南丹生活

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畠中徳三編著『伝承野々村誌』

伝承野々村誌

畠中徳三は美山町出身で、役場職員から満洲国警察官を経て敗戦後ソ連に抑留され、帰国後は美山町議などを務めた人です。文献や考古学的研究が少ないために美山町に郷土史と言えるものがないことを憂え、自ら郷土史研究の道に入り、自伝を含めて4冊の著書を残しています。本書は畠中徳三の郷土史3部作の第1部で、美山の歴史的な中心部である野々村荘(平屋・宮島・大野全域と鶴ヶ岡のうち4箇村の地域)の歴史を、原始時代から記述したものです。編著とありますが、基本的に畠中徳三の個人的著作です。

野々村荘に中世以前から土着する旧家すべての始祖とされる允恭天皇の第一皇子木梨軽皇子(宮脇の道祖神社の御祭神)を中心に、その子孫野々村氏に養子に入ったとされる菅原道真の庶子慶能法師(静原の菅原神社の御祭神)などについて、郷土に残る伝承から考証しています。木梨軽皇子や慶能法師の伝承は正史とは異なるので、あるいは正史には記録されていないので、一種の貴種流離譚であるとも思われますが、著者は伝承を裏付ける様々な事柄から木梨軽皇子・慶能法師の事跡を歴史的実在として捉える立場で書いています。

アカデミックに書かれている南丹市の他の旧町の郷土史とは明らかに異質ですが、美山の創世記とも言うべき伝承の世界は、非常に魅力的です。

文化資料伝承会/平成元年初版

更新日 平成20年2月18日

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畠中徳三『私の昭和史 前』

私の昭和史 前

美山町の郷土史家畠中徳三の自叙伝(自分史)です。著者は大正5年に美山の内久保で生まれ、内久保尋常小学校・平屋尋常高等小学校高等科を優秀な成績で卒業後、様々な機会を利用して苦学しながら、平屋村役場の職員になります。昭和16年、役場を退職し、満洲国警察官として奉職、大陸に渡ります。日本の植民地の警察官として勤務し、現地で結婚しますが、やがて日本が敗戦し、日本の植民地が崩壊した混乱の中で妻子と離れて自身はソ連に抑留され、強制労働中に事故に遭って身体障害者となり、昭和25年に妻子の待つ郷里に帰るまでの戦前・戦中・戦後を描いています。

警察官としての職業的なものもあるのでしょうが、どのような事態にも冷静な観察眼を失わず、事実を書き留めようとする態度で貫かれています。南丹出身者の歴史体験・戦争体験を記録した貴重な史料と言えるでしょう。

※『私の昭和史 前』は大陸から帰国するまでの自分史として書かれていますが、「前」とあるように帰国後の郷里での後半生を記録する続編が予定されていたものと思われます。しかし、著者は平成14年に亡くなっており、続編は出されなかったようです。

文化資料伝承会/平成三年初版

更新日 平成20年2月20日

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畠中徳三編著『瀧見山光瑞寺誌』

瀧見山光瑞寺誌

美山町内久保にある浄土真宗大谷派の光瑞寺の由来・伝承・歴史・寺宝などを記録した寺誌です。美山の郷土史家で『伝承野々村誌』を刊行した著者が、美山野々村荘のうち自らの郷里の内久保(上久保・大内の2ヶ村)と荒倉村の地域の郷土史を書いている過程で、光瑞寺の部分を一冊に独立させたもので、郷土史3部作の第2部に当たります。編著とありますが、基本的に畠中徳三の個人的著作です。

10世紀に真言宗の寺院として創建され、15世紀にこの地方に蓮如が布教したことから浄土真宗に改宗した当時の歴史を中心に記述されています。著者は光瑞寺の総代の一人で、光瑞寺は菩提寺として子供の頃から知悉している寺であり、直接見聞したことも多く記録されています。

第16世の原田祐章住職が序文を寄せています。

文化資料伝承会/平成六年初版

更新日 平成20年2月24日

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畠中徳三『紫摩城』

紫摩城

紫摩城とは美山の野々村荘の始祖木梨軽皇子が大内に築いたと伝えられている砦の名前ですが、著者は野々村荘の発祥の地とされ、自らの郷里でもある内久保(上久保・大内の2ヶ村)と荒倉村の地域を紫摩城にちなんで紫摩の里と名づけました。本書はこの紫摩の里の近代以降の歴史と生活誌を記録したもので、著者の郷土史3部作の完結編です。

産業・文化・民話伝承・学校・嫁入り・家紋・屋号・方言などのテーマで、紫摩の里の住民一人一人にスポットライトを当てて事細かに書かれた、本当の意味での郷土史と言える本です。

文化資料伝承会/平成八年初版

更新日 平成20年2月25日

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塩貝文明『平成落書たんたんたかたか』

平成落書たんたんたかたか

日吉町在住のコラムニスト・農民塩貝文明の3冊目の著書です。社会批評や人間観察を絵と文で表現したカトゥーン(風刺的な一コマ漫画)集ですが、そのラフなスタイルは著者が言うように落書(らくしょ)と呼ぶのが相応しいかもしれません。大変面白く、社会批評家であるとともに画家でもある著者の本領が発揮された一冊です。

