南陽寺の大榧
園部町美園町の南陽寺境内に2本の大きな榧(かや)がある。推定樹齢は不明だが、いずれも数百年は経ているだろう。2本の榧は山門の左右に聳え、門に向かって左側の方(写真の榧)が大きく、樹勢も盛んなようである。この2本は旧園部町時代に町指定樹木にも選ばれていた。
榧は扁平で尖った葉が特徴の常緑針葉樹で、種子は食用になり、果実から油も取れる。材木は光沢のある美しい材質で、榧の碁盤・将棋盤は高級品として知られる。また、榧の葉や枝は、除虫菊が一般化するまで燻して蚊遣りに使われていた。古来、日本人の生活と密に関わってきた木であると言える。
南陽寺は、江戸初期の元和年間、園部城が築城され、城下町として整備された頃に開創された曹洞宗の寺院である。船井ごおり西国三十三ヶ所観音霊場第18番札所であり、また布袋尊は丹波寿七福神の一つである。
南陽寺には歴史的な逸話がいくつか残されている。門前の「腹切石」は、園部藩出身の志士で維新後は山口県令・福島県知事・北海道庁長官・貴族院議員を歴任した原保太郎が、天誅組との関わりを疑われて切腹しようとした場所と伝えられている。また、園部で学んでいた若き日の大本の出口王仁三郎が、南陽寺に住んでいた国学者の岡田惟平(文政4年〜明治42年)から国学や歌道を学んだというエピソードもある。昭和8年、王仁三郎は南陽寺に師惟平の歌碑を建立したが、大本弾圧の際にこの歌碑まで破壊されたというのも南陽寺の歴史の一齣である。歌碑は、昭和40年に写真の榧の傍らに再建されている。その他、南陽寺には近代南丹の大教育者井上堰水が住んでいたこともあり、同じ榧の傍らに碑がある。
南陽寺は、京都方面から国道9号線の園部本町交差点を左折してすぐのところにある。2本の榧を左に見ながら、山裾の道をまっすぐ進むと、日本最古の天満宮として知られる生身天満宮に着く。南陽寺の前を右折すると、突き当たりは南丹市役所である。
更新日 平成20年8月18日