あ行
秋野不矩(あきのふく)
明治41年(1908)〜平成13年(2001)
静岡県出身の日本画家。静岡県女子師範学校(現静岡大学)を卒業後、京都で西山翠嶂に師事し、昭和5年「野を帰る」が帝展に初入選。上村松篁らと共に日本画の革新を目指して創造美術(現創画会)を結成。インドの大学に招かれたのを機にインドをモチーフとした作品を多数発表。京都市立美術大学教授として後進の指導にも当たった。平成3年に文化功労者、平成11年に文化勲章を受章し、平成10年には秋野不矩美術館が開館した。代表作に「ガンガー」「渡河」など。昭和59年頃より美山町和泉に移住してアトリエを構え、亡くなるまでの20年近くを美山で過ごした。芸術の里京都美山絵画コンテストの審査員も務め、美山町名誉町民の称号を贈られた。
更新日 平成19年10月1日
麻田辨自(あさだべんじ)
明治32年(1899)〜昭和59年(1984)
旧富本村(現八木町西田)生まれの日本画家。大正10年京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)を卒業し、同年帝展に入選。西村五雲に師事し、写実的な花鳥画を得意とした。代表作に昭和25年日展特選「樹蔭」、昭和40年日本芸術院賞「潮騒」など。昭和49年京都市の文化功労者、昭和50年美術工芸功労者に選ばれた。
更新日 平成19年9月23日
芦田譲(あしだゆずる)
昭和18年(1943)〜
八木町在住の学者。京都大学理学部を卒業し、石油資源開発に入社。昭和60年に工学博士(東京大学)となる。同61年に石油資源開発を退社し、同年より京都大学工学部講師。その後、助教授・教授を経て名誉教授。平成10年に物理探査学会功労賞を受賞。物理探査学会会長、経済産業省国内石油・天然ガス基礎調査実施委員会委員長、経済産業省二酸化炭素炭層固定化技術開発推進委員会委員長、物理探査学会斜面等健全性検討研究委員会委員長、物理探査学会大陸棚画定研究委員会委員長などを歴任。NPO法人環境・エネルギー・農林業ネットワーク(EEFA)理事長、日本工学アカデミー「環境・エネルギー研究会」代表も務める。日本学術会議会員。著書に『地圏環境情報学〜地下を診る最先端技術』。
EEFAはエネルギー問題や食糧問題について研究し、自給自足型社会の実現を目指すNPO法人で、本部は京都市下京区にある。南丹市に支部「EEFA南丹」があり、農業水路などを利用した小水力発電、ダム湖に流れ込む流木の活用対策、地域調和・地方分散型社会の構築などをテーマに、南丹市の環境を生かした事業の提案やその実現を目指す活動に取り組んでいる。
更新日 平成20年11月29日
安倍貞任(あべのさだとう)
寛仁3年(1019)頃〜康平5年(1062)
平安時代の武将で奥六郡(現在の岩手県西部)の豪族(俘囚長)安倍氏の長。永承6年(1051)の父の安倍頼時(頼良)と陸奥国司藤原登任との鬼切部の戦いに端を発し、12年間続いた前九年の役で、貞任は戦死した頼時の跡を次いで源頼義率いる国府軍と戦い善戦したが、同じ俘囚出身で秋田県の豪族清原氏が国府軍に味方したことにより、康平5年(1062)の厨川の戦いで戦死した。俘囚とは陸奥・出羽に居住する蝦夷(えみし=朝廷から異族視されていた人々)のうち、朝廷に服属した人々を指す。
丹波には八木町から京北町にかけての地域(吉富荘があった地域)を中心に、各地に貞任の伝承が残っている。厨川の戦いで戦死した貞任の亡骸は都に送られ、陰陽師の占いにより有頭の地(京北下宇津町)に埋められることになったが、貞任は翌日に生き返り、周囲に災いをなした。そこで体を七つに切り分けてバラバラに埋葬し、下宇津八幡宮に祀ったところ、祟りは鎮まったという。首を埋めたところが下宇津と日吉町天若を結ぶ貞任峠、下肢を埋めたところが下宇津と日吉町中世木を結ぶ人尾峠などと伝わっている。南丹市域では八木町船枝の船井神社の腕森社が貞任ゆかりの社で、鳥居左側に鎮座する腕森社の五輪塔は、近くに埋められていた貞任の腕を祀ったものだとされており、腕の病気に御利益があるとされる。八木町刑部の久留守神社にも貞任の頭を埋めたという伝承が残り、こちらは頭痛に効くという。
