南丹生活

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カズコ・M・ザイラー

昭和26年(1951)〜

京都市出身、日吉町在住のピアニスト。桐朋学園高等音楽科卒業後、ザルブルクモーツァルテウム音楽大学へ留学し、在学中よりヨーロッパ各地で演奏活動を行なう。ドイツ人ピアニストのエルンスト・ザイラーと結婚し、昭和48年(1973)にザイラーピアノデュオを結成、日吉町のかやぶき音楽堂を本拠にピアノデュオを中心にリサイタルを開催すると共に、随筆活動など多彩な活動を続けている。『晴耕雨奏』『東響西韻』などのCDの他、著書に『ザイラー夫妻の晴耕雨奏〜田んぼの中から世界を見て』がある。

webKayabuki.com

更新日 平成19年9月23日

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川勝寛治(かわかつかんじ)

安政5年(1858)頃〜元治元年(1864)

園部出身の志士。三条家の家士となり、三条実美の内命を受けて諸藩の志士と交わった。文久3年(1863)8月18日の政変の後、三条実美・三条西季知らは京都から追放されたが(いわゆる七卿落ち)、寛治もそれに従って長州の三田尻に下向した。その後、実美の密命を同志に伝えるために京都に潜入するも幕吏に捕えられ、六角獄舎に投じられた。元治元年(1864)年7月の禁門の変に際して、同じく獄中にいた平野国臣・古高俊太郎らと共に斬殺された。明治10年、西の仕置き場跡から平野の名を記した瓦と同時に人骨が見つかり、六角獄で斬殺された志士たちの遺骨であるとして上京区のJR円町駅近くの竹林寺に合葬された。また、霊山護国神社にも祀られている。六角獄舎跡には殉難勤皇志士忠霊碑が建てられている。その功績により贈従五位。

更新日 平成20年5月5日

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川勝堅二(かわかつけんじ)

大正13年(1924)〜

八木町生まれの実業家。旧制園部中学校(現園部高校)、東京商科大学(現一橋大学)卒業。三和銀行頭取、会長、相談役、顧問を務める。経団連副会長、国立京都国際会館理事長などを歴任。東京都在住。

更新日 平成19年9月23日

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川勝昭平(かわかつしょうへい)

昭和2年(1927) 〜

旧富本村(現八木町)出身の経済学者。富本尋常高等小・亀岡農学校(現亀岡高校)・京都青年師範学校(現京都教育大学)・京都大学卒。師範学校卒業後教師となるが、京都大学に入り直し、卒業後農林省に入省。フルブライト奨学生としてウイスコンシン大学大学院に留学、Ph.D.となる。経済企画庁・国連職員を経て、青山学院大学教授・名誉教授。訳書に『計量経済学』『所得分配論』。東京都在住。

更新日 平成20年2月26日

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川勝瀬平(かわかつせべい)

寛政11年(1799)頃 〜明治7年(1874)

富本村(八木町)青戸の豪農。青戸は水利に乏しく荒地が多かったので、灌漑用の貯水池を作ることを思い立った瀬平は、明治2年に工事を開始した。周囲の農民は水害を恐れて反対したが、それに屈することなく明治4年に西谷池を完成させた。これによって水田20余町が開墾され、青戸新田となった。明治39年、村民はその功績を頌して西谷池記念碑を建て、上野盤山が文を撰し、谷平吉が書を草した。

更新日 平成20年12月10日

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川勝傳(かわかつでん)

明治34年(1901)〜昭和63年(1988)

旧富本村(現八木町)生まれの実業家。立命館大学法学部を卒業後、電通に入社。同盟通信記者を経て、大日本紡績(現ユニチカ)や日本スピンドル製造の社長、南海電気鉄道会長兼社長に就任、南海ホークスオーナーも務めた。

更新日 平成19年9月23日

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川勝秀氏(かわかつひでうじ)

大永4年(1524)頃〜慶長12年(1607)

戦国時代の武将。美山町静原の島城を拠点としていた国人領主川勝氏に生まれる。川勝氏は秦河勝の後裔と称し、室町時代に足利氏に仕えていたが、戦国時代は八木の内藤氏、京北の宇津氏、篠山の波多野氏らと並ぶ丹波の武将として割拠した。秀氏の父継氏の代に織田信長に仕え、本能寺の変後は秀氏は豊臣秀吉に従い、何鹿郡に三千五百石を領した。関ヶ原の戦いでは西軍に付いて細川幽斎の田辺城を攻めた。この時、幽斎の継承する古今伝授を残そうとした後陽成天皇の勅使によって幽斎が救われた逸話は有名である。その後、秀氏は徳川家康に赦され、旗本となった。

