しくは京都国立博物館のサイトに出品目録を含めて紹介されてゐますので、そちらをご覧頂くとして、ここでは私の感想を少し述べたいと思ひます。
まづ神像を見て感じたのは、それがあまりにも素朴で現世的なことでした。神といふよりそれは人(貴人ではありますが)そのものでした。平安人の神イメージとはかういふものだつたのでせうか。もつとも、出品されてゐた神像は主に平安時代のもので、この時代は仏像も素朴さが残つてゐた時代と言へますし、仏像の世界において精神性の高い彫刻作品が現れるのは鎌倉時代のことですから、仏像の影響で作りはじめられた時期の神像が素朴なのは当然のことなのかもしれませんが。鎌倉期以降の神像はどうなつてゐるのか、興味のあるところです。景山春樹『神像〜神々の心と形〜』を読み返してみようと思ひます(かなり以前に読んだものなので、内容はほとんど忘れてゐます)。
もう一点、絵巻や屏風に描かれた境内や祭の情景は、中世までのものを見ると多少今とは違ふといふ気がするのですが、それが江戸時代の絵巻や屏風になるとすでに今と全然と言つてよいほど変らないことに興味を惹かれました。これは客観的な情景といふより、絵画の描き方、言ひ換へれば対象の見方の違ひが大きいかもしれませんが、どちらにしても、客観的な情景も描く側の見方や感性も(神社に関しては)江戸時代にはすでに現代とほぼ同じものが成立してゐたとは言へるやうです。
当然のことながらこの特別展覧会は都であつた京都市内の神社からの出品が中心になつてをり、丹波からの出品は稗田野神社(亀岡市)・小幡神社(亀岡市)・生身天満宮(園部町)・子守神社(丹波町)だけでしたが、丹波の歴史と神道文化の一端に触れることができました。
多数の国宝・重文を含む京都の神社が誇る貴重な神道美術の数々が展示されてゐて、その中には教科書や解説書で見たことのあるものもたくさんありました。神社に関心のある方には必見です。特別展覧会は九月二十日(月・祝)まで開かれてゐます。また、特別展覧会の入館券で平常展示館の常設展も見ることができ、素晴らしい展示物が揃へられてゐますので、お時間がある方はこちらもご覧になることをお勧めします。
さらに、特別展覧会の入館券の半券を指定の優待神社で提示すると、様々な特別優待を受けることができます。指定神社は京都府神道青年会のサイトでご確認下さい。丹波からは園部町の生身天満宮が指定されてゐて、「境内産『合格梅』進呈とおみくじ1回無料」の特別優待を受けられます。すでに受験とは縁のない身だけれど、行つてみよう。

三日(金)『丹波・亀岡〜その風土とくらし〜』

先月、亀岡在住の文人、福知正温氏の『ふるさと亀岡をつづる』をご紹介しましたが、その続篇になる『丹波・亀岡〜その風土とくらし〜(続 ふるさと亀岡をつづる)』(大学堂書店、昭和五十九年)を読了しました。前著と同様、氏の郷土亀岡の歴史・自然・民俗・人物・文学・地理などを綴つた随筆集です。続篇は紀行文の趣になつてゐるものが中心で、全体的に一篇の枚数も長く、読み応へがありました。
亀岡市南東部(京都市に隣接する地域)の王子・篠・保津が多く取り上げられてゐるのですが、特にこの部分が随筆として秀逸だと思ひました。また、本書で福知氏は亀岡の山々を訪ね歩かれてゐて、この部分も面白いエピソードに満ちてゐました。その他にも保津川の水運や保津川下りの船頭、毘沙門町の伝統工芸である竹細工、亀岡の言葉や盆踊りなど、様々な亀岡が語られてゐます。
本書には戦後から昭和五十年代の亀岡が書き留められてゐるのですが、読んでゐると、高度成長期以前の風景が今なほ残つてゐるところがあることがわかるとともに、本書刊行から二十年以上経つた現在は、昭和五十年代の風景ともかなり様変りしてゐることが実感されました。
本書は前著以上に伝統宗教・民俗信仰の話題が豊富で、鬱蒼とした森に囲まれてゐたため「闇(くらがり)の宮」と呼ばれた王子神社から足利尊氏が戦勝祈願をした篠村八幡宮までを歩いた紀行文「今ひっそりと闇の宮・八幡宮」をはじめとして、神社に関連した文章も多く収められてゐます。神社関連資料としても充実してをり、サイト案内の参考文献に追加しました。