更新日 平成20年5月20日
荒木氏綱(あらきうじつな)
天文4年(1535)〜天正7年(1579)
戦国時代の武将。荒木氏は天田郡荒木村出身の土豪で、氏綱は荒木山城守と称し、八上城(篠山市)を居城とした戦国大名波多野秀治に仕えていた。荒木氏は多紀郡の細工所城(井串城)と園部城の城主となり、氏綱は園部城を本拠として、猛将として荒木鬼と呼ばれていたという。天正7年(1579)、明智光秀の丹波攻めに対して波多野氏は善戦していたが、氏綱らが勧めたこともあって光秀の母親を人質に和睦することになった。しかし、秀治は信長の意向で殺されてしまい、裏切られた形になった氏綱は光秀に仕官を求められるも仕えず、代わりに子供の氏清を光秀に仕えさせた。その後、光秀の家臣となった氏清は山崎の戦いで戦死した。
更新日 平成20年1月9日
石原半右衛門(いしはらはんえもん)
弘化4年(1847)〜昭和5年(1930)
大戸村(現園部町大戸)に、高屋・大戸両村の領主の旗本滝川讃岐守の代官の家に生まれる。維新後、地方や文部省の行政官を務め、明治16年船井郡長となり、原山峠・観音峠を開いた。同21年に京都府議会議員、同23年に衆議院議員となり、衆議院議員は同35年まで5期務める。同28年、京都・園部間に敷設された京都鉄道会社(のちの山陰線)創業の際には、浜岡光哲・田中源太郎らとともに創立委員となっている。同37年に釜山居留民長(のちに釜山居留民団長)となった。
更新日 平成19年12月18日
磯部清吉(いそべせいきち)
明治5年(1872)〜昭和27年(1952)
旧平屋村(現美山町平屋)出身の政治家。京都の漢学塾に学び、平屋村の村会議員・村長・府会議員を務めた後、昭和3年に政友会から衆議院議員に当選、三選し同11年まで務めた。「道路の守」の異名を持ち、地元や府内の道路の改修に尽力した。その他、小椋池干拓事業、京鶴路線の道路工事、地域振興に尽力した。平屋神社境内に銅像が建つ。
更新日 平成19年9月23日
井上堰水(いのうええんすい)
天保13年(1842)〜明治43年(1910)
旧新庄村船枝(現八木町)生まれの近代南丹草分けの教育者。本名は半介で、堰水は号。漢学を学び、元治元年(1864)に私塾発蒙館を創設、明治5年(1872)に八木町の新修校(現新庄小学校)の初代校長となり、船井郡立園部高等小学校・船井郡立高等女学校(現園部高校)の初代校長を務めた。新庄小学校に銅像が、小麦山山頂に碑が建つ。
更新日 平成19年9月23日
井上六郎(いのうえろくろう)
昭和7年(1932)〜
旧新庄村船枝(現八木町)生まれの実業家。園部高校・京都大学卒業、工学博士。国鉄に入社、JR山陰線の嵯峨嵐山・馬堀間の複線化に携わる。国鉄清算事業団副理事長などを経て、横浜高速鉄道社長(みなとみらい線)。
更新日 平成19年9月23日
上野厚(うえのあつし)
昭和16年(1941)〜
園部町生まれの犯罪心理学者。横浜市立大学卒業後、神奈川県警に入り、科学捜査研究所心理科長、東京医科歯科大非常勤講師などを務める。カナダ・アメリカで犯罪心理や児童虐待の調査研究を行なう。著書に『都市型放火犯罪〜放火犯罪心理分析入門』。横浜市在住。
更新日 平成19年9月23日
上野盤山(うえのばんざん)
天保10年(1929)〜大正4年(1915)
園部生まれの近代南丹草分けの教育者で、本名は佐壽。園部藩藩校「教先館」の儒学者劉冷窓に師事し、明新堂・小桜小学校・園部尋常高等小学校(現園部小学校)の初代校長となる。また、私塾惜陰社を創設し、子弟の教育に当たった。門下生に田中弘太郎・樋口勇吉などがいる。小麦山山頂に碑が建つ。
