井伏鱒二(明治31〜平成5年)は、哲学的な短編小説「山椒魚」や広島の原爆を描いた長編小説『黒い雨』などで知られる直木賞作家で、文化勲章も受賞した文豪です。
本書は昭和31〜32年に別冊文藝春秋に掲載された紀行文で、全国七つの街道を歩いた記録です。その最初が「ささやま街道」で、亀岡・園部・瑞穂・篠山など丹波路を歩いています。案内役は当時園部高校で教鞭を取っていた郷土史家の吉田證教諭でした。「ささやま街道」の文中に南丹市域で登場するのは、園部の三亀楼(現存)・園部城址・八木城址など。内容的にはそれぞれの場所をさらっと撫でただけの軽エッセイですが、井伏鱒二ならではの飄々としたとぼけた味わいがあります。
単行本は絶版で、井伏鱒二全集の第十九巻(平成9年)に所収。
更新日 平成19年12月27日
昭和32年の京都新聞丹波版に、郷土の歴史・伝説を紹介する企画記事「丹波路」が連載された。本書は、この企画に資料提供や解説で協力した著者が、「丹波路」の中から百編を選んで改めてまとめたものである。
あとがきによると、著者が本書刊行の前年に井伏鱒二の『七つの街道』の中の「ささやま街道」紀行で案内役となった時に、井伏から「この附近の人は、案外地元の名所旧跡を知りませんね」と言われたことが、本書を書く動機の一つになっているという。
「老ノ坂峠」から始まり、亀岡・園部を中心に京北の「蔵春庵」まで、見開き形式のコラムになっている。園部に限っても「三軒家」「園部の主夜神」「劉氏の墓」など、今では忘れられている話も多い。
更新日 平成19年12月28日
園部町本福寺の住職で園部高校の先生だった郷土史家の著者が、園部高校生徒会の機関誌「公孫樹」と、園部高校教員の研究成果発表の場として発刊された「研究紀要」に発表した論文をまとめた本です。
丹波の中でも主に口丹波の歴史を、日本史の大きな文脈に置いて記述されています。古墳などの考古学的な部分は、その後の発掘調査の進展によって古くなっていますが、文献に基づいて書かれている部分は、断片的な古文書に生命を吹き込んだ血の通った郷土の歴史として今も色褪せない内容を保っています。戦国時代の土豪たちの戦いや、幕末の草莽の郷士たちの戦いは、とりわけ面白く読めます。
更新日 平成19年12月29日
著者は八木町の新庄小学校校長などを務めた教育者で、園部町の教伝寺の先代住職。新庄小学校校長時代に「子どもによませる丹波の伝承シリーズ」を刊行し、本書はその第1巻に当たります。
柳宗悦・棟方志功などに激賞された木彫りの仏像で知られる木喰明満仙人は、江戸時代の遊行僧で、晩年に八木町の清源寺に滞在し、十六羅漢像などの仏像を残しました。本書は木喰の清源寺時代と、柳宗悦の発見によって脚光を浴びるようになる経緯を、小学生に読めるようにわかりやすく描いた物語です。
更新日 平成20年1月3日
「子どもによませる丹波の伝承シリーズ2」です。堰水翁とは八木の新庄村生まれの近代南丹の教育者井上堰水のこと。本書は、著者が本書執筆時に校長をしていた新庄小学校の初代校長でもある堰水の一代記です。
堰水は郷士の家に生まれ、熊沢蕃山・皆川淇園・佐藤一齋・梁川星巌などの書を読み、あるいは直接教えを受け、思索を深め、志を固めました。維新期には西園寺公望の山陰鎮撫使の呼びかけに応じて丹波の弓箭組(郷士階級)をオルグして官軍に馳せ参じるなどの活動をしますが、維新後は、親友の石原半右衛門(大戸村出身でのちに衆議院議員)が広い世界に勇躍することを目指したのに対して、堰水は郷里にとどまって郷党の若者を教育する道を選びます。
生涯を教育に捧げ、南丹地方を一時期は京都市内の校長先生の四割が船井郡出身の堰水門下生とも言われるほどの一大教育地域に育て上げ、全国にその名が響き渡る大教育者になった堰水の生涯を、中年になってからキリスト者になった宗教的精神をも含めて描いています。
巻末には病床で書かれた文語体の素晴らしい別辞(別れの言葉)が収録されています。
更新日 平成20年1月5日
日本写真界の重鎮山本建三が現在の丹波・丹後の風景を撮った写真集です。山本建三写真集全10巻の第7巻。
丹波や丹後を歩いていて見かける風景が、芸術にまで高められています。技術的なものもあるのでしょうが、美しいだけではなく、自然の一瞬を捉えて驚くほどインパクトの強い作品もあります。
丹波・丹後の風景写真を84枚が所収されていて、そのうち南丹市域からは、八木町が最も多く12枚、園部町3枚、日吉町1枚の16枚が取り上げられています。