一日(水)防災の日

九月になりました。秋は神社めぐりに適した季節ですが、丹波ではまだ三十度を超える猛暑が続いてゐます。
今日は「防災の日」です。災害と言へば、一昨日夜半から京都府を通過した台風16号は京都丹波にも爪痕を残しました。幸ひにも死者・負傷者が出ませんでしたが(丹後では三人が怪我をした模様)、広範囲の停電・建物の破損・倒木・稲の倒伏・ビニールハウスの破損など、暮らしや農作物関連に被害が出ました。
台風の被害は最小限に収まつたものの、心配なのは地震です。京都丹波に地震の可能性が高まつてゐることについては先月二十五日にも書きましたが、本日の京都新聞丹波ワイド面に「備える口丹波の地震」と題する連載が開始され、詳細な情報が載つてゐました。
京都丹波には、福知山市から乙訓郡にかけて京都丹波を縦断するやうに延びてゐる三峠・京都西山断層帯、滋賀西部から北桑田郡にかけて走る花折断層がありますが、京都新聞の特集記事ではその中で三峠・京都西山断層帯の被害想定が報じられてゐました。三峠断層地震ではマグニチュード7で死者650人、西山断層系地震ではマグニチュード7.5で死者5030人の被害が想定され、口丹波各市町も防災対策の見直しを迫られる可能性があるとのことでした。「より危険性が具体的になれば、住民にも新たな心構へが必要」と亀岡市の防災担当者は話してゐます。
また、京都ではありませんが、滋賀県西部の琵琶湖西岸断層帯については、マグニチュード7.8程度の地震が三十年以内に発生する確率は全国で四番目に当たる9パーセントの高さで、これは阪神大震災の震災前評価より高く、今すぐ大地震が発生してもをかしくない状況だと言ひます。
日本は活断層だらけの地震列島です。口丹波地域も他所事では済まなくなつてきました。役所だけではなく、コミュニティや市民個々においても、被害を最小限に抑へるための心構へと対策が求められます。

平成十六年八月

三十一日(火)綺麗な水道水

徳島文理大学工学部の吉田知司講師らの研究チームが、水の綺麗さ・成分・起源をわかりやすく評価する方法を開発したさうです。この評価方法を用ゐて、日本の名水や水道水の中には市販のミネラルウォーターよりも綺麗なものがあるといふことがわかりました。徳島県海南町などの水道水は、名水やミネラルウォーターと同じぐらゐ、あるいはそれ以上に綺麗だといふことです。
評価結果によりますと、京都など五府県の名水、国内外の計18種類のミネラルウォーターのCOD(有機汚濁物の割合を示す化学的酸素要求量)は、いづれも0.1〜0.3ppmと低く良好でした。水道水でも、海南町で採取した海部川の地下を流れる伏流水の水源の水が0.1ppm、沖縄県西原町の水が0.2ppmと、綺麗な水であることがわかりました。また、綺麗な水の評価基準の一つである酸性・アルカリ性を示すpHは総じて中性であつたとのこと。
吉田講師は、「旧環境庁が一九八〇年に『名水百選』を選定したが、水道水を含め、日本各地の水質の現況がわかるデータがない。水の全国地図を作り、早ければ来年にホームページで公表したい」と話してゐます。
たしかに水道水も地域によつて味は全然違ひます。たとへば京都市内は綺麗な地下水が豊富なことで知られてをり、それが食の伝統を支へてきたのですが、水道水に関しては琵琶湖から引いてゐる地域のものは非常に不味いです。
丹波には『名水百選』に選ばれた水はありませんが、神社では丹波一宮の出雲大神宮の「真名井の水」が有名です。この御神水は現に綺麗でしかも身体に良い水らしく、いつも汲みに来る人の列が絶えません。参拝する時には私も飲ませて頂きます。それ以外にも人々が汲みに来る湧き水は色々あります。
丹波は渓流と森の国なので本来は綺麗な水の地域であるはずですが、私の印象では昔よりは全体的に汚れてゐる感は否めません。徳島文理大学の研究チームの水の全国地図に丹波から綺麗な水が選ばれてゐることを楽しみにして、完成を待ちたいと思ひます。
日本は元々美しく豊かな水の国ですから、この貴重な財産を大切にしたいものです。また、汚れてしまつた水を少しづつ元の美しさに戻して行く努力もして行きたいものです。