更新日 平成20年1月4日

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希生ザイラー(きおざいらー)

昭和50年(1975)〜

日吉町上胡麻出身のヴァイオリニスト。両親は日吉町在住のピアノデュオのザイラー夫妻。堀川高校音楽科1年生の時に第8代ユニチカマスコットガールに選ばれ、各種コマーシャルに出演。シンシナティ音楽大学・イェール大学音楽部大学院卒業し、ヴァイオリニストとして活動。現在、世界各地で演奏活動を行なっている。

webMECENAS

更新日 平成19年9月23日

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貴司山治(きしやまじ)

明治32年(1899)〜昭和48年(1973)

徳島県出身のプロレタリア作家・大衆小説作家。本名は伊藤好市。鳴門尋常小学校高等科卒業。大正9年に大阪時事新報記者となり、大正15年に作家生活に入る。昭和4年に日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)を結成するが、同7年に治安維持法違反で検挙される。釈放後、「小林多喜二全集」の編集に参画するが、同9年に再検挙され、同年転向声明を朝日新聞紙上に発表。同16年からはプロレタリア小説ではなく歴史大衆小説を多数発表する。昭和20年4月に胡麻郷村(現日吉町)に疎開し、開墾に従事する。同時期に胡麻郷村の開拓に携わった者にプロレタリア作家・政治家の谷口善太郎がいた。この時の体験は後に「丹波アリラン」という作品に描かれている。戦後は昭和21年に京都府農地委員となり、未墾地解放を担当する。同23年、東京の自宅に戻り、作家生活を続けた。プロレタリア作家時代の代表作に『ゴー・ストップ』、大衆小説は多数残しているが、『維新前夜』『愛の高原』(映画タイトル『景子と雪江』)『美女千人城』(映画タイトル『剣姫千人城』)が映画化された。

web貴司山治資料館

更新日 平成20年4月5日

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木戸豊吉(きどとよきち)

文久2年(1862)〜昭和2年(1927)

旧上胡麻村(日吉町)出身の政治家。京都師範学校卒業後、上京して和仏法学校(法政大学の前身)に学ぶ。胡麻郷村村長・府会議員・府会議長・衆議院議員を務め、普通選挙法の成立、園部以北の山陰線敷設、地域振興に尽力した。

更新日 平成19年9月23日

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木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)

?年〜允恭天皇23年(434)もしくは允恭天皇42年(453)

第19代允恭天皇の第一皇子。美山では始祖として伝承されている。古事記によると、允恭天皇23年(434)に同母妹である軽大娘皇女(衣通姫)との密通が発覚して失脚、伊予国へ配流され、後を追ってきた軽大娘皇女とともに自害したとされる。また日本書紀では、失脚後の允恭天皇42年(453)に弟の穴穂皇子(安康天皇)に討たれたとされる。しかし、美山町大内(現内久保)には史書とは異なる伝承が残っていて、それによると木梨軽皇子は失脚後自害と見せかけて美山町大内に逃げ、そこで紫摩城という砦を築いたという。さらに推古18年(620)には、木梨軽皇子の子孫が聖徳太子から野々村の姓と平屋・宮島・大野の全域及び鶴ヶ岡の4ヶ村の33ヶ村(後の野々村郷の村々)を賜り、木梨軽皇子とその従者の子孫(野々村・大前・保瀬・前丁田・下伊都・朝田など)は美山の始祖となったと伝えられている。また木梨軽皇子が神武天皇とその兄の五瀬命を御祭神として小字前田で祀っていた祠が、のちに洪水のために流され宮脇に流れ着き、改めて武烈2年(500)に社殿を建築したのが現在宮脇に鎮座する道祖神社の始まりとされていて、道祖神社には後に木梨軽皇子も合祀されている。ちなみに、美山町自然文化村の河鹿荘の風呂は「軽皇子と衣通姫の湯」という。

更新日 平成20年6月8日

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金己大(きむきで)

昭和4年(1929)〜

日本統治下の朝鮮慶尚南道出身の学者・評論家。鉱山労働者の父と家族と一緒に4歳で来日、川合村(現福知山市)・檜山村(現京丹波町)・吉富村(現南丹市八木町)などに暮らす。下和知小(現和知小)・旧制園部中学・京都大学卒業。農学博士。専門は東アジア経済の比較研究。新潟国際情報大学教授となる。退職後はアジア情勢のコメンテータなどを務める。共著に『世界の日本研究2001〜コリアにおける日本研究の現在』。 東京都在住。

更新日 平成20年4月18日

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キロス中井礼子 (きろすなかいれいこ)

