南丹生活

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大野実『歌う校長 夢の種をまく』

歌う校長 夢の種をまく

著者は南丹市美山町にある私立京都美山高校の校長で、シンガーソングライター、ラジオのパーソナリティとしての顔も持つ人です。京都市内の進学校を不登校で中退し、別の高校に再入学して大学卒業後はミュージシャンを目指したりしますが、私立京都両洋高校に勤めながら通信制で教員免許を取得して教師生活に入り、平成15年からは京都美山高校の校長として学校の運営に当たりながら、講演活動などに多忙な日々を送っている教育者です。平成19年には京都新聞大賞「教育社会賞」も受賞しています。

京都美山高校は、全寮制全日制普通科とインターネット通信制を有する高校です。全寮制全日制普通科は、現在、全国から来た30名ほどの生徒が美山の自然の中で先生たちと共同生活を送っています。インターネット通信制は、不登校・引きこもりの復学支援を目的として平成15年からスタートしたコースです。著者の教育理念は、単純な基準によって人間を選別したり排除したりしない人と人との絆、居場所、コミュニケーション、生き甲斐を重視する価値観ですが、その一方で勉強をしないまま十代を過ごしてしまうことの損失もしっかり認識されていて、そこに就学困難な状態にある若者向けのインターネット通信制の意義があるのでしょう。校長である著者自身が不登校・高校中退の経験を持つこともあって、既存の価値観にとらわれない新しい時代の学校教育を作ろうとしているのが窺えます。

日本の伝統的な共同体意識と多様性を認め合って社会を作ろうとする現代的なリベラルな考え方が融合した、肩の力が抜けた教育書です。

かもがわ出版/平成20年初版

更新日 平成20年6月16日

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八木町教育委員会編『ふるさとの伝承八木』

ふるさとの伝承八木

八木町公民館では高齢者の生涯学習の取組みとして「南丹大学」が開催されてきた。南丹大学は今も続けられているが、本書は昭和56年度の学習課題「ふるさと八木の昔について何かまとめてみよう」の受講者のレポートをまとめた冊子である。

内容的には「昔の思い出 伝承物語り」と「民謡 思い出の歌」に分かれ、「昔の思い出 伝承物語り」は年中行事・言い伝え・子供の頃の思い出などをまとめたもの、「民謡 思い出の歌」は受講者が記憶していた民謡が採録されている。

八木町教育委員会/昭和57年初版

更新日 平成20年6月20日

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八木史談会編『ふる里のふるみち』

ふる里のふるみち

八木史談会が、道分(みちわかれ)を探し、口碑を訪ねた記録の中から、交通に関するものをまとめた小冊子。山陰街道と大堰川を中心としたふるさとの交通史研究の書である。

わかさ道や京道などの古道、山陰街道の鳥羽の宿場、船枝から日吉町世木へ抜ける千谷峠や氷所から神吉・宇津を経て若狭小浜へ抜ける紅葉峠などの峠道、雀部の渡しや西田の船場などの大堰川水運のポイントなどが紹介されている。道分とは道路の分岐点のことで、方向や里程などを標した石碑や灯籠などが立っていることが多い。

末尾には『船井郡史』や吉田証『丹波の歴史』などから交通に関する記述が転載されている。

八木史談会/昭和58年初版

更新日 平成20年6月21日

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八木史談会編『ふる里の碑』

ふる里の碑

八木町に建てられている石碑や灯籠などの石造物について、それらに彫られている碑銘の解説を中心に、その由来を記した冊子。

神社の灯籠・鳥居・水船等、寺院・諸会堂の灯籠・石碑・道標等、先人の顕彰碑、忠魂碑、その他一般的な道標、河川・池の工事記念碑など、八木町に残る碑を網羅的に紹介している。忘れられていたり倒れたままになっていたりするような碑を村人の記憶などから掘り起こし、改めて光を当てるなど、八木の歴史資料として貴重なものとなっている。

八木史談会/昭和61年初版

更新日 平成20年6月25日

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八木町西地区郷土誌研究委員会編『郷土よしとみ』

郷土よしとみ

昭和40年に吉富小学校の西田信夫教諭(当時)が刊行した小冊子『郷土よしとみ』を、原著者了解の上で追記改訂したもの。昭和60年に八木町西地区(旧吉富村の範囲)が自治省のコミュニティ推進地区の指定を受けたのをきっかけに、郷土の歴史・文化の掘り起こしのために復刊された。

内容は、郷土の歴史、江戸の産業・交通、社寺・口碑伝説などで、社寺の追加、各村の石高の改訂、誤記の修正の3点が追記改訂されている。

西地区区長会/昭和62年初版

更新日 平成20年6月29日

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川辺小学校百周年記念誌編集委員会編『ふるさと史 大堰の流れ』

大堰の流れ

園部町の川辺小学校創立百周年を記念して出された学校史・ふるさと史。

第一編「川辺小学校百年の歩み」は、昭和61年までの川辺小学校百年の歴史、卒業生名簿と卒業写真、卒業生・在校生の文集などから成る。

第二編「ふるさと史」は、川辺地区の古墳時代から現代までの歴史、社寺、先人の業績、歴代村長、伝説、民俗などについて詳述されている。資料が豊富に駆使され、郷土史として非常に読み応えがある。中世にこの地にいた武将たち、船岡の藁無城に拠った内藤氏(八木城にいた丹波守護代内藤氏の一族)の謎や、同じく中世に高屋の蜷川城にいた室町幕府の代官蜷川氏の話なども面白い。