更新日 平成20年1月8日
著者は兵庫県氷上郡出身の作家。元警察官で、在職中から作品を発表していたが、退職後本格的に作家生活を開始、昭和54年には『謎の丹波路』『阪神間の謎』『兵庫史の謎』の謎シリーズ三部作により井植文化賞を受賞。大正7年生まれで、昭和57年に64歳で亡くなっている。
著者は常々次のように感じていたという。丹波は京都府と兵庫県と別れていることもあり、一つのまとまりとして理解されることは少ない。丹波人自身も京都丹波と兵庫丹波の人間はお互いによく知らず、また京都丹波と兵庫丹波それぞれの中でも自分の住む町や村以外の丹波のことを知らない。丹波と名の付く本にしても、丹波を一つのまとまりとして書かれていることは少ない上に、京都丹波ばかりが取り上げられている――そう感じていた著者は、丹波を一国として、自分で納得のいく丹波を書くことにしたという。
内容的には史実に想像力を交えた読物で、稗史的な面白さもある。南丹市域では二章が割かれ、内藤ジョアンと木喰上人が取り上げられている。
※昭和52年初版の新装版。初版では写真は本人の撮ったものが使われていたが、歳月が流れたため、すべて改めてプロが撮った写真に差し替えられ、副題も「京都・兵庫歴史散歩」から「歴史散歩」に変えられている。
更新日 平成20年1月10日
園部町大河内は名勝琉璃渓がある集落で、園部の中でも最も山間部と言える地域。本書は大河内出身の著者が村の伝承をまとめた小冊子である。
内容は、大河内の家々の始祖とされる藤原純友の弟純索、源三位頼政の弟頼一、楠木正成の弟正末の三人の事跡、そして大山祗神社と盛光寺の由来が中心である。伝承によれば、藤原純索が開拓し、その子孫を頼って源頼一が村に入り、その子孫を頼って入村した楠正末が村の長の跡目を相続したとされる。楠氏は田位井・田井・下村と枝分かれしたが、天文4年(1532)前後からは高田氏と名乗る家が大河内楠氏の長となり、大山祗神社の神主や盛光寺の世話役などを務めるようになったという。
後記によると、著者はこの高田家に生まれ、工学博士・大学教授で大阪窯業セメント株式会社の専務であった人。本書は著者が昭和29年に自費出版したもので、平成15年にそれを地元の郷土史グループ本梅探友会が入手し、平成17年に本書の記載に触発されて探したところ琉璃渓の裏田の磐祠を発見したのを記念して、再刊されたものである。
更新日 平成20年1月12日
平成19年10月29日、園部町の道の駅新光悦村で第3回南丹地域おばんざいコンテストが行なわれた。主催は園部町つつじの会で、宝塚ホテル「プルミエ」の河波二郎料理長を審査委員長に、南丹市・道の駅新光悦村・園部町つつじの会からなど全9名が審査員を務めた。本書はこのコンテストに出品された45点のレシピ集である。
最優秀賞には、内藤邦子さんの栗の渋皮煮を混ぜ入れたかぼちゃを餡にした「おはぎ」が選ばれた。その他おばんざいということで南丹地域特産の野菜を使用した日常食を中心に、様々な料理が紹介されている。
更新日 平成20年1月15日
八木町神吉出身で日本最初の市街電車である京都電気鉄道会社を興した実業家高木文平。著者は近代京都を代表する実業家高木文平の孫で、大正14年に京都市に生まれ、府立医科大学を卒業し、心臓病の権威として知られる医師です。
本書は、「アスペン〜水力発電の故郷・その跡を訪ねる」と「『ワレ日本第一ノ良民タラン』〜電気王と呼ばれるようになった田舎侍」の2部から成るノンフィクションです。前者は平成8年に著者が神吉で発見した文平の小冊子をもとに、歴史に埋もれていた日本水力発電の恩人とも言うべきアメリカ人デブローの存在を掘り起こしたもの。後者は高木文平の生涯を描いた評伝で、祖国愛に燃えて富国強兵に尽力しながらも、日清日露に戦勝して傲慢になりアジアを侵略した日本人の姿勢に対しては厳しく批判した、開明的な明治人の姿を描いています。
更新日 平成20年1月16日
南丹ゆかりの人物を紹介
南丹市に関する本を紹介
随筆家上野道雄の連載エッセー
京の名工廣野文男のふるさと画集
歌人石川路子の南丹吟行
墨絵で綴る南丹の風景
南丹の名木を訪ねて
児童文学者広瀬寿子の作品を紹介
南丹の観音霊場を歩く
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