三十日(月)宮ノ谷川の沢蟹

『AGUA』の ardeaさんがごく最近丹波に来られてゐたやうです。桂川水系の上流を回つて来られた模様ですが、太秦撮影所がある京都市から最も近い田舎である丹波(特に口丹波)は時代劇のロケ地として使はれることが多いので、時代劇のロケ地探訪もされてゐる ardeaさんはよく丹波にもいらつしやるやうです。
私の目に止まつたのは、園部町口人の宮ノ谷川のレポートです。半田川の支流ですが、宮ノ谷川と言ふとは初めて知りました。ここは私も訪ねたことがあり、用水路状の溝のやうな小川です。これを上流に遡ると春日神社が鎮座します。近くには人家もない谷間の神社です。
水系を探訪される時は ardeaさんは主に川の様子と水に焦点を当てて撮られてゐるのですが、せせらぎの音が聞こえてくるやうな美しい清流の写真を拝見してもう一度宮ノ谷川を見に行きたくなりました。宮ノ谷川のレポート

二十九日(日)『ふるさと亀岡をつづる』

亀岡在住の郷土史家・随筆家の福知正温氏の『ふるさと亀岡をつづる』(大学堂書店、昭和五十七年)を読みました。その名の通り、氏の郷土である亀岡のあれこれ(歴史・自然・民俗・人物・文学・地理など)を綴つた随筆集です。
福知氏は昭和三年生まれで、旧京都師範学校と立命館大学を卒業し、長く亀岡で教鞭を取られてゐた方です。最近まで立命館大学の講師をやつてをられたと思ひます。とても味はひ深い文章を書く方で、読んでゐると行間から亀岡への愛情が伝はつてきます。
亀岡は昔は亀山と言ひました。明智光秀が築いた亀山城は今は堀と石垣しか残つてゐませんが(城址には大本教の亀岡本部があります)、亀山城の周囲は今も城下町の風情が色濃く残る一帯です。福知氏もこの辺りに住んでをられるやうですが、「古世町界隈」から関西に生まれ育つた者には懐かしい地蔵盆の情景を綴つた一節を引用しませう。

 グラウンド前から、国道九号線矢田口の方にむけて横町を行くと、京町通りとの角に地蔵堂がある。一名「矢の根地蔵」「鵺の地蔵」「矢代の地蔵」と呼ばれている。毎年八月二十三日の地蔵盆がやってくると、この小さな堂宇は、まばゆいばかりに輝く明りのもとに、地蔵をかこむ子どもたちで賑わう。そして、夕ぐれをまちかねた子どもたちが、かわいい浴衣をしゃきっときて、カンカンと鐘をたたき、「横町の西竪のお地蔵さんにお詣りやーす」と声を揃えて呼びかけてまわる。

この亀岡市中心部界隈の様子を『古い町並みを歩く』の七ちょめさんが「亀岡市の町並み」で紹介されてゐます。神社めぐりで亀岡を訪ねられた折りには、この辺りも歩かれてみてはいかがでせうか。
『ふるさと亀岡をつづる』は神社関連の本ではありませんが、口丹波の歴史や地理や民俗の話題も豊富に取り上げられてゐますので、サイト案内の参考文献に追加しました。