更新日 平成19年9月23日
後宮淳(うしろくじゅん)
明治17年(1884)〜昭和48(1973)
神吉村(現八木町神吉)出身の軍人。神吉の農家後宮力の四男として生まれ、神吉小・富本高等小学校・大阪地方幼年学校・中央幼年学校・陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業後、陸軍の要職を歴任し、昭和17年に陸軍大将となる。昭和13年に勲一等瑞宝章、同15年には勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章を受ける。第3方面軍司令官として満州奉天で敗戦を迎え、シベリアに抑留される。陸軍大将として第二次世界大戦を指揮した立場からいわゆるA級戦犯に指名されるも不起訴となる。昭和31年にシベリアから帰国し、帰国後は日本郷友連盟会長を務めた。京都府出身の陸軍大将は園部町出身の田中弘太郎と後宮淳の二人のみである。神吉の屋敷跡に「陸軍大将後宮淳誕生地」の碑(自筆)が建ち、多磨霊園の墓所には大将の小像が建っている。
更新日 平成20年3月23日
後宮信太郎(うしろくしんたろう)
明治6年(1873)〜昭34(1959)
神吉村(現八木町神吉)出身の実業家。神吉の農家であった後宮力の長男として生まれ、神吉小学校を卒業し、同志社英学校(現同志社大学)を中退して神戸の外国商社に勤めた後、朝鮮を経て23歳の時に台湾に渡り、鮫島商工に入社、煉瓦の生産販売を始める。明治32年に社長に就任、大正2年に台湾煉瓦株式会社と社名を変更して事業の多角化を図り、高砂ビール会社の設立、金瓜石金山の買収などを行なって、金山王と称された。昭和8年に本拠を東京に移し、昭和9年には徳島に東邦人造繊維会社(現東邦テナックス)を設立する。その他、設立・関与した会社は台湾を中心に多数に上る。台湾総督府評議員・台湾商工会議所会頭・台北商工会議所会頭等を歴任。次弟にブラジルや朝鮮で活躍した実業家後宮武雄、四番目の弟に陸軍大将後宮淳がいる。
更新日 平成20年3月24日
梅若玄祥(うめわかげんしょう)
天正7年(1579)頃〜寛文3年(1663)
能楽の梅若家40世。梅若九郎右衛門氏盛(隠居後に玄祥)。本能寺の変で織田信長を倒した明智光秀が羽柴秀吉に敗れた後、39世の広長が光秀と行動を共にした梅若家は一時没落したが、広長の子の玄祥が光秀の縁戚でもあった細川幽斎の推挙によって徳川家康に仕え、世木庄の上稗生(現在の日吉町生畑上稗生)に百石を賜り、玄祥は梅若中興の祖とされる。大阪の役では、家康の本陣である茶臼山に召され、能を舞っている。現在も続く梅若六郎を名乗ったのも玄祥が初めてという。玄祥は木住の豪族湯浅時哉(五郎兵衛)とも親交があった。玄祥以後、梅若家は代々徳川の直参として上稗生を領していたが、維新後は東京に移住した。明治20年に、梅若実(52世梅若六郎)が父祖の地日吉で梅若の始祖梅津兵庫頭友時の千年祭を行ない、殿田の曹源寺に「従五位下梅津兵庫頭橘友時碑」を建立した(この碑は昭和16年の殿田の大火の後に同じく殿田にある梅若屋敷跡に移された)。また、昭和50年10月には55世梅若六郎が「丹波猿楽梅若家旧墓所」の碑を梅若屋敷跡に建立している。玄祥の忌日の7月13日は玄祥忌として曹源寺と旧梅若家墓地に梅若六郎や梅若社中が参詣する。平成17年には梅津兵庫頭友時の1120年を記念し、京都観世会館で梅若先祖祭として春の梅若能が催された。平成20年12月、当代の56世梅若六郎は345年ぶりに梅若玄祥を襲名している。
更新日 平成21年6月1日
梅若広長(うめわかひろなが)
?〜天正11年(1583)