川辺小学校百周年記念実行委員会/昭和61年初版

更新日 平成20年7月10日

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早川一光『おーい、元気かぁー〜医の源流を求めて』

おーい、元気かぁー

著者は大正13年(1924)に愛知県で生まれ、京都府立医科大学を卒業し、昭和25年に西陣で住民出資による白峰診療所(のちの堀川病院)を創設した医師。「わらじ医者」として知られ、エッセイストやラジオパーソナリティなど多彩な活動をしている人である。

平成10年に美山診療所の所長になり、4年間務めた。本書は美山での診療経験を記した京都新聞と広報美山に連載したコラムを収録したもの。コラムに歌人である妻ゆきの短歌が付してある。

かもがわ出版/平成16年初版

更新日 平成20年7月17日

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美里泰伸『ドキュメント京都・美山健康会事件〜地方権力の闇を暴く』

京都・美山健康会事件

美山町にある公設民営で運営されている医療法人財団美山健康会美山診療所の設立の経緯や経営の問題点を追及したドキュメンタリーです。著者は昭和21年長崎県生まれ、中央大学在学中に海外通信社ジャパンプレスに入社し、その後フリーになったジャーナリスト。一時期、口丹波(山陰線沿線)に住み、その時に美山診療所に直接関わるようになった人物です。

本書に書かれているのは南丹市になる前の旧美山町時代の話ですが、著者の主張を簡単に言うと、美山町に公設民営(行政が金を出して民間が経営する)という特殊な形態の診療所の設立を持ちかけ、自ら理事長・所長に就任した早川一光医師と、中田脩町長など当時の美山の地方権力者たちが癒着し、地域医療とそれに使われる公金(地方交付金など)を食い物にしたという構図です。早川医師とその家族及び早川医師の息のかかった医師や税理士など早川ファミリーに利権を提供するとともに医療法人財団を地方権力者たちが天下り先にしたこと、医療施設の建設に無駄遣いがあったこと、医師や役員に過大な報酬を支払い、診療所の中身も地域医療のニーズとずれたものであったこと、そもそも京都府が医療法人財団の認可を与えたのは間違っているなどの批判が展開されています。

実は著者は平成14〜15年に美山健康会理事長の職にあった松本繁世医師の友人で、「特別顧問」という肩書きで美山健康会の権力構造の追及や経営改善を要求するという立場にいたようです。当時、美山診療所で「内紛」があるということは近隣市町村でも知られていましたが、詳しい内容はわかりませんでした。本書によって「内紛」の詳細を知ることができますが、それがどこまで客観的な事実であるかは読者には判断できません。それは結果的に松本医師と著者が美山健康会から排除されたからではなく、著者が「内紛」の一方の当事者であり、松本・美里派の主張が書かれているものだからです。

もっとも仮に本書の主張がすべて事実であるとしても、たしかに公金の使途に対するオンブズマン的なチェックポイントはあったと思われますが、美山健康会の設立・経営に著者が主張する犯罪性を立証するまでのものがあったとは思えませんでした。公設民営という形態にしても、高額な医師報酬にしても、現在の状況において診療所を必要とする過疎地に医師を招く条件としては異常とは言い切れない「常識」の範囲とも思われるからです。著者自身にも一般企業と医療界の会計の違いについての認識不足が見受けられます。著者は本書刊行時に裁判を起こしていますが、その結果はどうなったのでしょうか。

対立する早川・中田派への執拗な個人攻撃や、地域ボスに服従する田舎者として美山町民を全否定するような言辞は見られますが、特殊法人や第三セクターなどが政官業が癒着した利権の温床として批判されている現在、税金の使途の透明性を確保し、不正や無駄遣いをチェックするという観点からは学ぶところのある本です。

同時代社/平成15年初版

更新日 平成20年7月19日

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「ふるさと鶴ヶ岡」編纂委員会編『ふるさと鶴ヶ岡』

ふるさと鶴ヶ岡

美山町には知井・平屋・宮島・鶴ヶ岡・大野の旧5ヶ村の地域があり、現在も小学校区になっているとともに、商工会などもこの単位で活動している。このうち鶴ヶ岡地区は、まず明治9年に江戸時代以来の19ヶ村が高野・鶴ヶ岡・豊郷・盛郷・福居の5ヶ村に統合され、さらに明治22年に5ヶ村が合併して鶴ヶ岡村となった。合併前の5ヶ村は字として、19ヶ村は区として旧村名が残されている(19ヶ村のうち大及は廃村となった)。鶴ヶ岡という地名は船津(高野村)から宮脇の諏訪神社の森に鶴が飛来したことによるという。綾部市・旧和知町と隣接し、また北側は福井県名田庄村に隣接する地域である。

昭和28年、鶴ヶ岡は台風13号による記録的な災害(通称二八水)に見舞われた。本書は二八水の復旧事業の換地作業の事務処理が30年以上経った昭和60年にようやく終了したのを記念し、災害誌として企画され、編集過程で災害誌から発展して村誌として刊行されるに至ったものである。現勢・歴史・村の変遷・文化および宗教・戦争と戦没者の5章から成るが、約8割が村の変遷の章に割かれ、詳しく書かれている。

30名以上が編纂委員に名を連ねているが、編纂主幹は美山町の教育者で文化運動のリーダーでもある小畑弘が務めた。

鶴ヶ岡自治会/平成2年初版

更新日 平成20年7月24日

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美山町字高野百寿会編『栃原の昔語り』

栃原の昔語り

美山町鶴ヶ岡学区に高野というところがある。高野は今宮・栃原・砂木が合併してできた旧村であるが、本書は栃原を中心に今宮を含む地域の区史である。記録が残っている戦国時代から現在までのこの地域の歴史・民俗・伝説などが収録されている。

編集の百寿会とは夫婦で還暦を迎えた人たちの親睦会で、自分たち自身の手で区史編纂をも手がけたものである。小畑弘が主筆している。

百寿会/平成10年初版

更新日 平成20年7月25日

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