二十八日(土)南方熊楠翁の神社合祀反対運動

筑摩叢書の『南方熊楠随筆集』の巻末に「神社合祀問題関係書簡」が所収されてゐるのですが、今日読み返してみました。熊楠翁から植物学者の松村任三東京帝国大学教授宛の書簡です。これは以前読んだことがあつたのですが、熊楠翁の神社に対する捉へ方がよくわかるものです。熊楠翁はこの書簡で、神社及び社叢は地域社会の自然環境・歴史遺産・伝統文化・共同体の絆・敬神の心・道徳の拠り所であり、それを破壊することの弊害の深甚なることを訴へてゐます。
明治三十九年(一九〇六年)から、各集落ごとにあつた神社を合祀して、一町村一神社を標準とし、神主を置く(神主のゐない神社は整理する)べしといふ神社合祀令が行はれました。熊野といふ古い聖地を擁する和歌山県や三重県では、特に神社合祀が強力に推進されました。熊野古道は神仏習合が色濃い地域でありましたから、却つて明治政府の宗教政策であつた神仏分離の観念が働きやすかつたとも考へられますが、政治家や役人が業績を上げようとした功名心、そして森林や土地をめぐる利権絡みの動きもあつたやうです。
植物採集をしてゐた社叢がなくなつたのに憤激したことを切つ掛けに、神社合祀に対する反対運動に立ち上がつたのが熊楠翁でした。神社合祀令によつて多くの神社や社叢が失はれましたが、熊楠翁の働きかけにより、田辺市の神島や闘鶏神社、熊野古道中辺路の高原熊野神社・那智の原生林・野中の一方杉・八上神社・田中神社などが守られました。
神社合祀令は明治政府が国家による神道の再編成を目指したものですが、民衆の伝統的信仰の実態と意義に無知な官僚主義によるものであつたと言へます。
翁曰く、「この辺の民は千古神を敬し、朝夕最寄りの神へ詣し、礼拝讃唱するを楽しみとし、一家安全の基としをるものなり。従来かやうにして何の不足なく数百年を経歴し、神社また何の不足なく維持し来たりたればこそ今日合祀の大難にあひしなり。およそ金銭は至つて危きものなり。樹木も財産なり。確固たる信心は不動産のもつとも確かなるものなり。これを売りこれを潰し少々の金にしたりとして一ど失へばまた返るべからず」。
上記の書簡ではありませんが、青空文庫にデータ化された熊楠翁の関連文書がありますので、参考資料としてリンクしておきます。「神社合祀に関する意見

二十七日(金)篠窯跡群

大阪大学考古学研究室が調査してゐた亀岡市篠町の篠窯跡群から、平安時代前期後半の緑釉陶器片と三叉トチンが出土しました。
緑釉陶器は当時の高級品であり、朝廷に納めるものを作つてゐたものと推定されます。また、篠窯跡群からは奈良時代初期の須恵器片なども見つかつてをり、古くからの陶器の生産拠点であつたと思はれます。
小幡神社宮司の上田正昭博士は、「口丹波で優れた陶工技術を持つ工人集団がゐたと考へられる。平安京をつくるための用材や役夫の提供だけでなく、山陰道の入口にあたる亀岡市篠町地域から緑釉陶器を供給してゐることが明らかになつたことによつて、口丹波と都との密接なつながりが傍証された」といふ趣旨のことを述べてをられますが(八月二十六日京都新聞朝刊)、篠町の工人集団がどの豪族の下にゐたのか、その後どのやうな運命を辿つたのかなど、今のところ全容は不明です。
京都市内から老ノ坂峠を越えたところにある篠町には、式内社の桑田神社・村山神社、桑田神社の元と言はれる馬堀桑田神社、皇室とのゆかりが深い王子神社、足利尊氏・明智光秀ゆかりの篠村八幡宮など由緒のある神社が鎮座しますが、古代の窯跡が多く残る地域でもあります。今回の発掘は篠村八幡宮と王子神社のすぐそばの大谷三号窯を中心に行なはれました。須恵器片が出たのはすぐ近くの大谷二号窯からです。
八月二十八日(土)の午前十時から現地説明会が行なはれます。雨天の場合は翌日に延期になります。
大阪大学考古学研究室のウェブサイト。http://www.osakaarc.com