能楽の梅若家39世。波多広長とも名乗った。上林(現在の美山町宮脇)に住んでいた梅若家38世の梅若直久の子と言われるが、丹波の伝承では梅若家久という人物の子とも言われる(注)。声が良く、妙音大夫と呼ばれた。織田信長に仕え、世木庄に五百石の領地を給わった(現在の日吉町殿田)。『信長公記』等によると、天正10年(1582)、信長が安土にやってきた徳川家康を明智光秀に饗応させた際に、家久は幸若太夫らと安土城下の總見寺の能舞台で能を演じ、幸若太夫は信長から褒められたが、家久は不出来だと叱責されたという。この饗応で光秀が信長に激しく叱責されたのは有名で、本能寺の変の原因の一つと言われているが、家久も本能寺の変では丹波を領していた明智方につき、山崎の合戦の際に受けた傷が元で没している。梅若家の菩提寺である日吉町殿田の曹源寺に葬られている。
※注
この伝承に従えば、直久と広長の間に一代挟まっていることになるが、広長の没年から考えると、広長が直久の子ではなく孫であっても不思議ではない。家久は広長の別名であり、同一人物という説もある。
更新日 平成21年5月30日
江村彩子(えむらあやこ)
昭和7年(1932)〜
園部町宮町生まれ。京都女子大学短期大学部卒業後、須知高・瑞穂中・亀岡市立高田中教諭などを経てインドネシアやオマーンの日本人学校に勤務。退職後もオマーンに12年間滞在し、日本語新聞「サラーム」編集委員を務める。著書に『女神の島より』『アラビア海を越えてオマーンにようこそ〜中東にこんなに平和で美しい国がある』『いきいきシニア実践学』。
更新日 平成19年9月23日
正親町三条実雅(おおぎまちさんじょうさねまさ)
応永16年(1409)〜応仁元年(1467)
室町時代の公家・歌人。応永20年(1413)に叙爵し、最後は内大臣になる。正親町三条家は、藤原北家公季流(閑院流)の庶流で、左大臣三条実房の次男三条公氏を祖とし、家格は大臣家。明治維新後は侯爵となり、姓を正親町三条から嵯峨に改めた。
日吉町四ツ谷の岡安神社に伝わる文書によると、実雅は北朝の称光天皇の勘気を蒙り、応永32年(1425)から応永34年(1427)まで日吉町四ツ谷に隠棲していた。隠棲中は、大谷・田原の両社(岡安神社と多治神社)を非常に尊崇していたという。文書を残した公文加地浄永入道実清之は、嘉吉年間(1441〜43)に岡安神社の境内摂社三条社を建立し、三条実雅を祀っている人物である。岡安神社には、大正15年に子孫の嵯峨公勝が三条社保存に役立てるために所有地(邸跡地)を岡安神社に寄贈したという文書も残されている。また、四ツ谷には殿谷という地名が残っているが、これは実雅由来の地名とされ、山中に三条実雅卿邸跡の碑が建つ。
※注
岡安神社の由来では、正平16年(1361、北朝の康安元年)に三条実雅が岡安神社を勧請したということになっているが、正平16年では正親町三条実雅とは年代が合わないので、三条実雅が岡安神社を勧請したというのは誤伝と思われる。しかし日吉町の郷土史家の谷口哲によれば、正親町三条実雅よりも古い時代、北朝の貞和2年(1346)に従三位に叙せられ、正平20年(1365)に亡くなっている正三位・参議の三条実古という人物がおり、実雅とも称していたと言い、この実古が四ツ谷に隠棲し、岡安神社を勧請した実雅ではないかという説を出しているので、紹介しておく。
更新日 平成20年5月31日
大塚春嶺(おおつかしゅんれい)
文久元年(1861)〜昭和19年(1944)
旧園部村生まれの日本画家。通称勝之助。明治35年に第五回国内勧業博覧会に出品した『豊公醍醐花見図』が天皇陛下に御買い上げ頂く。明治36年東京美術協会主催の展覧会では「義経捧熱盤図」が東宮殿下御用品指定となった。生身天満宮「三十六歌仙図」「琴棋書画図」、南陽寺本堂天井「雲龍図」などが残る。
更新日 平成19年9月23日
大野実(おおのみのる)
昭和28年(1953)〜