昭和37年(1962)〜

園部町上本町生まれ。園部小中高・京都産業大学卒業。昭和62年にチリ人の夫とチリに渡り、日智文化協会で日本語講座のコーディネートなどを担当、2002年に最年少で初の女性会長に就任。首都サンティアゴ在住。

web日智文化協会

更新日 平成19年9月23日

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日下部平次郎(くさかべへいじろう)

嘉永5年(1852)〜明治32年(1899)

園部出身の実業家。明治の海外貿易の草分け的存在。明治元年に大阪の商家の丁稚となり、明治3年に外国貿易を志して香港に渡った。明治5年、香港に会社を設立、日洋貿易の名で直接に海外市場と輸出入取引を開始し、輸出入の発展に貢献した。昭和8年から始まった大阪商工祭は大阪の商工先覚者を顕彰するために催されたもので、商工大臣・大阪府知事・大阪市長なども出席して盛大に執り行われたが、第1回に15人の商工先覚者が顕彰され、昭和10年の第2回に日下部平次郎を含む6人が追加され、併せて21人が顕彰された。

第1回大阪商工祭で顕彰された人

末吉孫左衛門(末吉船)、淀屋玄个庵(淀屋2代目)、山中新六(鴻池家の始祖)、天王寺屋五兵衛(両替商)、殿村平右衛門(両替商)、石丸定次(大坂東町奉行)、住友吉左衛門友芳(住友家中興の祖、4代目)、広瀬宰平(住友の大番頭)、五代友厚(大阪商法会議所‐現大阪商工会議所‐初代会頭)、藤田傳三郎(同2代会頭)、田中市兵衛(同3代会頭)、磯野小右衛門(同4代会頭)、土居通夫(同7代会頭)、藤田傳三郎(藤田財閥)、松本重太郎(大実業家)

第2回大阪商工祭で顕彰された人

安井道頓(道頓堀)、中井竹山(懐徳堂)、河村瑞賢(東廻り航路と西廻り航路を開いた豪商)、渡邊昇(第4代大阪府知事)、外山脩造(阪神電鉄)、日下部平次郎(貿易商)

更新日 平成20年2月15日

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楠木正末(くすのきまさすえ)

乾元元年(1302)頃〜元中2年(1385)頃

園部町大河内に伝承が残る南北朝時代の武士。楠木正成の弟。正成には同じく「まさすえ」でも正末ではなく正季という弟がよく知られているが、正季は湊川の戦いで正成と刺し違えて死んだとされている。しかし大河内の伝承では、楠木正成が建武3年(1336)に湊川の戦いで破れた後、正末は源三位頼政の弟頼一の子孫頼国を頼って園部の湯原村(現大河内)に落ちたとされ、正末と正季は同一人物とされる。そして、頼国の子が早く死んだため、正末が頼国の跡を相続することになり、建徳2年(1371)に楠木氏の故郷である河内の名を取って、村名を湯原村から大河内村へと改めたと伝えられている。正末の子孫は大河内に土着し、同地の下村姓は長男正近の系統で、田井姓は次男正治の系統であるとされる。大河内に鎮座する重要文化財の大山祗神社本殿は、応永26年(1419)に楠木氏の子孫とされる郷士下村義視・田井義高が再建したもの。

更新日 平成20年5月27日

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工藤良健(くどうりょうけん)

昭和32年(1957)〜

園部町在住の陶芸家。京都府出身。京都府立陶工専修校(現京都府立陶工高等技術専門校)を卒業後、サラリーマン生活を経て、平成5年35歳の時に園部町に移住、瑠璃渓に「琉璃窯」を開き、創作活動を行なう。平成7年の京都伝統工芸専門学校(現京都伝統工芸大学校)開校当時から講師として実技指導に当たり、平成15年に教授に就任。

更新日 平成20年3月19日

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黒木彰一(くろきしょういち)

昭和44年(1969)〜

園部町出身のテレビマン。園部小・洛星中高・早稲田大学卒業後、フジテレビに入社。ディレクターとして『FACTORY』『BACK―UP!』の演出を経て、『SMAP×SMAP』のプロデューサーや『笑っていいとも!』のディレクターなどバラエティ番組の制作演出を手がけている。実家は美園町の喫茶店「三洋苑」。東京都在住。

更新日 平成19年9月23日

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慶能法師(けいのうほうし)

昌泰3年(900)頃〜天暦3年(949)