テーマは社会批判・反戦平和・労働・教育・道徳・家族などにわたりますが、そのスタンスは政治的というより、かつての日本人が持っていた社会倫理、コミュニティや家族に対する考え方をもとに描かれています。「百円が30円に下がっても作る苦労は変わらない」「『価格破壊』と云うけれど作り手の真心までこわしてませんか?」などの農民としての切実な声や、「法律の前からルールは有ったんだ。書いてはないけど有ったんだ」「いくら法律の網が完璧でも守る気のない無い人間にとってはなんの障害にもなりません。『常識』にくるまれていない人間にとっては、無いも同然なのかもしれません」「昔っから、完璧な人間なんてそうそういませんが、それでも、かならず親や家族から持たされて来たものが有りました。今、ちゃんと子供のそばに居て、人間社会の必需品持たせてやれる大人少ない様に思います」等の道徳や常識についての洞察など、人間観察とユーモアと優しさと義憤にあふれた落書の数々を味わうことができます。

落書集らしく可愛らしい文庫版です。

杉並けやき出版/平成18年初版

更新日 平成20年2月28日

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安部時夫・戸津崎憲二・たなべたい『ほたる物語』

ほたる物語

マンガで八木町のことを知ってもらおうと企画された「八木町ふるさとまんが」の第1巻として刊行されたものです。マンガは当時京都精華大学大学院生だったマンガ家・イラストレーターのたなべたいが描いています。

家庭の事情で東京から母親の実家がある八木町に引っ越してきた小学生が、様々な体験を通じて八木町のことを知り、自分の町として親しんでいく様子が描かれています。タイトルは八木町の虫に制定されていたゲンジボタルにちなんでいます。

この企画は第2巻以降は出されなかったようです。

八木町役場ふるさと振興課/平成5年初版

更新日 平成20年2月29日

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阜一秀『美山仏教誌』

美山仏教誌

著者は美山町野添にある曹洞宗深見寺11代目住職で、教員として細野小中学校長・鶴ヶ岡小学校長などを歴任し、退職後は美山町中央公民館館長・美山町老人クラブ協議会会長など地域の要職や美山町仏教会長・京都府仏教会常任理事なども務めた人物である。

本書は美山町における仏教の歴史・概要、町内にある46寺院の縁起、町内に22ある御堂(毘沙門堂・薬師堂など)の縁起、梵鐘・鰐口・大般若経・石塔・石仏・経塚・石碑など仏教美術や文化財の記録などを詳細にまとめた労作。美山仏教史の基本文献として貴重な一冊である。

阜一秀/昭和56年初版

更新日 平成20年3月6日

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阜一秀編著『ふるさと美山の生活誌』

ふるさと美山の生活誌

著者は美山町野添の深見寺住職で、教員生活を経て美山町中央公民館館長なども務めた郷土史家。

美山町の産業・年中行事(歳時記)・伝説・民話・方言・民謡の5章から成る生活誌である。産業に半分以上が割かれていて、江戸から昭和にかけての美山の産業が詳しく書かれており、資料的価値が高い。著者は『美山町誌』編纂委員だったが、計画が頓挫して刊行されなかったために、編纂委員であった四人(著者・大泊宇一郎・文字栄太郎・西浦左門)の資料が死蔵されてしまったことを惜しみ、三人の了承を得てまとめられたものである。その経緯から町誌の一巻と言っても差し支えない内容になっている。

※『美山町誌』は上巻が平成12年に、下巻が同17年に出されている。

阜一秀/昭和58年初版

更新日 平成20年3月7日

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高野山真言宗丹波宗務支所編『丹波路 真言の寺でら』

丹波路 真言の寺でら

弘法大師御入定千百五十年御遠忌を記念して、丹波地域(舞鶴・綾部・福知山・大江・天田・北桑田・船井・亀岡)の真言宗寺院78ヶ寺を網羅したパンフレット。

それぞれの寺が見開きで紹介され、本尊や縁起・住職・地図などについて解説されている。南丹市域では園部町から九品寺、八木町から西光寺など3ヶ寺、日吉町から殿田の成就院など5ヶ寺、美山町から静原の歓楽寺など7ヶ寺が取り上げられている。南丹市域では真言宗寺院は美山町に多いことがわかる。

高野山真言宗丹波宗務支所/昭和59年初版

更新日 平成20年3月10日

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細見末雄『丹波の荘園』

丹波の荘園

本書刊行までは必ずしも明らかではなかった丹波国の荘園について、文献資料を丹念に読み込んで、位置や変遷を明らかにした労作。丹波学の基礎文献の一つである。

丹波国には多紀・氷上・天田・何鹿・船井・桑田6郡108の荘園があったが、船井郡13荘園から胡麻牧・世木郷・五箇荘・今林荘・桐野河内郷・志万荘・船井荘・吉富新荘、桑田郡24荘園から氷所保・野々村荘・知見谷(知井荘)が取り上げられている。ちなみに丹波の6郡は市町村合併によって京丹波町のある船井郡を残して消滅している。

著者は明治41年生まれ。御影師範学校(現神戸大学)卒業後、教員生活に入り、青垣中学校校長を最後に退職。退職後に荘園史その他の歴史研究に入った人物である。

名著出版/昭和55年初版

更新日 平成20年3月11日

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