美山町佐々里にある私立京都美山高校の校長。京都市内の進学校を不登校で中退、別の高校に再入学し、大学卒業後はミュージシャンを目指すが、京都市の私立京都両洋高校に勤めながら通信制で教員免許を取得し、教師生活に入る。平成15年からは京都美山高校の校長に就任、不登校の経験を活かした学校運営を行なう。シンガーソングライター、ラジオのパーソナリティとしての顔も持ち、「歌う校長」としても有名。平成19年に京都新聞大賞「教育社会賞」を受賞。著書に『歌う校長 夢の種をまく』。
更新日 平成20年12月5日
岡崎猛(おかざきたける)
昭和35年(1960)〜
園部町城南町出身のギタリスト。大阪芸術大学卒業。京都藤ジャズスクールでジャズギターを学び、その後ギタリストの山口武に師事する。平成7年にロックバンド爆風スランプのドラマーでジャズメンとしても活躍するファンキー末吉率いる「ファンキー末吉トリオ」の一員として中国北京初のジャズライヴを成功させる。平成9年に岸谷五朗・香取慎吾主演の映画『香港大夜総会』に参加したのをきっかけにファンキー末吉、中国上海出身のシンガーソングライター巫慧敏(アミン)らと共に夜総会BANDを結成する。夜総会BANDは、アルバム1枚、シングル3枚を発表し、映画『ショムニ』、PSゲーム『鬼眼城』の音楽も担当した。中国の民族楽器二胡を取り入れたフュージョンバンド「五星旗」のアルバムにも参加している。平成12年、くも膜下出血で倒れ、一時は生死の境をさまようが、快復して復帰。現在はボーカリスト沢田麻里のバンドをメインに活動している。
更新日 平成20年7月2日
岡本千鶴(おかもとちづる)
昭和6年(1931)〜
美山町出身。美山町静原の「つるや旅館」の女将で、野の花の生け花や果実酒作りでも知られる。昭和27年に結婚、その三年後に夫が病気になり、14年間の闘病生活の末に早世する。幼い二人の子供と病気の母を抱えて旅館を切り盛りする日々の暮らしの中で、美山の植物を使った健康酒や野の花の美を追求し、開花させた。テレビ・雑誌などの出演多数。京都府認定おふくろ名人。著書に『健康酒入門』『野の花三百六十五日 続』『野の花を楽しむ』がある。
更新日 平成19年11月1日
岡村宇太郎(おかむらうたろう)
明治32年(1899)〜昭和46年(1971)
旧東本梅村南大谷(現園部町)生まれの日本画家。号は青空・隆生。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)卒業。土田麦僊に師事する。第2回国画創作協会展(大正8年)では「牡丹」で樗牛賞、代表作に「漁夫の習作」「日没頃」など。
更新日 平成19年9月23日
奥村覚(おくむらさとる)
大正14年(1925)〜
旧西本梅村南八田(現園部町)生まれの教育者・植物研究家。西本梅尋常高等小学校・旧制園部中学・三重高等農林学校(現三重大学生物資源学部)卒。須知農林学校・北桑田高校教諭などを経て、園部中学・蒲生野中学の校長を務める。教鞭を取りながら植物学(丹波植物誌・植林・自然保護等)の研究を行なう。退職後は郷土史研究グループ本梅探友会を結成して会長として活動し、平成19年には南八田に本梅探友会が運営する「るり渓資料館」を開設。丹波の郷土史家のグループ丹波史談会の会長も務める。著書に『森・公園と丹波の植物』『廿一世紀に遺された魅せる森』、編著に『丹波琉璃渓』の他、植物関係の論文・エッセイ多数。
更新日 平成20年1月23日
奥村竹三(おくむらたけぞう)
明治29年(1896)〜昭和56年(1981)
園部町出身の国会議員。京都師範学校(現京都教育大学)卒業。昭和22年、日本国憲法下において初めて行なわれた第23回衆議院議員選挙で京都2区から出馬して当選(日本自由党所属)、1期務めた。
更新日 平成20年7月4日
奥村百代(おくむらももよ)
昭和7年(1932)〜
旧西本梅村大河内(現園部町)生まれの医師。関西医科大学を卒業後、国立京都病院勤務などを経て京都市に百代医院を開院。佛教大学で非常勤講師も務めた。現在、財団法人日本WHO協会の常務理事・副会長。京都市在住。
更新日 平成19年9月23日