二十六日(木)『山の民俗誌』

湯川洋司『山の民俗誌』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、平成九年)を読みました。民俗誌と銘打つてゐますが、この三十年の間の過疎化による山の生活の危機と今後の展望・対応策をテーマにした本です。
山の生活のコスモロジー・宗教意識、そして山の生活で培はれ、伝へられてきた共同体の絆や倫理観などを根拠にして、湯川氏は現代日本の経済至上主義を批判してゐます。その批判は、無用なダム建設に見られるやうな、お金のためには自然や伝統的な村落共同体を平気で破壊する経済至上主義に対するものです。湯川氏は、山の生活に対する都市民のロマンチックな思ひ入れではなく、山村の自立のためには市場的な価値を高める戦略(村おこし)を持たなければならないといふ提言もしてゐます。
日本ほど森林と水が豊かな国は稀有であり、それらは日本人だけではなく、今や人類の財産です。それをその場限りの利益を追求する公共事業のために破壊してよいものだらうか。また、何千年の伝統がある山の生活が現代文明の中で跡形もなく滅び去るのを座視してゐてよいものだらうか、といふのが本書の問題提起です。
生産力豊かな盆地の多い丹波は古くから開けてゐた稲作地帯であるとともに、現在は京阪神に農畜産物を提供し、また通勤圏として都市と近接した地域なので、ここに取り上げられてゐるやうな山村は少ないのですが、山間部にはここに取り上げられてゐるタイプの山村もあり、さうした丹波の山村事情についても調べてみたいと思ひました。
湯川洋司氏は教員をされてゐる山口県で、里山の暮らしを研究し、その振興の方向性を模索する活動も行なつてをられます。
http://www.idom.jp/kouza/kouza20/

二十五日(水)地震の前触れ

丹波山地周辺で、地震の発生回数が減少する「静穏化現象」が約一年半続いてゐるさうです。この現象は平成七年の阪神大震災直前の状況と似てをり、地震予知連絡会は少なくともM4〜5クラスの地震が丹波山地を中心にした地域で発生する可能性が高いと注意を促してゐます。少なくともM4〜5クラスといふことはそれ以上になる可能性もあり、丹波の住民としては心構へをしておかなくてはならないと思つてゐます。

二十日(金)農村の神社

神詣』のHISASHIさんのところの掲示板で話題になつたのですが、神社に山から動物が降りてくることを防御するための柵がしてあり、境内奥深くに入れないことがあります。
丹波の農村では、鹿・猪・猿などの被害が深刻です。山と田畑との間に柵や有刺鉄線を張るのですが、それに電流を流すことも少なくありません。
自然と共存するのが神社の根本精神ですが、山間部の神社は山腹か山麓に鎮座することが多く、その裾野には人里と田畑があるため、神社にも「害獣」対策の防御柵をめぐらせなければならない場合があるのです。

二十日(金)『郷土生活の研究』

柳田國男『郷土生活の研究』(筑摩叢書版)を読了しました。
原著は昭和十年の刊行。昭和七、八年頃の講義などが収められたもので、郷土研究の入門書です。大変わかりやすく、個人的な関心からも有益でした。
神社の研究は郷土生活の研究と密接に関はります。柳田翁も本書で村の結合の中心は信仰と葬式だと言つてゐます。
猛暑で神社めぐりを一休みしてゐる間に、読書をしてゐます。

十七日(火)『民俗祭事の伝統』

『丹波の神社』を開設した八月十五日に、たまたま亀岡市稗田野町太田在住の知人が『民俗祭事の伝統 丹波・亀岡のまつり』といふ本を持つてきて下さいました(この方はサイトのことはご存じありません)。
二階堂國彦他著『故郷鎮守の森 亀岡神社誌』の続篇に当たるもので、監修は上田正昭先生、編集は神職・郷土史家・研究者・氏子総代などで結成された民俗祭事調査会によるものです。
平成四年に角川書店から出たものですが、未読でしたので、早速読了しました。まさに神社誌であつた『故郷鎮守の森 亀岡神社誌』に比べて、こちらは祭事にウエイトが置かれてゐます。また、生きた伝統の場としての、そしてエコロジカルな観点から杜としての神社の現代的意義を問ひ直さうといふ意欲にあふれた一冊でした。サイト案内の参考文献に追加しました。