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水天宮

水天宮 河童の福ちゃん

園部町若松町に鎮座する水天宮。古い商店街に鎮座する小さな神社です。創建は元和5年(1619)、園部城築城のため園部川の流れを変え、城下町を作った時に、城の守護として堤防上に水天宮を祀ったのが始まりと伝えられ、城下町形成時の歴史を刻む神社です。安産の神様、水商売の神様として崇敬されています。

毎年9月の第1日曜日に大祭(水天宮祭)が行なわれます。この日は狭い境内に茅の輪(智恵の輪)くぐりが設けられ、神輿巡行が行なわれる他、地元商店街による露店も出ます。鳥居の左には除災招福の小さな河童像(河童の福ちゃん)があり、住民に親しまれています。

map南丹市園部町若松町

更新日 平成20年12月7日

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武尾神社

武尾神社

園部町高屋に鎮座する武尾神社。戦国時代の元亀2年(1571)に創建された大戸の鎮守です。大戸の氏神なのに隣村の高屋にあるのは、大戸は水害が多かったため古くから氏神を高屋に祀っているそうです。創建当時の本殿は京都府登録文化財になっています。神社の裏山には、高屋の蟠根寺城(蜷川城)の城主蜷川氏の現地代官片山氏の片山古塁(大戸城)と呼ばれる砦跡が残っています。これは蟠根寺城の支城と思われます。

同じく高屋にある蟠根寺城址や本殿が重要文化財の春日神社などとともに、中世園部の歴史が偲べる神社です。ひっそりとした小さな神社ですが、春日神社から5分ほどのところにあるので、一緒に見ておくのもいいでしょう。

web川辺四社神幸祭

map南丹市園部町高屋片山1

更新日 平成21年3月8日

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普門院

普門院

日吉町中世木の牧山地区にある普門院。真言宗高野山派の寺院で、仏像の年代や北条時頼ゆかりの経塚から見て、創建は鎌倉時代と考えられる古刹です。当時の建物は明智光秀が周山城を築く時に取り壊され、城の用材とされたと伝えられています。建物は破壊されたとは言え、多くの文化財が残っており、木造毘沙門天立像は京都府指定文化財、懸仏は京都府登録文化財、聖観世音菩薩立像・木造懸仏・銅鏡・宝篋印塔1基・五輪塔4基は南丹市指定文化財になっています。

普門院のある中世木の牧山地区の西牧山は、府道364号中地日吉線の南丹市営バス上谷バス停から、やっと車が通れる程度の細い道路を徒歩で30分ほど昇って行った山中の小盆地にあり、日吉の秘境という趣の村です。現在はいわゆる限界集落となっていますが、農業や民俗行事を守り、昔ながらの日本の村らしいほのぼのとした雰囲気があります。本尊の聖観世音菩薩立像は33年ごとに開帳され、最近では昭和60年に盛大な法要が行なわれました。また、毎月17日(現在は冬季・農繁期は除く)には村の女性たちによって西国三十三所の御詠歌を唱える観音講が行なわれています。その他、同じく普門院で行なわれる牧山の松明行事は府登録文化財になっています。

web牧山の松明

map南丹市日吉町中世木

更新日 平成21年5月23日

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曹源寺

曹源寺 曹源寺橋

殿田山曹源寺は日吉町殿田にある曹洞宗寺院。創建は戦国時代の天文4年(1535)、開基は龍穏寺2世の海雲和尚で、丹波猿楽の梅若家の菩提寺として知られています。

梅若家は織田信長や徳川家康に仕えた日吉の領主であるとともに、この地を本拠に丹波猿楽の梅若座を構え、観世流に合流して観世流梅若家となった能楽の名家です。明治20年に、梅若実(52世梅若六郎)が、日吉で梅若の始祖梅津兵庫頭友時の千年祭を行ない、曹源寺に「従五位下梅津兵庫頭橘友時碑」を建立しました(この碑は昭和16年の殿田の大火の後に同じく殿田にある梅若屋敷跡に移転)。徳川家康に仕え、世木庄の上稗生百石を領して梅若中興の祖となった梅若九郎右衛門氏盛(玄祥)の忌日の7月13日には、玄祥忌として曹源寺と旧梅若家墓地に当主の梅若六郎や梅若社中が参詣します。曹源寺は昭和16年の殿田の大火で消失し、現在の建物はその後再建されたものです。

門前の田原川に架かる曹源寺橋の欄干柱には、切り絵風の能楽の四種類の絵があしらってあります。

web梅若広長

web梅若玄祥

map南丹市日吉町殿田

更新日 平成21年6月4日

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梅若屋敷跡

梅若屋敷跡 梅若屋敷跡

日吉町殿田にある能楽の梅若家の屋敷跡および墓所。

梅若家は、橘諸兄の子孫で、10世の従五位下梅津兵庫頭友時の頃より梅津氏を名乗り、山城国梅津村(現在の京都市右京区梅津)に居住していました。その後、丹波国大志麻(綾部市大志麻)に本拠を移し、一門は綾部から和知・周山・美山・殿田など丹波地域に居住していました。梅若家37世(梅津友時より数えて28世)の梅若太夫波多景久が、御土御門天皇より若の字を賜り、梅津から梅若に改姓しました。景久の子直久は、上林(現在の美山町宮脇)に住み、武田信玄や尾張の織田家に仕えました。直久の子でその声の良さから妙音太夫と呼ばれた広長は、織田信長に仕え、世木庄に五百石を給わりました(現在の日吉町殿田辺り)。この時代に、殿田には梅若家の菩提寺の曹源寺も創建されています。本能寺の変では梅若家は明智方につき、広長は山崎の戦いで負傷して亡くなっています。光秀が秀吉に敗れた後、一時梅若家は没落しましたが、梅若九郎右衛門氏盛(隠居後に玄祥。梅若家40世)が細川幽斎の推挙によって徳川家康に仕え、世木庄の上稗生(現在の日吉町生畑上稗生)に百石を賜り、梅若中興の祖となりました。玄祥以後、梅若家は代々上稗生を領していましたが、維新後は東京に移住しました。明治20年、梅若実(55世梅若六郎)が日吉で梅若の始祖梅津兵庫頭友時の千年祭を行ない、梅若屋敷跡の墓所に「従五位下梅津兵庫頭橘友時碑」を建立しました。また、昭和50年10月には「丹波猿楽梅若家旧墓所」の碑を55世梅若六郎が建立しています。

web梅若広長

web梅若玄祥

map南丹市日吉町殿田

更新日 平成21年6月6日

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