菅原道真の庶子(第八子)。一説に弟とも。美山では始祖の一人として伝承されている。伝承によれば、菅原道真の庶子であった慶能(よしのり)は、菅原道真の家臣武部源蔵が我が子として養育した。その後、天台宗の修行を積んで慶能法師となったが、延長元年(923)に美山の大野に来て、当地を治めていた木梨軽皇子十六世の孫に当たる野々村元勝の娘穂世姫と婚姻を結び、還俗して野々村頼房と名乗り、この地方の始祖の一人となったとされる。野々村・公文・下司・大澤・菅生・武内の姓はその流れと伝えられている。美山町静原の菅原神社は菅公とともに慶能法師を祀っている。

更新日 平成20年6月9日

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小泉顕雄(こいずみあきお/けんゆう)

昭和26年(1951)〜

園部町新町出身の教育者・僧侶・政治家。新町にある浄土宗教伝寺に生まれ、園部高校・鳥取大学・佛教大学を卒業後、広島大学大学院を修了し、高校や大学の教鞭を取る。園部町議会議員を経て、平成13年に参議院選挙比例区で当選し、平成19年まで一期務める。現在、教伝寺住職を務めると共に、浄土宗の要職にある。著書に『教えろ伝えろ』『もっと教えろもっと伝えろ』。

web小泉あきおオフィシャルWEBサイト

更新日 平成19年9月23日

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小出吉親(こいでよしちか)

天正18年(1590)〜寛文8年(1668)

園部藩初代藩主。小出氏の祖秀政は豊臣秀吉の出身地の尾張国中村の出で、同郷の秀吉に仕え、天正13年に岸和田城主となった。また、秀政の子吉政は但馬国出石藩藩主となった。吉親は吉政の子で、兄の吉英のあとを受けて慶長18年(1613)に出石藩藩主になり、翌年の大坂夏の陣では徳川方の武将として戦った。その後、元和5年(1619)に園部藩が新たに立藩されると移封され、初代藩主となった。吉親は城下を整備し園部川の大改修を行なった。改修された堤は号を取って意閑堤と呼ばれる。

更新日 平成19年9月23日

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国府克(こくぶかつ)

昭和12年(1937)〜

八木町出身の日本画家。京都市立日吉ヶ丘高校美術課程(現京都市立銅駝美術工芸高等学校)日本画科卒。画塾東丘社に入塾し、堂本印象に師事する。昭和44年、改組第1回日展で特選(白寿賞)を受賞。他に日春展奨励賞・京展京展賞・日春展日春賞などを受賞。昭和53年に東丘社を退塾し、同55年に日本画のグループ「玄」を結成し、参加する。富士山など山の絵に定評があり、日本の山だけではなくヒマラヤや中国の山をテーマとした作品も多い。日展会友、京都日本画研究会講師、京都日本画家協会理事。西京区在住。

更新日 平成20年2月10日

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児玉たまみ(こだまたまみ)

昭和26年(1951)〜

美山町出身の歌手・演劇人。同志社大学卒業後、教師・劇団活動を経て歌手となる。平成13年第17回アマチュアシャンソンコンクール全国大会奨励賞、翌年第18回中部大会グランプリを受賞。現在、愛知県を中心に歌手活動・劇団活動を行なっている。劇団ひまわり「名古屋アクターズスクール」の講師・演出、愛知文教女子短期大学で非常勤講師も務める。

web児玉たまみオフィシャルWebSite

更新日 平成19年9月23日

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小畑弘(こはたひろし)

昭和3年(1928)〜

美山町高野出身の教育者・郷土史家・文化指導者。鶴ヶ岡尋常高等小学校・鶴ヶ岡国民学校・京都師範学校(現京都教育大学)を卒業し、知井小学校教諭を皮切りに鶴ヶ岡・弓削・平屋小学校校長などを歴任。退職後も大野・知井小学校の初任者指導教員など教育者の育成に携わる。京都府老人クラブ連合会創立三十周年記念「わたしの戦後五十年」論文最優秀賞、地方自治法制定五十周年記念論文最優秀賞を受賞。栃原区長・町社会教育委員・町同和教育推進委員会会長・町文化財保護審議会会長・町立図書館長・町文化協会会長・南丹市社会教育委員会長などを歴任。平成9年に文部大臣表彰、平成18年に瑞寶双光賞を授与される。俳句結社『京鹿子』同人(俳号は翠光)、丹波史談会会員。著書に『只管四十一年』『生涯現役〜職退いて十八年』。編著書に『ふるさと鶴ヶ岡』『美山伝承の旅』『亀岡・船井の100年』『栃原の昔語り』『美山町誌』『心のふるさと美山の文化財』。新生美山中学校校歌の作詞もしている。

更新日 平成20年3月9日

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